旅の日記(番外編)

韓国・水原編(2003年3月27日)

愛の戦士、宗野さんと再会

 3月27日はソウルを発つ日だった。
 洞窟のような、しかし母の胎内のように暖かくて快適な大元旅館のオンドル部屋をチェックアウトし、荷物を宿のおじさんに預ける。そして僕たちは先日、休館日で入れなかった王宮「景福宮(キョンボックン)」に向かったのだった。

 太祖・李成桂は14世紀末に都を現在のソウルに移し、王宮を建て、以後数世紀に渡って続くことになった李氏朝鮮王朝の礎とした。しかしその後、清国や豊臣秀吉の侵攻によって王宮は大打撃を受け、18世紀になってようやく落ち着いたかと思うと、20世紀はじめには日本の支配下に置かれてしまった。そしてその35年後、独立を勝ち得たと思った矢先、今度は朝鮮戦争の炎に焼かれてしまう。
 波乱の歴史の物言わぬ目撃者は、北朝鮮の脅威が再び取りざたされるなか、いまだにその修復を終えていないのだ。

 だから僕は、入場してすぐに王宮の中心となる韓国最大の木造建築、「勤政殿」が鉄骨とビニールシートで覆われ、入場口が塞がれているのを見たとき、「ざけんなよ!」と言いたいのをグッと堪えた。
 出直してきたとはいえ、たかが観光客が文句を言っちゃいけないほど王宮は過酷な運命をたどってきたのだ。そして、われわれ日本人もその責任の一端を担っている。
 でも、せっかく出直してきて入場料も払ったのにな・・・。

 ちなみにその「勤政殿」だが、それに続く門は「勤政門」とあり、古い書き方で右から左に書かれているので、一瞬、「関根勤」と書かれているのかと思った。
 え、そんなこと思うの、僕だけだって?

 さて、まわりを囲む建築物は、こう言うと韓国人は怒るかもしれないけれど、日本のお寺によく似ていた。全く違う文化や世界観を持ったインドの帰りだから、余計にそう思うのかもしれない。
 ただし屋根の梁や柱には鮮やかな塗料が使われ、ネパールにあったチベット仏教の寺院を彷彿とさせる。ここが大陸の仏教と日本の仏教の中間地点であることを思わせた。

 そして再び南大門市場に行き、重い荷物を引くための折りたたみ式のローラーを買った。これから僕たちは電車で韓国を縦断し、釜山からフェリーに乗って日本まで帰る。バンコクからここまではタクシーやバスを利用してうまく来られたけれど、これからはタフな移動が続く。お土産で膨らんだ巨大な荷物を引きずって駅や港をウロウロしなければならないのだ。
 するとこれが大正解。その夕方、僕たちは地下鉄を乗り継いでソウル郊外の水原(スウォン)市に向かったのだが、僕は80リットルのバックパックにデイパックという通常の装備の上に、もう80リットルはありそうな土産袋を持っており、ローラーで引っ張っても大粒の汗をかくほど大変だった。
 全部手で持っていたらと思うと、1500円の出費もすぐに元を取った気分になった。

 さて、ソウルから約30キロ東南にある水原市。ここには世界遺産に指定されている古城があり、その長い壁が中心地を囲んで古都の趣きを感じさせる一方、ワールドカップの会場となった巨大なスタジアムや大学などの近代的な建造物も立ち並び、いまや人口100万人のベッドタウンに成長している。
 で、僕たちはその古城でも見に来たのかというと、答えはノー。

 オープンしたばかりという、ショッピングセンターと一体になった水原の駅に着くと、すぐにジーンズ姿のラフな格好をした男性が僕たちを出迎えてくれた。彼の名は「のんべえ宗の」こと、宗野さん。彼も1996年から98年にかけて約3年間オートバイで世界旅行をしたが、その後トルコで知りあった韓国人の彼女・チョンさんと結婚して、移住したのである。そして昨年9月、待望のお子さんが生まれたばかりだ。
 僕がこの街に来たのは、1999年9月に多摩川の河原で行われたバーベキュー大会以来の再会を果たすため。その時、僕は長い旅に出る直前で、宗野さんは間もなく韓国で就職というところだった。
 あまり変わっていないように見えた宗野さんは、それでも「俺、おじさんになっちゃったでしょ?」と笑いながら言った。

 宗野さんのマンションまで、車で20分ほどかかった。
 高級車じゃないけど、韓国製の彼の乗用車は小奇麗で、久しぶりに近代的生活のニオイが感じられた。僕が先程「ラフな格好をした」とわざわざ表現したのは(僕たちはそれ以上にラフというか、みすぼらしいのだが)、彼はいまや韓国最大の電器メーカー、そして同国の産業界を代表する企業Sの社員だからだ。そしてその日は仕事帰りに迎えに来てくれるというので、僕はてっきりスーツ姿だと思い込んでいたのだ。しかし宗野さんはエンジニアなので、よく考えてみればスーツを着ていなくても別に不思議じゃない。

 車内で、韓国での生活や仕事について聞いてみた。
 最近よく「勝ち組」と「負け組み」という言葉が使われる。何が勝ちで何が負けなのかは本人が決めることだし、そもそも人生には勝ちも負けもないと知っている旅行者たちはこの言葉を使わない。しかし、世間一般的な価値観であえて使わせてもらえば、宗野さんは間違いなく「勝ち組・元ライダー」である。

 苦労したとは言うが、帰国後に彼が就職活動した結果、自動車メーカー(というより、ライダー的にはバイクメーカーの雄)のH社と、現在勤めている韓国最大の電器メーカーS社の2社に内定した。
 もともと優秀な人なんだけど、それでもエンジニアとして3年間のブランクがあり、それで世界に名だたる二つの会社からオファーが来るとは、なかなかあることでは無いと思う。

 宗野さんは韓国人である彼女のことを考え、結果的に後者を選んだ。しかし水原市に移住して働き始めた当初、さすがに言葉の壁を感じたという。社内メールもハングル文字の嵐。それらを読み取るだけでぐったり疲れたという。
 しかしその後、勉強の甲斐あって仕事にも余裕が出てきた。彼女と一緒に生活をはじめた当初は会話の3分の1が韓国語、3分の1が日本語、残りが英語、という具合だったが、お互いが言葉を覚えるうちにほとんど英語は使わなくなったという。そして会社で使っているぶん宗野さんの方が上達が早いから、今では韓国語が会話の中心となっているらしい。

 宗野さんの勤める電器メーカーSの業績は絶好調で、その一社の経常利益は、不況にあえぐ日本の大手電器メーカートップ10社が束になってもかなわないという。そして韓国のメーカーというと技術的に日本の後手に回っていた印象があったが、S社は新技術をどんどんと打ち出し、業界の注目を浴びている。
 そこで第一線のエンジニアとして働く宗野さんは、まさに業界のスタープレイヤー。仮に日本に帰国し、転職しようとしても、S社で働いていたことは大きなプラスになるのだ。

 「SPA!」が長期旅行者特集(おそらくタイトルは「ボクたち長期旅行者の人生白書・勝ち組に這い上がるためのキーワード20」になるだろう)を組んだら、間違いなく取材の対象となるはずだ。
 そして口元だけの写真とともに、彼の談話が匿名で紹介されるのだ。
 「いやー、3年もバイクで旅行して、すてきな彼女と結婚して、一流企業に再就職して、かわいい息子も生まれて、人生サイコーです」(K.Sさん35歳)

 マンションに着くと、奥さんのチョンさんと、生後まだ半年の俊(しゅん)君が出迎えてくれた。そして、家族の話をしていただけで幸せ度100パーセントのオーラを放っていた宗野さんの笑顔が、さらにくしゃくしゃになった。「俊君、帰りましたヨー!」

 さてこの俊君だが、やばい。さらいたくなる可愛さである。きれいな目をしていて愛想が良く、オムツのCMにそのまま出てきそうなのだ。
 名前を決めるのに大変だったそうだ。訓読みの名前にすると韓国語読みでは全く異なった発音になってしまう。そこで日本語でも韓国語でも発音が近い漢字を探し、一文字の「俊」君になったのだ。ちなみに韓国の読み方では「じゅん」と濁点がつく。

 マンションは会社が用意してくれたもので、そして部屋とともに貸与された家電類はもちろんS社のもの。日本の感覚からすればかなり広く、小さい子供がいると散らかりがちだが、よく整頓されすっきりとした空間になっている。
 その部屋の壁に、棚の上に、テレビの上に、あらゆる所に俊君がいた。生まれたときに撮った写真、お祝い事の写真、そして何気ない写真。プロのカメラマンが撮ったポートレートは時計になり、俊君の成長の時を刻んでいる。宗野さんの車のキーホルダーにも同じ写真がぶらさがっていた。
 そして俊君にカメラを向ける僕に、宗野さんは「どんどん撮って!そしてホームページで紹介して!」と言った。

 俊君と俊君の合間には、奥さんの写真である。こちらも相当ある。
 何しろパソコンの壁紙が奥さんだ。そして宗野さんが「写真、みる?」とアルバムを差し出してきたので、てっきり旅行の写真かと思いきや、一冊まるごと奥さんだった。
 「すげえ!マイ写真集だ!」
 しかし、チョンさんは恥ずかしがって、あまり見せてはくれなかった。

 目に入れても痛くない、という表現があるが、宗野さんの場合はそれどころじゃない。
 右目にチョンさん、左目に俊君を入れて、痛くないどころか瞬きし、そのままコンタクトレンズのように一週間連続装用してしまうだろう。目から血の涙が出ても、彼の笑顔が崩れることはないはずだ。
 宗のさんは自他共に認める親バカになっていた。そしてこんな言葉が存在するとは思えないが、奥さんバカでもある。そして、それはなんて素晴らしいことなんだろう。

 宗野さんとチョンさんの出会いから結婚までの物語は、彼らのホームページに詳しく紹介されている。
 それによると、彼らが出会ったのはトルコのイスタンブール。一週間行動を共にした後、チョンさんはエジプトを目指して中東を南下することになり、すでに彼女にゾッコンだった宗野さんは追いかけたかったのだが、オートバイがヨーロッパ登録だったために通関用のカルネがなく、あきらめざるを得なかった。

 しかし一人になった宗野さん、寂しくてたまらない。寝ても覚めてもチョンさんのことを思い続け、そして結局オートバイを知人に預け、飛行機でエジプトのカイロへと飛んでしまった。
 しかし今のように電子メールが普及する前の話である。すでに陸路で到着しているはずの彼女と連絡の取りようがない。
 カイロといえばアフリカ最大の都市。安ホテルだけでもかなりの数がある。宗野さんは一軒一軒回り、彼女がいないかを訪ね、いなければ「あなたを探しています。僕はこのホテルにいます」という張り紙を貼らせてもらったのだ。

 すごい執念である。宗野さんは自分のHPの中で「国際的ストーカー」と表現したが、僕は手塚治虫の劇画「アドルフに告ぐ」のラストを思い出した。
 元ナチス将校のアドルフが、幼馴染で、今や家族の仇となったユダヤ人のアドルフに決闘を申し込むため、張り紙を刷り、舞台であるイスラエルの町に貼りまくる。
 宗野さんが張り紙を片手にホテルを回る姿を想像して、僕はその鬼気迫る描写を思い出したのだ。

 しかし運命は不思議なもので、その数日後、張り紙のことなど露ほども知らないチョンさんが、全く偶然に宗野さんの泊まっているホテルにチェックインしたのだ。
 張り紙は無駄になったが、その執念、いや愛情がきっと彼女を呼んだのだろう。そして運命の再会後も宗野さんの怒涛の勢いは止まらない。それから間もなく、宗野さんはプロポーズするのである。

 そのときのことをチョンさんに聞いてみた。彼女は僕たちに振舞う豚の三枚肉を鉄板で焼いているところだった。大きなキッチンばさみで肉をじょきん、じょきんと切りながら、彼女は恥ずかしそうに日本語で言った。
 「わたし、この人オカシイと思った」
 うん、その反応、正解です。誰だって出会ってすぐ、まだなーんもしていないのに、いきなりプロポーズされたらちょっと怖いでしょう。

 しかし宗野さんは本気だった。
 チョンさんは戸惑った。しかし、何だかんだ言ってその後もアジアを2人で旅行し、次第に宗野さんに心を許していった。そして何度か目のプロポーズに「イエス」と答えた。
 宗野さんは長い旅の最後に韓国に立ち寄り、チョンさんのご両親に挨拶をした。帰国後、今度はチョンさんが宗野家を訪れ、宗野さんは本格的に就職活動をはじめる。
 そして内定した二つの会社のうち、彼は韓国の企業を選んで移住。その一ヵ月後、ソウルで一組のカップルが結婚式を挙げたのだった。

 出会いから怒涛の14カ月。隣の国とはいえ、だからこそ過去には不幸な歴史もあり、立ちふさがる壁は幾多もあった。しかしイスタンブール以来、愛の炎にメラメラと燃える宗野さんは闘い続けた。結婚と出産は彼の勝利の証。だけど愛の戦士に休息はない。

 アメリカのホームドラマに出てくる夫のように、一人の女性だけを愛し、それを表現し続けることは日本人の男性には難しいと言われる。だけど今でも宗野さんは彼女にゾッコンだし、新しく生まれた家族の一員にも、同じだけの愛情を注いでいる。愛情はある一定の量を配分するんじゃなくて、泉のようにどんどんと湧き出るものなのだ、と宗野さんの家庭を見て改めて思った。
 一度、彼らのHPを見てください。奥さんと俊君の写真コーナーもあります。そして大きな幸せを感じ取れたら、ちゃんとお礼を言いましょう。
 「どうも、ごちそうさま」

 残念ながら、このHPには宗野さんの写真があまり出てこない。しかし、彼に会った人は思うだろう。笑う門には福来る、と。彼の顔は終始ニコニコ、あるいはくしゃくしゃしていた。まだまだ幸福を呼びそうだった。
 そして、それに合わせたように俊君もニコニコとよく笑う子だった。

 焼肉をご馳走になったあとはモッコリ、いやマッコリを飲みながら話を続けた。
 宗野さんは僕の旅の話を聞きたかっただろうし、僕も宗野さんの旅行のことに興味があったのだが、帰国と、それに続く就職活動を前にして、僕はついつい仕事のことを聞いてしまうし、目の前に俊君がよちよちやってくると話題は彼のことになってしまう。
 もっとゆっくり話ができたら良かったが、あっという間に深夜になってしまった。僕たちは朝から動き回って、ちょっと疲れていた。そして釜山へは翌日の夜行列車で向かうことにしたのだが、それまでの日中をあるところで過ごすことに決め、そのためにわりと早く起きることになった。

 失礼して寝させてもらう前、宗野さんに聞かれた。
 「それで、明日はどうすることにしたの?城を見に行くなら安いツアーがあるよ」
 「いや、実は僕たち、あそこに行ってみようと思うんです」
 さて、その場所とは・・・