旅の日記(番外編)

インド・アグラー、ジャイプル編(2003年1月31日〜2月5日)

稲川淳二が脳味噌を差し出す

 オルチャから、アグラーを目指すことにした。
 アグラーにはインドを代表する観光スポット、タージ・マハルがある。インドのパッケージツアーのパンフレットや、ガイドブックの表紙なんかに必ず登場する、あの白い大理石の建造物である。バックパッカーからはあまりいい評判を聞かないが、一応世界遺産であると同時に「世界8不思議の一つ」であり、カルカッタ、バラナシ、アグラー、デリーと至るルート、あるいはその逆は、北インド観光のお約束コースとなっている。
 オルチャからバスでジャンシィへ、そこから列車でアグラーへ。所要約4時間。ジャンシィのバスターミナルで捕まえたオートリクシャーの運転手と、料金をめぐってどなり合いの喧嘩。もはや日常の出来事だ。

 アグラーに着いたのは金曜日で、タージ・マハルは休みだった。
 僕がごり君の彼女、あいちゃんから借りた「地球の歩き方・インド2001〜2002」によると、金曜日はタージ・マハルは無料で見学できることになっている。しかしルールはその後変わり、金曜日は休み、外国人観光客はそれ以外の日に750ルピー(約2000円)という法外な料金を支払って入場しなくてはならなくなった。ちなみにインド人や隣国ネパール人の料金は20ルピー(約50円)であり、経済格差はあろうものの、40倍の違いはやはり納得がいかない。貧乏旅行者の間でタージ・マハルの評判が良くないのは、この料金システムによるところが大きい。

 観光は次の土曜日に伸ばし、その日は「地球の歩き方」の宿案内の筆頭に載っていた「ジャハーンギール・ロッジ」にチェックインしてゆっくりすることにした。
 しかし、である。「地球の歩き方」によるとこの宿はたいへんな親日派で、なるほど、過去の宿泊者たちがふざけて書き残していった「コマネチ!」「印日友好!」などという掛け軸や、日章旗が壁にかかったりしているが、僕に言わせるとこの宿はひどいところで、ゆっくりするどころではなかった。

 まず、オーナーがすぐにバレる嘘をペラペラとつく。
 インドの宿にチェックインするときは、宿帳の他に政府(税務署?)に提出するB5大の用紙に必要事項を記入し、サインをしなければならない。U氏がそのサインをし忘れたのだが、後になってオーナーが「他の日本人が間違ってサインをしてしまったので、その上からちゃんとしたサインをしてほしい」と、その用紙を持ってきた。見るとミミズのような字でU氏の名前らしきものが書かれている。他の日本人が間違えてサインしたのなら、そこにあるべきはその人の名前であり、U氏の名前ではないはずだ。
 「これ、あなたが書いたんでしょ?」とオーナーに聞くと、最初こそ否定していたものの、やがて自分が代わりにサインしようとして、うまく書けなかった事を認めた。「だったら最初からそう言うべきだし、そもそも他人のサインを真似しちゃだめでしょ」と僕が言うと、「これは単なる形式的な書類で、ノープロブレムだ。なぜそんなに気にするんだ」と開き直った。
 たぶん、彼は永遠に気づかないだろう。嘘をつかれることや、自分のサインが真似される不快感を。

 また、向かいの部屋に泊まっていた日本人の大学生が、ドアに自前の南京錠をかけ、その鍵を無くしてしまった。彼がオーナーに相談すると、業者を呼んで鍵をこわさなくてはならないので、その費用として10ドルかかると言われたらしい。10ドルといえばその宿のドミトリーの10日分の宿泊費にあたり、平均的労働者の月収の4分の1にも匹敵する。たかが南京錠を壊すのにそんな大金がかかるはずがなく、僕とU氏は「俺たちがやってあげるよ」と、U氏の持っていたナイフで作業に取りかかった。
 しかしオーナーは「ドアの金具が壊れる」と僕たちを強引に止め、時間に余裕のない大学生も「僕がお金を払えば済むことですから」と、10ドルを支払ってしまった。そう言われると僕たちの出る幕はなく、おとなしく部屋に戻ったのだが、後になって見るとオーナーが自ら鉄ヤスリで鍵を壊していた。
 「あんた、さっき業者を呼ぶから金がかかるって言わなかったか」と僕が問い詰めると、彼は平然と「いや、彼には事情を説明してある。俺が自分で鍵を壊し、その手間賃として俺が10ドル受け取るのだ」と言った。しかし後になって大学生と別の場所で再会すると、宿のオーナーは最後まで業者を呼ぶ費用だと言っていたらしい。
 人が部屋に入れず、困っているのにつけこんで10ドルをせしめようなんて、ひどいと思う。まともな宿だったらサービスで開けてくれるところだ。

 文句ばかり書いても仕方ないのだが、どんどん筆が進むのだ。コンチクショー。
 その宿には情報ノートがあった。しかし、ビリビリに破られていてページの欠損がひどい。上記の大学生が部屋の料金について交渉するとき、ノートに書いてあった「僕はここのシングルに60ルピーで泊まりました」という部分を見せたのだが、次の日にはそのページは破られていた。ここのオーナーは、自分に都合の悪い書き込みがあるとすぐに破ってしまうのだ。その裏に、宿泊者にとって有益な書き込みがあるかもしれないのに。
 また、僕とU氏はドミトリー(といっても普通の4人部屋)に入ったのだが、そこにはテレビがあり、オーナーの友達がそれを見に勝手に部屋に入ってくる。そして番組の合間に大理石細工のパンフレットを見せると、「あとで僕の店に来ないか、ミルダケタダ」なんて言うのだ。ドミトリーといえど、部屋の中でまで営業されてはたまらない。しかし、僕とU氏は事もあろうに小額紙幣がなく、2日分の宿泊費を前払いしてしまったのだ。
 こんな調子の宿に2泊。疲れがたまるだけなのだ。

 ただ、料理番の自称「中村サン」だけは、この宿でも憎めないキャラだった。なぜ中村なのかわからないが、むしろ稲川淳二にそっくりなインド親父で、会うたびに「牛肉でもハシシでも何でも手に入れてやるから、食べたいものがあれば俺に言え!」と鼻息荒いのだ。
 さて、U氏は実は料理人であり、日本の鶏料理屋で毎日鶏をシメる作業に勤しんでいた。今でも刃渡り20センチのランボー・ナイフを持ち歩き(それを見たインド人は「警察に捕まるぞ」と言っていた)、通りを闊歩する牛や豚を見ては、「青山さん、あいつら誰かのモンでしょうかねえ。シメちゃ駄目ですかねえ」などと半ば本気で言う、狩猟派パッカーなのである。

 彼は稲川淳二に、前から試したいと思っていた「脳味噌カレー」をリクエストした。
 ブレイン・カレー、という言葉を聞いたとき、稲川淳二は一瞬目を見開いて驚き、そして「ヤルナ、お前ら」というように目を細めると、「俺はこの宿で働いて9年半になるが、その注文は初めてだ」と言った。
 僕たちの挑戦は「相手にとって不足なし」だったらしい。彼は市場に羊の脳味噌を仕入れに行くと、腕によりをかけて脳味噌カレーを作ってくれた。
 差し出されたカレーは色こそ違うが、一見麻婆豆腐に見えた。豆腐のように白くてゴロゴロしているのが羊の脳味噌らしい。恐る恐る口に運んでみると、まったりとしてチーズのような食感である。脳味噌自体に味はほとんどなく、からめられたカレーの辛さをまろやかに中和する。
 脳味噌を食って、少しは頭が良くなったのだろうか。それとも知能が羊並みに落ちたのだろうか。あっ、狂牛病とか大丈夫かな?いずれにしても、なかなかイケる一品なのであった・・・。

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 さて、次の日。肝心のタージ・マハル観光を前に、U氏は「メ・ネパーリ・フン!メ・ネパーリ・フン!」と呪文のようにブツブツと唱えていた。メ・ネパーリ・フン、というのはヒンズー語で「私はネパール人です」という意味で、ネパール人によく間違えられるU氏は、それを利用して20ルピーでタージ・マハルに入場するつもりだったのだ。
 思いきり日本人顔の僕と彼は、別々に入場窓口に並んだ。僕は一足先に外国人料金を支払って中で待っていたが、しばらくすると悔しそうな顔をしたU氏がとぼとぼと歩いてきた。
 「俺、ちゃんとメ・ネパーリ・フン!って言ったのに、窓口の親父は冷ややかに俺を見て、セブンハンドレッド・フィフティ・ルピー・プリーズ、っていいやがったんです!」
 こうしてU氏のネパール人扮装作戦は失敗した。誰か、この方法で成功した日本人を知らないだろうか?

 そうして入場したタージ・マハルだったが、正直な感想は「やっぱりこの程度か」。
 アンコールワットにしてもマチュピチュにしても、入場にはまとまった金額が必要になるが、みんな文句を言わないのはそれに見合うだけの感動があるからである。一方、タージ・マハルに関して聞く噂といえば「入場料が高い」ということだけ。確かに白亜の美しい建物で、インドに来たなら一度は見るべきだと思うが、入場料金は5ドル程度が妥当だと思う。
 タージ・マハルは17世紀、ムガル帝国の王様シャー・ジャハーンが愛する妻のために建てた巨大な廟、簡単にいえば墓である。だから内部にあるのはその妻と自分の棺だけで、上に登れるわけでも巨大な礼拝堂が中にあるわけでもなく、わざわざ靴を脱いで中に入っても10分ほどで見物は終わってしまう。

 タージ・マハルの建設には20年を超える年月と帝国が傾くほどの費用がかかったらしい。おそらく当時の市民は「こんな贅沢なもん作りやがって」と白いドームを忌々しく見上げていたと思う。
 その400年後、異国の旅行者たちは「15ドルは高すぎるだろう、おい」と、同じように批判的な目で見ている。頼んでもいないのに勝手に建てられ、文句を言われ続けているタージ・マハルもちょっと可愛そうだ。

 同じアグラーでも、もう一つの観光スポット、アグラー城の方が印象は良かった。
 ムガル帝国の中心だった城からは、眼下のヤムナー河、そして約2キロ離れたタージ・マハルがよく見える。タージ・マハルを作ったシャー・ジャハーンはその後、息子たちの権力争いに巻き込まれ、他の兄弟を次々と殺して帝位についたアウラングゼーブによって城の東端にある塔に幽閉されてしまった。彼は74歳で死ぬまでの8年間、愛する妻の巨大な墓を眺め続けて生活したのだ。
 その塔からタージ・マハルを望むと、実の息子の虜になり、思い出だけに浸って晩年を細々と生きた男の気持ちが偲ばれる。いつの時代も絶大な権力を誇り、そしてそれを突然失った者の末路は悲しい。

 アグラー城から宿に帰るとき、サイクル・リクシャー(自転車タクシー)を捕まえた。
 一台に二人乗って5ルピーずつと交渉したのに、親父は知り合いの漕ぎ手をもう一人連れてきて、二台に分乗しても5ルピーずつでいい、と言った。嫌な予感がしたが、案の定しばらく進むと「途中に知り合いの土産物屋がある。ミルダケタダ、寄って行こう」と言い出した。
 僕は「土産物屋はいい、直接宿に行け」というが、親父はしつこい。僕は頭に来て、「行けつったら、行け、こげ、コノ!」と、座席から足を伸ばして親父の座っているサドルをガンガン蹴っ飛ばした。すると親父は「直接宿に行くなら一人10ルピーだ、それが嫌なら一台に二人乗れ!」と言い出した。だから最初から一台に二人でいいって言ってんじゃんか、このクソジジイ!
 僕とU氏はそれぞれのリキシャーを止めさせ、ビタ一文払わずに降りると、宿に向かって歩き出した。親父は最初の条件通りで何が問題なのか、と理解できない様子だったが、欲の皮の突っ張ったジジイどもに仕事をさせてあげるつもりは無い。彼らは1キロ以上も僕たちを乗せて、何も得られなかったのだ。

 アグラーはインドでも有数の観光地だけあって、悪質な宿やリキシャーが多い。しかし、彼らも最初は真っ当な商売をしていたのだと思う。そして、そのうちに気づいてしまったのだ。外国人はとんでもない金額を持ち合わせており、真面目にコツコツやるより、そいつらからチョロまかした方がはるかに楽である、ということを。
 そういえばカジュラホーの土産物屋「まねきねこ」のオーナー、ラジェスが持っていたゲスト・ブックに、こんな書き込みがあった。まだ彼が15歳のときの、古い書き込みである。
 「この少年は信頼に価すると思います。ただ、彼がこれからインドの観光業界で生きていくにあたって、他の人のようにスレていかないことを祈るのみです」
 アグラーの宿、ジャハーンギール・ロッジにしても、昔はもっと日本人が溜まっていたようだから、少しはマシだったのだと思う。それが長い間日本人を相手に商売をしている間に、南京錠を壊すのに10ドル請求してもこいつらなら文句も言わず払う、シルバーのアクセサリーも大理石細工もポンポン買う、ということを知ってしまったのだ。

 言うなれば、彼らを腐らせたのは僕たち外国人観光客なのだ。だから、彼らの言い値を支払ったり、頼みもしないのに連れて行かれた土産物屋で何かを買う、という行為はインド人の悪質化を助長しているに過ぎない。よくインドで「騙された」「ボラれた」という文句を聞くが、僕に言わせれば、あんたらがしてやられたおかげで彼らはますます腐っていくのだ。
 上記のリキシャーの一件で、大の大人4人が声を張り上げてモメた金額は、わずかに10ルピー(約25円)。しかし僕たちは闘い続けなければならない。長い目で見れば騙す、ボる、という行為は割に合わない、ということを、彼らを腐らせてしまった僕たちが教えなければならないのだ。
 ・・・な〜んて、偉そうなことを書いてしまったが、実はくやしいだけなんだよね。リキシャーの親父にボられるってことが。引きとめる親父を振り払って立ち去る時も、俺の中のサディスティックな一面は「ザマミロ」と笑っていたのだ。

 こうして僕とU氏のアグラー観光は終わった。富士山登頂みたいで、一度来ればもう十分、という感じだった。しかしこの2週間後、ここに戻ってくることになろうとは誰が予想できただろうか?

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 アグラーの次は「ピンク・シティ」の異名をもつ、ジャイプルを目指した。
 U氏はジャイプルの後、インド西部、そして南部と下って行く。僕は首都デリーからバラナシに戻る予定だったが、ガイドブックでみた街の様子が気に入って、ジャイプルまで付き合うことにしたのだ。
 「ピンク・シティ」といっても夜空にネオンが煌々と輝き、街角に立っているお姉ちゃんが「アッハーン、ウッフーン」と色目を使うようなところではない。そのピンクではないのだ。
 ジャイプルはイスラム色の濃い砂漠の州、ラージャスターンにあり、旧市街がピンク色で美しく統一された古都なのである。

 アグラーから「デラックスバス」に乗って約5時間。小汚い観光バスなのだが、インドの普通のバスに比べるとはるかに乗り心地がよく、まわりの客層も明らかに「上級カースト!」というような人たちで、快適な移動だった。
 着いたジャイプルは思ったよりも大きな街で、小奇麗なブティックなんかもあってモダンだった。ウロついている牛も丸々と太って、アバラの浮いているバラナシの牛とは全然違う。インドの街の経済状態は、野良牛の栄養状態で量れるのではないか、なんて思ったりもした。

 宿は「ゴールデン・ホテル」にした。最上階の角部屋は、窓の隙間から小鳥が入り込んで巣を作ろうとするのを別にすれば、日当たりも眺めも非常に良かった。
 「地球の歩き方」によると、この宿のオーナーは同系列のレストランの利用をしつこく勧めるらしいが、そのレストランとは僕たちがそうと知らずに入り、「うまいうまい!」と絶賛したところだった。

 店内は日本のファミリーレストラン並みに綺麗で、サービスもよく、45ルピーのターリー(定食)はオカズも豊富だしデザートもつくわで、僕たちは結局ジャイプルで3泊したが、毎晩ここで食べることとなった。レストランの名前は「GOKUL」、お菓子屋の2階です。場所は「ゴールデン・ホテル」で聞いてね。
 ちなみにこのターリーはそれまで食った中で一番だと感じたが、後で会ったある旅行者も、ジャイプルの別の店で食べたターリーが一番だと言っていた。もしかしたらジャイプルは食のレベルが高い街なのかもしれない。

 2日目から、市内にある「風の宮殿」や郊外の「ジャイガール要塞」など観光を開始したが、旧市街の一部を除き、あんまり「ピンク!」という感じはしなかった。しかしイスラムの風情ある街であることは確かで、僕は柄にもなくシルバーアクセサリー屋でリングやブレスレットなんかを買ってしまった。ジャイプルは、インドの街の中でもけっこう気に入った方である。

 僕とU氏は10日間の行動を共にしたあと、2月5日に別れることになった。
 U氏は街並みが青で統一された「ブルー・シティ」、ジョードブルを目指し、僕はネパールに向かうべくバラナシに戻る。そのためにはいったん首都デリーに出なければならないと思っていたが、意外にもジャイプルから直行の列車が出ていたので、僕はそれを利用することにした。
 バラナシからはバスでネパールに向かう予定だ。インドの列車もこれで最後だと思い、僕は贅沢してエアコンつきの車両にした。バラナシに着くまでの21時間、僕は快適な寝台で「新宿鮫」の最新作を読んで過ごした。バラナシに着いたらすぐにネパールに向かい、ポカラあたりで一人になり、ゆっくりと溜まった日記を打とう、と考えていた。
 しかし人の運命は本当にわからない。僕はこの後、さらに60時間にもわたってインドの列車に揺られ、常に誰かと行動を共にすることになるのだ。