旅の日記

トルコ編その7(2002年5月24日〜31日)

2002年5月24〜25日(金、土) サフランボル(Safranbolu)

 サフランボルはイスタンブールから約300キロ東にある、かつてシルクロードの宿場町として栄えたところだ。周辺にサフランの花が多かったことから町の名前がつけられ、最盛期は14〜17世紀だったというが、今では18〜19世紀に建てられた古い木造の民家が残っていて、その町並みは世界遺産にも登録されている。

 イスタンブールのアジア側のオトガル(バスターミナル)からバスに乗り、村上春樹の「回転木馬のデッドヒート」を読みながら約6時間揺られ、サフランボルに着く。そこから古い町並みの広がる旧市街までは2キロあるが、日の傾きかけた山間の道が気持ちいいので、そのまま歩いて行った。

 やがて緑豊かな丘に囲まれた旧市街が見えてきた。上から見下ろすと、名物の木造住宅はおもちゃのようにかわいい。大きなハマムやモスクも見えるが、あのあたりが旧市街の中心、チャルシュ広場だろう。

 のどかなのは風景だけではなかった。観光地にしては人がスレていなく、子どもたちは「ハローハロー」と手を振って寄ってくる。そして向こうの方から写真を撮ってくれとせがむのだ。チャルシュ広場のまわりには土産物屋や観光客向けのレストランが並ぶが、しつこい客引きはいない。
 この町はあくせくせず、のんびりと散歩をしながら雰囲気を楽しむところだが、町の住民が一番そのことを知っているようだ。

 適当な宿にチェックインしたのは午後6時ごろだったが、日が沈むまでにはまだまだ時間がある。僕は荷物を部屋に置き、さっそく町を歩いてみた。

 サフランボルに残された家々はトルコの伝統的な建築様式にのっとって作られたというが、この時代から大きな出窓や無茶なオーバーハングが見られる。木の骨組みと土の壁という組み合わせから鉄筋コンクリートとブロックの組み合わせに時代は移行したが、地階部分より2階以上の方が大きいのは今も一緒だ。トルコは地震大国なのに・・・なんでこういうデザインにするんだろう?
 しかしそんな心配をよそに、サフランボルの町並みはやはり美しい。石畳の路地を曲がるたびに、新しい家や風景が待っているのだ。

 町の南側にある丘にのぼって夕陽にそまる家々を見下ろしたあと、公開されている古い民家を見学し、そして客が僕一人しかいない、とても静かな食堂に入って夕食を食べた。そして広場のベンチに座って夜の帳が下りるのを見届けたあと、地元のおじさんたちが集まるチャイハネ(喫茶店)に入り、ノートブックに日記をつけた。
 最近になく、とても静かで穏やかな夜だった。

 翌朝、宿にコンヤペンションで会った旅行者が来ていた。夜行バスで着いて、これから2日間滞在するのだという。しばらく話をしたあと、僕は別れを告げて宿をあとにした。そして最後にもう一度、南側の丘に登ってサフランボルの旧市街にも別れを告げ、新市街からイスタンブール行きのバスに乗った。

 帰りの車中では浅田次郎の「見知らぬ妻へ」を読んで、胸がジーンと熱くなった。しかしクーラーがあまり効かない車内は胸以外も暑くなり、夕方にイスタンブールに着くころにはけっこう疲れていた。
 コンヤペンションに戻ると、一晩しか離れていなかったのにもう新しい顔ぶれが並んでいた。夕食を作るのがかったるいので、夜はみんなでいつものロカンタに食べに行った。
 こうして僕は、もとの怠惰な生活に戻ったのである。


2日間の走行距離           0キロ(計69027.7キロ)

出費                   1.6ML  フェリー代
     26.25ML バス代
     10ML 宿代
     0.5ML 旧家入場料
     0.5ML 公衆トイレ
     13.3ML 飲食費
計     52.15ML
(約5215円)

宿泊         Carsi Pension(24日)
         Konya Pension(25日)


2002年5月26日(日) 日土サッカー対決(Playing soccer)

 サフランボル観光もしてきたし、今日はゆっくり過ごそうと思ったのだが・・・結果的には、ここ数年で一番ハードな運動をしてしまった。
 今、コンヤペンションにはタケシ君という、それはそれはスポーツ好きの男性が宿泊している。彼はイスタンブールに何度か来たことがあり、ペンションの看板娘エリフとその家族と、とても親しい。エリフには弟がいて、彼には同年代、20歳前後の友達が何人かいるのだが、タケシ君はよく彼らとサッカーをしたりバスケットボールをして汗を流しているのだ。
 そして26日、「ワールドカップ開幕も近いし、トルコも日本も出場しているし、ここらでいっちょうサッカー対決といこうじゃないか」ということになった。僕と宿のみんなは、「それはいいではないか。トルコの若人にいざ挑まん」と足取り軽く、線路沿いにある運動場へと向かったのだった。その後に待ちうけている過酷な運命も知らず・・・。

 集まったメンバーは9人だった。トルコ人の若者が3人、日本人が5人、そしてなぜかイラン人が一人。運動場はかなり広く、その両端にゴールポストがあるのだが、この人数でフルコートのゲームをするのはちょっときつい。半面だけを使い、ゴールキーパーは一人、あとは4対4で、ボールを奪ったらセンターラインまで戻ってそこから攻撃をはじめるというルールにした。
 ゴールキーパーはどちらの側にもつかず、とにかく飛んでくるボールからゴールを守ることになるのだが、誰にいわれることもなく、ガッシリとした体格のイラン人が自然にそのポジションに収まった。
 タケシ君がトルコチームに加わり、我々日本チームは最年長の僕、元オカマバー勤務のテル君、チャリダー(自転車旅行者)のタカハシ君、そして宮古島出身のミヤコジマ君(そのまんまのニックネームなのだ)というメンバーになった。
 そして対決のホイッスルは鳴らされた。

 戦力差は明らかと思われたが、意外にも序盤戦はいい具合に競っていた。イラン人キーパーのナイスセーブに助けられたのもあり、1対1のまま、しばらく点数は動かなかった。(しかも、日本側の1点はなんと僕があげたものだった)
 そのうちに暗雲が立ち込め、雷がびかびか光り、雨が降ってきた。息のあがってきた僕は「いい潮時だ」と思ったのだが、タケシ君は「しばらく雨宿りして、どちらかが3点を取ったらハーフタイムにしよう」と気の遠くなるような発言をし、みんなも「そうしようそうしよう」と言うので、僕はちょっと泣きそうになった。

 雨が弱くなって試合は再開されたが、時間が経つにつれて普段運動している者とそうでない者のスタミナ差が明らかになってきた。僕の足は完全に止まり、肺は口から飛び出しそうな勢いだった。
 序盤はディフェンスにも力を入れていたのだが、そのうちにみんな手を抜くようになり、ポンポン点が入るようになった。トルコ側のリードでハーフタイムとなったが、そのころにはみんな雨と汗と運動場の砂でドロドロになっていた。
 後半戦は早く決着がついた。というのも正直なところ早く試合を終わらせたいという気持ちがあって、日本チームの力の入らない防御をトルコチームが軽々と突破し、我々は6対2で敗北を喫したのだった。

 ところが、キックオフから1時間半が過ぎていたにもかかわらず、トルコチームはまだまだやれる雰囲気だった。そして日本チームも疲れを通り越してナチュラル・ハイの領域に足を踏み入れており、「よっしゃ、2点先取の延長戦だ!」と、我々はヤケクソな気持ちでふたたび闘いのグラウンドに立ったのだった。
 その様子を運動場の横で雨宿りしながら見ていた女性陣は、「こいつらようやるわ」とあきれるような気持ちで見ていたという。

 延長戦は先ほどの後半戦よりいい形になった。個人技と体力で勝るトルコチームと、パスの組みたてで攻める日本チームの闘いは、両国のナショナルチームを象徴しているかのようだった。レベルはまるで違うんだけど・・・。
 結局、延長戦も2対1でトルコチームの勝ちとなった。しかし日本チームに悔いはない。持っている力を出し切り、まるでホセ・メンドーサとの試合を終えた矢吹丈のように、真っ白な灰となって燃え尽きたのだ。こんなに思いっきり走りまわり、スポーツを楽しんだのはいつぶりだろう?

 ところが、である。すがすがしい気持ちとはうらはらに、慢性的に運動不足の30歳の肉体は、2時間のサッカーですっかり音を上げてしまったのである。
 帰り道、鉄道駅の構内を抜けて宿に向かったのだが、そこの階段がまず降りられない。ヒザが笑うどころか大爆笑、座布団3枚!なのだ。ひょこひょこと、まるでオシッコを漏らした子どものような歩き方で、なんとかコンヤペンションにたどり着く僕だった。
 これは明日、全身筋肉痛になって動けないのだろうなあ・・・と思ったが、事態は僕が思うより深刻だった。


本日の走行距離            0キロ(計69027.7キロ)

出費                  4.25ML  飲食費
     1.5ML インターネット
計     5.75ML
(約575円)

宿泊         Konya Pension
インターネット    Konya Pension


2002年5月27〜29日(月〜水) ヒザの故障(Damaged knee)

 左ヒザを故障してしまったのだ。筋肉痛のうえ、足を曲げるとヒザの「お皿」に鋭い痛みが走る。おかげで歩くときも階段を登り降りするときも、左足を曲げないように引きずらなくてはならない。とても外出などできないので、27日は宮部みゆきの「魔術はささやく」を読みながら、宿で安静にしていた。
 宮部みゆきがこの本を書いて、たいそうなミステリー賞をとったとき、彼女はまだ30前だったのだ。やっぱり才能がある人は違うのう。

 一晩寝て、28日の朝にはヒザの調子はだいぶ良くなっていた。
 午後になって、2週間ほど宿に滞在していたフランス人のお調子者、ジャッキーが出て行った。僕は彼は川平慈英に似ていると思っていたのだが、みんなはトルシエ監督だという。しかし無類の女好きで、酒好きで、誰彼構わず話しかける陽気な性格であったことに変わりはない。
 彼がいなくなってコンヤペンションに静寂が訪れたが、ちょっと寂しくなった。

 そうしたら夜になって、小梅さんと得政さんがようやく帰ってきた。
 トルコ東部まで足を伸ばし、この12日間で4000キロを走ったらしい。ここを出るとき、小梅さんのXT600Eのリアタイアはすでにすり減っていたが、今では完全にツルツルだ。おまけにドライブチェーンも伸びてきて、ここに帰る途中スプロケットから外れてしまったという。

 28日は得政さんの誕生日だったので、ケーキを買ってきてみんなで祝った。そして僕はごり君と一緒にオルタキョイで買ってきたアクセサリーのプレゼントを渡したのだった。
 僕とごり君は得政紋子のファンである。だから小梅さんがすり減ったタイヤのまま雨の日に走って転倒したり、伸びきったチェーンのまま走ってそれが時速100キロで外れてスプロケットにからまって転倒したりするのを、期待しているわけではないが、そうなったら「それも運命だ。ぐひひ」と思うかもしれない。だけど敵もさる者で、ギリシャに寄ってちゃんとタイヤとチェーンを交換してから東欧を北上するというので、そんなことにはならないだろう、くそ。(いや小梅さん、冗談だってば)

 29日には日本でW杯を観戦すべく、スポーツ好きのタケシ君が宿を去っていった。
 最近、知った顔がどんどん消えて行く。そのかわり新しい人がきて、サッカー好きな人たちは「W杯をコンヤペンションで観よう!」と盛り上がっているが、ここで僕もハマってしまうと永遠にイスタンブールを離れられない。
 今週末からブルガリアでバラ祭りが行われるので、明日には出発する予定だったが・・・ヒザがまだ痛い。昨日の朝、治ったかのように思えたので調子にのってスーパーに行ったり床屋に行ったりしていたら、夜にまた痛みだしたのだ。
 これは真剣に安静にしなければと思い、29日は出発の準備もせず、ほとんど宿で過ごした。なにしろ重たいバイクだから、中途半端な足の力では支えられないのだ。 


3日間の走行距離           0キロ(計69027.7キロ)

出費                   3.5ML  インターネット
     3.25ML 床屋
     15.8ML 飲食費
計     22.55ML
(約2255円)

宿泊         Konya Pension
インターネット    Konya Pension


2002年5月30〜31日(木、金) W杯開幕(Worldcup starts)

 30日には帰ってきたばかりの小梅さんたちも出発してしまったが、僕は大事をとって出発を一日延期し、荷物の整理やバイクの整備をして過ごした。
 一通り用事が済んで、さて、やり残したことはないだろうかと考えたら、まだハマム(トルコ風呂)に行っていなかった。このままでトルコを去ってはいけないと思い、僕はテル君と2人でアヤ・ソフィアの近くのハマムへ向かったのだった。

 ハマムというのは蒸し風呂である。更衣室で服を脱ぎ、渡された腰布をまとって奥に進むと、そこは大理石でできた約10メートル四方の浴室だった。中央にやはり大理石の正方形の台があり、体の洗うための流しがそのまわりを囲んでいる。
 部屋は蒸気で満たされていて、立っているだけでも汗が出てくるが、中央の台はさらに熱っせられている。まずはその上に寝そべり、体が汗で覆われるまでじっくりと待つのだ。
 滝のような汗にまみれたころ、ケセジ(三助)さんが登場。髪の毛はうすく、口ひげをたくわえ、太鼓腹をボンボン叩くその姿は椎名誠の「イスタンブールでなまず釣り。」に出てきたおじさんそのものだ(ちなみに彼も腰布一枚である)。僕たちは別室の洗い場に連れていかれたが、彼の顔には「いっちょ可愛がってやろうか」という不敵な笑みが浮かんでいた。

 まずは一人ずつ横に寝かされ、上からシャボンの泡を落とされて全身真っ白になったあと、マッサージが始まった。しかしこれがくすぐったい上に乱暴で、「ぎゃはは、痛い。ぎゃはは、痛い」の繰り返しなのだ。だっていきなりわき腹をこすったかと思うと、今度は体重の限りをのせて背中を押し、人の体を下の大理石とサンドイッチにしたりするのだ。
 ヒーヒー騒いでいるうちにマッサージは終了。今度は泡を流すのだが、シャワーなんてハイカラなものはないからケセジさんが手桶でお湯をかけてくれる。しかし、そこでもまるで地面に水をまくようにぶっかけてくるから、何かいじめられているような気分になる。
 次に彼は特殊な手袋をはめてアカすりをしてくれるのだが、そこでも無意味に人の体をベシベシと叩き、「グフフ・・・」と勝ち誇った笑みを向けてくる。ケセジさんというのは何でこんなにテンションが高いのだろう?

 最後にまたお湯をかけられ、ケセジさんのサービスは終了。浴室に戻ってしばらく温まったあと、僕たちは更衣室に戻った。
 更衣室では頭と体に乾いたタオルを一枚ずつ巻かれ、休憩用のベッドでしばらく横になったが、火照った体に涼しい空気が気持ち良かった。
 これで約1000円ナリ。観光客の多い場所にあるからここの料金は高めだが、ハマムというのは決して安くはないのだ。この料金を払うのなら、僕はハンガリーの温泉の方が好きだ。やっぱり日本人には湯船がないと・・・。

 しかし31日、ともかく僕は心残りなく出発の朝を迎えることができたのだ。
 昨夜からの雨は上がり、朝食の焼きたてパンを食べているころは眩しい朝日が射していた。僕の門出を祝っているかのようである。
 午前9時、記念写真なんかを撮ったあと、みんなに見送られてコンヤペンションを後にする。約4週間いたことになるが、ここでの生活もいろんな出来事に満ちていた。僕は愛すべきコンヤペンションに、いつまた来られるのだろうか?

 ・・・それはわずか、20分後だった。走り出したとたん暗雲が空を多い、大粒の雨が落ちてきたのである。トルコも西の方から天候が変化するが、目指すブリガリアも西にある。コンヤペンションのある丘を下り、海沿いの大通りを西に曲がったとたん、目に入ったのは見渡す限りの黒い雲・・・だめだ、こりゃ。
 宿のみんなは不本意な帰還を果たした僕を温かく迎えてくれたが、天気はその後も人を小ばかにしたように30分おきにコロコロと変わった。青空が広がって「やっぱり出れるかな?」と思うと、すぐまた雨が降ってくるのだ。
 いつのまにか昼になり、結局今夜もここに泊ることにした。くそう、明日こそは出るぞ。

 おかげで僕は韓国で行われたW杯の開会式と開幕戦を見ることができた。
 開幕戦を飾るのは全大会の優勝国と決まっており、今回はそれがフランスなのだが、はるか格下の対戦相手セネガルに0−1で負けるという結果に終わってしまった。波乱の幕開けに、コンヤペンションのロビーも大いに沸くのだった。

 サッカー好きな宿泊者たちはトルコの地上波でどれだけ試合が中継されるか心配していたが、トルコも40数年ぶりに出場を果たしているので、日本戦を含めてほぼ全試合が見られるらしい。
 「青山さん、次は6月4日の日本代表チームの初戦っスよ!」とテル君の悪魔のささやきが気にならないわけでもないが、さすがにそこまで留まるとその後の予定が全てパーになってしまう。
 日本代表チームよ、僕の応援ぬきでもがんばってくれ!(むしろ僕が心配しているのは日本と同じ予選リーグのロシアの行く末だ。日本が決勝トーナメントに進出してロシアが敗退した場合、僕はロシアでどんな扱いを受けるのだろうか?)


2日間の走行距離         9.8キロ(計69037.5キロ)

出費                   2.5ML  インターネット
     10ML ハマム
     63ML 宿代
     7.3ML 飲食費
計     82.8ML
(約8280円)

宿泊         Konya Pension
インターネット    Konya Pension