旅の日記(番外編)

ネパール・ランタン谷編(2003年3月4〜9日)

紺碧の空と雪山と歌声

 3月4日の早朝、まだ日も昇らないうちに僕とチカさんは大きな荷物を宿に預け、カトマンズのニュー・バスパークから一台のバスに乗った。向かったのはシャブル・ベンシ、ランタン谷トレッキングの起点となる村。そこまで、丸一日のバス旅だ。

 ネパールのトレッキングといえば、カトマンズの西200キロに位置するポカラを起点としたアンナプルナ山群一帯と、逆に東に200キロのルクラを起点とするエベレスト周辺の二つのエリアが有名だ。もちろん、両者ともヒマラヤの雄大な山並が楽しめる。
 ただしルクラまでは割高な飛行機を使うほかなく、歩いて行こうと思えば何週間もかかる行程になってしまう。よって、我らバックパッカーにとっては一大沈没地・ポカラとセットにして、アンナプルナ山群のトレッキングが人気だ。

 僕も当初はポカラに滞在したのち、アンナプルナのベースキャンプを目指そうと思っていたが、ネパールが3度目だというチカさんは、つい先日もその地を踏んだばかり。よって二人で相談したのち、僕たちはアンナプルナでもない、エベレスト方面でもない、ランタン谷というネパール・トレッキング界の第3勢力に挑むことにした。
 ランタンの名はそれほど知られていないが、1949年にこの谷を「発見」したイギリス人の探検家は、「世界で最も美しい谷」と紹介した。僕はヒマラヤの展望が見られれば別にどこでも構わない。ポカラはそのうちに行けるだろうし、エベレストも将来チベットからヒマラヤを越えたいと思っているので、そのときに拝めればいい。

 ランタン谷トレッキングの起点となるシャブル・ベンシ村は、カトマンズから直線距離にして真北に70キロほどしか離れていない。しかしそこに至る道は細く険しく、バスやトラックはガードレールのない断崖までギリギリに寄せないとすれ違うことができない。そのたびに車を止め、運転手同士が世間話をしたのち、慎重に慎重にすれ違うから、えらく時間がかかる。
 また、便数が少ないために車内はおろか屋根の上まで人でいっぱいで、僕たちは始発駅から乗ったので座席が確保できたが、通路側の席にいるとおばさんの肘が頭にのったり、おじさんの荷物が膝にのったりしてくる。

 道はシャブル・ベンシの手前で未舗装に変わり、いよいよ険しくなった。南米はナスカ〜クスコ間のダートを思い出していると、あまりの振動に窓ガラスは割れ、バッテリーからは液が噴き出した。そんな車内ゴチャゴチャ、バスはメチャメチャの状態で9時間半も揺られ、午後4時になってようやくシャブル・ベンシに到着。

 羊飼いが放牧をしているのどかな村だが、外国人トレッカー用の宿がたくさんあり、比較的新しいところに入ると、ピカピカの部屋にソーラー発電による熱いシャワーまであった。
 嬉しいので早速浴びようとすると、濡れた床で滑ってしまい、両足が宙に浮くような、漫画のような豪快なコケ方をしてしまった。「ビタン!」という情けない音とともに腰をしこたま打ったが、幸いにも痣が出来ただけで歩行に支障は無い。
 トレッキング開始を翌朝に控えていた僕は安堵したが、僕の体に新たな問題が発生するのを、このときの僕はまだ知らない。

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 翌朝、7時過ぎに宿を出て、いよいよトレッキング開始。
 予定では谷に沿って標高3800メートルのキャンジン・ゴンパまで登る、標高差2500メートルのコースを5日かけて往復する。バスの行程を入れれば、カトマンズから一週間のトレッキング・ツアーということになる。
 その一日目は、谷を形成したランタン川のほとりに宿が数軒固まっている、ラマ・ホテルと呼ばれる集落を目指す。1000メートル以上を一気に登る、辛い一日だ。

 村を出てしばらくすると、川を離れて山を登って行くメインルートと、そのまま川沿いに進んでゆく細い小径とに別れていた。どうせこれからも川に沿って歩いていくのだから、無意味に登って降りるのは嫌だ、と僕たちは後者を選んだのだが、これが失敗だった。
 やがて小径は行き止まりになり、それでも悔しくて藪の中を進んでいったのだが、無駄な時間と体力を消耗し、体中にトゲが刺さっただけで、結局は引き返すハメになった。
 そのあたりの足元一面に、見覚えのある草が生えていた。ボブ・マーレーやラスタ・カラーのTシャツなんかによくプリントされているあのクサ、そう大麻草である。
 やっぱりネパールやインドあたりでは自生しているんだなあ、とはじめは思ったが、不自然に多いし村から近いし、ひよっとして誰かの密かな畑なのかもしれない。僕たちの進んだ小径は、その畑に通じるためのものなのだ。

 メインルートに戻って2時間ほど登ると、左膝が痛くなってきた。去年、トルコでサッカーをやり過ぎたときに感じた、あの鋭い痛みである。それまで、僕は山登りなんかをするとバテる方が先で、膝や足が痛くなることは無かった。あのとき、本格的に膝を痛めてしまったのかもしれない。
 僕は左足を引きずりながら、心配するチカさんに事情を説明した。しかし、若干妄想癖のある僕は、調子に乗って言い過ぎてしまった。

 「あの時はトルコ代表のマークが厳しすぎた。しかし無理もない、だって俺は日本を代表するストライカーだもの。膝が原因で代表チームを退くとき、ヒデは俺に言ったよ。カズの兄貴がいなくなって戦力が大幅に弱まっちまったけど、兄貴の分までW杯では頑張るよ、って。監督もフランス料理屋で個人的な送別会をやってくれたさ。ボルドーのグラスを傾けながら、彼は言った。キミは本当にサムライだったと・・・」
 話が終わるころには、すでにチカさんは100メートルほど先に行っており、豆粒のように小さくなっていた。

 彼女は大阪の山岳会に所属し、富士山などはスキーを担いで雪をかきわけて登り、頂上から滑って降りてくるような人なのだ。僕なんかよりはよっぽど体力がある。
 彼女のザックの方が大きいので、僕の分まで荷物を入れてもらっていたのだが、チカさんはそれを背負ったままシェルパ(ネパール人のポーター)のように黙々と登ってゆく。途中でザックを交換しようと約束していたのに、膝を痛めた僕は結局その後も彼女に甘えてしまった。

 幸い天気は申し分なかった。青空のもと、色とりどりのタルチョ(旗)がはためく山小屋で昼食。その後は標高差800メートルの一気登り。左膝をかばって右足だけで登るので、右のももやふくらはぎ、そして背中がとても疲れる。こんな調子で果たしてどこまで行けるのだろうか、と心配になる。
 午後3時半にラマ・ホテルの手前にあった、一軒の山小屋にチェックインする。ラマ・ホテルは谷あいにあって見晴らしが良くないので、そこの山小屋の方が景色が良いと外国人トレッカーが教えてくれたのだ。
 そこの食堂に、妙なポスターが貼ってあった。「フランス」と書いてあって、エッフェル塔とパリの街並みが写っているのだが、その後ろにそびえているのがなぜか富士山なのだ。
 これって富士山・・・だよなあ?

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 3月6日も雲一つない快晴。
 宿を出て、引き続き川沿いの道を登っていくと、木々の間からランタン谷の最高峰ランタン・リルン(7246m)が見えてきた。標高差は5000メートルもあるが、てっぺんまでくっきりと見える。あれが、僕が今まで見た中で一番い頂きだ。
 ヤクの乳を飲んで休憩するのも昼食を食べるのも、ずっとランタン・リルンの頂上を見ながら。手の届くような感じで、なんだが上まで登れそうな気分になってしまう。本当はそのふもとまで行くのに足を引きずっているというのに。

 一晩で膝は回復したと思われたが、ちょっと歩くとすぐに痛みは戻ってきた。二日目は楽な行程と聞いていたのに、意外と登りが辛い。少しずつ少しずつ、シェルパと同じようなペースで上る。
 道すがらシェルパを見る機会は多いが、彼らの登るペースは思ったよりもゆっくりだ。しかしそれもそのはず、彼らは外国人トレッカーのザックを一人で三つも四つも担いだり、生活物資をそれこそ山のように背負っているのだ。道路もないこの谷においては、物資の運搬は彼らに頼るほかない。粗末なサンダルで、ゆっくり、しかし確実に彼らは登っていく。たくましさと同時に、体を酷使しないと食べて行けない山間部の現実を感じた。

 ある統計によるとネパールは世界でも有数の貧困国であり、さらに都市部と地方の格差が大きいため、このような地で生きている人達は「貧困ライン」ギリギリの生活を強いられている。
 山小屋によく、「シェルパを大切にしてください」という外国人トレッカー向けのポスターが貼ってあった。彼らを雇う場合、報酬などは当然交渉で決まるのだが、彼らの足元を見て思いきり強気に出ても、彼らは生活のためにそれを受けるしかないのだ。
 ポスターにはこう書いてあった。「彼らは鉄人です。しかし疲労もするし、飢えもするし、凍傷にもなります。極地に連れて行く場合は彼らの分までウェアを用意してあげてください」
 彼らは山の民だから薄着でも大丈夫だろう、サンダルでも登れるだろう、貧しいのだからこの程度の報酬で働いてくれるだろう、というのは、虐待以外のなにものでもないのだ。

 今日の目的地ランタン村が見えてきたあたりで休憩していると、シェルパが二人登ってきて、僕たちの横に腰を下ろした。チカさんが飴を渡すと、彼らは礼を言ってそれを口にしたが、包み紙は丸めてポイ、と道端に捨ててしまった。
 注意すると、彼らは笑いながら「ごめんごめん」とそれを拾ったが、「でも、ここらの住民はみんな構わず捨ててしまうんだ」と言った。そういえば道のわきに、たまにインスタントラーメンのパッケージが捨ててあるのを見ることがある。ネパールのインスタントラーメンは、「チキンラーメン」のようにそのまま食べてもおいしいのだ。
 ランタン谷を訪れる外国人トレッカーの数は他のエリアに比べるとまだまだ少なく、どちらかというと「通」で、みんな環境保護に対して意識が高そうな人たちばかりだ。何しろ、この谷を「発見した」イギリス人探検家は、「ローインパクトの法則」(自分がそこを訪れた痕跡を、いかに少なくするか)の提唱者だった。トレッカーがラーメンの袋をポイ捨てするとは考えられなかったのだが、やはり現地のネパール人が捨てていたのである。

 しかし、彼らも悪気があるのではなく、ただ想像ができないだけなのだろう。こんな雄大な自然の中にわずかな人口で住んでいると、道のわきにビニール袋を捨てようが、燃えないゴミを村はずれに山積みにしようが、まさかそれが自分を取り巻く環境を脅かすことになるなど、きっと思いもよらないのだ。山奥で生活する彼らはゴミに埋め尽くされた大都会のスラムやドブ川を見ることがない。それに、彼らはもともとゴミを出さない生活をしていた。ビニールなんかが生活に入ってきたのは、ごく最近のことなのだ。
 そう考えると、自分たちが宿で出したゴミのことが心配になってくる。収集されるわけはないし、果たしてどんな風に処理されているのだろう?理想はやはり、すべて持ち帰ることなのだが・・・。

 そうして、ようやくたどりついたランタン村。「風の谷」を思わせる、ヒマラヤ山脈に囲まれた静かな村である。
 水車があったので何を挽いているのかと思って見てみたら、なんと回っていたのはマニ車だった。マニ車はチベット仏教のゴンパ(寺院)によくある筒のようなもので、信者はこれを一回まわすことによってお経を一回あげた代わりになるのだという。ネパール北部の山間部にはチベット系住民が多く、仏教が熱心に信仰されているが、川の力でマニ車をぐるぐる回すというのは、なんだか横着な気がして笑ってしまった。

  村の標高は約3300メートル。天気はあいかわらずいいが、夕方になって日が傾くと一気に冷え込んでくる。夜は満天の星空だったが、ゆっくり見ていられないほど外は寒い。シャワー室の床にたまっていた水は、夜の間にすっかり凍ってしまった。
  さて、トレッキングコースには山小屋ふうの宿しかなく、レストランなどないから、食事は基本的に泊まった宿で食べる事になる。昼食は途中の宿で用意してもらうことになるわけだ。食材が限られているからメニューはだいたいどこでも同じで、標高があがるにつれて値段も高くなる。たとえばランタン村での一食は、ふもとのシャブル・ベンシの2倍はする。この日の昼食まで高い高いと思いながらもミルクティーを注文していたが、ランタン村では下界でいう一食分の金額になってしまう。ここではさすがに湯をもらって自分たちでお茶を淹れた。

 灯油ランタンの明かりのなか、宿のダイニングでチャーハンを食べていると、宿のおばさんがやってきて「息子が熱を出したので薬を分けてくれないか」とたどたどしい英語で言った。
 医者もいないような村で病気をすると、さぞかし心細いだろう。僕はアスピリン錠をあげようと思ったが、年齢によって処方する数が違う。「息子さんは何歳ですか?」と尋ねると、彼女は「15歳です」と言った。
 15というと微妙な年頃である。大人にしていいのか子供として考えたらいいのか、看護婦のチカさんと相談していると、おばさんは「・・・あの、やっぱり20歳です」と言った。

 「ん?」と思ったが、僕は何も言わず部屋から錠剤を持ってきて彼女に渡した。しかし、彼女は「ありがとう」と言って受け取ったまま、僕たちの「地球の歩き方・ネパール編」に熱中して席を立とうとしない。息子が本当に病気なら、一刻も早く飲ませてあげたいと思うのが母心だ。
 息子が病気というのは、きっとウソなのだろう。15歳と言ったのを20歳と訂正したのも、きっと子供用の量しかもらえないと思ったからだ。しかし、僕は別に気にしなかった。こういう場所で生活していて、病気になったら大変ということには変わりはない。きっと僕が持っているより、あのアスピリンはここで役に立つだろう。おそらく彼女は外国人が来ると、こうやって常備薬を手に入れているのだ。
 (日記を打っていてハッと思った。そんなことはないと思うが、もし彼女が手に入れた薬を売って金に換えていたら・・・それはショックだなあ)

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 翌朝はランタン村で結婚式が行われた。
 チベット暦で言うと今頃がちょうど新年にあたり、そして結婚式は一年に一度、新年に執り行うのが慣わしだという。新年明けに男女が出会って、「今すぐ結婚したい!」と思っても、次の年まで待たなければならないのだ。(とはいっても、許婚と結婚するパターンがほとんどだろうが)
 村はずれが賑わっていたので行ってみると、ちょうど新婦が新郎の家に嫁入りするところだった。新郎の家の前で、風呂敷(きっと嫁入り道具だろう)を担いだ新婦がひざまずき、そのまわりで老婆の朗々とした歌声に合わせて人々が合唱している。

 この日も快晴で、屋根の上には旗が揺れ、その上には雪山、さらにその上には真っ青な空があり、黒い鳥がゆらゆらと舞っている。澄んだ風にチベット語の歌声が流れるなか、僕はチベットに行ってみたい、と強く思った。この山々の向こうに彼らのふるさとがあり、そして聖都ラサがあるのだ。
 ネパールで、僕がもっとも旅情を感じた瞬間だった。

 本来ならランタン村からキャンジン・ゴンパまで行き、さらに足を伸ばしてその近くの頂きを目指す予定だった。ランタン村は本格的なトレッキング・エリアのほんの入り口で、本番はこれからなのだ。
 しかし、僕はランタン村に来られただけでも満足だった。僕の左膝は悲鳴を上げている。無理して先に進めば右膝まで痛め、まともに歩く事もできなくなるかもしれない。そうなったら大変だ。
 嫁入りの儀式を見た後、僕とチカさんは村を後にして下山することにした。
 その日はランタン・ホテルまで下り、そこで宿泊。夕方になって急に暗雲が空を覆い、やがて大雨となった。きっとランタン村では雪だろう。やはり先に進まなくて正解だった。

 翌朝に天気は回復していたが、その日はシャブル・ベンシまで下ればいいので、ゆっくりと朝食を取ってから出発。
 途中、「治癒効果のある温泉アリ。こっちへ」という看板があったので、川原の岩を這うようにして越えて行くと、大人一人がようやく入れるくらいの小さな露天風呂があった。
 手を入れてみるが、チョロチョロと流れ入っている源泉がちょうどよい熱さなので、天然の湯船に溜まっている湯はだいぶぬるい。しかも底には木の葉や土が堆積して、お世辞にもきれいとは言えない。
 チカさんはやめておいたが、僕はせっかくなので入ってみることにした。すると、気持ち良さそうな写真は撮れたが、寒いしヌルヌルするし、やっぱりあまりいいものでは無かった・・・。

 シャブル・ベンシに戻ったのは夕方。普段の感覚で言えば小さい村なのだが、山奥から降りてくるとさすがに「人里に帰ってきた」と思う。村はずれに散らばっているゴミが、出発のときよりも目立って感じた。
 4日前と同じホテルに泊まり、僕たちはトレッキングの無事(?)終了を祝して、ウイスキーのミニボトルを2本空けた。

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 3月9日の朝、カトマンズに戻るバスも混んでいた。そして、その中で「ビーナス事件」は起きたのだ。
 ランタン谷〜カトマンズのバスは、ネパールで言えば十分長距離といえる道のりを走る。ただし村と村とを結ぶ交通機関がほかに無いから、「ちょっと隣の村まで」といった場合のような、生活の足としても使われる。(それが混んでいる理由の一つなのだが)
 きっと学校からの帰りなのだろう、ある村で小学校低学年ぐらいの愛くるしい制服姿の少年が乗ってきた。彼はチカさんの横に立つと、黒目がちの目で彼女をじいっと見つめ、こう言った。
 「ビー・・・バス」
 恥ずかしそうに小さな声しか出さないから、何を言っているかわからない。しかし、何度か聞きなおしているうちに、僕は彼が「ビーナス」と言っている様に思えてきた。
 「チカさん、この子、きっとチカさんを見てビーナス、って言っているんじゃないですか?」
 ネパールの山奥の子が、なんで「ビーナス」なんて単語を知っているのか分からなかったが、僕は冗談半分でチカさんに言った。すると、彼女は「ふふふ、よく分かっているじゃない」と大変ご機嫌になり、少年を膝の上に乗せてあげた。

 しかしである。彼は僕のデイパックを指差すと、「ビー・エー・ジー、バッグ」と言った。「B,A,G, バッグ」。つまり、彼は先につづりを言い、続いてものの名前を言っているのだ。試しに、僕が木を指差して「T,R,E,E,ツリー」というと、彼はニッコリと笑った。彼は英語を練習したかったのだ。
 しばらくすると、彼はまた「ビー・・・バス」と言った。よく聞いてみると、彼は「B,U,S,バス」と言っている。ぜんぜん「ビーナス」じゃないのだ。
 「違ったみたいだね」と僕が言うと、チカさんは「そんなのはじめから分かってたわ」と言った。しかし、その横顔はどこか寂しげであった。

 カトマンズに着いたのは午後4時半。帰りは下りだから早いだろうと思っていたのに、また他のバスとのすれ違いやチェックポストで時間を取られ、結局10時間もかかってしまった。
 タメル地区に戻って最初にしたのがメールのチェック。すると・・・おお、来ている来ている、あのライダー・カップルからのメールが。
 メールで教えられたホテルに直行すると、いたいた、いました!けんじさんとふみえさんの二人が!

 僕が初めてけんじさんに会ったのは2001年の9月、当時彼が働いていたドイツでだった。その後、2002年の6月にハンガリーで再会、そのとき彼女のふみえさんとも会った。
 けんじさんが愛車ヤマハSR400にまたがって日本を出発して、今年で丸8年になる。彼はその間一度も日本に戻らず、各地で働いて資金を貯めてはツーリングを続けているのだ。ふみえさんとはボーイスカウト時代に知り合ったが、交際を始めたのは旅の途中から。最初はSRに二人乗りしてドイツからアフリカまでを旅したが、今ではふみえさんもドイツで買ったホンダXLを操る、一人前のライダーになった。

 彼らはハンガリーで僕と別れたあと、東欧、中東、中央アジアと走ってインドまでやってきた。そして年明け早々にネパールに入り、僕と再会する約束だったのだが、僕が予定外に国際会議に出席したりしていたから、どんどん先延ばしになっていたのだ。
 僕がネパールに入国したときには、彼らはアンナプルナ方面で17日間という長いトレッキングに出ていた。そして今回、僕たちがランタン谷から帰ってきてようやく会うことができたのだ。

 彼らは普段とても節約しているので、日本食が安くてうまいカトマンズといえど、きっと自炊をしているだろうと思った。すると案の定、たずねた部屋の床ではMSRのガソリンストーブが炎をあげており、鍋がコトコトといっていた。
 とりあえず、僕らは次の日の夕食を一緒に食べることにして別れた。チカさんも交えて4人、旅談義に花を咲かそうと思っていたが、この先、僕たちの前に強烈な人物が現れるのを、このときの僕たちはまだ知らない・・・。