旅の日記

リトアニア編その3(2002年6月28〜30日)

2002年6月28日(金) ロシア人と裸のつきあい(Russian Sauna)

 インターネットカフェに寄ってHPを更新してからヴィルニュスを発とうと思っていたのに、その場になって日記の中に大きな間違いがあるのに気付いた。仕方ないのでメールの送受信だけを行う。
 ヴィルニュスの郊外にはトラカイという古い煉瓦の城があり、そこを見ていこうと思っていたのに雨が降ってきたので中止。カッパを着て濡れながら観光するのは気分のいいものではないのだ。
 しかしヴィルニュス市街を抜けて50キロも走ると青空が広がった。しまった、行っておけば良かった。

 そもそも今日は急がないのである。今日の目的地はパネバジース。ヴィルニュスの東北140キロに位置する地方都市で、観光客にとっての魅力は皆無に等しい。だけど、僕にとってはかけがえのない思い出の場所なのだ。
 昨年リトアニアを訪れたとき、僕はパネバジースを拠点とするモーターサイクルクラブ「エキストリームス」の面々と出会い、みんなでパーティをして盛り上がったり、TVの生番組に出演したりしたのだ。今回も彼らに会うつもりでいたら、なんと6月29日の土曜日にパネバジースで初めての「モーターサイクルショー」(ショーというより、各地のクラブが集まる合同ミーティングのようなもの)が行われるという。そりゃ、参加しないわけにはいかないじゃないか。
 僕はダリョスというCBR1000F乗りに連絡をとり、今日、彼のもとに行くことになった。だから今日はパネバジースに着きさえすればいいのだ。

 約束の時間よりだいぶ早めに着いてしまいそうだったので、途中のパーキングで日向ぼっこをして濡れた服を乾かした。
 そして午後3時すぎ、パネバジースに着く。記憶を頼りにみんなの溜まり場であるバー「エキストリームス」に行き、そこからダリョスの携帯電話にかけてみた。

 コーヒー飲みながらしばし待つと、190センチはありそうな大男が登場。ダリョスである。
 再会を喜んだあと、彼はテーブルで食事を取っていたグループに僕を紹介した。なんでも彼らはボルボのモスクワ支店から来た出張中の人たちと、パネバジースにあるトレーラーメーカーの人たちらしい。ボルボのトレーラーヘッドとパネバジース製のトレーラーを組み合わせる商談で来ているのだ。とはいってもほとんどの人が私服で、ビールもがぶがぶ飲んでいる。仕事の方はすでに終わっているらしい。
 ダリョスの仕事はホームページの企画・デザインやCGの作成。トレーラーメーカーのプレゼン用のCGを作ったのがきっかけで彼らと知り合ったらしいのだ。つまり、このグループはダリョスのクライアントである。

 彼らに今までのことを話していると、「じゃ、俺は1時間ほど席を外すから後はよろしく」と言い残し、ダリョスは突然いなくなってしまった。おい、クライアントに俺の面倒を見させていいのか?というより、俺に接待しろってことなのか?
 まあ、きっかけは何であれ、その後もビールを飲みながらいろいろ話をしていると、「俺たちはこれからバーベキュー&ロシア式サウナと洒落込むのだ。君もどうだ?」といわれた。「ロシア式サウナ」という言葉に負け、ずうずうしくも彼らのご相伴に預かることになった。
 ちなみに後で帰ってきたダリョスは「俺は行かない」。いまさら僕も「やっぱりいいです」とは言えずに、なぜか今日会ったばかりのダリョスの顧客と裸のつきあいをすることになったのだ。

 トレーラーメーカーの重役ビクトルさんが郊外に別荘を持っており、僕たちはそこに向かった。バーベキュー&サウナなんて、いい接待だなあ。日本で接待といえば酒か女かゴルフと相場が決まっている。もっといろんな形があってもいいのに・・・。

 まずは日が落ちるまで(といっても午後10時ぐらいなのだが)、緑の芝生の上でバーベキューを楽しんだ。最初はビールを飲んでいたが、すぐにウオッカが登場。「日本でcheersはなんていうのだ?」と聞くので「カンパイ」と教えると、みんな「カンパイ!カンパイ!」と大騒ぎでグラスをあおり始めた。
 そういえば「地球の歩き方ロシア編」に書いてあったっけ。ロシア人は酒が強いから彼らのペースに合わせない方がいいと・・・。

 しかし、ロシア人ビジネスマンは酒をすすめるのが上手だ。というより、日本式だ。
 西洋のビジネスマンは人のグラスに酒を注ぐようなことはしない。日本の場合、上司や取引先のグラスを空いたままにしていると「気の利かないやつ」と思われるが、そのノリで海外に来てまでガンガン注いでいた日本人女性が「ホステスじゃないんだからやめろ」と言われた話を聞いたことがある。
 でも、ロシア人ビジネスマンは日本的である。小さなショットグラスに「おっとっと」というような感じでウオッカを注いでくる。すると、こっちも「いやー」というような感じでついつい飲んでしまう。すると、また「いやいや、お強いですな」と注いでくるのだ。

 「カンパイ!カンパイ!」「おっとっと」「いやー」「お強いですな」を繰り返すうちに、準備中だったサウナもいよいよヒート・アップ。薪でたく、ぜいたくなサウナなのだ。
 ロシア式、というのはフィンランド式に対することばで、フィンランド式は電気で加熱するタイプ、ロシア式は薪で加熱する昔ながらのサウナのことをいうそうだ。
 薪のストーブのまわりには石が積んであり、その石が熱せられてサウナ内が熱くなる。いわば石焼サウナだ。この石は温度差の小さい川底にあったもので、夏と冬の気温差が激しい陸上の石は使えないという。しかも石は消耗品で、2年おきに取り替えるらしい。

 スッポンポンになってサウナに入ったとき、温度は70度台だった。それがしばらくたつと80度を越え、だんだん苦痛になってくる。水にひたしてあった白樺の枝があったので、北欧の様子を伝えるテレビで見た通りにそれでピシャピシャ体を叩いてみたら、これがまた熱い。葉っぱについている水滴が熱湯なのだ。
 我慢ならなくなると外に出て、裏の川に飛び込む。これもテレビで見たとおりだ。川の水は冷たくて、入った瞬間意識が遠のく。心臓には悪いんだろうけど(しかも酒まで飲んで)、たいへん気持ちがいいのだ。

 最初は若い人たちだけで入っていて、葉っぱピシャピシャ、川ザブンを繰り返していたが、満を持してサウナのオーナー、ビクトルさんがガウン姿で登場。
 「日本人に本当のサウナを教えてやらねば」。その顔は、トルコのハマムのオヤジのような不敵な笑みを浮かべている。「いっちょ軽くもんでやるか」、という表情だ。
 ビクトルさんは僕をサウナ内のベンチに横にさせると、白樺の枝を両手に持ち(二刀流だ!)、それに水をたっぷりとつけて僕の背中をビチャビチャと叩きだした。背中は葉っぱで熱いし、お腹の下の木のベンチだってやけどしそうな温度だ。
 「あつっ!あつつ!」と騒いでいると、ビクトルさんは「グフフ」と笑いながら今度は葉っぱを押し付け、その上から背中を揉み出した。「これがロシアンマッサージだ!」
 「ぎゃあ!」。たまらなくなった僕はビクトルさんを押しのけ、裏の川に逃げ込んだ。世界にはいろんなマッサージがあるが、ロシアンマッサージもなかなか手ごわいのだ。ヘタしたら火傷しちゃうよ・・・。

 そんなわけで僕はロシアに入る前にロシア人と裸の付き合いをしたのだ。(正確にいうと、半分はリトアニア人なのだけど)
 午後11時ごろに別荘を後にし、僕はダリョスの家に送り届けられた。居間のソファーにシーツを敷いてもらい、その上で寝る。明日は「モーターサイクルショー」だ。


本日の走行距離        約150キロ(計72806キロ)

出費                    50Lt  ガソリン
     2.5Lt インターネット
計    
52.5Lt (約1800円)
宿泊         ダリョスの家
インターネット    UAB Fotogama


2002年6月29日(土) モーターサイクルショー(The Motorcycle Show)

 朝から携帯電話で連絡を取り合い、ダリョスは仲間と集まり出した。
 ダリョスはリトアニアでもわりと裕福な方だと思う。看護婦の奥さんと共稼ぎだが、子どもが2人、車が1台、1000ccのバイクが1台、パソコン多数、ラジコンの車/船/飛行機多数。しかし集まってきた仲間のバイクもそうそうたるものだった。ヤマハR-1、カワサキZX-10、ZXR-6R・・・みんな最新式の大型スポーツバイクである。
 リトアニアを走っているとあまりオートバイを見ないけど、あるところにはあるのだ。

 「ショー」は町外れの広場から始まるというのでみんなで行ってみると、すでに100台以上のバイクが集まっていた。パネバジースだけでなくリトアニア全土、遠くは隣のラトビアからも来ているという。
 「日本ではスポーツバイクとチョッパー(アメリカン)と、どっちが多いのだ?」とダリョスが聞いてきた。「ブームの波もあるけど、やっぱりスポーツタイプの方が多いかな」「・・・そうか、リトアニアはチョッパーばかりだ」
 なるほど、集まったバイクはハーレーに代表されるようなアメリカンスタイルのものばかりだ。みんな「ヘルスエンジェルス」よろしく、革ジャンの背中にクラブのロゴを背負っている。

 そこで僕は思い出した。バルト3国はほんの10年前までソ連の一部、バリバリの共産主義国家だったのだ。彼らはアメリカンバイクを楽しむと同時に、それが象徴する西側文化と自由も謳歌しているのだ。
 映画「イージー・ライダー」の台詞を思い出した。焚火を囲みながら、ジャック・ニコルソンがピーター・フォンダとデニス・ホッパーにいう。「あいつらが怖いのは君たちじゃない。君たちが象徴するものだ」
 「あいつら」、というのは保守的なアメリカ南部の白人だ。自分たちは自由だと信じていたのに、バイクで風のように旅する2人を見て、本当は違うことに気づく。それを認めるのが怖いのだ、と若き日のジャック・ニコルソンはいうのだ。
 バイクはどんどん増え、200台は超えた。一般市民も子どもを連れて見に来ている。爆音に耳を塞ぎながらも、アメリカのバイクとそれが象徴するものを歓迎しているようだ。

 広場では昨年お世話になったエルゲミウスのオヤジとも再会した。あいかわらずテンションが高かった。このショーのあと、ラトビアの友達にくっついてリガまで行くという。
 しばしお互いのバイクを誉めたたたえたあと、一団はパネバジース市内をまわるパレードに出発した。
 200台以上のバイクとなると、並走したとしても長さ500メートルほどの列になる。そんなのが一斉に走ったら信号で途切れてしまうではないか、と思うけど、答えは簡単である。信号など無視なのだ。
 赤になっても、みんなクラクションとエンジン音を響かせて直進。交差する道のドライバーも怒るどころか手を振ってくる。「第一回パネバジースモーターサイクルショー」は町をあげてのお祭り、警察も味方なのだ。

 あとでダリョスから聞いた話だけど、夜になってすっかり酔っ払ったライダーのグループが、別のバーへ行って飲みなおしたいと言い出したという。ほっといたら彼らは飲酒運転で飛ばすだろうから、なんとパトカーが彼らを先導したというのだ。イキなことするじゃないか、リトアニアの警察。

 パレードは市内の公園まで続いた。そこがメイン会場であり、ステージや露店が出ていた。しかしそこに入るにはチケットが必要で、ライダーも例外なく1ドルほどの料金を取られる。僕のチケットはダリョスが用意してくれていた。
 ステージではリトアニアのバンドがハードロックを演奏し、ときおり雨が降る中、ライダーたちはビールを飲みながらそれを見たり、談笑していた。

 ライダーの多くは女連れである。しかも、みんないい女だ。
 昨年、僕はリトアニアはめちゃくちゃに美人が多い、という印象を抱いたが、この前ヴィルニュスで思ったのは「あれ、こんなんだっけ?」。確かに去年僕が会ったのはプロのモデルやニュース・キャスターだったけど、普通の娘だってめちゃくちゃに可愛かった思い出があるのだ。

 そこで僕は気がついた。やっぱりいい女はいい男とくっつくのだ。ヴィルニュスを普通に歩いていたって、美人は確かにいるけれども、ゴロゴロしているほどではない。しかし、この会場にはいい男がたくさんいる。身長が高くて2枚目で、いいバイクに乗って(ということは金も持っている)、というのばかりだ。だからいい女もゴロゴロいる。みんな薄着で夏を謳歌していて、こっちは頭がクラクラしそうなのだ。

 そのうちに公園の隅ではゲーム大会が行われた。2台のバイクで10メートルほどの距離をどれくらい長い時間をかけて走れるか競ったり、後ろに乗った女性が水の入った大きなコンドーム(!)を高く掲げられたバーの上まで放り投げ、それを向こう側でキャッチしたりと、ラトビアのクラブが中心となってやっていた。

 宴はいつまでも続くように思われた。6月の終わりで、北海道よりもはるかに北に位置するリトアニアでは一日のうち4時間くらいしか暗くならない。まめに時計をみないと時間の間隔がおかしくなる。そろそろ飽きてきたな、と思って時計をみると、まだ夕方くらいの陽の傾きなのにもう9時だった。

 バー「エキストリームス」に寄って夕食を食べた後、僕はダリョスの家に帰った。しかし家主はまだまだ友達と会わなくてはならないと会場に戻って行った。
 少しだけ日記をうち、居間のソファで寝ていたが、ダリョスの帰ってくる音が聞こえたのは午前4時ごろだった。そのとき外はすでに明るかった・・・。


本日の走行距離         約50キロ(計72856キロ)

出費                  23.5Lt  飲食費
計    
23.5Lt (約805円)
宿泊         ダリョスの家


2002年6月30日(日) ラトビアに縁のない男(Passing through Latvia)

 朝方に帰ってきたわりにはダリョスは早く目覚めた。彼は酒を飲まないので、夜通し騒いでも二日酔いになるわけじゃないのだ。
 本当は今朝、ダリョスのお父さんが僕を空の旅に連れていってくれるはずだった。彼のお父さんは地元の飛行機クラブのメンバーで、日曜ともなれば軽飛行機やグライダーで大空を楽しんでいるのだ。
 しかし団地の7階から見えたのは地平線までまっ黒な空だった。飛行は中止、僕はパネバジースを出発することにした。

 「この天気で本当に出発するの?」とダリョスは聞いてきたが、彼の家は子どもが2人いて、奥さんも夜勤の看護婦で忙しい。いつまでもずうすうしく居られる雰囲気ではないし、はやくエストニアまで行ってロシアに入る準備もしたい。
 だいたいバルト3国の天気なんて変わりやすくて、朝晴れていてもあてにはならない。ちょっと走れば大雨になったり、その逆にいきなり青空になったりするのだ。

 ダリョスのお父さんのクラブに寄って飛行機やグライダーを見せてもらったあと、僕はパネバジースを後にした。
 ダリョスは英語があまり上手でないので、次にどうするつもりなのか段取りがイマイチつかめないところがある。「十字架の丘に寄ってからラトビアに行く」と僕が言ったら、「そしたら俺も行く」みたいなことを言ったので、てっきり一緒に行くのかと思っていた。しかし、町外れまで行くと路肩にバイクを止め、オモムロに別れの握手を求めてきた。お?おお?お別れか、心の準備ができていなかった・・・。

 天気はやっぱりコロコロ変わり、パネバジースを後にすると本降りになったが、目指す「十字架」の丘が見えてくると急に晴れてきた。
 この丘はパネバジースの西80キロにある。町からまっすぐ北上すればすぐにラトビアに入るのだが、この丘が見たくて遠回りしたのだ。

 ここには19世紀前半から大小さまざまな十字架が立てられるようになった。はじめは戦争や流刑で亡くなった者たちを追悼するものが中心だったが、今では病気や交通事故など死者全般の追悼、また単なる信仰のシンボル、記念としての十字架が立てられている。大きなものは高さ3メートル、小さなものは10センチくらいで、千羽鶴のような束になっている。
 「その数はリトアニアの人口より多い」と「地球の歩き方」には書いてあって、おいおい、そりゃオーバーだろう、と思ったのだが、あながち嘘でもないみたいだ。ふたこぶラクダの背のような丘は十字架で埋め尽くされ、今やまわりの平地にまでエリアが拡大されている。

 ソ連時代、KGBはこの丘を立ち入り禁止にして全ての十字架をブルトーザーでなぎ払ったが、それでもリトアニア市民は夜な夜な十字架を立てていったという。信仰というのは抑圧されるほど厚くなるものだから、おそらくKGBのその対応が人々の信仰心をあおったのだろう。
 これは確かに一見の価値がある。遠回りしてきて良かった。

 丘から北に向かい、国境手前でガソリンを補給し、昼食を食べてからラトビアに入った。
 普通越境する場合、残ったキャッシュは次国の通貨に換えるものだ。しかし、僕は残ってしまったリトアニアの通貨をユーロに換えた。今回もラトビアをスルーパスするつもりなのである。

 ラトビアの名誉のために言うけど、ラトビアは決して見るに値しない国ではない。首都リガはバルト3国の中で最大の街だし、風情でいっても他の2首都に勝るとも劣らない。
 じゃあ何で行かないのかというと、単に時間がないのである。僕ははやくロシアに入らなければならない。もう6月も終わろうとしており、8月の終わりには日本に帰りたい。モスクワ以東は淡々と走るだけ、といってもロシア横断で1万キロ弱は走るし、モンゴルにも足を伸ばすつもりでロシアのダブルエントリービザを狙っている。
 昨年は昨年で、リガでなかなか宿が見つからず、短気を起こしてリトアニアに下ってしまったのだ。(そのおかげでいろんな出会いがあったのだけど)

 僕はラトビアに縁のない男なのである。ごめんなさい、ご縁がなかったということで・・・そのまま200キロほど北上。ラトビアに1円も落とさぬまま、今度はエストニアに入国。今日2度目の越境だ。
 ラトビアとエストニアはリトアニアより1時間時計が進んでおり、その時点ですでに午後8時近く。目指す首都タリンまでは遠すぎるので、昨年も泊まったパルヌというリゾート地のキャンプ場に入った。

 テントと木製のコテージの金額があまり変わらないので後者にした。ちょっと贅沢したか、と思ったらナイス判断。チェックインしてすぐに大雨が降ってきた。3畳ほどの広さのあばら家だが、濡れたテントの処理を考えずに安ワインを飲んでいるだけで幸せだ。
 コンセントもあったが日記は打たず。午後出発で走行400キロ、越境2回で疲れたのだ。


本日の走行距離        約400キロ(計73256キロ)

出費                    45Lt  ガソリン
     5Lt 昼食
     95eek キャンプ場のコテージ
     67.1eek 食材
計     50Lt (約1710円)
     162.1eek (1ドル=約15.5クルーン、約1250円) 宿泊         Kamping Green