旅の日記

ペルー・アマンタニ島編(2000年12月31日〜2001年1月1日)

2000年12月31日(日) アマンタニ島でカウントダウン(Countdown in Amantani Island)

 いよいよ大晦日。
 アマンタニ島行きのツアーのバスは朝8時半にホテルに迎えに来た。最低限の荷物だけ持ってバスに乗ると、日本人の若い男性が乗っている。よくみると、クスコの定食屋で1回見たことにある顔だ。彼の名前はアキラさん、このツアー中、ずっと行動を共にすることになる。
 ツアー客は全部で15人ほど。アキラさんのほかに紹介すべきなのは、イタリアから奥さんと来たフェルナンド。実は次の日に気付いたのだが、彼は関根勤にそっくり。明るくて話好きで、彼はツアーを終始盛り上げた。体の動きが怪しくて、まるでゼンマイじかけの人形のよう。しょっぱなから楽しいツアーになるような予感がした。

 ツアーはまずウロス島に立ち寄った。ウロス島にも行けるのなら、先日のツアーに申し込まなくても良かった、と最初は思ったが、今回のツアーではわずか20分ほどしか見られなかった。やっぱりウロス島はウロス島だけで見ておいて良かった。

 そこからアマンタニ島までは約3時間半の船旅。ヒマなので、ホテルの本棚から拝借してきた松下幸之助の「道は明日に」を読む。古い本だが、やはり日本を代表する実業家、ためになることがたくさん書いてある。
 20人乗りのボートはゆっくり、ゆっくりとチチカカ湖を進む。沖に出るにつれて水は深くなり、限りなく濃い緑色になった。チチカカ湖の水温は年間を通して8、9度と、たいへん冷たいそうだ。伝説によると、インカの初代皇帝マンコ・カパックは妹のママ・オクリョとともにこの湖から現れたということになっているが、きっと彼らが最初に言った言葉は「さむい」だったろう。

 くだらないことを考えているうちに、午後1時ごろ、ボートはアマンタニ島に到着した。
 アマンタニ島は16平方キロメートルほどの小島。約300家族のインディヘナ(先住民)たちが8つの村に分かれて、昔ながらのつつましい生活を送っている。電気もガスも水道もないと聞いて期待して来たのだが、島に着いたらいきなり街灯と電線が目に止まった。ただし後で聞いたところによると、電気は発電機で起こすのだが、その燃料代がもったいないので今は使われていないそうだ。それを聞いて変に安心した。

 島にはホテルなどというものは無い。ツアー客は2、3人のグループに分かれ、島民の家にやっかいになるのだ。私はアキラさんと、ペルー人のマリオと同じ家ということになり、港に迎えにきたおばちゃんにくっついて家まで行く。
 昔ながらの段々畑や放し飼いになっているニワトリや羊やロバ、日干しにされている小魚、鼻を垂らした子供たちなど、のどかな風景の中を歩いていくと、日干しレンガでできた質素なおばちゃんの家に到着した。
 部屋にはベッドが三つとロウソクののった机が一つ、イスが二つ、以上おしまい。しかし、こんなシンプルな所を求めてきたのだから、相手にとって不足はなし。運ばれてきた昼食もキヌアのスープに、目玉焼きと煮ジャガイモだけ。味付けも極めてシンプルというか、ほとんど味なし。しかし、これも相手にとって不足はないぞ。

 午後4時ごろ、ツアー客は村の運動場に集合して「太陽の神殿」に向かった。島には二つの頂があり、片方の頂上に「太陽の神殿」、もう片方に「月の神殿」があるのだ。太陽とか月とかいうとインカ帝国を連想するが、この島にはインカよりはるか前から人が住んでおり、神殿も古い。
 ガイドの説明を聞きながら村の裏手にある頂に上ると、はたしてその神殿はあった。年に数回ある重要な儀式の時以外、中に入る事が許されないというので、どんなものものしい神殿かと思ったら屋根もなく、荒い石組みに囲まれた四角い窪みがあるだけで、むしろ遺跡という感じだった。ただ神殿の前には石のアーチが残っていて、こっちは格好良かった。

 頂からはチチカカ湖が一望できた。天気が今一つなのが残念だが、はるかボリビア側の「太陽の島」や、すぐ手前にタキーレ島、振り向けばケチュア半島と、360度見ていて飽きない。よし、決めた。明日の初日の出はここから見よう。

 暗くなってきたので、下っておばちゃんの家に戻る。それと同時に激しい雨が降り始め、トタンの屋根を激しくたたく。部屋の中では普通に会話もできないくらい、その音がうるさい。 電気が無いのでロウソクを灯す。やることもない部屋の3人は、じっとその灯を見つめる。
  やがて昼食と同じような質素な夕食が運ばれてきたが、それを食べ終わってもまだ7時半だった。日本の大晦日の夜7、8時といえば、テレビでは「レコード大賞」をやっていたり、「紅白歌合戦」が始まったりして大騒ぎだが、アマンタニ島では暗闇に雨がシトシトと降るだけだった。村の集会場で年越の祭りが行われるというが、それが始まるのは午後9時半。それまで、暗い部屋で3人は持参した酒をチビチビ飲みながら、ぼそぼそと会話をするほか無かった。

 アキラさんも私と同様、気を使う性格だった。彼を絞ると「誠実」という名のジュースが出てくると思えるくらい良い人で、子供が遊ぼうといってくればへとへとになるまで遊んであげるし、この暗い部屋では私と彼が日本語で話すとペルー人のマリオが取り残されると、積極的にスペイン語で会話をした。彼は社会人を経験しているが、来年の4月に新卒扱いで市役所に就職が内定している。こんな公務員がいる限り、まだまだ日本は捨てたものじゃない。

 ようやく時間になったので、雨の中を村の集会場に向かう。
 もちろん集会場にも電気は無いが、大型のガソリンランタンが室内を照らしていた。25mプールくらいの大きさの部屋には子供から長老まで、村人が勢ぞろい。やがて少年たちのバンドによるフォルクローレの演奏がはじまり、みんなは踊り出した。
 ふだんインディヘナの女性は控えめだが、この時ばかりは積極的だった。空いている観光客がいると、向こうから踊りましょうと声をかけてくる。それで小さい女の子から宿のおばちゃんまで、入れかわり立ちかわり色んな女性と手を取って踊ることになった。こんな機会、めったにないぞ。
 しかしどういう訳だか、一曲一曲が長い。10分ほどは余裕であるのだ。そんなに激しくは踊らないが、何せ富士山頂より高いところなのだから、息は切れるし汗は出る。それでも持参した酒を飲みながら12時が来るまで踊り続けた。関根勤似のイタリア人フェルナンドも、おもちゃのようにクルクル踊っていた。
 その間、アキラさんはまた気を使っていた。村の長老たちが踊る相手もなく、ただボーッと座っているのを見た彼は、自ら酒のビンを持って行ってすすめていた。日本人気質って、素晴らしいなあ。村人以上に村の長老に気を使っているんだから。

 やがて12時が近づいた。といっても村には規準となる時計が無いので、ツアーガイドの腕時計に合わせることにする。
 そしてカウントダウン開始。ディエス、ヌエベ・・・と部屋中のみんなで合唱し、ウノ!と叫んだあと、21世紀が到来した。ガイドはシャンパンを空け、紙ふぶきが舞い、少年が火をつけた爆竹がけたたましく鳴った。
 「フェリス・ヌエベ・アニョス(新年おめでとう)」と、集会場にいる全員が抱き合って喜ぶ。村人も観光客も、1人ずつ全員と。すばらしい年越だ。やはり来て良かった。
 昨年の年越はメキシコのソカロだった。あれも素晴らしかったが、あれからもう一年たったんだなあ。早いなあ。

 その後も宴は続いたが、私は初日の出を見たいので午前1時ごろに集会場を出て宿に帰って寝ることにする。しかし、はたと気付くとポケットに入れておいた眼鏡が無い。みんなに探してもらうと、踏まれてボロボロになった眼鏡が出てきた。幸いレンズは無事なので、プーノで新しいフレームを作ってもらおう。まあ、こんなこともあるさ・・・。


本日の走行距離          0キロ(計28126.3キロ)

出費                    80S   プーノの宿4泊分
   4S  水
   5S  ビール
計       89S(約2800

宿泊         おばちゃんの質素な家


2001年1月1日(月) 歯抜け新世紀(Losing teeth on the new years day)

 というわけで皆様、新年、新世紀、明けましておめでとうございます。本年も「RideTandem」、全力投球でがんばりますのでよろしくお願いします。

 朝5時すぎ、目覚ましが鳴る前に寒くて目が覚めた。空は白み始めているが、天気は悪そう。酒も残っていてそのまま寝る誘惑にかられたが、ここまで来て目標を達成できなくては男がすたる。気合を入れて起き、カメラととっておきのチョコレート「スニッカーズ」を持って、昨日の頂に上る。この「スニッカーズ」を持っていったことが後であんな結果になるとは、この時は知るよしも無かった。
 ちなみにアキラさんも初日の出を見ると言っていたが、昨夜は午前2時まで踊っていたらしく、彼は寝るという選択肢を選んだ。

 息を切らして頂上まで来たが、東の空は黒い雲に覆われて日の出どころか、明るさがまるで感じられない。雲の少ない西側の空の方がよほど明るい始末だ。いつ日が出たのかもよくわからないまま、空の鉛色はすこしずつ明るくなっていった。まあ、この明るみを21世紀の夜明けとしておこう。

 景色を見ながら、持ってきた「スニッカーズ」をかじる。食べたことのある人はおわかりだろうが、「スニッカーズ」というチョコレート・バーにはキャラメルが詰まっており、そしてキャラメルは温度によって硬さが変化する。チチカカの朝は寒く、私の「スニッカーズ」も予想以上に硬くなっていたのだ。
 かじった瞬間、バリッという感触がして、口の中に硬いモノが転がった。しまった!と思っても時すでに遅く、私のさし歯である前歯は根元からポロリと取れてしまったのである。
 ・・・ああ、情けない。眼鏡は壊れるし日の出は見られないし、おまけに歯は取れる。まあ、この歯が取れるのは初めてじゃないし、くっつければ済む事だから、ホームページ上のおいしいネタとしておこう。
 それにしても、それ以上そこにいても意味がないので、おばちゃんの家に戻って寝る。

 再び目を覚ますと、部屋にはポテトフライと白米という朝食が運ばれていた。前歯の無いイヤな感触を味わいながらポテトだけを食べ、集合時間になったのでおばちゃんに連れられて港に下る。
 そして島民に見送られて出航したボートは、数キロ離れたタキーレ島に向かった。すぐそこに見えているのだが、ボートが遅いので着くまでに4、50分 はかかった。このころより天気は急に良くなり、青空が広がるようになった。

 タキーレ島はアマンタニ島より一回り小さいが人口はむしろ多く、レストランなんかもあってより観光地である。ただし島の中心となる村までは船着場から遠く、斜面を登って30分ほどかかった。昨日の今日なので、肉体的につらい。
 途中、見晴らしの良い高台からさっきまでいたアマンタニ島がよく見えた。アキラさんにシャッターを押してもらう。

 やがてタキーレ島の中心となる村の広場に来たが、静かで良いところだった。近くのレストランでツアー全員で昼食を食べる。この昼食代は料金に含まれておらず、ジュースも入れて11ソル(約350円)と高かったが、レストランの庭に張られたタープの下で、青空とチチカカ湖を見ながら食べるトルーチャ(マス)はたいへん美味しかった。
 食後は島の反対側に下る。ウメさんたちがよく、タキーレ島の人はヒソヒソ声で話すと言っていたが、その意味がよくわかった。反対側の船着場に向かう道には民芸品を売る少年少女がたくさんいたが、なぜか「買ってください」という声が、蚊の泣くようなヒソヒソ声なのだ。「なんで声をひそめるの?」と聞いても、恥ずかしそうに笑ってどこかに逃げていってしまう。なんてシャイな人たちなのだろう。

 島の反対側に回ってきたボートに乗りこむと、ツアーはプーノに戻るのみとなった。記念にアキラさんと関根勤(めんどくさいので、もうそう呼ぼう)と一緒に写真を撮る。
 帰りもやはり3時間半ほどかかった。昼寝をし、松下幸之助の本を読み終えると、暗雲垂れ込めるプーノに到着した。最近のプーノは本当に天気が悪い。

 アキラさんをはじめ、みんなに別れを告げてホテルに戻る。ツアー参加客のうち、実に3分の1ほどが同じホテル「Los Pinos」だった。今回のツアーはガイドといいメンバーといい、最高に近かった。
 体調は万全に回復し、食欲も出てきた。雨の中、夕食を食べにでるが、チキン屋でチキンを食っていると店にぜんまいじかけのおもちゃが入ってきた。良く見ると、それは関根勤と奥さんだった。再会をよろこび、一緒に夕食を食べる。彼はイタリアのボローニャに住んでいるというので、そのうちに行くことを約束し、メールアドレスを交換した。今回は夫婦旅だそうだが、彼の子供がどんな動きをするのか、イタリアでぜひ見てみたい。

 夜は部屋で日記打ち。明日は歯医者と眼鏡屋を探さねば。出発は1日延期だな。


本日の走行距離          0キロ(計28126.3キロ)

出費                    10S   昼食(トルーチャ)
   11S  夕食(チキン、ビール)
計       21S(約660

宿泊         Hotel Los Pinos