旅の日記

リトアニア編その2(2002年6月25〜27日)

2002年6月25日(火) ロシアビザ申請(Obtaining Russian visa)

 湖からリトアニアとの国境は近く、30分ほどで着いた。リトアニアもグリーンカードが使えないので、一番短い15日間有効の自動車保険に加入する。
 入国審査、税関とも問題なかったのに、最後の警察のゲートがいけずだった。停止線をほんのわずかに越えて停まったら、バイクを押して戻れというのだ。しかしそこは微妙に下り坂で、僕の細腕じゃDRは後退してくれない。係官のオヤジは僕の格闘している様子を手伝いもせず、うすら笑いを浮かべて眺めていた。しばらくしたらそのまま前に進み、Uターンして戻ってこいというのでその通りにしたが、停止線で止まらせるだけで書類のチェックも何もなかった。なんなんだよ、いったい。

 首都ヴィルニュスには午後3時ごろに着いた。ここのところリトアニアでは天候の変化が激しいみたいで、国境からの途中、いたるところで雨が降った跡があったが、幸いにも僕が降られることはなかった。
 けんじさんに教えてもらった宿を何軒かあたるが、結局街の東側にある大きなユースホステルに泊まる事にした。バイクも人目につかずに停められる。
 宿を探している途中で、ひさしぶりに立ちゴケしてしまった。路肩に停めてあったバイクにドスンと腰かけたら、スタンドとは反対側にバイクが大きく傾き、「あらら?」と思っている間にすでに支えられない角度になっていた。やっぱり荷物満載のDRは重い。270キロくらいあるからな・・・。道行くオヤジに手伝ってもらって起こした。

 8人部屋のドミトリーにチェックインしたあと、旧市街に出てみた。
 人口60万人のヴィルニュスはこじんまりとした首都で、見所の集まる旧市街は歩いて十分に回れる大きさだ。街には石畳の小さな路地や古い教会が多く、歩いているうちにナポレオンが絶賛したというレンガづくりの聖アンナ教会に出た。夕陽に映える赤レンガがなかなかクールである。

 すでに夕方になっていたが、昼食を食べていないので腹が減っていた。何か食べられるところを探していたら、けんじさんが教えてくれた「サラ」という旅行代理店を見つけた。ロシアビザの申請代行をしてくれるところだ。まだ営業中だったので、さっそくビザを申し込むことにする。

 受付のお姉ちゃんは英語が堪能で、ビジネスビザ取得のために何が必要かていねいに教えてくれた。かかる日数によって3段階くらい料金が違うが、翌日発行で700リタというので、けんじさんから聞いていたより安い!と早とちりして僕は申し込んだ。
 このとき僕は為替レートを間違えていたのだ。リトアニアの通貨リタはポーランドのズオッティと同じくらいの価値かと思っていたら、1割以上も高かったのだ。700リタというと200ドルくらいになる。けんじさんから聞いていたよりむしろ高い。
 しかしこれでビジネス3ヵ月、ダブルエントリーのビザが取れればよしとしよう。何もなければ、明日の午後にはパスポートにロシアのビザが貼られて戻ってくるらしい。


本日の走行距離        約220キロ(計72626キロ)

出費                    18Zl  ガソリン
     32Lt リトアニア自動車保険
     32Lt ユースホステル
     5Lt インターネット
     19Lt 飲食費
計    
18Zl (約560円)
     88Lt (1ドル=約4ズオッティ、約3140円)
宿泊         Youth Hostel Filaretai
インターネット    UAB Fotogama


2002年6月26日(水) ビザ取得ならず(Traces of KGB)

 観光とロシアのロードマップ探しをしながらビザを待つことにした。ロシアのロードマップはギリシャで買ってきたが、けんじさんによればリトアニアでもっと良いのが売っていたらしい。
 今日も10分おきに天気が変わる目まぐるしさなので、バイクは置いて歩いて回ることにした。まずは大聖堂とその横の鐘楼を見た。あまり特徴のない聖堂だけど、前の広場ではなぜか軍楽隊が小気味よい音楽を奏でていて楽しかった。
 大聖堂から東北に伸びる大通りを、書店を冷やかしながら歩いているうちに国会議事堂にまで来てしまった。地図上でみるとけっこうありそうなのに、小さい街なので意外と歩けてしまう。

 さて、この国会議事堂は今から10年あまり前、リトアニア独立/民主化の大きな舞台となったところだ。
 ご存知のとおり、バルト3国はかつてソビエト連邦の一部だった。それが1991年、民主化の波が北上してくるとリトアニアも独立を宣言。しかしそれを認めないロシアは軍隊を派遣、ヴィルニュスを包囲した。そのとき市民はコンクリートのバリケードを築き、非武装の抵抗で国会を守ったのだ。

 今でも敷地内にはそのバリケードと、当時の犠牲者を追悼するパネルが残されている。さらに最近追加されたと思われる、ロシアのチェチェン共和国に対する圧政を訴えるパネルもあった。
 ロシアに辛酸をなめさせられた者同士、とても他人事ではないのだろう。

 旧市街に戻る途中、この地におけるロシアの足跡をさらにみることになった。
 地球の歩き方に「KGB博物館」というのが載っていて、かつてのKGBによる厳しい取り調べの様子が伺えるらしいので、軽い気持ちで行ってみた。しかし入口に掲げられていた看板は「The Genocide Museum(虐殺博物館)」。その名の通り、予想以上にむごたらしい展示内容だった。

 リトアニアは第2次世界大戦中、ソ連の領土になったりドイツの領土になったりしたが、最終的にはソ連のものになった。そのとき、それまでドイツ軍の兵士としてソ連と戦っていたリトアニア人の若い兵士たちは森に逃げ込み、リトアニアの独立を求めてゲリラ活動を展開した。
 しかし、スターリン時代のKGBは冷酷極まりなくそれらの活動を取り締まった。容疑者は容赦なく拷問にかけられ、そして処刑された。その遺体は見せしめとして広場などに放置されたという。

 この「虐殺博物館」はリトアニアがソ連の支配下にあった時代、政治犯取り調べ、収容、拷問、処刑のためのKGBの施設だった。かび臭い半地下の廊下の左右には、声が外に漏れない防音の拷問室(黒い皮の拘束着まで展示されている)、水攻めのための独房(部屋の中央に直径30センチの丸い台があり、それ以外の部分は冷たい水で満たされた。囚人は裸にされ、寒さの中でずっとその上に立っていなくてはならない)などが並ぶ。

 そして、少し離れた地下室は1000人以上が処刑された場所だ。この施設にはゲリラ活動家をはじめとして政治犯、思想問題者が収容されたが、最終的にはKGBによって2万人もの命が奪われたという。スターリンの死後、囚人の処遇は改善されたというが、それでもほんの10年前までKGBは絶対的恐怖を持ってリトアニア市民を支配していたのだ。

 なんか、これから行くというのにロシアのネガティブな部分ばかりを見てしまった。ロシアっていうと暗いイメージがあるが、なんかそれが強調されたような・・・。
 まあ、とりあえずビザも出来ていることだろうから、明るく前向きにロシアに挑もう!と気分を取りなおし、昨日の「サラ」に行ってみると・・・「悪いニュースです」。

 なんと、ダブルエントリーのビザがおりなかったのだ。ダブルやマルチの場合はロシア本国からの正式な商用招待状がないとダメだとロシア大使館に断られたらしい。
 う、くく・・・シングルのみか。最近ロシアとモンゴルの国境が外国人車両にも解放されたらしく、自由にバイクで行き来できるようになったというのに、シングルじゃモンゴルに入ったら戻ってこれないじゃないか!
 ちょっと悩んだが、エストニアのタリンに賭けてみることにした。小梅&得政カップルは一足先にロシア入国を果たしているが、彼らはタリンでビザを取った。彼らもモンゴルに行きたいって言っていたから、たぶんダブルエントリーだと思うんだけど。まあ、最悪でもシングルのは取れるだろう。
 シングルでロシアに入り、モンゴルでロシアのビザを取りなおす、という方法もあるし。

 「シングルならやっぱり要らない」と受付のお姉ちゃんに言おうとしたとき、彼女は僕の後ろに目をやり、机の中から黒い日本のパスポートを取り出した。「おや、その5年ものは俺のじゃないぜ」と思ったら、今度は背後から細い手が伸びてきてそれを受け取った。
 振り向くと日本人の女性が立っていた。けっこう小奇麗、断じてバックパッカーではない。彼女は謎の言葉で受付のお姉ちゃんと会話を交わしたあと、「日本の方ですか?」と僕に聞いてきた。

 彼女はロシアのサンクトペテルブルグでロシア語を学んでいるという、小林さんという人だった。バルト3国に小旅行に来て、ここでビザを取りなおして帰るのだという。彼女がさっき話していたのがロシア語。どおりで分からないわけだ。
 「サラ」を一緒に出たあと、近くのカフェでビールを飲みながらロシアのことを詳しく聞いた。ビザのこともあるけど、聞きたいのはやっぱり治安のことだ。
 彼女によるとサンクトペテルブルグよりはモスクワの方が治安が悪いが、それより何より、極東の情勢がロシア人の間でも問題になっているとのこと。「極東とベラルーシは世紀末状態」らしい。最近、ウラジオストクで日本人留学生が殺されたというし・・・。

 ううーん、聞けば聞くほどロシアに行くのが怖くなる。なんか、アメリカから初めてメキシコに向かったときを思い出す。あのときも誰一人としてバイクで南下するのを勧めなかった。カナダでは「この先のアメリカはみんな銃を持っているから気をつけろ」といわれ、アメリカでは「メキシコなんかバイクで行くところじゃない」といわれ、メキシコでは「グアテマラでは山賊が出る」と言われ、パナマでは「まさかコロンビアに行くんじゃないだろうな」とブラジル人に言われた。
 まあ、今までも何とかなってきたし、これからも何とかなるでしょう。最近中東やヨーロッパばかりでナマってきたけど、俺はパナマシティやリマのスラム、コロンビアのゲリラ地帯だって通ってきたじゃないか!
 こんなこというと可愛そうだけど、バイクもパソコンももう十分モトはとった感じがするから、要求されたら差し出すつもりでいこう。「汝バイクを奪われたらパソコンも差し出すべし」、なんちゃって。


本日の走行距離            0キロ(計72626キロ)

出費                  15.5Lt  飲食費
     4Lt 博物館
     27Lt ユースホステル
     5Lt インターネット
     13Lt テレホンカード
計    
64.5Lt (約2200円)
宿泊         Youth Hostel Filaretai
インターネット    UAB Fotogama


2002年6月27日(木) 郵便を受け取る(Recieving a package)

 とりあえずパスポートが手元に戻ってきたので、今日はまず日本大使館に郵便物を受け取りに行った。横浜の実家から「地球の歩き方」のロシア編を送ってもらったのだ。大使館気付の郵便を受け取る場合、パスポートの提示を求められる。
 距離があるのでバイクに乗り、住宅街の中に隠れ込んでいた日本大使館をようやく見つけ(それにしても金満日本を見せつけるような立派なビルだ)、「郵便を受け取りにきました」とインターフォンごしに言うと、「はぁ・・・?」という力のない受付の女性の声。「とりあえず入ってください」

 そして受付の日本人女性に曰く、「大使館は郵便を受け取るところじゃありません。大使館員あてじゃない郵便は全て受け取りを拒否しています。警備上の理由です、おわかりでしょう?あなたの荷物はEMS(国際スピード郵便)のオフィスで止まっているか、あるいは日本に送り返されているでしょう」
 ・・・おいおいおい!そりゃないぜ、ベイベー。パナマだってアテネだってハンガリーだって受けとってくれたし、そりゃ嫌味言われることはあっても、旅行者宛ての郵便(それも関税のかかるはずのない本)の受け取りを拒否するなんて、聞いたことないぞ!
 リトアニアの日本大使館に手紙爆弾だあ!?ちょっと自意識過剰じゃないか?

 結局、中央駅のそばのEMSのオフィスに尋ねに行くと、幸いにも荷物は日本に送り返されずにまだあった。郵便を受け取らないって、リトアニアで郵便を受け取るような旅行者が少ないからだろうなあ。あの受付の人の言い方だと、まるで今までにそんなことは無かったみたいな感じだった。
 大使館による郵便の受付は、好意でやってくれていると聞いたことがある。拒否されても仕方ないけど、それなら画一したルールを作ってもらいたいものだ。
 何はともあれ、無事に「地球の歩き方・ロシア編」は手にすることができた。青山家、いつもありがとう。

 その後はインフォメーションセンターで教えてもらった地図専門店に行ったが、残念ながらロシアのロードマップはなし。代わりにモンゴルの簡単な地図があったので買っておく。
 ほかにも買いたいものがあったので郊外のスーパーやデパートに行ってみるが、品揃えは寂しかった。暑い暑い、邪魔だ邪魔だ、とブダペストに古いフリースを置いてきたのだが、今になって肌寒くなってきたのだ。まあ、本当に我慢ならなくなったら買うとしよう。

 帰りに郊外にある「聖パウロ&ペテロ」教会に寄ってみたが、これがちょっとしたものだった。内装だけに30年も費やしたというだけあって、壁、柱、天井と隙間なくレリーフと彫刻で埋めつくされている。僕はかなりの数の教会を見てきたけど、ここの内装はかなりイケている。ヴィルニュスで一番の見どころかもしれない。

 その後はユースに戻って日記やメールを打った。本当はユースなんかでパソコンは開きたくないんだけど、仕方ない。回りに目を光らせながらパチパチと打つのだった。


本日の走行距離         約30キロ(計72656キロ)

出費                   3.8Lt  飲食費
     21Lt モンゴルの地図
     27Lt ユースホステル
     2.5Lt インターネット
     10.2Lt ペン、ノート、コップなど
計    
64.5Lt (約2200円)
宿泊         Youth Hostel Filaretai
インターネット    UAB Fotogama