旅の日記(番外編)

ネパール・カトマンズ編(2003年2月20日〜3月3日)

パチパチパンチとゴンタ君

 アジャンター、エローラの両遺跡を観てしまえば、次の目的地はいよいよネパールの首都カトマンズ。
 とは行っても、デリーから1000キロも南下してきているので、そうは簡単に辿りつけない。陸路で行こうと思えば丸2日かけてバラナシまで列車で戻り、そこからさらに2日間バスに揺られなければならないのだ。
 僕たちは移動続きで疲れていたので、ブシャヴァルから列車でカルカッタに行き、そこから飛行機でネパールに飛ぶことにした。カルカッタ〜カトマンズのチケットは比較的安く、100ドルちょっとで飛べる。陸路で行けば3、40ドルで行けるだろうが、何日もかけて移動してまで、その差額を節約しようとは思わない。お互い旅の日程は残り少ないのだ。

 ん?と思うかもしれない。「僕たち」って?「お互い」って?
 実は、国際会議から一緒だったチカさんと、この先も共に旅行することになった。彼女もこの3年間、旅行と一時帰国をくり返している筋金入りのバックパッカー。よく聞くと南米、ヨーロッパ、そしてアジアと、ほぼ同じ時期に回っていて、インドのバラナシで出会うまでニアミスは何度もあったのだ。ウメさんをはじめとして共通の友人もいて、旅行者の世界は狭い、と改めて実感したのだった。
 元ナースの彼女もこの春、長い旅を終えて帰国する。だから、お互い残された時間は1ヵ月あまりしかないというわけだ。

 2月20日の早朝、僕たちはマエダくんとケイコちゃんと別れ、ブシャヴァルからカルカッタ行きの列車に乗った。
 それまで乗った列車はすべて始発駅から乗っていたので時間的余裕があったが、その日のはムンバイ発で、ブシャヴァルには10分程度しか停まらない。しかもインドの列車は何番ホームに到着するか一応事前に知らされるものの、寸前でコロコロと変わることが多い。考えてみれば遅れることが当たり前なのだから、予定されていたホームが空いているかどうかは、その時にならないと分からないのだ。
 この日も、「その列車はあっちのホームだ」「いや、こっちだ」といろんなインド人がいろんな事を言うなか、目的の列車を無事にみつけ、自分の席にたどり着けてホッとするのだった。
 慣れてしまえば何てことはないのだが、インドの列車旅にはちょっとしたコツがいる。

 さて、その列車だが、時刻表で調べたときは確か翌日の朝4時に着くはずだったのに、実際にカルカッタ、ハウラー駅が見えてきたのは21日の午後4時半ごろだった。僕たちの単なる勘違いだったのか、あるいは本当に12時間以上も遅れてしまったのか、結局34時間もお菓子を食べたりチェスをしたりして(あいかわらず負けてばかりだが)、寝台車両で過ごすことになってしまった。

 日の傾きはじめたハウラー駅で日本人の女子大生を見つけ、カルカッタの中心地までタクシーをシェアすることにした。彼女は日本からデリーに飛んで、マザーテレサが創設した「マザーハウス」でボランティアをするべくカルカッタに来たというのだが、初めての一人旅らしく、案の定デリー〜アグラー〜カルカッタ〜デリーという列車のチケットを、定価の4倍以上で売りつけられていた。
 駅で客待ちしているタクシーの運転手はスレているのが多く、ふっかけた金額をなかなか下げようとしない。最初に捕まえた運転手と料金をめぐって口論になり、一度は彼の車に乗ったものの、駅から出る前に降りることにした。そのとき僕は彼の肩を掴んだのだが、そのことが火に油を注いでしまった。
 インドでは我々外国人はカースト外、つまりヒンズー教徒の身分ランキングに入らず、最低下層の不可触民と同じと見なされる。外国人の扱いは変わりつつあるが、未だに触られるのを嫌がる人がいるのだ。
 外国人を見たらボッてやろうと寄ってくるクセに、触られると汚れる、なんて考えるのは実に失礼じゃないか、おい!

 次のタクシーに乗ってインディアン・エアラインズのオフィスに行き、カトマンズ行きのチケットを購入。空港使用税込みで110ドルなり。30歳以下ならユース割引が効くのに、残念ながら二人ともその資格はない・・・。
 フライトの日付は2月26日。それまでの三日間、僕はカルカッタの安宿街サダル・ストリートにこもって日記打ちに励んだ。国際会議のことなど、書く事がいっぱいあるのだ。

 一ヵ月ぶりのカルカッタだが、バンコクから飛んできたときには「まさにインドだなあ」と思ったものだが、インドの北半分を周遊した後だと、すっきりとしたモダンな街に見える。風邪をひいてガタガタ震えていたあの時と比べればずいぶんと暖かくなったが、どういうわけか鼻水が止まらない。僕は花粉症になったことがないのだが、まさに聞くところによるそれのようで、 かんでもかんでも水っぱながタラタラと出てくる。一日に一ロールはトイレットペーパーを消費した。

 カルカッタはそろそろ蚊が出始める時期だそうで、対策をしないとマラリアが流行することもあるという。ある夜、1台のトラックが真っ白な煙を撒き散らしながら疾走し、サダル・ストリートは一瞬にして毒ガステロの様相を呈した。咳き込みながら体を伏せて、「なんだ?なんだ?」と目を丸くしていると、道端のインド人が笑いながら「殺虫剤だよ」と教えてくれた。もしかしたら、僕の鼻はその薬に反応しているのかもしれない。

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 そして2月26日、僕たちはカトマンズに飛ぶべく、カルカッタの国際空港を目指した。
 地下鉄でカルカッタの北の外れ、ダムダム駅に行き、そこから余ったルピーで豪勢にタクシーで乗りつけるつもりだったが、駅で待っていたタクシーは市の中心からと同じ金額を要求するし、オートリクシャーはなぜか空港に行くことを嫌がるし、結局一人3ルピーの市内バスに揺られることになった。
 渋滞に捕まり、やや遅れ気味で空港に着くと、どこもかしこも長蛇の列ができている。予想していたことだが、テロの多いインドではセキュリティ・チェックが非常に厳しいのだ。

 まず、チェックインするまでに預け入れる大荷物のチェックがあって、X線の機械に通したあと、チェック済みを示す黄色いテープを巻かれる。まあ、ここまではどこの空港でも似たようなものだ。
 そして航空会社のカウンターでチェックインし、荷物を預け、イミグレーションで出国スタンプをもらうと、今度はスーツケースやバックパックが山になっている場所に連れて行かれ、「どれが自分の荷物か指し示せ」といわれた。荷物の中に爆弾を仕込み、チェックインだけをして飛行機に乗らない、というテロを防ぐためと思うけど、だったら最初のX線によるチェックはなんなんだ?と言いたくなる。
 「これが俺のだ」と指差すと、ヒゲの生えた偉そうな係官は「よし!」みたいな感じで、僕のザックに「持ち主アリ」の札をつけた。この札の無い荷物は、空港に置いていかれる運命にあるのだろう。

 そしていよいよボディ・チェックと手荷物検査。男性と女性に別れ、くすぐったいほど体をまさぐられたあと、デイパックをX線の機械に通され、しかし結局は中身を全部開けられて検査。やっぱりX線の意味がないじゃん!
 パソコンはちゃんと立ち上がるか電源を入れられ、チカさんの小型カミソリは取り上げられた。ま、ここまでは仕方ないと思うが、デジカメ用のスペアの電池を8本、全部取り上げられてしまったのだ。融通の効かなそうなうら若き女性の係官は、カメラの中に入っている電池は問題ないのだが、余っている電池は駄目なのだと言う。
 おそらく爆弾の発火電源として使われることを恐れてだと思うが、だったらなんでデジカメの中に入ってる電池はいいんだよ!抜いて使えるぞ、おい!

 ギャーギャーブーブー文句を言っていると、取り上げられた電池は全てカトマンズで返してくれるという。なんだ、それなら早く言ってよ、と僕は8本の電池を彼女に預けた。
 そして1時間15分の短いフライトを終えてカトマンズの空港に到着し、言われた通りインディアン・エアラインズのオフィスに行くと、「電池係」みたいなオヤジが僕を待っていた。
 「お前は何本預けた?」と聞くので「8本だ」と答えると、オヤジは引き出しに入っている電池の山から適当なのを8本抜いて僕に差し出した。
 「おい、俺のはこんな安っぽいマンガン電池じゃないぞ!充電可能なニッケル水素のだ!」と僕は抗議したが、オヤジにとってはマンガンだろうがニッケルだろうが「電池は電池!」らしい。まあ、インド人だからそんなもんだろう・・・。
 車を待たせてあったので僕はそれ以上文句を言うのをあきらめ、電池の山から比較的マシそうな、デュラセルなどのアルカリ電池を 8本掴んだ。旅の残りも少ないし、これで我慢してやろう。

 さて、いよいよ到着したネパールの首都カトマンズ。ヒマラヤ山脈に抱かれた都市の第一印象は、「エクアドルのキトに似ている」だった。街を歩いている人とか文化とか宗教とか全く違うのだけれど、山がちな地形に赤い煉瓦作りの粗末なビルが並んでいるのを見て、僕はそう思ってしまったのだ。
 標高が1000メートルを超えるだけあって肌寒く、タメル地区のホテルにチェックインすると、すぐに冷たい雨が降ってきた。
 止むのを待って夕食に出ると、昨年タイのタオ島で出会い、この前もインドのバラナシで再会したケースケ君とバッタリ会った。カトマンズは日本食が安くて美味しいことで有名で、僕たちはそのまま日本食屋「ももたろう」になだれ込み、キツネうどんをすするのだった。

 その後も2月27日、28日と、数軒ある日本食屋を試しながら、タメル地区でゆっくりと過ごした。
 同地区には安宿やホテル、レストラン、土産物屋、旅行代理店、インターネットカフェが集中し、ツーリスティックなものの、バンコクのカオサン通りなんかに比べるとはるかに落ち着いていて過ごしやすい。ペルーのクスコやグァテマラのアンティグアみたいな感じで、僕はすぐに気に入ってしまった。
 そこの旅行代理店で、僕はバンコク行きの片道航空券を買った。本当はバンコク・ストップオーバー、成田行きのチケットが欲しかったのだけれど、それだと割高になってしまい、バンコクで成田行きのチケットを新たに買った方が安くつくのだ。

 チカさんはカルカッタまで戻るチケットと、そこからバンコクに飛ぶチケットを持っている。彼女がバンコクに着くのは3月13日。僕は翌14日に飛ぶことにした。チケットは223ドルだったが、その後、同じ店を訪れたケースケ君が値切ると、あっさりと207ドルまで落ちたらしい・・・。

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 3月1日にカトマンズの観光を始めた。
 その日はヒンズー教の破壊と再生の神・シバをたたえる、年に一度のシバラートリー(シバ神祭)。本家バラナシには及ばないものの、ネパールの国教もヒンズーで、カトマンズにおけるシバ信仰の中心地パシュパティナートも大いに盛り上がるという。
 そんなわけで僕たちはパシュパティナートに向かったのだが、僕はこの名前を覚えるのに苦労した。何回言っても「パチパチ・・・パンチ?」になってしまい、その度に生粋の大阪人チカさんに「あんた、それ大阪名物やん」と言われてしまうのだ。

 さて、ミニバスに揺られてカトマンズ郊外にあるパシュパティナートにたどり着くと、そこには長蛇の列ができていた。しかし、それはお参りするためのヒンズー教徒の列で、我々外国人は250ルピーという高額な料金さえ払えば、すぐに敷地内に入れる。(これは祭のための特別料金で、通常は75のはず。看板にもチケットにも、75という数字の上に250というシールが貼られていた)
 ただし中心となる大寺院はヒンズー教徒のみ立ち入り可能で、僕たちは料金を払おうが列に並ぼうが、入ることはできない。そのまわりで大人しく観光するしかないのだ。

 ヒンズー教徒の列は長く、1、2キロはあったと思う。しかも進んでいる様子が全くなく、最後尾の人などいつになったらお参りできるのか心配になってしまった。
 ネパールは小さいながらも多民族国家で、仏教を信仰する、我々と良く似た顔立ちのチベット系住民も多いのだが、パシュパティナートで並んでいたのは、インド人とほぼ同じ顔をした系統のネパール人たち。中にははるばるインドからお参りに来たインド人もいるという。

 中心の寺院の周りには沐浴場や小さな寺院、ほこらなどがあるが、そこではインドから出稼ぎに来た蛇使いやサドゥー(苦行者)がたむろしていた。ネパール人の注目を集める中、得意げに蛇を操ったり、全身に灰を塗ってガンジャ(大麻)を吸ってみせたりしている。川に面した沐浴場も大賑わいで、バラナシよりもバラナシっぽいと思ってしまった。
 ただしインドと違うのはネパールではヒンズー寺院も木造で、一見すると仏教のお寺に見えることだ。インドから伝わったヒンズー信仰と、チベット方面から伝わった木造建築がこの地で融合したのだろう。

 人ごみに揉まれながら久しぶりに観光したら、疲れてしまった。タメル地区に戻ってまた日本食屋で夕食を済ませると、ブシャヴァルで別れたマエダ君とケイコちゃんに再会した。彼らはバラナシ経由で陸路でネパールに入り、短いトレッキングをしてからカトマンズに来たのだ。

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 次の日はチベット仏教の祭だというので、今度はネパール最大の仏塔があるボダナートに行って見た。
 しかし仏教の一大聖地にもかかわらず何にもやってなく、後で聞くとその日は各家庭で何かを祝う日だったらしい。ただし大きな目玉の描かれた白い塔とタルチョ(カラフルな旗)が青空に映え、チベットからヒマラヤを越えてきたチカさんの話を聞いていたりすると、チベット仏教の総本山・ラサに思いは馳せるのだった。
 ネパールの国教はヒンズーであり、国民の大多数はヒンズー教徒なのだが、ネパールを紹介するガイドブックや写真集、絵葉書なんかには、よくこの仏塔の目玉が出てくる。この怪しげな雰囲気が「密教!」という感じがして、僕はとてもクールだと思うのだ。

 そんなわけで、僕はこの目玉を利用することにした。
 実はごり君から、我らが「ナマステ・ライダーズ」のイカしたマークを作り、カトマンズの刺繍屋でワッペンを作ってきなさい、と指令を受けていたのだ。カトマンズは安くて美味い日本食屋のほかに安くて上手な刺繍屋も有名で、1、2ドルも出せば自分のデザインしたワッペンを作ってもらえる。僕はバイクの車輪とこの目玉を組み合わせたデザインを考え、試作品を作ってまわりのみんなに見せると、ケースケ君もケイコちゃんもマエダ君も「かわいい!欲しい欲しい!」と言い出した。
 本当はごり君と僕とみっきの分と、後は数枚ぐらい余裕をもって作ろうと思っていたのに、結局18枚も発注することになった。ごり君、このワッペンは好評だぞ!

 さて、話は前後するが、仏塔を見たあと、僕たちはそのまわりにあるゴンパ(チベット仏教の寺院)を訪れた。
 仏教にはいろんな宗派があり、チベット仏教もその一つだが、その中でもいろいろとグループが別れていて、それぞれにゴンパを持っている。タイの寺院ほどではないが、チベット仏教のゴンパも赤色や金色が使われていてけっこう艶やかだ。
 僕たちはそんなゴンパを見ながら、「ウホウホウホ!」とヘンな声をあげていた。
 僕たちの世代になると、「ゴンパ」と聞いて思い出すのはNHKの「できるかな」に出てきたゴンタ君だ。あの無口なノッポさんの傍らにいて、いつも微妙に揺れながら「ウホウホウホ!」とヘンな声をあげている、毛むくじゃらの謎の生物である。
 「次はあっちのゴンパだ!」「ウホウホウホ!」「このゴンパはきれいね」「ウホウホウホ!」
 ・・・聖地を訪れているというのに厳かな気持ちもないまま、僕たちはふざけていたのだった。

 ボダナートの帰りに、カトマンズの中心であるダルバール広場に寄った。「五重の塔」のような木造の寺院が並ぶが、これらもヒンズーの神々を奉ったものである。
 広場の隅に「クマリの館」というのがあった。クマリとは血で汚れたことのない、つまり生理を迎えていない少女の生き神で、もちろん、その資格がなくなれば次の少女が選ばれる。「クマリの館」とは、その少女が住む館なのだ。赤煉瓦と、見事な彫刻の施された木製の扉や窓枠が組み合わさった、趣きのある古い館だ。
 中庭で観光客が溜まっていたので、もしやと思って一緒に待ってみると、小さな窓からクマリが顔を出して僕たちに挨拶をしてくれた。化粧を施していたが、あどけない可愛い少女だった。
 しかし、彼女が生き神の資格を失うときって恥ずかしいんだろうな・・・「あの〜、とうとう来てしまいました」

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 3月3日、耳の日、つまり僕の日、僕たちは翌日から出かけるトレッキングの準備に追われた。
 山はまだ寒いだろうからノース・フェイスのコピーもののダウン・ベストや帽子や手袋などを買い、入山許可証を手に入れ、最後のインターネットをしていたらあっという間に一日が過ぎてしまった。
 夜はケースケ君やマエダ君、ケイコちゃんの他にも国際会議で一緒だったマドゥーと合流し、どっちが縦か横かわからないほど分厚いステーキを出すことで有名な「エベレスト・ステーキハウス」で夕食。アジャンター、エローラで別れてからの話をした。

 バラナシの「フレンズ・ゲストハウス」のことになり、僕はある女性のことをふと思い出して、彼女がどうなったか、最近までそこにいたケースケ君に聞いてみた。
 その人とは20台半ばの美人で、チェックインするなり艶やかなサリーに着替え、何十分もかけて顔をメークしていた人なのだ。僕はバラナシにまで来て身なりにそんなに気合を入れている日本人を初めて見て、それで覚えていたのだが、ケースケ君の口からは信じられない言葉が出た。
 「あの人、ガンジス川の対岸の『不浄の地』でインド人からチキンをごちそうになり、それで赤痢にかかって大変だったんですよ。もう下からピーピー、上からゲロゲロ、しまいには入院して、ラジャも『ビッグ・プロブレムねー』と弱っていましたよ」
 何十分もかけてメークをするような人が、知らないインド人から差し出された食べ物に手を出すなんて・・・しかも「不浄の地」で。シャレにならないけど、ちょっと笑ってしまう僕だった。

 店を出て、朝食用のパンを買おうとパン屋に向かうと、その前で国際会議で一緒だったユースケ君と再会した。その夜にカトマンズに到着して、僕たちが集まっていると聞いて探しまわっていたらしい。もうちょっと早ければ一緒に食事ができたのだが、会議で一緒だった10人のうち6人が、カトマンズの街角でふたたび顔を合わせることができたのだ。