旅の日記(番外編)

インド・デリー編その2(2003年2月11〜13日)

人生の階段を駆け上がる その2

 民主党の議員候補Oは意外な方法で逆襲に転じた。
 2月11日、国際会議ニ日目の朝、僕は電話で起こされた。寝ぼけながら受話器を取ると、「おはようございます」という妙にさわやかな日本語が聞こえてきた。
 彼はOと名乗った。実はそれまで彼の名前を知らず、後から消去法でその前日、僕たちに「がんばれ!」とかけ声をかける事を要求した頭頂ハゲの人物と、この電話の主が同一であることが分かったのだ。
 受話器の向こうで彼は言った。
 「いやですネ、実は主催者サイドの人から相談をされましてネ。あの〜、日本のNGOの人たちの服装が何とかならないものか、と言うんですよ。お持ちの範囲でいいんですが、何とかもうちょっとフォーマルな格好はできませんかネ?」

 心配していたことだったが、初日の会場の雰囲気を見た限りではそんなに場違いではない、と安堵したばかりだった。実際、メノン氏も何にも言わなかったし。
 確かにリョウさんはドレッド頭、ユースケ君はサンダルだけど、二人ともアジアンな民族衣装に身を包み、日本人には見えないけど、ミャンマーから来たお坊さんなんかと一緒にいると「どこか遠いアジアの国から来たんだな」という雰囲気がして、特に違和感はない。
 しかし、それでも気にする人はやっぱり気にするんだな、と寝ぼけていた僕は思った。
 「はい、まあ、何とかするか、できなかったら主催者の人と相談します」と言って、僕は電話を切った。

 みんなを集めてこのことを報告すると、中国に留学していて、今は旅行でインドに来ているタツオさんがラガーメンらしい低い落ち着いた声で言った。
 「それ、わかんないッスよ。そいつが同じ日本人として恥ずかしいから、主催者が言ったってウソついているんじゃないですか?」
 僕の眠気は一気に覚めた。そうだ、その可能性は大いに有りうる。しかし断定はできないし、本当に主催者が迷惑に思っているのなら、無理に会議に出続けようとは思わない。ホテルにいてはメノン氏と連絡が取れないので、僕たちはとりあえず会場に行き、そこで彼を捕まえて聞いてみることにした。

 二日目のプログラムは各分野の専門家による講演から始まった。メノン氏が見当たらないので、とりあえずそのまま出席する。
 アメリカから呼ばれた心理学と国際関係の専門家がそれぞれテロに関する講演をしたが、可愛そうなのはその後、会場から質問を受けつけたときだった。二人ともアメリカ人というだけで「アメリカのイラク攻撃をどう思うか?」「イスラエルの行動は正当化できるのか?」などと聞かれたのだ。
 二人とも「個人の意見」として思うところを述べたが、最後はやはり「私は自国の政府を代表する者ではない。残念ながら専門外です」と逃げていた。アメリカに対して物言いたい国は多いだろうが、彼らに言っても仕方がないのだ。

 その後、またインドのお偉いさんがスピーチを行い、テロに対して何か貢献した人らしく、司会者が記念のトロフィーを高々と掲げて彼に渡し、新聞記者がその様子をパシャパシャ写真に撮る、というパフォーマンスがあった。次にイスラエルから来たメディアの専門家が「テロはメッセージを伝えるためのショーである。その舞台とはメディアだ」と講演した。

 午前中のプログラムが終了したあと、昼食の会場でようやくメノン氏に会えた。
 同じ日本からの出席者にこんなことを言われた、と報告すると、上機嫌だった彼は急に眼光鋭くなり、声をひそめてこう言った。「いったい、どこの誰がそんなことを言ったんだ?」
 僕は事を荒立てたくなかったのでOの名前は伏せたが、メノン氏によると我々の格好は全く問題がなく、そもそも二日間の会議がもうすぐ終わるというのに、主催者側からわざわざ問題にするはずがない、と言った。
 「じゃあ、僕たちはこのまま居てもいいんだね」と確認すると、彼は声高々と「もちろんじゃないか、トモダチ!今夜は大臣官邸でパーティ!パーティね!」と言い、ふたたびテンション高い謎の政治家に戻ると、「日本の歌、知ってます。デンデン、ムシムシ、カタツムリ、オマエノ、オメデタ、ドコニアル〜、ガハハ!」と歌い出した。

 これでハッキリした。やはりOは、同じ日本人として恥ずかしいからウソをついたのだ。あのなあ、俺はお前みたいなのが日本の政治家であることの方が恥ずかしいよ。というより今は浪人の身だから、次の選挙で当選しないと政治家でも何でもないんだけど・・・。
 これで僕たちは残りのスケジュールを安心してこなせるようになった。

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 午後は「デリー宣言」についての全体ディスカションと、その批准だった。
 会議のまとめとして共同宣言を発表する、ということなのだが、主催者が作成した草案をペーパーにしてみんなに渡し、意見があれば壇上にあがって言う、という形式だった。しかし与えられた時間はわずかに2時間。満足に議論も出来ないまま、どんどん時間は進む。
 またBJYMの党員か支持者なのだろう。今日はインド人で会場がやけに埋まっているな、と僕は思っていた。しかし、その理由はすぐに明らかになる。

 外国人出席者の意見で訂正されたのは言いまわし程度で、果たして「デリー宣言」は「完成」した。そして司会者が「この宣言の批准に賛成の人は挙手してください」というと、どうだろう。まわりにいるインド人がみんなサーッと手を上げるではないか!
 外国人出席者はみんな目を丸くした。しかし唖然としている間に、次に司会者は「では、今まで議長を務めてきた『名誉ある』わが党の青年部代表○○氏を、今後も毎年行われるこの会議の議長に推薦する人!」と会場に問うた。するとまた、会場を埋めたインド人たちがサーッと手をあげて、一瞬のうちに「可決されました」となった。
 あまりの強引なやり方に、一部の外国人から「反対!」と声があがったが、黙殺された。壇上のインド人は満足気な顔で握手したり、肩を叩きあっている。

 その後、司会者は「パキスタンが首謀した」テロで負傷したり、家族を失った被害者を一人ずつ壇上に呼び、仰々しく記念のトロフィーを渡し、その様子をカメラマンにパシャパシャ撮らせる、ということをした。ああ、可愛そう。彼らまで政治に利用されちゃって。
 怒涛の勢いでプログラムは閉会式に突入した。最後はまた「名誉ある」首相が出てきて、「わが党も昔はみんな若くてのう。今思えば誰々と一緒に政治闘争をして投獄されたりもしたが、今や青年部ができ、こんな立派な会議を主催するまでになったわ、フォーッフォッフォッ!」などと言う。国際青年テロ会議が、いつのまにか党大会になっているのだ。会場を埋めたインド人は「やんややんや!」の大喝采で、テレビカメラがその様子を写している。

 ここまで来ると、この会議の本当の目的は火を見るより明らかだ。
 集められた外国人は、ちゃんとした政治家だろうが留学生だろうが、あるいはバックパッカーだろうが、結局はみんなサクラなのである。この会議の目的は「BJYM党がリーダーシップをとって、世界の若者を集めてテロに対して立ち上がりました。すごいでしょ、ねえ支持者のみなさん、国民のみなさん!」とインド国内に訴えることなのだ。集まったメディアも全てインドのもので、目論み通り、翌日の朝刊には会議の記事が出ていた。もちろん、写真に写っていたのは首相である。

 会場の一画に、テロに関する写真と絵画の展示があった。写真はまだマシだけど、絵画の方はひどかった。
 例えば、インドの国旗が体に描かれた手負いの羊が、パキスタンの国旗が体に描かれた獰猛なライオンに追われている。シバ神とビシュヌ神が、パキスタンのマークがおでこに描かれた鬼を退治している。ベビー・クリシュナが、パキスタン印のヤマタノオロチから、インドの国会議事堂を守っている。
 あからさまなパキスタン批判である。インドの言い分もあるだろうが、こういう国際会議で一国の、あるいは限定された地域の問題を議論すべきではないだろう。
 しかし、これらの絵画に僕はこの会議を主催したBJYM党と、そして現役首相の本音を見た気がした。

 僕たちは豪華ホテルとディナーをエサに呼ばれたサクラであり、エキストラであり、これ以上文句を言える筋合いはない。しかし、希望はある。これからこの会議は毎年行われるそうだが、アフガニスタンの白髪の代表は最後に「来年は必ずパキスタンの代表を連れてきます。私が説得します」と言った。他国の出席者、とくに途上国からの人たちも今後の展開に積極的だ。彼ら外国人出席者、本来の主役がこの会議を変えて行くだろう、と僕は期待する。
 しかしながら政治の世界は汚いなあ、と僕は乙女チックにも思ってしまった。日本の政治もこんなものだろうか?だとしたら、悪いが僕はまったく興味がない。そういう分野はやっぱり団長に任せようっと・・・。

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 さて、無事(?)に会議が終わってしまえば、あとは楽しむだけである。
 実は会議自体は二日で終了するのだが、三日目にはタージ・マハル観光、四日目にはデリー市内観光が用意されており、その間の宿泊ももちろん保証されている。ラジャは、三日目以降のオイシイ部分はサクラが参加するのは難しいのではないか、と言っていたが、メノン氏曰く「もちろん参加OKね、トモダチ〜!」。

 政治に利用された代償の接待攻勢は閉会式の後、国際会議場の近くに設けられたオープン・シアターで始まった。題して「インド文化遺産の紹介」、早い話が舞踊ショーである。
 スポットライトで照らされ、スモークがたかれたステージの上では、何組もの舞踊団が出てきてはクネクネ踊って消えていく。北朝鮮の国営テレビを思わせる口調の女性司会者は、「次はパンジャーブ州から来た○○舞踊団なのでございます!」と盛り上げるが、残念ながら見ている方はそんなに熱がこもらない。主催者は星空のもとで舞踊を見る、というニクイ演出を考えたつもりだろうが、ひとつ重要なことを見落としている。暖かくなってきたとはいえ、インドはまだ2月。夜はまだ冷え込むし、しかも野外で2時間も舞踊も見るハメになるとは誰も考えていなかったから、薄着のままなのだ。

 可愛い子供のダンサーたちが出てきて、逆さにした壷の上で体をクネらせたり、Y字バランスを取ったときはさすがに盛り上がった。しかし、その後に「名誉ある」○○大臣(人事関係の庁の長らしい)が出てきて、またお決まりのスピーチをすると、子供のダンサーを抱きかかえてカメラマンに写真を撮らせていた。
 なんか日本船舶振興会の笹川良一に見えてきた。「一日一善!」という声が聞こえてきそうで、これで身も心も寒くなった。

 ここで団長が行方不明になる。彼は「つまらないので、その辺を散歩してくる」と言い残して席を立ったが、その後しばらくしても戻らず、やがて僕たちは「次は大臣官邸でパーティです。ささ、バスに乗ってください」と、係の人に強引にバスに乗せられてしまった。
 いなくなったのが女の子だったりするとみんな本気で心配するのだが、「ま、彼なら大丈夫だろう」とみんな口でいいつつ、どんな展開になるか、実は楽しみでもあったのだ。そしてバスは団長無きまま、会場を走り去る。

 体の冷え切った僕たちは「これでガーデンパーティだったらイジメだよね」と冗談で言っていたが、果たしてその通りだった。何の大臣かはわからないが、とにかく豪華な官邸に着いて僕たちが一番にしたのはトイレに行くこと。ドアの前には長蛇の列ができていた。
 さて、すっきりして庭に行くと、会議場で用意されていたのよりさらに豪華な料理が並んでいた。だけど、インドだけに酒がない。寒い僕は「パーティって言ったら酒だろ、酒!」と、タダメシにありついている分際で贅沢にも思ってしまった。

 料理を皿に取り終えて、ふと会場を見渡すと、視界の隅にあの男が写った。ん?団長じゃないか!
 「いやあみんな、遅いじゃないですか」。彼は白い頬をテカテカと光らせて言った。なんでも舞踊ショーの会場をウロウロしていたら別の車に乗せられ、ここまで連れてこられたらしい。しかも到着は僕たちよりも早かったのだ。

 僕は3年前、メキシコの「ペンション・アミーゴ」で一緒だったコニーこと小山さんを思い出した。他人の心配をよそに、常に運が味方について、本人も気づかないうちにピンチを切り抜けてしまうタイプの人なのだ。たとえば、団長は貴重品を入れたマネーベルトを肩から下げたポーチに入れている。腰に巻くのはゴワゴワして嫌なのだという。それを知ったとき、みんなは「意味ないじゃ〜ん!」と男女9人の混声合唱団となったが、今にして思えば、彼はこのままで盗難にあうことはないと思う。
 なんか、僕たちの常識が通用する世界とは別の場所で生きている感じがするのだ、彼は。そして、そのまま幸せに生きていくのだと思う。いろんな意味で、僕は彼の10年後、20年後に興味がある。団長、政界ではばたいてくれ!

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 さて、寒さでせっかくの豪華ディナー・パーティもイマイチ楽しめず、過密スケジュールで五星ホテルの部屋もイチマチ楽しめないまま、三日目は午前5時のモーニング・コールで始まった。本日はみんなにとって非常にオイシイ、タージ・マハル観光。国賓扱いの外国人出席者は、もちろん入場料金などかからない。僕はついこの間、750ルピーという大枚をはたいて入ったばかりだというのに・・・。

 午前5時に起こしたわりには、バスがホテルを出たのは7時半。しかもデリー市内でモタモタし、市外に出てもトイレ休憩ばかり取っていたので、アグラーに着くまでに朝の渋滞にはまってしまった。
 さて、団長は独り言が多く、そして乗り物に弱い。放っておけば30秒に一度は「こら犬、なに寝とんねん」「おい牛、なに食ってんねん」と何かしらにツッコミを入れているが、乗り物には弱いので、アグラーに向かう間はめっきりと口数が減っていた。しかし彼でなくても、強い陽射しの中で発車と停止を繰り返すバスに乗っていては気分が悪くなってしまう。

 結局、アグラーに着いたのは午後2時で、スケジュールより3時間以上も遅れていた。
 予定ではタージ・マハルの後に昼食だったが、バスはまず、アグラーでも有数の高級ホテルの前に止まった。どうやら観光の前にメシにしたらしい。よしよし、僕たちの腹具合をよく考えているではないか・・・。
 と思ったら、そこで待っていたのもわざとらしい歓迎とお決まりのパフォーマンスだった。ホテルの入口ではテレビカメラの前、一人一人首に花輪をかけられ、ホールに連れていかれると、またインドの偉いさんのスピーチが待っていた。どうやらアグラーにはアグラーの偉い人がいて、彼らなりに歓迎の意を表したいらしい。しかし本当に歓迎しているなら、早く何か食わせてほしいのだ!
 その後、ようやくメシになったが、ホテル「ジェイピー・パレス」は本当に五星の名に恥じない高級感に満ちていた。タージ・マハルを観たあと、僕たちはまたバスに乗ってデリーにとんぼ帰りしなくてはならない。それならここに泊まらせてくれ!と、みんな思うのだった。

 さて、二回目のタージ・マハル観光。みんなはあの法外な入場料を払っていないというのに、落胆が激しい。それを傍らで見ているのが楽しかった。途中で日本人の学生に会い、シャッターを押してもらうついでに少し話をしたのだが、ついつい無料で五星ホテルに泊まり、タージ・マハルにも無料で入ったと自慢してしまった。とてもイヤ〜なグループに見えたかもしれない。

 急ぎ足でタージ・マハルを観たのち、デリーに向けて出発。僕はこの前、アグラー城とかゆっくり見ているけど、これでアグラー観光を終わらせてしまったらみんなが可愛そうだ。
 デリーに戻ったのは午後11時。寒空の下、それからまた大臣の官邸でガーデン・パーティ。いいかげん疲れたし、同じようなメニューにも飽きてきた。そろそろ安食堂のターリーが恋しくなる。

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 最終日の朝、このままでは何のためにはるばるインドまで来たのか分からない、というマジメな参加者から希望があったらしく、議長を交えて急きょ、ホテルのホールでディスカションが行われた。
 僕はそんなこととは露知らず、カフェテリアで朝食を食べてゲップをしていたのだが、同じころ、係員によって無理やりその場に連れ込まれたチカさんは大変なことになっていた。議長は会議の感想を各国の代表に求めたのだが、日本の番になると、みんなの視線はホールで唯一の日本人である彼女に注がれたのだ。遠山議員や民主党の議員候補はすでに帰国している。彼女はただうつむき、石のように固まって時間が経つのを待ったという・・・。ごめんねチカさん、でも俺、居なくて良かった〜。

 そんなわけで、予定されていたデリーの市内観光は大幅に縮小され、かのガンディーが荼毘に付された場所であるラージ・ガートを訪れるだけになった。
 昼食はまた大臣官邸でガーデン・パーティだった。このころになると、実は僕らが旅行者であることが知られるようになり、インド人の対応が少しずつ変わってきた。丸テーブルで固まっていた僕たちのところにボーイが飲み物を運んできたのだが、スーツを着たインド人が「そいつらには気を使わなくてもいい」みたいな合図を送ったのだ。

 昼食の後にはデリーの中心地、コンノート・プレイスでお買い物、というスケジュールが組まれていた。しかし僕たちは明日、ホテルをチェックアウトした後、貧乏旅行者に戻ってそれぞれの目的地に散らなければならない。時間を無駄にしないためには今日のうちにニューデリー駅へ行き、列車のチケットを買っておいた方がいいのだ。
 抜け出して駅に行きたい、と係の人に言うと、「なんで駅なんかに行く必要があるのだ?」と逆に迫られた。僕は「帰国便がカルカッタ発なので、そこまで列車で行かなければならないのだ」と無理やりなウソをつき、別行動の了承を取りつけた。
 僕たちがNGO活動家と未だに信じているその人は、「タクシーで行く」という僕たちを最後まで心配そうに見ていた。しかし、僕たちはそのタクシー代までケチって市内バスで行ってしまったのだ。さっきまで大臣官邸でメシを食っていたのに、その20分後には満員バスでもまれる僕たちって何なのだろう?

 さて、ニューデリー駅2階の鉄道予約センターで、僕たちの多くは石窟で有名なアジャンター/エローラ遺跡方面へのチケットを買った。両遺跡はデリーから1000キロほど南下したところにある。
 10人のうち、6人がそっちに行くことになった。そして、そのうちに僕も含まれる。
 思えばU氏と旅をしていたとき、「エローラとアジャンターを一緒に見に行こう、あんちゃん!」と言われたのだが、ネパール行きを決意した僕はそれを断り、バラナシに戻った。そしてひょんなことからデリーに行くことになり、そしてすぐにバラナシに戻ってネパールに向かうはずが、またもや予定を変更することになったのだ。

 だって、みんな「次はエローラだ!」「アジャンタだ!」「この列車を使えばうまくいけるぞ」「おやつは一人300ルピー」「バナナは含まれるの?」なんて、楽しそうなのだ。
 「それで、リーダーはどうします?」
 「ふふふ・・・俺かい?ここまで来たら、行っちゃおうかな〜ん!」
 旅には色んな局面がある。中には自分の予定を捨ててまで、人に合わせた方が予期せぬ感動を味わえる場合もある。南米の「牛次郎」の旅は、まさにそうだった。くんくん、今回も同じニオイがするような・・・って、単に俺が寂しがり屋なだけなんだけどね。

 無事にチケットを取り、軽バンのタクシーにギュウギュウ詰めになってホテルに戻ると、最後のディナー・パーティが僕たちを待っていた。
 リーダー、リーダーとおだてられ、それに応えようと気を使っていた僕は疲れが出て、最後の晩餐は食わずに部屋で寝ていようとした。しかし、みんなが一階のホールに降りてしばらくすると、部屋の電話が鳴った。
 「リーダー、今夜は酒があります!」「・・・それじゃ、いく」

 最終日ともなると、さすがに出席者も減っていた。マジメで忙しい政治家の卵たちは、なかなか観光なんかに付き合っていられないらしい。
 何杯目かのラム・コークを飲んでいると、それでも残っていたリビアからの出席者に話しかけられた。リビアと聞くと眉をひそめる人もいるが、彼は「全アラブ青年同盟」というのを代表して来ており、日本のこともよく勉強している紳士だった。僕たちが旅行者と気づかない彼は、「我々の世代が横のつながりを大切にして、世界を変えなければならないのだ!」と熱く語った。今度スーダンで行われる青年会議に招待してあげる、とも言った。
 僕たちはこういう人に対して一番申し訳がないのだ。ごめんね、本当はただのサクラなんだよ・・・。

 ホテル「セントール」のホールには生演奏による民族音楽が流れていた。最後のディナーはデザートのカスタード・プリンが絶品だった。
 こうして4日間にわたる国際会議のプログラムはすべてが終了した。バックパッカーから国賓へ。人生の階段を駆け上がってしまったが、駆け落ちる瞬間も近いのだ。