旅の日記

ロシア・サンクトペテルブルグ編(2002年7月7〜10日)

2002年7月7日(日) ロシア入国(Entering Russia)

 腕時計のアラームは午前6時にセットしていたのに、ロシアを前に興奮しているのか5時半に目が覚めてしまった。昨晩つくっておいた鶏肉と大根の煮物を食べ(本当は夕食用だったのだけど、家主から差し入れがあって今朝に持ち越したのだ)、出発したのは6時58分だった。
 こんなに早く出たのはロシア入国の手続きに時間がかかると思ったからである。2年前に同じ国境を越えた友達は、実に6時間もかかったという。夏で日は長いが、サンクトペテルブルグまで約360キロ。慣れないロシアの都市に夜に着きたくはない。

 雨ばかりだったエストニアだが、昨日かなりまとまった量の雨が降り、そのおかげで今日はカラッと晴れている。ブランキー・ジェットシティのナンバーを口ずさみながら、青空の下を気持ちよく走った。
 220キロ離れた国境の町ナルバに着いたのは午前10時。長丁場の国境越えに備えてマクドナルドで早めの昼食を食べ、余ったコインでガソリンを入れてから、いざ国境ゲートに向かった。

 ロシアの役人はきっと能面のように無愛想で、荷物の検査も厳しく、ひょっとしたらイチャモンをつけられてワイロを要求されるかもしれない。ホンジュラスの国境に挑むような覚悟でいたのだが・・・僕を待っていたのは制服姿の笑顔のおばちゃんだった。
 「○☆×!」。ロシア語なので全くわからないが、ニコニコしていて、どうやら僕を歓迎してくれているらしい。彼女から整理券のような紙切れを受けとって先に進むと、イミグレーションと税関のゲートがあった。
 イミグレーションのお姉ちゃんはあんまり愛想がなかったが、僕のパスポートとビザを見て怪しむそぶりも何も見せず、秒殺の早さで「ダ、ダン!」と入国のスタンプを押してくれた。

 税関のお兄さんに至ってはカタコトながら英語が話せ、英語の税関申告書を持って待っていてくれた。
 ロシアに入国する場合、持ち込む外貨や貴重品を用紙にリストアップして税関に申告しなければいけない。ロシアは入国のときより出国の方がチェックが厳しいらしく、申告書に記入した以上の外貨や記入されていない貴重品は没収される恐れもあるという。
 お兄さんは申告書の書き方をていねいに教えてくれ、僕は米ドルやユーロ、パソコンやカメラ類を持ち込む旨を用紙に書いた。

 荷物検査はなし。お兄さんは僕のバイクの書類とにらめっこをして一時輸入許可証をタイプしてくれ、ロシア入国の手続きは30分で終わってしまった。
 日曜日で車が少なかったからかもしれない。本当は日曜日で何か問題があるんじゃないか、と内心心配していたのだが・・・。

 ゲートをくぐると、すぐに保険会社の出店があった。お兄さんが小屋から出てきて、「おーい、保険に入らんといかんぞー」と走ってくるのだ。本当は入らなくてもいいらしいが、そんなに高くはないし、頻繁にあるという検問でも印象が違うだろうと思い、勢いあまって3ヵ月分入っておいた。(俺もやっぱり小心者だよ、Yoggy!)

 さて、これで記念すべき60カ国目、そして一つの国としては最も長い距離を走るだろうロシアに入国。とりあえず最初の目的地サンクトペテルブルグを目指して、そのまま東へ進んだ。
 ロシアに入って舗装が荒れてきたが、それでも気になるほどではない。タリンとサンクトペテルブルグを結ぶ幹線道路は交通量も多いから、きっとよく整備されている方なのだろう。道の脇は針葉樹林か、のどかな村。サンクトペテルブルグまでの140キロであまり大きな町はない。

 すたれた感じがしてきたのは、サンクトペテルブルグの郊外に差しかかってからだった。共産主義の象徴のような巨大な団地の壁は落書きだらけで、路肩には汚水や油、ゴミがたまっている。広場には悪そうな若者がたむろしていて、僕はルーマニアのブカレストに雰囲気が似ていると思った。
 しかし、街に入っていくにつれて趣きのある古い建物が並ぶようになり、雰囲気もだいぶましになった。人口500万人のサンクトペテルブルグは思ったより大きな都市で、行けども行けども中心街に着かない。ひょっとしたら通り越して街の反対側に来てしまったのではないかと心配したころ、いきなり巨大なイサク神殿の前に出た。

 目指す「ホステル・ホリディ」は街を東西に横切るネヴァ川のほとりにあり、街の中心にさえ出れば簡単に見つかる。着いたのは午後2時ごろ、国境越えも楽だったし、「順調順調!」と思っていたら、ここからちょっとした問題があった。
 同ホステルにはエストニアからメールで問い合わせて、「うちにはbackyard(裏庭)があるので、そこにバイクを停められます」という返事をもらっていた。しかしいざ行って見ると、彼らが「backyard」というは単なる裏通りのことで、囲いも何もない。しかもホステルの裏は刑務所。夜な夜な受刑者に向かって愛を叫ぶ家族や恋人が立つ通りに、バイクを路駐しろというのだ。

 ホステルの言い分は、「バイクを停められるspace(場所、空間)というから、ある、と答えただけ。裏の通りにも表の通りにも、バイクを停められるspaceはたくさんあります」
 「そんなこと言ったら、世界中のホステルが駐車場完備ってことになるぞ!」「・・・そうかもしれませんね」
 他の宿に行こうと思っても僕はエストニアで3泊分前払いしてあり、それは戻ってこないという。24時間営業のパーキングに入れるにしても、その分の料金はもちろん別になる。
 結局「ガソリン臭いから嫌だ」とか言われながらも、建物の中のホールに入れさせてもらった。この建物のドアがまた意味不明で、両開きなのだが、片側が床に釘づけされている。僕はバイク用の工具を持ち出して釘を抜かなければならなかった。

 やれやれ、しかしこんなことで驚いていてはロシア横断は果たせない。とりあえずサンクトペテルブルグ到着の旨を知らせようと、ヴィルニュスで会った小林さんに電話をかけてみるが、これもまた一苦労だった。
 テレホンカードを地下鉄の駅で買ってきたのだが、公衆電話は何種類もあるみたいで、ホステルの電話では使えなかった。フロントのお姉さんは「こんなカード見たことない。きっとモスクワ専用だわ」(おいおい)。
 駅まで戻って使える電話を見つけたのだが、受話器の向こうの小林さんの声は聞こえても、こっちの声が通じない。きっと故障しているのだと思い、苦労して別の電話を見つけるが、結果は同じ。よく見ると英語の説明が貼ってあり、「電話が繋がったあと、話す場合は会話ボタンを押してください」。
 何じゃそりゃ!話すに決まってんだろ!電話だぞ、電話。それとも何かい?ロシア人てのは時報や天気予報やQ2ダイヤルやリカちゃんダイヤルばっかり聞くってのか?
 「会話ボタン」を押し、「もしもし、青山ですけど」と僕は言った。すると小林さん曰く、「無言電話ばっかりかかってくるから怖かった・・・」

 とりあえず明日の午後に会う約束をして、僕はホステルに帰った。
 朝5時半起きではさすがに眠く、僕は早めに寝ることにしたが、夏のサンクトペテルブルグは蚊が多く、耳元の羽音に何回も起こされた。エストアニアよりさらに1時間進んでいるから、夜11時でも日本の夕方ぐらいの明るさだし、慣れないと安眠がなかなかとれないのだ。


本日の走行距離        約380キロ(計73866キロ)

出費                  172eek  ガソリン
     40eek マクドナルド
     957P 3ヵ月の自動車保険
     72P テレホンカード
     44P ビール、ケバブ
計     212eek
(約1640円)
     1073P(1ドル=約31.5ルーブル、約4080円)
宿泊         ホステル・ホリディ


2002年7月8日(月) 小林さんとゲイリーに会う(Meeting a couple)

 約束の時間は午後なので、それまで観光をすることにした。
 サンクトペテルブルグ最大の見所であるエルミタージュ美術館は月曜日が休館なので、今日はそれ以外を見て回ることにする。しかし、ネヴァ川を渡って見所の集中するネフスキー通りに向かう前に、僕は「ホテル・ネヴァ」に寄ってビザの登録を行った。
 ロシアを旅行する者はビザを取得するだけでなく、原則として入国して72時間以内にそのビザを「登録」する手続きを取らなくてはならない。わがホステルではその手続きができないので、大枚をはたいて近くの「ネヴァ」でやってもらうしかないのだ。本当は僕の招待状を発行したモスクワの会社に行けばタダでできるのだが、72時間以内にそこまでは行けない。

 その後も一ヵ所に72時間以上滞在する場合、新たにその場所で登録をする必要があるらしいが、どうもこのあたりがはっきりしない。ちゃんとやっていても悪徳警官にタカられる場合もあるし、「いや、そんなチェック全くなかったですよ」という人もいる。要は運で、その後は金である。小林さんも言ってたっけ、ロシアの基本は「Its all about money」だって。

 ビザの登録を行ったあと、ガウディの建築みたいにポップなスパス・ナ・クラヴィー聖堂を見た。外観はなかなかナイスである。しかしサンクトペテルブルグの観光名所のほとんどがそうであるように、入場料金は外国人とロシア人で数倍〜10倍の差がある。
 日本人といっても、一つの教会を見るたびに7ドルも8ドルも払っていられない。中に入るのはやめにして、サンクトペテルブルグの目抜き通り、ネフスキー通りに出てみた。

 通りの両脇には西側資本の店が並び、しばらく行くと巨大なデパートがあった。デパートというより小売店がたくさん入っている市場のような感じなのだが、品揃えは豊富で何でもあるという印象がある。モスクワとサンクトペテルブルグは特殊で、地方と比べるとかなり経済格差があるらしいが、やっぱり僕なんかはロシアというと雪の中、列をなして配給物資を待つ人々のイメージがあるから、これは驚きである。

 デパートを冷やかしていると急に雨が降ってきた。傘を取りに地下鉄に乗ってホステルに戻ったが、この地下鉄がまた楽しかった。
 モスクワやサンクトペテルブルグの地下鉄はかなりの歴史があり、駅にも趣きがある。そしてかなり深く掘られているからエスカレーターは200メートル以上あり、そして速い。バランスに気をつけないと、乗った瞬間後ろにひっくり返りそうになるのだ。

 傘を持って中心街に引き返し、待ち合わせ場所のホテル・ヨーロッパで小林さんとドイツ人の彼氏、ゲイリーと会った。
 とりあえず近くのカフェで食事をしながら、いろんな話をした。二人ともロシア語の学校に通っているが、ゲイリーはドイツの学校を出てすぐに来たから、かなり若い。ひげの風貌や控えめな態度などニュルンベルグのステファンに感じが似ていると思ったが、ゲイリーは打ち解けてくるとコロコロとよく笑う。リアクションがいい分、こっちもいじりがいがあるというもので、僕はあいかわらずしょーもないことをベラベラとしゃべるのだった。

 食事のあと、地下鉄に乗って小林さんのアパートに行った。
 家族と話す用事があるらしく、ゲイリーがドイツに電話をしたのだが、何回かけても話中でつながらない。「きっと君の家族は君を必要としていないのだ。君はステゴだ、ステゴ」と、最近日本語も勉強しはじめたというゲイリーに、新たな単語を教えてあげる僕だった。

 2人ともあと1年ぐらいはサンクトペテルブルグで過ごす予定らしいが、ロシアの生活に若干疲れてきているらしい。電気や水はいきなり止まるし、止まっても誰も怒らない。そんなことは当たり前のようなのだ。
 そんな話を聞きながら、僕は酒を飲まないゲイリーの分までぐいぐいとビールを飲んだ。彼はうどんが好きだというので僕がハンガリーで買った中国製インチキうどん「青田面」をあげ、その代わりに小林さんは最近日本から送られてきたという煎餅を僕にくれた。
 あっというまに時間は過ぎ、夕方のような陽射しの中をホステルに帰ったのは午後11時過ぎだった。構えていたロシアだが、今のところ危険な感じもしないし、部屋の蚊を別にすれば至って快適である。


本日の走行距離            0キロ(計73866キロ)

出費                    620P  ビザ登録代
     36P 地下鉄
     292P 飲食費
計     948P
(約3610円)
宿泊         ホステル・ホリディ


2002年7月9日(火) エルミタージュ国立美術館(The Hermitage)

 本日のメイン・イベントは何といってもエルミタージュ国立美術館だが、その前にネヴァ川の反対側、兎島にあるペテロパブロフスク要塞なんかを見ながら歩いていったら、結局午後になってしまった。
 観光シーズン真っ只中で、夏で日も長いというのに美術館の会館時間は午後5時半までと短い。僕が入った午後1時ごろは昼食を終え、午後をたっぷり美術館で過ごそうという人たちの入場ラッシュで、切符を手に入れるのに30分も並ばなければならなかった。
 当然ここでも外国人料金が設定されており、その金額は300ルーブル(約1150円)。しかし国際学生証を見せると無料になった。これはかなり嬉しい。

 さて、サンクトペテルブルグ、いやロシアが世界に誇るエルミタージュは、フランスのルーブルやスペインのプラドに勝るとも劣らない、世界最大級、最高級のコレクションを有する美術館だ。帝政ロシアの歴代ツァーリ(王)が権力にものをいわせてかき集めた絵画や美術品の点数は300万点を超え、美術館が国営になった今でも増えているという。そして、それらはかつて宮殿だった豪華絢爛な建物に収められているのだ。

 ルーブルでよく言われる「展示を一つ一つ見ていたら一生かかる」という逸話はエルミタージュにもあり、とてもていねいに見る気にならない。とりあえず有名どころだけに絞ることにした。

 レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、レンブラントから近代のピカソ、マチス、ゴーギャンと簡単に流したが、それだけでも広大な館内を歩き回り、3時間とかなりの体力を費やした。

 見終わった正直な感想は、「はー、ノルマが終わった」。やっぱりサンクトペテルブルグに来たらエルミタージュを見なきゃ、という義務感が先行し、絵画にまったくといっていいほど興味のない僕は観光のノルマを果たしたという達成感しかない。特に中世の宗教画なんかを見せられると、とても陰鬱な気分になってしまうのだ。
 そういえばルーブルにもプラドにも大した思い出がない。絵画ファンが聞いたら発狂するだろうな・・・。

 美術館を出たあとは、小林さんに教えてもらった「ジャパン・センター」というのに行ってみた。なんでも例の鈴木宗夫議員(例の、とか書いたけど、僕は日本にいないのでこの人のことをイマイチよく知らない)が日露の文化交流のために設立した機関らしいが、とりあえず邦人留学生の間ではタダで日本語のインターネットができて、日本の新聞や本、雑誌が読める便利なところとして知られている。
 日本語の上手なロシア人のお姉さんにパソコンの使い方を教えてもらい、メールの送受信を行った。ただし持ち込みのフロッピーは使用不可とのことなので、HPの更新はできなかった。

 パソコンの置いてある図書室は調べものをする留学生でいっぱいだった。話すときもみんなヒソヒソ声で、かなりシリアスな空気に満ちている。まるで受験シーズンの図書館のような雰囲気で、ロシアにいることをしばし忘れてしまった。サンクトペテルブルグの留学生たち・・・同じ日本人でも、バックパッカーとは表情も雰囲気もまるで違うなあ。とても話しかけられる感じがしないのだ。

 さて、本当は明日の朝に出発つもりだったが、この三日間かなり動きまわったので疲れてしまった。日記も打ちたいので、明日の夜も泊まる事にして宿に帰ってもう一泊分を支払った。
 その夜、何気なく玄関ホールに停めてあるバイクを見に行くと、サイドスタンドがはらわれて横倒しになっていた。床は固いタイルで傾斜はまったくなく、前輪のすぐ前は壁。誰かがいじらなければ自然に倒れるはずがないのだ。しかもかけてあったカバーはそのまま。つまりバイクに興味があって触っているうちに倒れてしまったというのではなく、誰かが倒したくて倒した、という感じがプンプンするのだ。
 しかし、こんなことでいちいち腹を立てていたらロシア横断は果たせない。同室のフランス人おじさんに手伝ってもらい、バイクを起こす僕だった。(もう何が起きても「ロシアだから」で納得してしまいそうな気がする)


本日の走行距離            0キロ(計73866キロ)

出費                     38P  クリーニング代
     416P 宿代
     105P 飲食費
計     559P
(約2130円)
宿泊         ホステル・ホリディ
インターネット    ジャパン・センター


2002年7月10日(水) イクラという名のタラコ(Supermarket in Russia)

 午前中に日記を打ち、午後からアップロードしに街に出るが、サンクトペテルブルグのインターネットカフェは妙なシステムを入れているところが多く、なかなか普通にフロッピーを使えるところがない。ウロウロしているうちに同室のフランス人おじさんに会い、彼に教えてもらったネフスキー通り沿いの店にいくと、何とかホームページを更新することができた。

 そのあと、小林さんに教えてもらった郊外のスーパーマーケットに地下鉄に乗って行ってみた。ロシアの小売店はカウンターの後ろに商品が並び、自分の手にとって選べないところが多いが、西側風のスーパーマーケットも最近増えてきているという。
 中心街のデパートも物が豊富だったし、きっと郊外のスーパーも西側資本の巨大なヤツかと思っていたら・・・すげえ、なんだこの色使い。まるで場末のラブホテルかドライブインじゃないか。規模も日本でいえば「生協」くらいのものだ。

 最近魚を食べていないなあ、さかな、サカナ・・・と魚介コーナーを見ていると、「イクラ」と書いてある缶詰を発見した。そういえばブダペストで一緒だった旅行者から教えてもらったことがある。キャビアに代表されるようにロシア人も魚の卵を食べる習慣があり、サケに限らず魚の卵は全て「イクラ」と言うらしい。日本でいうイクラも、このロシア語の「イクラ」が語源なのだ。

 適当なイクラの缶詰を買って帰ると、中身は生のタラコだった。ちょっとしょっぱかったけど、パンにのせて食べたら美味しかった。本当はスパゲティなんかにからめたらいいのだろうけど、本格的に自炊するのが面倒くさくなってしまったのだ。
 次はキャビアが食べたいなあ。しかし、本物のキャビアはロシアで買っても高いのだ。やっぱりキャビアはイランの方が安いのだろうか。


本日の走行距離            0キロ(計73866キロ)

出費                     90P  インターネット
     18P 地下鉄
     219P 飲食費
     55P 電熱湯沸し棒
計     382P
(約1450円)
宿泊         ホステル・ホリディ
インターネット    名前を控えるのを忘れた