旅の日記(番外編)

タイ・タオ島編(2003年3月14〜22日)

ヒマラヤの次は、南太平洋の海の底

 バックパッカーが航空会社を選ぶとき、ほぼ間違いなく決め手となるのは値段だ。
 しかし安い航空会社というのは、得てしてフライト時刻が早朝だったり、深夜だったりする。僕がタイに飛ぶのに選んだロイヤルネパール航空は、午前8時半にカトマンズを飛び立つ。2時間前には空港に着きたいから、3月14日、僕は5時半に起きてタメル地区の宿を後にした。

 しかし、安い航空会社というのは得てして何かトラブルも起こる。気合を入れて早起きしたというのに、チェックイン・カウンターはなかなか開かなかった。そしてようやくボーディングパスを手にし、余ったネパール・ルピーをコーヒーに換え、カフェテリアの天井からぶら下がっているモニターを何気なく見ると、僕は口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。
 便名の横に赤い「Delayed」の文字。午前8時半の便が、5時間遅れの午後1時半になるというのだ。

 仕方なくそのままカフェテリアに居たが、チェックイン・カウンターで僕の前に並んでいたアメリカ人と会話が弾んだ。シカゴ出身の男性で、トレッキングが好きでネパールは何度も訪れているが、ロイヤルネパール航空は遅延が多くて悪名高いのだという。彼によると燃料の確保が問題らしく、この日もインドから来るタンクローリーを待っているというのだ。
 彼は39歳で、経営していた航空部品メーカーを売却し、その金で放浪をしているという。アメリカらしい景気のいい話だ。
 機内食が用意できないというので、待っている乗客にはサンドイッチが配られた。そしてそれを食べ終えると、予想より早く燃料が届いたのか、午後12時半に僕たちは機上の人となった。

  この日は快晴で、離陸してすぐ左手に広がったヒマラヤの展望が素晴らしかった。方角は北になるので、おそらくエベレストを中心とした8000メートル級の山々だろう。ネパールを去り、旅も終盤に近づくというのに晴れ晴れとした気分で寂しさがない。それどころか、どういうわけかこれから何か素敵なことが始まるような予感さえあり、僕はずっと窓にかじりついていた。
 天気や景色が良いと、人は単純に気分がよくなったりするものだ。

 バンコクに到着したのは夕方だった。
 カトマンズの空港で知り合ったアメリカ人はタイに一泊しかしないが、にぎやかになりすぎて足が遠のいていたカオサンロードを9年ぶりに見たいというので、彼とタクシーをシェアした。しかし彼が選んだのはカオサンでも比較的きれい目の、白人のリゾート客が集まりそうなホテルで、僕は彼と別れてチカさんと待ち合わせをしている安宿へと向かった。
 約束より4時間遅れ。彼女は宿のロビーで、テーブルに象印のビール瓶を二本並べて待っていた。偶然再会した友達としばらく飲んでいたらしい。僕を見ると、彼女は赤ら顔で「にへらー」と笑い、「遅いやんか」と言った。

 宿に荷物を置くと、僕は1月にもお世話になった、もはやバンコク在住の多田君に電話をしてみた。すると、彼は普段寄りつかないカオサンロードで、この日ばかりは珍しい人と飲んでいるという。ちょうどいいので、そのまま合流することにした。
 ネオン眩しいカオサンロードの入口で多田君と待ち合わせて、一軒のビア・バーに連れて行かれると、そこで僕たちを待っていたのはクロさんだった。一年二ヶ月ぶりの再会である。

 クロさんと初めて会ったのは、多田君がアルバイトをしていたギリシャの宿だった。彼は38歳、長年勤めていたコンピューター会社を辞め、自転車で世界旅行している途中だった。大きい目が特徴で、「ウインク・キラー」というゲームを宿のみんなに紹介し、2002年の正月を僕と一緒に過ごしたのだ。
 クロさんはその後、かなり年下のインドネシア人の彼女が出来たと聞いていたが、果たしてそれは真実であり、その夜も彼女は近くのホテルで彼氏の帰りを待っているという。
 そう聞いてしまうと、もう落ち着いて飲んではいられない。ビールを2杯ほど飲んで適当に昔話をしたあと、僕たちは住所不定・無職・中年の三重苦を選んだ物好きな娘を見に、クロさんの部屋へと向かった。

 バックパッカーにしては豪勢な、エアコン付きの部屋でテレビを見ていたのは、意外にも純朴そうな娘だった。20歳というから、今年39歳のクロさんの約半分だ。これはもう立派な国際犯罪で、インターポールの銭形の出番である。多田君と3人で写真を撮ると、多田君と彼女がカップルで、クロさんは親戚のおじさんにしか見えない。
 だけど二人はラブラブだった。片言の英語とジェスチャーを組み合わせ、僕たちのことを伝えているクロさんと、それを一生懸命聞いている彼女を見ると、もうごちそうさま、という気分になってしまう。

 日本人の中年男性と若いアジア人女性のカップルというと、どうしても金銭とか物品とか、そんなものが二人の間に介在しているのではないか、と邪推してしまう。だからクロさんに年下の彼女が出来たと聞いたとき、僕は色香に騙されているんではないかと、ちょっと心配だった。しかし、実際の彼女はとても人を騙すようには見えない。
 クロさんはこの恋愛に関して、山よりも高く本気である。インドネシアの彼女の家族にも挨拶に行ったし、逆に彼女を連れて帰り、青森の実家にも紹介している。ただ、どうしても偏見はあるようで、例えば彼女と一緒に帰国するだけで面倒なハードルをいくつも越えなければならない。

 まず、インドネシアの日本大使館に行って彼女のビザを申請するのだが、クロさん自身が保証人になってもなかなか信用はされない。出稼ぎ目的のアジア人女性と偽装結婚をして連れて帰る、「その筋」のブローカーが多いためだ。
 大使館員に根気よく説明し、ようやくビザがおりても、それと入国時の審査は話が別。今度は成田空港の入管で彼女と引きはがされ、それぞれ長時間の取調べが待っている。そして二人の言っている事に矛盾がなく、話のつじつまが合うと、ようやく開放されて日本入国となるのだ。
 連れて帰るだけでこんな騒ぎなのだから、この先結婚したり一緒に生活するとなると、もっと大変なこともあるだろう。だけどクロさんなら乗り越えていけると思う。
 クロさん、がんばって彼女を幸せにしてあげてね。

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 さて、その次の日。僕とチカさんは日本行きの航空券を買うため、カオサンロードを歩き回った。
 しかし、僕たちの前に大きな障害が立ち塞がる。今は春休みの真っ只中、学生旅行のシーズンなのである。しかも安くて近くて安全なタイは特に人気があり、カオサンロードでは茶髪の日本人学生が日本人のコギャルをナンパするという光景まで見られ、「カオサン=渋谷化現象」が確実に進行しているのである。僕は密かにマルキュー(109)が進出するのではないか、とにらんでいるくらいだ。

 脱線ついでに、カオサンロードの近況。いつもどおり、カオサンの一本南の路地(「出会いの広場」のあるところ)を歩いていると、妙に空が広くてすっきりとしている。「何かヘンだな?」と思っていたら、その理由がやがて分かった。南側に並んでいた民家がすべて取り壊され、更地になっているのだ。
 僕は多田君の言葉を思い出した。今、カオサン界隈は観光客の増加に伴ってバブル一色であり、地上げが横行しているという。そういえば長年旅行者に親しまれてきた「レックさんラーメン」も移転を余儀なくされた。日本経済の不況や旅行業界の停滞など、どこ吹く風。タイは今、外国人旅行者満員御礼大感謝祭ドンドンバンバン!なのである。

 さて、それがどう関係するのかというと、早い話が日本への帰国便、それも安い航空会社は軒並み満席、という状態なのだ。これが4月の下旬ともなると話は違うのだが、4月12日にごり君が結婚式を挙げ、僕がその披露宴の司会という大役を仰せつかっているので、その一週間前には帰りたい。しかし、その時期はまさに新学期にあわせて帰る学生たちの帰国ラッシュなのだ。
 そこで僕たちはどうしたか。高い航空会社やビジネスクラスなど論外である。逆境を楽しんでこそ優れた旅人、僕たちは日本行きのチケットが取れないのを言い訳にして、韓国に飛ぶチケットを買った。同じ時期でもソウル便はガラガラ、そこを経由してフェリーに乗れば、ピーク時でも帰国できるのである。

 しかし帰国の「手段」であるはずなのに、韓国行きが決まるとウキウキして、いつのまにか「目的」になってしまう。思えば韓国は初めてである。焼肉もビビンバもキムチもチゲもユッケも僕たちを迎えてくれるだろう。チマチョゴリの美女も待っているだろう。それに、おお!韓国といえば、あの「のんべえ宗の」さんがいるではないか!(詳しくは後述)
 僕とチカさんは二人とも長い旅の終盤にかかっており、これから帰国・再就職という現実に直面しなければならない。しかし僕たちはカオサンロードの古本屋で「地球の歩き方・ソウル」を買い求め、往生際悪く韓国観光の計画を練るのだった。
 最後に訪れる韓国。それは、いわば僕たちの長い旅の断絶魔かもしれない。
 ちなみにソウル行きのチケットはベトナム航空で8560バーツ(約26000円)だった。いつもは料金が高く、オヤジの愛想の悪い事で有名な日系の旅行代理店が、このときばかりは一番安く、そして親切だった。

 さて、ソウルに飛ぶのは3月23日の夜と決まった。
 それまでの一週間、何をするかというと、やはりダイビングだろう。バンコクでダラダラ過ごすのもさえないし、いまさら北部を観光というモードでもない。
 それにチカさんはダイビングのライセンスを持っているだけでなく、それを取得したの僕と同じ、タオ島のダイビングショップ「ビッグブルー・チャバ」なのだ。

 最後のタイ。心おきなくダイビングをしておこうとカオサンの一本北、「屋台通り」にある「ビッグブルー・チャバ」のバンコク支店の門を叩くと、よく日焼けしたお兄さんは「グフフ、いい品がありますぜ、旦那」みたいな感じで僕たちにミニ・クルーズの案内をしてくれた。
 今年から始まった企画らしく、全長30メートルのクルーザーに2泊、7本のダイブと食事がついて9800バーツ(約3万円)。タオ島に滞在して同じ本数を潜るよりは割高だが、船でないとアプローチできないポイントが体験できるという。

 僕は正直迷ったが、チカさんはタオ島だけでもう30本も潜っており、別のポイントに行けるのならクルーズの方がいいと言った。そんなわけで僕たちは週に一回というそのクルーズの、次回の分に申し込んだ。
 船がタオ島を出るのは3月17日の夜。申し込んだのが15日だから、2日後である。
 僕たちは3月16日の昼間をワールド・トレード・センターで過ごし、その夜のバスで島に向かった。そして3月17日の朝、約一年ぶりにタオの地を踏んだのである。

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 「ビッグブルー・チャバ」のスタッフのみなさんは、僕のこともチカさんのこともよく覚えてくれていた。しかし、なんでこの二人が一緒にいるのか、とても不思議そうである。僕が去年ここを訪れたときには松井史織と一緒だったし・・・。
 そしてこの旅行中インドとネパールで会い、その後一足先にタオ島に来ていたケースケ君とも再会した。もとを正せば彼とは一年前、このダイビングショップで知り合っているのである。彼もミニ・クルーズに申し込んでおり、「そのうち一緒に潜りましょうヨ」と言っていた口約束はまさに実行されようとしていた。

 しかし船出は夜である。それまで時間があるので、僕は「リフレッシャー・ダイブ」というので一本潜っておくことにした。最後に潜ったのが去年の4月なので、念のために基本的な潜り方を復習するコースに申し込んだのである。なにせ、身の安全に関わることだから・・・。
 と思ったら、やはりまったく問題はなく、ダイビング・ガイドのお姉さんからもお褒めの言葉をいただいた。そしてマスクが外れたときの対処や、レギュレーターをくわえ直すなどの課題をこなした後、エアーが切れるまで浅瀬で70分もファン・ダイブを楽しんだ。僕はエア切れが早い方なので、浅瀬といえど70分も潜っていられたのは大きな自信になった。
 なにせ昨年の春、エジプトで潜った時はまわりの足を引っ張ってばかりいたから・・・。

 そして3月17日の夜、予定時間を大幅に遅れて「カバナMVT号」は満月に照らされた港を後にした。
 できたばかりのピカピカの大型クルーザーに、客とスタッフあわせてわずか16人。船内は寒いくらいにエアコンが効いていて、船室も個室である。そして深夜だというのに、デッキではおかゆが待っていた。食事は食べきれないほど出てくるという噂だったが、どうやら本当のようだ。

 翌朝は6時半起床。船はタオ島とパンガン島の間にぽっかりと浮かぶ、「セイル・ロック」という岩の横に停泊していた。
 この時間だと、日帰りのボートもまだ来ていない。大物が出るというポイントを貸切り・・・だったのだが、残念ながら海の状態がよくない。浮遊するプランクトンが多すぎて、視界は2メートル程度。右耳も痛いし、記念すべきクルーズの第一本目はまずまず、といった感じだった。レンタルしたウェットスーツが新しくて浮力が強く、安全停止もできないままプカーッと浮上してしまったし。

 船にあがると、さっきパンを食べたばかりなのに、また朝食が用意されている。それもハート型の目玉焼きだ。「ビッグブルー・チャバ」関係者の間では、この船は「浮かぶ養豚場」と呼ばれていて、わずか2泊だというのに太って帰ってくる人が続出だという。「潜って太ろうキャンペーン」実施中なのである。

 そして朝のうちに同じポイントで2本目。「セイル・ロック」に沿って海中を時計回り。
 巨大なバラクーダ(オニカマス)に見とれているうちに、後ろから来ているはずのチカさんを見失った。あれ?と見回すと、はるか上空(上水?)を逃げるようにして泳いでいく彼女の姿が見えた。一緒、「トチ狂ったのか?」と思ったが、ダイビング・ガイドのアスカさんが俺にも「逃げろ!逃げろ!」と合図する。彼女の方をみると、足元に60センチはありそうな太っちょの魚がまとわりついている。みかけのわりにすばやく、アスカさんの黄色いフィンに執拗な攻撃をくわえている。

 それは「トリガー・フィッシュ」と呼ばれ、タイの海でもよく見られる、ナワバリ意識の強いどう猛な魚だった。トリガーフィッシュを見つけた場合、銃の引き金を引く仕草をして「トリガーがいるぞ!」と他の人に知らせるのだ。
 アスカさんがフィンであしらってくれている間に、僕も浮上した。チカさんはすでに船上で手当てを受けている。彼女は背後から迫ってきたトリガーに、いきなり太ももを噛まれてしまったのだ。

 軽く出血し、きっちり歯型がついてしまったが、樹脂製のフィンを噛み千切ってしまうほどのアゴだから、それくらいで済んでむしろラッキーだった。
 トリガーフィッシュは自分のナワバリに入ってきたヨソモノが大キライであるが、この日は一本目のダイブで、他のグループが同じ魚を挑発して遊んでいたらしい。普段以上にイライラしていたところを、何も知らぬチカさんが偶然通り(泳ぎ?)かかってしまったのだ。

 二本目が終わってすぐに昼食。そして船はアントン諸島国立海洋公園へと向かった。
 さて、観光大国タイではリゾート地には事欠かないが、中でもピーピー島はあのレオ様主演の映画「ザ・ビーチ」のロケが行われたことで有名で、この世の楽園として人気が高い。
 しかし、映画の原作となった本では、このアントン諸島が舞台となっているのだ。エメラルド色の浅瀬に無数の島々が浮かび、国立公園として管理されているから、ときおり姿を現す純白のビーチには誰もいない。海流がないために水の透明度は悪く、ダイビングには向かないが、ここで見られる景色はまさに楽園そのものだ。
 船から唯一上陸できる浜までシュノーケルで泳ぎ、その上の岩場に設けられた展望台に上ると、このような↓景色が見られた。写真はスクロールしますが、ちなみに一番右の緑色の水面は湖であり、海ではありません。島に囲まれた湖なのです。


 しばらく陸や船の上で過ごし、体内に溜まった窒素が抜けたところで3本目。海洋公園にある「トゥンクー・ノーイ」と「トゥンクー・ヤーイ」のふたご岩がポイント。青い斑点のきれいなエイが見られて満足。
 そして夜、怒涛の4本目はトーチ片手のナイト・ダイブ。満月の灯りは水中までそそぎ、手で水をかくたびに夜光虫がキラキラと光る。昼間はなかなか見られないエビやカニに光をあてると、「あっやめろ。まぶしいまぶしい」と、逃げていくのがかわいい。
 紫色のイソギンチャクみたいなものがゆらゆらと泳いでいたが、あとで聞くとウミシダという生き物らしい。真っ暗な水中でそんなものをみると、まるで宇宙にいるみたいな気分で、とても同じ星の仲間とは思えない。陸上と水中の世界は、こうもかけ離れているのだ。
 考えてみればほんの一週間前、僕たちはヒマラヤ山脈に抱かれた標高3300メートルの村にいた。それが今、南太平洋の海の底にいるんだから、なんて贅沢なのだろう。

 さすがに一日4本も潜るとグッタリで、夕食後はトランプ大会を計画していたが、みんな崩れるようにして眠ってしまった。
 そして翌朝も6時半起床。船はタオ島の沖に戻っており、大物が見られる定番のポイント「チュンポン・ピナクル」にいた。前日の疲れがまったく取れていなく、そのまま船で寝ていようかとも思ったけど、重い腰を上げて潜ったら大正解。
 タオ島周辺は普段それほど透明度はよくないが、この日は30メートル先まで見える絶好のコンディション。しかも早朝なだけに他の船も来ていなく、僕たちだけの貸切状態。バラクーダの群れは洗濯機のようにグルグルと回り、ツバメウオの群れは軽やかに舞い、1メートルを優に超すヤイトハタは岩の上で巨体を休めていた。今までの中で、文句なしのベスト・ダイブだった。

 2本目も同じポイントだったが、残念ながらそれまでの間に水は濁ってしまった。朝一番の美しさは、偶然がいくつも重なった幸運の産物であるらしい。
 そして昼食を挟み、ミニ・クルーズ最後のダイブは、より島に近い「ホワイト・ロック」にて。ケースケ君が岩場のトリガーフィッシュをからかって遊んでいた。はじめからいると分かっていて、そして行動パターンが分かっていれば、それほど恐れなくてもすむ。
 50分ほどたっぷりと潜って、南国のダイビングを締めくくった。本当はクルーズが終わったあとも潜りたかったのだが、耳の調子があまり良くないので大事をとることにしたのだ。

 午後に下船。それぞれ用意された宿にチェックインし、一息ついてから「ビッグブルー・チャバ」に再集合。船上や水中で撮ったデジタル写真の上映会が行われ、そのあとは裏にある日本食屋「ひで食堂」で打ち上げが行われた。
 今回の参加者の中に、30代半ばのサラリーマンの人がいた。とても酒好きな人で、僕たちは午前1時ごろまで彼にごちそうになってしまった。その人と帰る方向が一緒だったケースケ君によると、彼は酔っ払ってビーチで寝ていた犬に一時間ほど説教をしていたという・・・。

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 3月20日は島のコテージで一日ゆっくりと。本当は日記を打つはずだったのに、ダイビングの疲れで集中できない。耳の調子もよくないし、腹も痛い。だるいだるい、ウエー、と、結局一日ゴロゴロとしてしまった。こんなことなら、最初からパソコンなんか開かないで海で遊んでいれば良かった。

 翌21日の朝、島を後にしてバンコクに戻る。タオ島からスピードボートに乗って本土に渡り、そこから延々とバスで北上するのだが、隣に座った白人の中年男性が妙に汗臭くて気分が悪くなった。彼が体を動かすたびに、ワキの下のようなニオイがムッとしてくるのだ。我慢に我慢を重ねてようやくバンコクに着くが、バスはカオサンロードまでは行ってくれず、結局おろされたバスターミナルからタクシーを使うことになった。
 疲れきってカオサンロードに戻ってきた僕たちは、クロさんと彼女が泊まっていたエアコンつきのホテルにチェックインした。僕たちが普段選ぶような宿の2倍はするが、まっさらな白いシーツにエアコンからの冷たい風。ベッドに寝転ぶと、あまりの気持ち良さに思わずニヤニヤしてしまった。
 思えば子供のころ、風呂上りに布団に入ると気持ちよくてニヤニヤしたもんだ。それを感じなくなったのは、いつごろからだろう?

 3月22日、タイ最後の日。チカさんは買い物に行ったが、僕はクーラーが効いた部屋で日記打ち。
  夕方に多田君と待ち合わせて食事。カオサンにある日本食屋に行ったが、ここの店主の笑顔がいつも気になる。通りでよくビラを配っているのだが、「よろしくお願いします」といって渡すその笑顔は、一見満面なのだが、よく見ると目が笑っていない。頬の筋肉で無理やり笑顔を作っている感じなのだ。
 食事をしていても、よく「お味の方はどうですか?」と聞きにくるのだが、そのときも同じ顔だ。僕は彼という人をよく知らないので何とも言えないが、あれはあれで心から笑っているのだろうか?悪い人にはとても見えないんだけどね・・・。

 そしてビリヤードをしにいった。
 ソイ・カウボーイの入り口にあるプールバーに入り、チカさんと多田君とテーブルが空くのを待っていたのだが、目の前でプレイしていた佐野元春似の日本人は、「この店は勝ち抜き制だから、待っていてもいつまでも空かないよ」と言った。
 すなわちビリヤードをしたい人はプレイしている二人の横のホワイトボードに名前を書き、勝ち残った方と次にやる。ゲームは「エイトボール」で、代金は負けた方が支払う。つまり仲間うちだけで可愛くやるのは許されず、実にハスラーチックでハードボイルドなルールなのだ。初心者としては、なかなか緊張してしまうではないか。

 佐野元春は、どうみても旅行者には見えない。かといって、駐在員にはもっと見えない。長めの髪に黒いシャツ、そしてワニだかヘビだかのブーツを履いている。僕よりちょっと年上だろうが、彼はまったく表情を変えない。もしかしたらシブく決めているつもりだろうか、左利きでキューを構える姿も真剣そのものだ。そしてカッコつけるだけあって、やはりうまい。

 彼は対戦相手の日本人を負かすと、僕たちの方に来て、あいかわらず無表情で「誰か、やる?」と言った。躊躇してしまった僕の代わりに、多田君がひょこっと立ち上がり、適当なキューを見つけてきて試合は始まった。
 多田君も下手ではない。だけど、佐野元春と普通にやったら負けるだろう、と僕は思っていた。しかし、無表情でシブく打つ佐野元春のショットは不運にも外れが続き、ビールで気分のよくなった多田君がニャハニャハ笑いながらテキトーに打つと、入ってしまう。そしてまさかの勝利。佐野元春は無表情でタバコに火をつけると、テーブルを去っていった。多田君は「俺、勝っちゃった。ワハワハ」と白い歯を見せて笑っていた。

 続いて僕が入り、多田君を負かすと、今度はチカさんの番だった。その後は背の高い白人の男の子が入ってきた。2メートル近くある彼は整った髪に銀縁のメガネをかけていて、日本なら絶対「ハカセ」とあだ名をつけられるタイプだ。まじめそうな人なのだが、動きがコミカルでかわいく、そしてよく笑う。ビリヤードはとても上手で、僕たちは全員負けてしまった。
 そんな調子で深夜までビリヤードをして、最後にゴーゴーバーに行ってタイ・ガールを眺めながら3人でビールを飲み、最後の夜を締めくくった。やはりバンコクの夜は熱くいかがわしく、そしてバカ明るくなきゃ。
 旅行中、何度となく訪れたタイだったが、今度はいつ来られるのだろうか?