旅の日記(番外編)

ネパール・カトマンズ編その2(2003年3月10〜13日)

挨拶をすると、いい事がある

 3月10日は洗濯から始まった。トレッキングで汚れた衣服を洗い、ホテルのベランダに干すと、乾いた陽射しがみるみるうちに水気を奪っていく。乾季のネパールでは毎日が洗濯指数100なのだ。
 そしてトレッキングに出る前に注文していたナマステ・ライダーズのオリジナルワッペンを引き取りに行く。一枚200円とは思えない出来映え。この前、試作品を国際会議のメンバーに見せたら、みんなも「欲しい欲しい」と騒いでいたので、追加で10枚ほど注文する。
 皆さんもカトマンズにお出掛けの際には、ぜひオリジナルのワッペンを作ってみましょう。バックパックや衣服へ直接刺繍するのも可能です。

 さて、トレッキングから帰ってきて無用になったものがある。それは山間部は寒いだろうと思って買った、ノース・フェイスのコピーもののダウンベストだ。肩のラインが妙に突っ張っていて、なんだか大岡越前の羽織みたいなシルエットなのだが、バッタものでもちゃんと羽毛が入っていて温かい。しかしランタン谷は思ったよりも寒くなかったのでほとんど着なかったし、この先は常夏のタイに戻る予定なのだ。
 そこで僕はこれを売り払い、その代わりに日本でも着られそうな服を買う事にした。

 まずはベストを買った店に持ち込んだのだが、「ウチは中古は扱わない」とニベもない。仕方なく、ベストを買ってくれそうな、そして日本でも着られそうな服を売っている店を探してタメル地区をウロウロする。どちらかというと後者の方が難しく、普段歩いているときには民族衣装風のかわいい服ばかりが目につくのだが、いざ買おうと思って手に取ると、予想以上に粗悪だったり、冷静に考えると日本では着られるデザインで無かったりする。

 しばらく歩いていると、ホテルの近くで、民族衣装の色合いを持ちながらも落ち着いた感じの、しっかりとした作りのセーターを売っている店を見つけた。店主のオヤジは高いびきをかいて寝ていたが、起こして交渉を始める。
 しかし、オヤジは僕のベストを手に取ると鼻で笑った。「これを1000ルピー(約1600円)で買ったって?バカな、騙されたんじゃないか?」
 オレンジとグレーの組み合わせが可愛いセーターは1500ルピーだった。僕はベストを500ルピーで引き取ってもらい、差し引き1000ルピーで買おうと思っていたのだが、彼によると僕のベストは200ルピーにしかならないという。
 「ほら、羽毛がこんなに出てきてしまっている。縫製が粗末なのだ」とオヤジはケチをつけるが、このベストはそこら中で売っていて、そして1000ルピー前後が相場なのだ。それに、その金額で売りつけているのはお前の同胞じゃないか!

 話しているうちに、なんだか頭に来た。「もう、いい!」と僕はベストを持って店を出て行こうとしたが、オヤジは態度を一転。「あ、いやいや、やっぱり1000ルピーでいいよ!」
 結局取引は成立したが、セーターを包んでいる間もオヤジは「この金額だと儲けが出ないのだ。これは特別サービスだ」と恩着せがましい。ネパール人は素朴というけれど、観光客で賑わうタメル地区の住民だけは例外だ。海千山千の彼らが、儲けにならないことなどやる訳がないじゃないか!

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 そんなわけで手に入れたセーターを早速着て、その夜はけんじさんとふみえさんと食事会。彼らも普段は節約しているが、せっかくなのでネパールでは高級の部類に入るヨーロピアン・スタイルのレストラン、「ケーシーズ」でパスタを食べた。
 さて、約9ヵ月ぶりに再会した村田憲治という男。彼は、僕が尊敬してやまない旅人の一人だ。
 ただ単に8年間、一度も日本に帰らずに旅を続けているからではない。旅は長ければいいというものではないからだ。また、オンロードバイクのヤマハSRでアフリカを走ったからでもない。自転車や徒歩で暗黒大陸を旅した者もいるのだから。
 僕が彼を尊敬するのは、旅に対する前向きな姿勢と、困難を乗り越え、道なきところに道を切り開いていくパイオニア精神を持ち合わせていて、そしてそれを8年間も維持しているからだ。
 彼はあきらめが悪い。人の意見に左右されず、自分でとことんやるまであきらめないのだ。例えば・・・

 一時帰国していたふみえさんが、ドイツで働いていたけんじさんのもとに帰った。日本で免許を取ってきた彼女もドイツでバイクを買い、それからは二台で旅することになったが、「安物買いはトラブルのもと。無理しても程度の良いバイクを買った方がいい」という声の中、彼らは20年落ちのホンダを買った。そして案の定、ルーマニアとブルガリアの国境地帯でエンジントラブルに見舞われるのだが、彼らはトルコのイスタンブールまで行って部品を受け取り、そしてブルガリアの片田舎でエンジンをバラし、新しい部品で組みあげて旅を続けたのだ。

 僕なんかはエンジントラブルというと、もう真っ青になってしまう。自分では何もできないから、きっと金の力に頼るだろう。トラックをヒッチし、バイク屋に持ち込んで泣きつくだろう。そういうのが嫌だから、僕みたいな人種は新車を買う。備えあれば憂いなし、普通に考えればそれが賢明だ。
 しかし、けんじさんはアフリカを走っている時、度重なるパンクでタイヤのチューブがボロボロになり、代わりにロバに食わせるワラを詰めて走った男だ。大抵のトラブルなら克服してしまう経験と自信を持っている。本人は「そりゃ新しいバイクが欲しいですよ。でもお金が無いから・・・」と言うが、それでも自分に自信がなければ20年前のバイクを買うことも無いだろう。
 長年走っていると、もちろん経験も増えるが、トラブルによる疲れが旅への意欲を上回ることがある。しかし8年経ってもけんじさんは楽な道を選ばず、自分の好奇心に従って次なる一歩を踏み出し続けているのだ。

 こんな例もある。
 彼とふみえさんはハンガリーで僕と別れたのち、中央アジアからパキスタン、インド方面に抜けるルートを走った。普通の人が聞けば「へぇー」で終わってしまうが、ライダーにとってこのルートは快挙である。なぜならキルギスタンとパキスタンの間に、わずかな距離ではあるが中国が挟まっているからだ。
 バックパッカーが縦横無尽に中国を駆け回る時代ではあるが、いまだに同国は未解放の地区があって、外国人は自分の車やオートバイで自由に旅行することができない。それでも行きたいと思えば、綿密なスケジュールを中国政府に提出し、警察の伴走車両をつける必要がある。その費用は莫大で、例えば10数台のツアーであれば頭割りができるが、個人の旅行となると非現実的な数字になってしまう。
 したがって、中国における個人のオートバイ旅行は無理、というのが通説なのだ。

 しかし彼らはあきらめない。
 ハンガリーはブダペスト、ライダーご用達の宿「テレザハウス」で、けんじさんは自前のネルでドリップしたコーヒーをすすりながら、こう言った。(ちなみに彼は酒が飲めないので、熱く語るときもコーヒーなのである)
 「じゃあ、あきらめた奴に言いたい。お前らは自分でどこまでやったのか。大使館に電話して『無理』と言われて、それで大人しくあきらめるのか。俺は自分で国境まで行って、そこで追い返されるまで不可能だとは信じない」

 彼らはハンガリーから中国の自動車クラブに嘆願書を送った。しかし返事はなかった。
 それと平行し、彼らは旅先で出会った、同じルートをランドクルーザーで走ったという外国人旅行者から情報を仕入れ、キルギスのある旅行代理店に連絡をとっていた。そして結局はそこでビザその他を手配してもらい、彼らは中国を走ってしまうのである。
 一人700ドルという費用がかかり、入国/出国の際には伴走車がついたが、それでもそれ以外の区間は自由に走れたし、金額だって決して高くはない。数十万円かかるというのが通説だったからだ。

 無理と言われてもあきらめない。ほんの小さな糸口から自分だけのハイウェイを切り開く。彼はオンロードバイク派で、「道なき道をゆく」オフロードバイクがあまり好きではないが、彼こそが真の意味でのオフロードライダーだと僕は思うのだ。

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  さて、そんなけんじさんたちと食事を終え、普通なら一杯飲みに、となるが、彼は酒が飲めない。そこで僕たちはある中級ホテルに入った。そこの中庭はオープンカフェになっていて、電飾された木々が枝を広げ、表の喧騒を忘れさせる落ち着いた雰囲気になっているのだ。
 しかし、ネパールの物価を考えると決して安くはない。コーヒーと一緒にケーキも注文したいが、それこそ一食分の金額を優に超えてしまう。僕たちは飲み物だけを注文し、ちびちびとすすっていた。

 その時である。「ここのソーセージ美味しいのよ、どう?」---背後から声がして、腕が伸びてきたかと思うと、ソーセージの盛られた皿が僕たちのテーブルに置かれた。
 振り向くとロングヘアーにメガネをかけた、日本人の中年女性が立っていた。そして彼女はチカさんを見ると言った。「あらあなた、『ふる里』にいたわね?」

 遡ること数時間、僕とチカさんは日本食屋「ふる里」で昼食を食べていた。そして隣のテーブルにはネパール人の男性と、マシンガンのように話し続ける日本人の女性がいた。女性は日本語で、昨今のカトマンズ事情について一方的に話す。ネパール人男性もきっと日本語が堪能だと思うのだが、なかなか話す機会がなくて確認できない。女性はどう見ても観光客ではない。きっとネパールに移り住んで商売でもしている、地元日本人会の顔役のようなおばちゃんなのだろう、と僕は思っていた。
 食事が終わり、僕たちがレジに立ったところでチカさんと彼女の目が合い、軽い挨拶が交わされた。日本人同士といったって、ここでは別に珍しくない。目が合ったぐらいで挨拶をする義理はないのだが、チカさんは看護婦である。老若男女すべてに愛想良く、というモットーが体に染みついている。

 昼間の、その挨拶のことを女性は覚えていたのだ。そしてマシンガンの引き金は引かれた。
 「あらそう、みんなお友達なの。いや、そのソーセージ美味しいから食べて、食べて、遠慮しないで。美味しい?そうでしょ?だって私が仕入れたんだもの、そりゃ美味しいわよアハハ。私このホテルの一番いい部屋に住んでいるんだけど、ここのオーナー、フランス人のわりに田舎者で食べ物の良し悪しが分からないのよね、そして足が短いのよワハハ。でもケーキは美味しいのよ、食べる?食べる?いいのよ、おごるわよ、私このホテル気にいっているから、お金を落としたいの。というより、チェックインした時にずいぶんとデポジットしたから、ぜんぜん減らないのよね。ねえ、ちょっと手伝ってよ。そうそう、ワイン飲む?ヘーイ、ワン・ボトル・オブ・ワイン、プリーズ!!」

 ・・・弾丸トークの断片を拾っていくと、以下のことが分かった。
 1.彼女は関西出身の女医だが、医大を卒業後、初めて務めた病院の上司に楯突き、首になった。
 2.上司は「日本の医学界に居られなくしてやる」と言ったが、それは本当で、その後どこの病院の採用試験を受けてもその上司の手が回り、落とされた。
 3. そんなとき、香港のある病院が現地邦人のために日本人の医師を募集していた。試しに受けたら、採用されてしまった。
 4.その後、20年間にわたりその病院で働いているが、イギリスの医大で教鞭をとることもあった。その病院はイギリスの一流病院の流れを組み、医学界では知られたところなのだ。
 5.その病院はボランティア休暇を長く取らせてくれ、すなわちボランティアのためなら一年に何ヵ月か、仕事を休ませてくれる。
 6.数年前に来たネパールが気に入り、以後、毎年のようにボランティアに来ている。
 7.ボランティアといってもそんなにあくせくしたくないから、一日に患者を数人診る程度で、さほど忙しくはない。従ってけっこう時間はある。
 8.このホテルと、日本食屋「ふる里」を気に入っている。どんどんお金を落としたいから、あなたたち、手伝いなさい。

 一通り自分のことを話すと、彼女はけんじさんとふみえさんに「あなたたちはネパール人そっくりね」と言い、僕とチカさんには「あなたたちは・・・モンゴル人!」と言った。
 そして僕たちにケーキとワインを振る舞ったあと、「明日の昼食もご馳走するから『ふる里』に午後一時に来てね」と言い残して席を立った。
 彼女の迫力に、僕たちはただただ圧倒されていた。ひょんなことから、すごい人に出会ってしまったものだ。やっぱりきちんと挨拶をするといい事があるのだ。
 彼女が中庭から去ろうとするとき、あることに気がついた。僕たちは彼女の名前も知らないのだ。
 「あの、せめてお名前でもお聞かせ願えませんか?」
 「ふふふ・・・私はドクター・カズコ!!」
 メガネのレンズをキラリを光らせ、彼女は言った。そして僕たちはシビれた。「かっこいい〜!」

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 そして翌日。約束の時間に「ふる里」に行くと、ドクターは別の若者を引き連れて来ていた。僕たちの他にもご馳走したい人はいっぱいいるらしい。
 さて、何を注文しようか。遠慮するなら安いものだが、しかし、このチャンスに一番高いサンマ定食を食べない手はない・・・。結局、僕たちはサンマ定食とサバ定食にした。海のないネパールでは魚が一番高いのだ。
 しかしドクターは文句一つ言わず、そのうえビールや天ぷらの盛り合わせ、そして単品のチキンカツまでつけてくれた。そして本人は別の若者とずっと話している。
 昨夜、彼女は話相手が欲しいのだろう、と僕たちは思った。だから彼女の話を一生懸命聞く事が義務だと考えていたのだが、実は本人はそんな見返りなど何も望んでいなかった。ただ、自分の気に入った店のおいしい料理を、もっと色んな人に食べてもらいたいだけなのだ。

 その時である。店に懐かしい顔が入ってきた。インドの国際会議で一緒だった、「カップラメーン」の石黒さんである。
 石黒さんはデリーで別れたあと、インド東北部、紅茶で有名なダージリングを経てネパールに向かうと言っていた。ちょうど、「そろそろ来るかな」と思っていたところだったのだ。
 ちなみに彼はカップラーメンのパッケージの収集家であり、その道では知られた人らしい。彼のHPは今まで食べたラーメンの感想が中心になっているが、YAHOO!に登録するとき、間違えて「カップラーメン」を「カップラメーン」とタイプしてしまい、そのまま載ってしまった。だからYAHOO!検索で「カップラメーン」と入力すると、一発で彼のところにたどり着けるのである。

 そんな石黒さんに今の状況を伝えていると、ドクター・カズコが僕たちのテーブルに来て言った。「あら、その人もお友達?ほら、何でも注文なさいよ」
 結局石黒さんもドクターにご馳走になった。彼は実によいタイミングで現れたのである。
 ドクターは自分の食事を終えるとさっさと会計を済ませ、僕たちを残して出て行った。本当に嵐のような人なのだ。

 その夜、けんじさんとふみえさんは日本大使館の偉い人に招待(!)されていたので、僕たちと石黒さんの3人は韓国料理屋にビビンバを食べに行った。ドクターがいないので、もちろん自腹である。

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 3月12日はチカさんが一足先にカトマンズを発つ日だった。彼女はこの日の午後にインドのカルカッタに飛び、13日にそこからバンコクに飛ぶ。僕がバンコクに飛ぶのが14日だから、その夜にカオサンロードで待ち合わせることにした。
 フライトまでまだ時間があったので、僕たちは日本風喫茶店「千種」でモーニングを食べていた。話題はもっぱらドクター・カズコのことである。
 「あの人はすごい!」「日本の医学界から追放されたって、まるでドラマのようだな」「ブラックジャックだ、いやスーパードクターKだ」
 その時である。店のドアが開いて、ドクター本人が入ってきたのである。「あら、あなたたち。おはよう」
 彼女はちょっとした用事で店を訪れたみたいだった。僕たちが丁重に前日のお礼を言うと、彼女は笑顔で「またいつでもホテル遊びに来てね」と言った。

 しかし、ドクターがすごかったのはその後だ。彼女はわずかな時間しか店にいなかったのに、僕たちがその後、会計を済ませて出ようとしたら、店のお兄さんはこう言うのだ。「お代なら、もうドクターからいただいております」・・・!
 ドクターはまだ近くにいるはずだ。僕たちは走った。すると、人ごみの中に長いストレートの黒髪が見えた。
 「カズコさん!朝ごはんまでご馳走になれないですよ」
 「あら、お礼なんてわざわざいいのに、ほんとにいいのよ、アハハ、それじゃまたね!」
 彼女はレンズの奥の目を細めると豪快に笑い、ふたたび人ごみの中に消えていった。僕とチカさんはただ路上に取り残されるのみであった。

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 チカさんがカトマンズを去り、3月13日は久々に一人で過ごす日。そして僕はカトマンズ郊外のバクタプルを訪れた。

 約10日前、カトマンズのダルバール広場を訪れた僕は、ネワール調の古い建築物に心を奪われた。ネワール文化とは、15世紀から18世紀にかけてカトマンズ盆地に三つの王国を興したネワール人の文化である。彼らは煉瓦と木で建物を建てたが、その木造部分は気の遠くなるような細かい彫刻が施されている。巨大な寺院の窓枠でも、まるでミニチュアのような細工がなされているのだ。

 「ネパールの建築もクールだな・・・」と感心していると、チカさんは言った。「こういうのが好きなら、バクタプルに行きなはれ!」
 バクタプルはネワール人が興した3王国の首都の一つで、カトマンズ以上に古い町並みが残っているという。チカさんは過去2回のネパール旅行ですでに行っているのだ。
 かつてはカトマンズと並ぶ都だったが、その後の発展にはブレーキがかかり、いまやカトマンズを囲む郊外の町のひとつになっている。
 カトマンズからローカルバスで約1時間。ウトウトしはじめたとき、バクタプルの町外れに着いた。

 さて、このバクタプルだが、外国人はその中心街に入るのに10ドルという料金がかかる。世界遺産にも登録されている、この価値ある町並みを保存するための募金ということが名目だが、それにしたってネパールの物価を考えると高すぎる。なにせ10ドルといえばタメル地区で素敵なセーターが買えるし、サンマ定食を2回も食えるのだ。

 そこで、である。僕は読者の批判を覚悟しつつも、タダで入ってしまうことにした。歴史的建造物の並ぶ中心街は、別に塀で囲まれているわけではない。そこはネパール人にとっては生活の場だからだ。ただ、そこに通じる主な道にチェックポストが立っていて、外国人が通ろうとすると、役人が声をかけて料金を徴収するシステムになっている。だから大通りの裏の、網の目状に広がる路地を伝っていけばタダで入れてしまうのだ。
 実はカトマンズのダルバール広場も同じシステムだったのだ。もっと厳しいチェックを行い、全員からもれなく徴収するようにすれば、もうちょっと安くすることができると思うのだが・・・。(とか言いつつ、何を言っても言い訳にしかならないのだけど)

 バスを降ろされたのは、まさにそのチェックポストの前だった。まわりのネパール人に流されて、そっちの方向に行ってしまうとあえなく10ドルを取られることになる。役人の視界に入らぬようバスの陰に隠れ、反対方向の路地に紛れ込んだ。そして細い路地ばかりを選んで歩いていくと、あっけなく旧王宮のあるバクタプルのダルバール広場に出た。

 王宮には金色の屋根が眩しいゴールデン・ゲートという門があり、その奥はヒンズー教徒しか入れない寺院になっている。門の横は「55窓の宮殿」で、名前のとおり、美しい木枠の窓がズラリと並んでいる。

 こういう歴史的な王宮なんかを各地で見るたび、僕は思う事がある。今後の世の中では、こういった建物はもう生まれないんじゃないか、ということだ。それは民主主義というシステムが広がり、絶対的権力を持った個人が生まれにくい仕組みになっているからだ。
 もちろん、今の世の中だって億万長者もいれば石油王もいれば大統領もいる。フセインや金正日のような独裁者だっている。しかし、かつてのヨーロッパやエジプトの王朝のように、世界の富の何分の一かをある一族が支配する、という現象はもう見られない。
 富の集中は、時にとんでもない作品を生み出すのだ。現代の巨人がどうがんばっても、何世紀もの間、その権力が誇示できる建造物を残せるとは思えない。

 そう考えると、民主主義の世界でヌクヌクと暮らして、過去の絶対王政の遺産を見て「綺麗だなあ」などと思うのは、実に呑気なことかもしれない。例えばタイムマシーンがあって、それでエジプトの神殿を作った労働者、あるいは万里の長城を建てた労働者を現代に連れてきて、「ほら、今でも君たちの作品はこうして残っているんだ。美しいねえ。すごいねえ。ありがとうねえ」などと言ったら、どう反応するだろうか。
 僕だったら怒るかもしれない。「バカ、俺は奴隷として何十年も働かされて、あれを建てたんだ。なに呑気なこと言ってんだ!」
 僕は民主主義が完璧なシステムだとは思わないし、自由があることが必ずしも幸せだとは思わない。でも王政下よりははるかに住みやすいと思う。

 と、そんなことを考えながらバクタプルの石畳を歩いた。しかし、ネワール建築でも最高の傑作と言われる「孔雀の窓」なんかを見ると、やっぱり呑気に「キレーだなあ」などと、アングリと口を開けてしまうのだった。

 午後までバクタプルで過ごしたあと、またバスに乗ってカトマンズへ。帰りもチェックポストを通らぬよう、来た道を慎重に選んでバス停まで戻った。
 ネパールで過ごす最後の日でもあるので、それからはタメル地区でお買い物。ネパール産のお土産は値段のわりに品質がよく、これから行くタイで売られている民芸品も実はネパール産のものが多いらしい。僕はネパール産の紅茶やアクセサリーなどをお土産に買った。

 そして最後の晩餐。けんじさんとふみえさんとどこで食べるか相談したが、やはりあの人に会えるのではないか、という淡い期待を胸に秘め、「ふる里」へ。
 すると案の定、食事中にドクター・カズコが颯爽と登場。「後で私のホテルにいらっしゃいよ」と言うので、おお、またワインがタダで飲める、と喜び、僕たちは「行きます行きます、のちほど行きます!」とペコペコバッタのように頭を下げて言った。
 ドクターはちょっと顔を出しただけで、すぐに店から去っていったが、この人は本当に油断もスキもない。そのわずかな時間で、なんと僕たちの会計まで済ませてしまっていたのだ。

 約束どおりその後で彼女のホテルに行き、お礼を言ったが、「そんなのいいのよ、それよりワイン、ワイン!ワインを持ってきて〜!」と、彼女は3リットル入りのワインのパックを注文した。
 そして夜が更けるまでドクターのマシンガン・トークを聞いていたが、明日の朝8時半のフライトでタイへ飛ぶ事を告げると、「なに!じゃあもう何時間も眠れないじゃない!はやく帰りなさい、眠りなさい、ごめんごめん、こんなに引き止めて!」と、ドクターは僕に頭まで下げた。別に飛行機で眠れるから僕は構わなかったのだが、ドクターの迫力は相当なもので、僕はあれよあれよという間に帰ることになってしまった。

 けんじさんとふみえさんにもゆっくりお別れが言えなかったが、彼らは今年、いよいよ帰国する。そうしたら日本でまた会えるだろう。
 (日記を打っている4月現在、香港で新型肺炎が大流行している。ドクターはすでに戻っているはずだが、果たして大丈夫だろうか?)