旅の日記

ドイツ編その4〜オーストリア編(2001年9月16〜20日)

2001年9月16日(日) 村田憲治さんに会う(Meeting an extreme traveller)

 いよいよ村田さんに会う日になった。ちょうど1週間お世話になったトニーの家を出発するが、本人はいないのでお礼の置手紙をした。

 ドイツのシュトゥットガルトまでは200キロちょっと。余裕で着けると思いきや、今日も土砂降り。濡れて走るのはもう慣れたが、最近はそれに寒さが加わる。アウトバーンのサービスエリアでガタガタ震えていたら、車に乗った若いカップルがやってきて「寒いのだったら、これから友達の家に行って朝食を食べるので、一緒に来ないか」と言ってくれた。約束があるので丁重に断ったが、その言葉だけで温かくなった。

 昼過ぎにシュトゥットガルト到着。事前に場所を調べていたユースホステルにチェックインし、さっそく村田さんに電話。中央駅前のインフォメーションセンターで待ち合わせをした。
 そして約30分後、初対面した村田さんは人懐っこい笑顔の関西人だった。ニカっと笑うときにのぞく白い歯がまぶしい・・・というか、その前歯、一本ください。

 冗談はさておき、村田さんはすんごい旅人である。
 愛車SR400で日本を出て6年目。北南米を縦断後、ヨーロッパへ渡り、そこからアフリカへ南下。西アフリカ、南〜中央アフリカ(国境が開いたばかりのコンゴも走破!)と走り、そしてエジプトまで大陸を縦断。今はドイツに戻って来年のユーラシア横断に向け、日本食レストランで働いている。
 もはやメーターが無いので正確な走行距離はわからないが、15万キロには達しているはずだという。見てのとおりSRというのはオンロードバイク、しかもアフリカの前半は彼女を乗せての二人乗りだったのだ。これがすごくなくて、何がすごいの?

 そして村田さんは私より若い。学校を卒業後、1年しか資金準備をしなかったので世界各地でアルバイトをする必要があったが、それもかけがえのない旅の一部なのだ。
 私は日本で5年以上もみっちりと蓄えたので資金に困る事が無いが、悲しいかなジャパニーズサラリーマン根性も身についてしまった。(おかげで外面だけはいいです)

 また、特筆すべきなのは、彼は世界一周する気など全く無かったということ。
 「エクアドルが好きなので行ってみよう。そしてどうせ行くなら、好きなバイクで行ってみよう」が全てのはじまりだったのだ。そして南米エクアドルに着くと、「日本に帰るのなら、ヨーロッパを通って帰った方が安いのかも」とヨーロッパ行きを決意。その後もどんどんエスカレートし、「暗黒大陸」を縦横無尽に走るまでに至った。
 旅の局面ごとに大きな決断をし、そして実行する険しい道を自ら切り開いてきたのだ。心配性で、すべてのことをキチッと準備しないと恐くて前に進めないドコゾのDRライダーとは違うのだ。

 しかし、私との共通点もある。彼も細いのだ。
 体重を聞くと、私とほぼ一緒。私は将来、体の細い華奢なライダーばかりのクラブ「キャシャーンズ」を結成し、ガタイのいいライダーたちに対抗するつもりだが、ぜひ村田さんも迎え入れたい。ちなみに今のところ、東海地方の某花屋で働いているY氏、某海外ライダーご用達のホームページを作ったN氏を勝手にメンバーと認識している。イトケンやはーれーごり君は、どう逆立ちしたって入れてあげません!

 話を戻そう。
 村田さんの休日が日曜日なので、今までメールや電話で連絡をとり、今日の日に会う事を約束していたのだ。(ちなみに上記N氏のホームページで彼がシュトゥットガルトにいることは知った)

 午後は彼の部屋で、アフリカの写真や地図を見せてもらって過ごした。
 例のテロ事件のおかげでアジア横断が無理そうだと言うと、「青山さん、アフリカ帰りの俺が言います。一刻も早く、アフリカに行って下さい!」・・・太字にしてしまうほど、重みのある言葉。
 うーん・・・実は私も最近、アフリカ行きを意識しはじめてしまったのである。他のどの大陸よりもはるかに難易度が高く、しかしその分、忘れ得ぬ旅となるアフリカンツーリング。いけないいけない、と思いながらも経験者の話や写真、そして地図を見たりすると・・・淡い夢が具体化してしまうなあ。

 村田さんが休みでも彼の働く店は今日もやっているので、夜はすっかり日本食をごちそうになってしまった。おでんにお寿司、焼魚・・・約半年ぶりのジャパニーズゴチソウは舌と五臓六腑と心に染みわたった。
 貯蓄中の村田さんのために自分の分だけでも勘定を持ちたかったが、快男児の彼が申し入れを受け入れるはずも無かった。(ちなみに私は彼が酒を飲めないと知らず、一緒に飲もうと一方的にウイスキーを買って行ってしまった。結果、一人で飲む私←いいところまるでナシ)
 村田さん、本当にごちそうさまでした・・・。

 さて、村田さんに会って、いよいよ考える事となった。暗黒大陸、行くべきか、行かざるべきか・・・。(この前行ったモロッコは、アフリカに入らないでしょ!?)


本日の走行距離       230.6キロ(計64958.6キロ)

出費                 19.5SF  ガソリン
     36DM  ユース
     10DM  昼食
計     19.5
SF(1ドル=約1.7スイスフラン、約1380円)      46DM(1ドル=約2.2マルク、約2510円) 宿泊         Youth Hostel Stuttgart


2001年9月17〜18日(月、火) 苦悩のチェスキー・クルムロフ(Cesky Krumlov)

 やはりユースホステルは落ちつかない。昨夜帰るのが遅かったので、同部屋の宿泊者は全員寝ていた。電気をつけたり荷物をガサゴソするのがはばかられるので、そのままの格好で歯も磨かずに寝たのだ。

 そして朝、起きてみると、今日も空は鉛色、私の心は限りなく黒に近いブルー。とりあえずアウトバーンで3度目のチェコを目指すと、さっそく雨が降り出した。その後は数キロ進むごとに青空だったり土砂降りだったりの、まったく忙しい天気だった。

 今日の目的地はチェコのほぼ南の端、世界遺産の町チェスキー・クルムロフ。ドイツとの国境からすぐだが、初めて通るこの国境にもやはり春を売るお姉さんたちはいた。ドイツ〜チェコの国境はどこに行ってもこんな感じなのだろう。

 夕方5時ごろに到着したが、日が短くなったのと雨が降っているのとで、すでに薄暗い。乾いた部屋で早く落ち着きたいと、はーれーごり君に教えてもらったホステルに行って見るが・・・まさかの満室。
 すでに9月も後半、プラハの宿もガラガラだったし、この町でも同じだろうとタカをくくっていたのが間違いだった。他に数軒あるバックパッカー向けの安宿を当たってみるが、いずれも満室。キャンプ場もあるはずなのだが見付からず、第1、ガイドブックには8月までの営業と書いてある。
 インフォメーションセンターもすでに閉まっていた。雨はあいかわらずシトシトと降り、焦りがつのる。

 少々高いが、仕方がない。民宿調の「ペンション」をあたることにした。適当な一軒をみつけて聞いて見るが、ここも満室。なんでこんなに混んでるの??
 しかし、そのペンションのおばさんが空きがあるという知り合いのところを紹介してくれた。一人には大きすぎる、流し台つきの12畳大のダブルルーム。二泊すれば一泊750コルナにまけるというが、それって約20ドル・・・高い、高いよ。しかし何を思ったか、チェックインしてしまう私であった。トニーの家でヌクヌク過ごして、さらに軟弱になったのかもしれない。
 しかし深夜、雨はさらに激しくなった。その音を聞きながら、乾いたシーツのダブルベッドで寝る・・・うーん、やっぱり泊まって良かった。

 ペンションは朝食つきで、翌朝、ドアの外には「これでもか」という量のパンとチーズ、ハムなどが置いてあった。とても食べきれないので、余った分でサンドイッチを作って昼食にすることにした。
 そして最近では珍しく、今朝は青空が広がった。さっそく世界遺産に登録され、世界でも最も美しい町のひとつとされるチェスキー・クルムロフを歩いて見る。

 この町は、プラハも貫くヴァルタヴァ川が描いた大きなカーブの両岸に南ボヘミアの貴族によって築かれ、16世紀に最盛期を迎えたという。石畳の路地の両側にはパステルカラーの壁が迫り、オレンジ色の屋根瓦を見上げると、崖の上にそびえるチェスキー・クルムロフ城の尖塔が見下ろしている。
 はーれーごり君は見かけによらず(誠に僭越だが)、こういうかわいい町が好きだったり、けっこう芸術肌だったりするのだ。

 小さい町なので、博物館や美術館をていねいに回ったり、ボヘミアングラスを並べる土産物屋をいちいち見たりしなければ、半日あれば歩けてしまう。午前中に一回りし、部屋に戻って昼食を食べたあと、インターネットカフェに行って見た。中東情勢がやはり気になるのだ。

 相変らず、見る情報全てがアジア横断に「NO」と言っていた。アフガニスタンとパキスタンばかりか、アメリカの出方によってはイラク、イスラエルにも戦火が広がる可能性がある。

 さー、いよいよどうしよう。
 パキスタンを抜けてネパールへ行くという計画は、このままではかなりの危険が伴う上、様子を見る時間もないのだ。トルコ〜イラン国境は標高の高い峠にあり、冬になれば雪と氷に閉ざされる。本来なら今すぐにでも向かうべきなのだ。
 春まで待ち、そして情勢が落ちついたとしても、イラン以東は酷暑とモンスーンが待っている。秋にイランに入るというのは、年に一度のナイスタイミングだったのだ。情勢がどうなるかもわからないのに、丸一年待つわけにもいかない。

 かといってエジプトからアフリカを縦断するか?
 だとしたらネックはトルコ以南の中東諸国とスーダンだ。アメリカの強硬派はレバノンも空爆の標的に含めるべきだと主張しているそうだし、イラクはイラクで攻撃されれば、またイスラエルに向けてスカッドミサイルを撃つ可能性が高いという。
 中東を抜けてエジプトにたどりついても、その南のスーダンも縦断が厳しいだろう。敬虔なイスラム国家、最近通れるばかりになったというのに、情勢によっては再び 門戸を閉ざす可能性が高い。そして仮にスーダンに入れたとしても、悪路との闘いが待っている。あの重いDRでは相当の苦戦を強いられるだろう。

 本当にアフリカに行くのなら、すぐにでもトニーの所へ戻るべきなのだ。そして彼の家にDRを預かってもらい、中古の250〜600ccのオフロードバイクを買うのだ。タマ数はドイツの方が多いので、ステファン家をバイク探しの基地にしてもいい。
 パソコンなども置いておき、最低装備で行けばアフリカも恐くない。途中でバイクが壊れれば、それまでだ。

 カルネはイギリスの会社で発行してもらえるという。村田さんに教えてもらった情報では、この会社、どこの国の登録のバイクでも書類などを送り、手数料やカルネ保険料を振り込めば、すぐに発行してくれるそうだ。そして延長も電話一本でOK。いちいち面倒な手続きが必要な日本とは、大違いだ。
 ちょっと脱線するが、この会社を使えば日本のバイクでもカルネ発行が可能なはずなのだ。面倒なJAFより、格段に使い勝手がいい。これってすごい裏ワザかも。

 うーん、すごい話になってきた。もしそうするなら、ヨーロッパもいい加減寒くなってきている。善は急げ、明日にでもトニーの家に戻るべきなのだが・・・。
 このまま進むとすると、明日はオーストリアのウィーン。さて・・・・?


2日間の走行距離       547.2キロ(計65505.8キロ)

出費                   40DM  ガソリン
     3.4DM  マクドナルド
     140Kc  ガソリン
     220Kc  2日分の夕食
     100Kc  インターネット
     50Kc  絵葉書
     54Kc  切手
     1500Kc  宿2泊分
計     43.4
DM(約2370円)      2064Kc(1ドル=約38コルナ、約6520円) 宿泊         Penzion Bela
インターネット    Internet cafe


2001年9月19〜20日(水、木) 晴天のウィーン(Vienna under blue sky)

 ・・・そして夜が明けてしまった。昨夜、ベッドに入ってからも色々と考えていたら、眠れなくなってしまった。やばい、寝なきゃと思うと余計焦り、教会の鐘は無情にも三つ鳴り、四つ鳴り・・・そして空が白みはじめた。
 結局、ウトウトしはじめたのが午前6時ごろ、朝食が用意される8時半まで、もう2時間半しかなかった。

 幸い今日も晴天なり。とりあえず眠いので、150キロ北の勝手知ったるプラハまで戻り、あの快適で安いスチューデントホステルで眠って、そして考えよう。
 チェスキー・クルムロフを後にし、北に向かう国道を走った。そしてしばらく走ると、「オーストリア、右」という看板が出ていた。
 何故だかよくわからないが、私はそこで右に曲がってしまったのだ。青空と、睡眠不足のためにハイになっていたせいかもしれない。しかし、私は前に進みたくなってしまったのだ。

 アジア横断は無理だ。アフリカ縦断だって厳しい。しかし、私にはまだハンガリーやクロアチア、ギリシャやトルコなど楽しみにしていた国々があるではないか。
 アフリカ行きは、視野に入れながら走ろう。ヨーロッパを走り終わったところで南アへバイクを送り、走りやすい南〜東アフリカだけを回るという手もある。
 スーダンの悪路だって、行ってみなければわからないじゃないか。中古のバイクを買う?俺は何を考えていたんだ。今までだって、このDRで地球を半周走ってきたじゃないか。アンデスのダートだって、サハラだって、走ってきたじゃないか・・・。(サハラはラシッド君がいたから走れたのだけれど)

 とりあえず今は進もう。この先どうなるかは、その時に考えよう。ジタバタしたってはじまらないさ。

 というわけでオーストリアに入国、スイスのような牧草風景を抜けて首都ウィーンに到着した。
 大都会だが、さすがにガイドブックにも地図が詳しく載っている。インフォメーションセンターで郊外のキャンプ場を教えてもらい、テントを張ったのが午後5時ごろだった。キャンプ場はキッチンつきで(ヨーロッパでは珍しいガスコンロ!)、料金も安かった。おまけにキッチンのコンセントは自由に使っていいという。
 おかげでしばらく寝たあと夕食をつくり、そして他のキャンパーの好奇の目の中、キッチンでチキチキ日記を打つのであった。

 翌日も晴天、雲一つない真っ青な空。乾季の南米ではあたりまえだったこの空、一体いつぶりにお目にかかれたのだろうか?

 起きたのが遅かったので、ウィーン市内に出るころには昼になっていた。まずは適当なところにバイクを停め、徒歩で中心街を回ってみる。
 ヴォティーフ教会、市庁舎、王宮などと歩き、かのハプスブルグ家のコレクションを展示したウィーン美術史博物館にも行ってみた。中世絵画には正直いって興味がないのだが、ブリューゲルの「バベルの塔」の本物が見たかったのだ。

 ヨーロッパは、もうお腹いっぱいだと思っていた。教会や宮殿など、もう飽き飽きしていた。だからウィーンはあまり期待しなかったのだが、天気がいいと気分も違うようで、自分でも驚くほど街を楽しんだ。
 しかし気分が良かったのは、天気のせいだけではない。さすがにウィーン、洗練された華やかさがあり、歩いているだけでこっちもソフィスティケートされそう。

 しかし私の感性を一番くすぐったのは、ハプスブルグの宮殿でも「バベルの塔」でもなく、フンダートヴァッサーという人が19世紀末に建てた、その名も「フンダートヴァッサーハウス」だ。
 このフンダートヴァッサーさん、よくわからないのだけど建築家でもあり、前衛画家でもあったそうで、このマンションを含め、彼の建築デザインはほぼ同じ時期に活躍したアントニオ・ガウディを彷彿とさせる。
 最初は「何だよ。ガウディの方が100倍いいじゃん」と思っていたが、このマンション、目の前の通りから見上げただけでは全体像がつかめないのだ。斜め上空から撮った絵葉書の写真をみると、確かにクール!
 マンションの1階には簡単なビジターセンターがあり、彼の手がけた他の建築物の写真があったが、どれもかなりイイ。ガウディと同じぐらいイイ。

 このマンション、人がちゃんと住んでいるようで、ビジターセンターにあった写真によると内装もかなり凝っている。家賃、どれくらいなんだろう?住んで見たいっす。
 というわけで建築ファンの方、ウィーンに来たらフンダートヴァッサーハウスをお見逃しなく。
 
 ちなみにウィーン、治安はメチャクチャ良さそうだ。ピカピカのバイクがハンドルロックもせずに路上駐車されているし、私のDRの隣に停めてあった新車のスクーターはキーがついたままだった・・・あ、このスクーターをパクって、アフリカへ行こうか!?


2日間の走行距離       309.3キロ(計65815.1キロ)

出費                  278Kc  ガソリン
     100S  ガソリン
     93S  食材の買物
     108S   インターネット
     80S   博物館
     59S   マクドナルド
     20S   絵葉書
計     278Kc
(約880円)      460S (1ドル=約15シリング、約3680円) 宿泊         Camiping Wien West
インターネット    Surfland Internet