旅の日記(番外編)

インド・カジュラホー編(2003年1月26〜30日)

エロスの村のリッキー・マーティン

 バラナシの「フレンズ・ゲストハウス」のオーナー、ラジャは、「女をクドくのは簡単だ」と掛布のような声で言った。彼女をある村に連れていって、そこにあるミトゥナ(男女交合像)を一緒に見れば、言葉なんか交わさなくてもお互いムラムラし、その夜、結ばれることになるというのだ。
 ある村とは、バラナシの西300キロにあるカジュラホー。約1000年前、その地を支配していたチャンデーラ王国は次々と寺院を建て、男女が絡み合った艶めかしいデザインのレリーフや彫刻で飾った。
 これらの寺院に限らず、ヒンズーの寺院にはよくリンガという石の柱が祭られている。これは早い話がチンポコであり、寺院の塔もまたチンポコをイメージしているという。ヒンズー教においては、チンポコや交合の様子などは命の源として崇拝の対象となるのだ。

 しかし、そんな像を一緒に見れば女がオトせるというのは中学生レベルの発想だ。女性が交合像を見て単純に発情するなんて思っていたら、田嶋陽子先生に大目玉を食らうのは間違いない。
 それにカジュラホーの寺院はぜひ見たいが、一緒に行く人に発情されてもこっちが困る。僕は「フレンズ〜」のドミトリーでベッドが隣同士だった人としばらく一緒に旅をすることになったが、その人とは中学時代には野球部で柵越えのホームランを打ち、高校時代にはプロのボクシング・ジムでサンドバッグを叩いていたという27歳、ボウズ頭のバリバリの男なのだ。
 できれば本名や写真を紹介したいが、目立つのは嫌とのことなので、ここではU氏としておこう。

 1月26日の早朝、僕とU氏はラジャに別れを告げると、バラナシのバス・スタンド(バスターミナル)に向かった。カジュラホーには鉄道が通っていなく、列車とバスを乗り継ぐのよりは時間がかかるが、直行バスで行った方が簡単なのだ。
 バスを待つ間、バス・スタンドにあった小汚い食堂で朝食を食べたが、まともに食べられないくらい不味いうえに頼んでない料理まで勝手に運ばれ、その分も請求された。しかし、そこで払ってしまうほど僕たちは甘くない。声を荒げて猛抗議し、最後は食べた分だけの料金を叩きつけ、引き止める手を振り払って立ち去った。
 こうして「インド人とのバトルの旅withU氏」は幕を開けたのだ。

 カジュラホーまでは結局15時間もかかった。しかし、ブッタガヤーからバラナシまで乗ったバスに比べれば乗り心地もいいし、寒くもない。また、夜になって酒かクスリか、完全にラリってしまったランニングシャツの親父が道の真ん中に立ち塞がり、奇声をあげながらバスを通せんぼするというハプニングも起こり、なかなか飽きさせなかった。
 村外れのホテルの前にバスが止まったのは午前1時。これだけ遅いと他に選択肢がなく、仕方なく泊まったホテルだったが意外と快適だった。ただ村の中心地から遠いので、翌朝、僕たちは便利な場所にある安宿に引っ越した。

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 カジュラホーで過ごす最初の日は珍しく雨が降っていた。仕方なく、僕とU氏は一日をゆっくりと過ごすことにした。噂の男女交合像は、やっぱり太陽の下で見たい。
  ゆっくり昼食をとろうと一軒のレストランに入ると、日本語の達者な若者に話しかけられた。レストランの向かいでアクセサリー屋をやっているので、食後、お茶を飲みに来いと言う。彼が商売目的で誘っていることは重々承知しているが、その日は急ぐわけでもないし、冷やかし半分に付き合ってあげることにした。
 それが「リッキー」との出会いである。

 そのアクセサリー屋には、ひらがなで「まねきねこ」と書いてあった。それが店の名前らしい。中に入ると、彼は「ウェルカムでごじゃいます」と言って僕たちを椅子に座らせた。彼は自分のことをリッキー・マーティンと名乗ったが、もちろんそれはニックネームで、本名はラジェスというらしい。21歳、細身、身長165センチの褐色のインド人。どこらへんがリッキー・マーティンなのか全くわからないが、まあ、カジュラホーののどかな雰囲気に免じて許してあげよう。

 彼は僕たちにチャイを振る舞うと、自分が日本人旅行者や日本人の彼女と撮った写真を僕たちに見せた。なんでも一度日本人女性と結婚したそうだが、彼女の両親に反対されて別れたらしい。しかし、彼が見せた彼女からの最後の手紙は、「ごめん、両親の方がやっぱり大切です。それじゃ」と、あっさりとした感じだったので、正式に籍を入れていたかどうかは疑わしい。今は別の日本人女性と付き合っており、その娘が大阪に住んでいるので来年にでも訪ねていくそうだ。

 次に、彼は一冊のノートを僕たちに見せた。それには「滝に連れていってもらいました」「ごはんをごちそうになりました」などと日本語で書かれているが、最後は大体、「シルバーのリング、カッコいいのをありがとう」「安くしてもらってゴメンね」みたいな感じで終わっている。何のことはない、村を案内してもらったり、やさしくしてもらったりして、結局は彼のアクセサリーを買った人が残したコメントである。
 彼は「ノービジネス。お金に興味はないヨ。ただ日本語のベンキョしたいだけ」というが、少なくても僕たちはそんなことは信じない。ただ、彼の売るアクセサリーはデザインも値段も悪くはない。彼は次の日、夕食にチキンカレーを用意してくれるというので、まあ、それでお世話になったら一つ二つでも買ってやろうか、と僕たちは考えていた。
 カジュラホーは小さな村で、そして「まねきねこ」は僕たちの宿に近い。雨が上がった後、西群と東群に分かれている遺跡のうち、入場料のかからない後者を見に行ったが、そこから帰る途中にもリッキーに声をかけられ、結局その日は2、3杯ずつチャイをごちそうになった。

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 次の日は晴れ渡った。この間まで寒い寒いと騒いでいたのに、いきなり刺すような陽射しである。暖かいのを通り越し、いきなり暑いのだ。この調子でどんどん気温が上がっていき、4月には40度を超えるようになるらしい。
 いよいよ僕たちは、ミトゥナ像で覆われた西群の遺跡を見に行った。かつてこの地には80を超える石の寺院が並んでいたが、その後に入ってきたイスラーム教徒は「こんなにエッチなの駄目!」と壊してしまい、今では20ほどしか残っていない。西群にはその中でも特に大きく、保存状態が良いものが集まっている。

 入場料を払って一発目の寺院に挑むと、はい、こんなん出ました。上に下に右に左に、くんずほぐれつ宴たけなわ!なのである。
 ・・・しかし、驚くべきはその精巧な彫りと保存状態だ。高さ3、40メートルはある建物のほぼ全面が、こんなレリーフやヒンズーの神々で埋め尽くされている。1000年前の上流階級は神との一体化を目指し、このような性的な儀式を行ったといわれているが、とてもそんなに昔の物とは思えない。遺跡の「質」だけとってみれば、このカジュラホーの寺院はアンコールワットと比べても遜色がない。
 (遺跡がすごいかどうか、というより、僕好みになるかどうかは、保存状態や美しさなどといった「質」の他に、ジャングルに埋もれたマヤの遺跡や山の頂にあるインカの遺跡のように、ロケーションや風情も大切になる。残念ながら、そういった面ではここは平凡な気がする)

 これら寺院の文化的意義は、むしろ外国人の方が認めているようだ。当のインド人といえばミトゥナ像の絵葉書やガイドブック、84手あるといわれる体位の解説書、また男の人形が女の人形に向かってカクカク腰を振るキーホルダーなどを持ってきては、目を輝かせて「グヘヘ、すごいだろう」と売りつけようとする。
 そんなもの誰が買うんだろう、と思っていたら、上流階級のインド人の親父が買っていた。なるほど、インド人のセンスに応えるのもまたインド人なのだ。

 その夜、僕たちはリッキーに呼ばれ、チキンカレーをごちそうになった。写真の一番左がリッキー、真ん中がその弟(ということになっているけど、帰る家はなぜか違う)、右端はカレーを作ってくれたリッキーの友人である。
 カレーはまあ、普通に美味かった。しかし食べている間、延々と彼が話しかけてくるのが辛い。自分がいかにお金に興味がないか、道徳をわきまえているか、などと延々と説くのだ。かというと、その合間に入るのはこっちが引くような下ネタ。

 彼はノービジネスだ、ただ話すだけだ、と言っていたが、会話が進んでくるうちに来年日本に行くとき面倒をみてくれ、と言ってきた。僕たちは「まあ、その時に都合があえばね」と適当にかわそうとしたが、リッキーは「じゃあ僕が2人に会いに行って、都合がつかなかったら道端で寝ろというのか」と半分冗談・半分本気で言った。
 うーん、確かにカレーやチャイはごちそうになったけど、だからと言って日本で泊めてくれ、というのは何とも急な展開だなあ。それに、彼はきっと日本人がみんな彼のようなペースで仕事をしていて、それで高収入を得ていると思っているのだろう。彼は通勤ラッシュやサービス残業、接待などという言葉を知らない。

 彼は英語や日本語のほかにスペイン語も話せ、他にも数カ国後を操るというが、あながち嘘ではなさそうだ。彼ぐらい臆面もなくベラベラと話していれば語学も上達するだろう。僕たちだって、言葉を覚えることによって年収が2000万にアップするのならば頑張って勉強するはずだ。

 食後、彼は近くに友達の店があるので、見に行こう、ノープロブレムだ、と言った。僕とU氏は「来たな」と思ったが、カレーをごちそうになっているので見に行くくらいなら仕方ない。
 連れて行かれたのは「さくら」という、やはり日本名の土産物屋。しかしこっちは「まねきねこ」と違って店構えもしっかりしている。なんか高そうな臭いがプンプンするなあ、と思っていたら、案の定、見せられたのは高級な曼荼羅。リッキーは自分で「見るだけ、見るだけ」と言っているのに、どんどん棚から出してきてカウンターに並べると、「どれが好きだ?これか?これは8000ルピーだ。だけどディスカウントも可能だ。いくらなら出す?」と言う。まわりをみると、いつの間にかインド人の若者が僕たちを取り囲み、入口をでっぷりとした親父が固めている。

 8000ルピーは最初のいい値とはいえ、2万円くらいの金額だ。僕とU氏は頭に来た。アクセサリーぐらいなら大人しく買ってやろうと思っていたが、曼荼羅を買わせようというのは可愛くない。けっこう手の込んだ品なのでそれ相応の金額はすると思うが、残念ながら僕らは全く興味がないし、ごちそうになったカレーの代わりというのでは高すぎる。
 僕とU氏はきっぱりと「要らない!」といい、店を出た。リッキーは僕たちの機嫌を損ねたことに気づくと、「ごめん、あれは友達に頼まれただけなんだ。明日の朝、朝食をごちそうするから店に来てくれ」と僕たちを引きとめた。
 だけど僕たちは断った。これ以上彼の世話にはなりたくない。

 しかし翌朝レストランで朝食を食べていると、彼がやってきてお茶だけでも飲んでくれ、としつこい。仕方なく最後のチャイをごちそうになると、今度は日本での連絡先を書いてくれ、とノートを差し出して来た。そこで僕とU氏は偽名とあるはずの無い電話番号を書いてやった。彼は僕たちに嘘をついた。これはそれに対するささやかな抵抗である。
 書き終えて「それじゃさよなら」と店を出ると、彼は目を丸くしていた。彼は最後に僕たちがアクセサリーを買うと思っていたのである。アホか、と思った。どんな神経をしているんだ?

 「まねきねこ」の主人リッキー・マーティン、本名ラジェスは賛否両論だと思う。彼のノートに「ありがとう」と書いた人は、本当に感謝しているのだと思う。何の代償もなしに彼のお世話になった人もいるかもしれない。
 しかし、僕は彼が大嫌いである。だから僕はこのページ上では声を大にして「カジュラホーの土産物屋『まねきねこ』には行くなと」言うし、それに反対の人は何らかの方法で「いや、彼はいい人だ」と表現すればいい。
 実は、彼はまた別の、ある許せない嘘を僕についていたのだ。その問題はこれを書いている現在(2月8日)、まだ進行中であり、その顛末を書く段階ではない。今、どんな方法で復讐ができるか、あるいはあきらめるのか思案中である。
 今言えるのは、トラブルを避けたいのであれば、いくら彼が日本語が上手でも、ほんのちょっと付き合うだけのつもりであっても、彼についていくべきではないということだ。

 カジュラホー。最初はのどかでいい村だと思ったのに、結局、人がスレているのは他の観光地や大都市と一緒である。僕は宿のバルコニーで深い溜息をついた。

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 カジュラホーの後、僕とU氏はダージ・マハルのあるアグラーに向かうことにしたが、その途中でオルチャという町に寄った。カジュラホーからバスで西北に5時間半、城の跡がある静かな町である。カジュラホーよりは大きいが、人はそれほどスレていない。少なくても日本人には観光地としてあまり紹介されていないからだろう。
 僕とU氏はここで一泊し、カジュラホーの垢を落とした。夜、ピンク色の大きなヒンズー寺院で行われていたプージャー(礼拝)に紛れ込むと、おでこに黄色い横線を3本書いた、サイババのような頭のバラモン(聖職者)が僕に甘いお菓子をくれた。

 夕食の後、バラナシではなかなか手に入らなかった酒を飲むことにした。雑貨屋の親父に「酒はないか」と聞くと、彼は静かに頷き、やがて懐に透明な瓶を抱えて持ってきた。代金を払うとき、僕が受け取った瓶をカウンターの上に無造作に置くと、親父はあわててそれをカウンターの下に隠した。まるで麻薬の取引のようなのだ。
 その酒は、ラベルに「50度!」と書いてあるにもかかわらず、水でうすめた焼酎のような感じだった。だけど悪くはない。僕とU氏はその夜のうちに一瓶空けてしまった。