サフランボルはイスタンブールから約300キロ東にある、かつてシルクロードの宿場町として栄えたところだ。周辺にサフランの花が多かったことから町の名前がつけられ、最盛期は14〜17世紀だったというが、今では18〜19世紀に建てられた古い木造の民家が残っていて、その町並みは世界遺産にも登録されている。
イスタンブールのアジア側のオトガル(バスターミナル)からバスに乗り、村上春樹の「回転木馬のデッドヒート」を読みながら約6時間揺られ、サフランボルに着く。そこから古い町並みの広がる旧市街までは2キロあるが、日の傾きかけた山間の道が気持ちいいので、そのまま歩いて行った。
やがて緑豊かな丘に囲まれた旧市街が見えてきた。上から見下ろすと、名物の木造住宅はおもちゃのようにかわいい。大きなハマムやモスクも見えるが、あのあたりが旧市街の中心、チャルシュ広場だろう。
のどかなのは風景だけではなかった。観光地にしては人がスレていなく、子どもたちは「ハローハロー」と手を振って寄ってくる。そして向こうの方から写真を撮ってくれとせがむのだ。チャルシュ広場のまわりには土産物屋や観光客向けのレストランが並ぶが、しつこい客引きはいない。
この町はあくせくせず、のんびりと散歩をしながら雰囲気を楽しむところだが、町の住民が一番そのことを知っているようだ。
適当な宿にチェックインしたのは午後6時ごろだったが、日が沈むまでにはまだまだ時間がある。僕は荷物を部屋に置き、さっそく町を歩いてみた。
サフランボルに残された家々はトルコの伝統的な建築様式にのっとって作られたというが、この時代から大きな出窓や無茶なオーバーハングが見られる。木の骨組みと土の壁という組み合わせから鉄筋コンクリートとブロックの組み合わせに時代は移行したが、地階部分より2階以上の方が大きいのは今も一緒だ。トルコは地震大国なのに・・・なんでこういうデザインにするんだろう?
しかしそんな心配をよそに、サフランボルの町並みはやはり美しい。石畳の路地を曲がるたびに、新しい家や風景が待っているのだ。
町の南側にある丘にのぼって夕陽にそまる家々を見下ろしたあと、公開されている古い民家を見学し、そして客が僕一人しかいない、とても静かな食堂に入って夕食を食べた。そして広場のベンチに座って夜の帳が下りるのを見届けたあと、地元のおじさんたちが集まるチャイハネ(喫茶店)に入り、ノートブックに日記をつけた。
最近になく、とても静かで穏やかな夜だった。
翌朝、宿にコンヤペンションで会った旅行者が来ていた。夜行バスで着いて、これから2日間滞在するのだという。しばらく話をしたあと、僕は別れを告げて宿をあとにした。そして最後にもう一度、南側の丘に登ってサフランボルの旧市街にも別れを告げ、新市街からイスタンブール行きのバスに乗った。
帰りの車中では浅田次郎の「見知らぬ妻へ」を読んで、胸がジーンと熱くなった。しかしクーラーがあまり効かない車内は胸以外も暑くなり、夕方にイスタンブールに着くころにはけっこう疲れていた。
コンヤペンションに戻ると、一晩しか離れていなかったのにもう新しい顔ぶれが並んでいた。夕食を作るのがかったるいので、夜はみんなでいつものロカンタに食べに行った。
こうして僕は、もとの怠惰な生活に戻ったのである。
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