旅の日記

ロシア横断編その6(2002年9月8〜10日)

2002年9月8日(日) 黄金のタイガをゆく(Railroad though the Taiga)

 8日の朝、2段ベッドの上で目が覚めると、貨物列車904号は静かに走りつづけていた。
 外をみると、タイガと呼ばれるシベリア全土を覆う針葉樹林は美しく色づいている。ロシア人はこれを「黄金の秋」と呼ぶそうだ。なるほど、本当に木々が輝いて見える。
 「あづさや」でダラダラしている間にすっかり寒くなり、出遅れた感があったが、ひょっとしていい時期に来たのかもしれない。雨の多い夏が終わり、空も晴れ渡っていた。

 どうも静かだな・・・と思っていたら、酔っ払いのスラーバおじさんがいない。寝起きのアレキサンダさんに聞いてみると、彼は昨夜、僕の寝ている間に列車を降りたらしい。はあ?一緒にハバロフスクまで行こうとさんざん騒いでいたのに、何のこっちゃ?
 まあ、別にいいんだけど。静かなら静かで、こしたことはない。

 さて、ハバロフスクまではまだ30時間以上もある。景色はいいが、さすがに何時間も見続けられるものではない。ふとアレキサンダさんの持っていた運行表を見ると、この貨物列車はなんと、モスクワからウラジオストクまでを215時間(丸9日間)もかかるらしい。それで遅れが2時間なんて、ロシアにしては上出来だな・・・。

 30時間なんて、それに比べたらはるかに短いが、それでもヒマなものはヒマである。持っている本といえば、すでに隅々まで読んだ「地球の歩き方」と「ロンリープラネット」だけだし、辞書を使ってアレキサンダさんやマキシム君と会話をするのも、10分くらいしか間が持たない。
 そこで短歌でも詠んでみることにした。ううむ・・・

黄金のタイガを分けゆく鉄の道 人馬をのせて東へ東へ
行きずりの旅人助くるその笑顔 凍土の国の法の番人

 おっ、調子いいじゃないか!今度はモンゴルのもつくってみよう!

草海に浮かぶは白きゲルひとつ アイラグ(馬乳酒)飲んだら 出たのはゲリじゃん!

 あれ、腹壊しやすいからね。(ちなみにモンゴルの悪路に揺られすぎると、出るのはゲロという噂もある)
 ・・・何言ってんだ、俺?はあ、これで5分はつぶれたかな?
 
 列車はときおり駅に止まったが、アレキサンダさんはホームに出ないよう僕に言った。どうやら僕を乗せているのはモグリの行為らしく、シルカの警察は気にしなかったが、だからといって他の場所でも同じとは限らない。見つかれば、アレキサンダさんがワイロで解決しなければならない場合もあるという。
 そういえば、僕が金を払ったのは彼個人に対してだし、切符も領収書ももらっていない。なんか「蛇頭」に率いられて密航する中国人のような気分になった。

 僕はあまり食料を持っていなかったので、停車中にホームの物売りから調達しようと思っていたのだが、それもかなわない。
 ではどうしたかというと、アレキサンダさんやマキシム君が毎食用意してくれたのだ。悪いので持っていた米と缶詰は全部あげたが、3人では大した足しにはならない。結局、僕は彼らが持っていたじゃがいもや酢漬けの魚、パン、クッキーなどを食べることになった。
 まさに3食、昼寝つき。これでハバロフスクまで行けるなんて、みんなに怒られそう!

 そうこうしているうちに日はまた落ちてくれ、僕は2段ベッドの上で寝袋に入った。
 列車が遅れていたので、はじめに降りる予定だったシマノフスクの駅に着いたのは深夜だった。僕はウトウトとしながら、ハバロフスクまで行けて良かった〜としみじみ思うのだった。


本日の走行距離           0キロ(計82441キロ)

出費                      なし

宿泊          貨物列車904号


2002年9月9日(月) ハバロフスク着(Khabarovsk)

 ハバロフスク到着は夕方か夜の予定だ。それまで今日も薄暗い車内で暇なのである。
 しかし文句は言っていられない。僕はやっぱり、とてもラッキーだと思う。この区間を同じように列車で越えたライダーに何人も会ったり、エピソードを聞いたりしたが、何らかのトラブルに遭った人が多い。
 例えば・・・

1.乗せられたのは車を積むための金網張りの車両だった。トイレなし、風吹きさらしで30数時間。寝ることもできない。おまけに、バイクの横でウトウトしている間にウエストバッグから金を抜き取られた。

2.バイクが他の車と接近して積まれ、わずかではあるが、バイクのステップでバンパーにキズがついてしまった。車のオーナーが神経質な人で、ヘルメットを人質に取られて100ドル払わされた。おまけに荷物からポケットカメラがなくなっていた。

3.駅で列車を待っている間に酒盛りになり、そのまま眠ってしまったスキにバッグを盗られた。

4.中古車を積もうとする人で長蛇の列になっており、数日待つ代わりに200ドル払わされた。

5.うまい具合に列車が見つからず、駅で何日もキャンプするハメになった。

 僕のまわりでは、小梅&得政ペアが手続き的にも料金的にも一番スムーズにいったケースだが、彼らはハバロフスクまでを希望して断られた。そして彼らは寒い貨物スペースに布団を敷いて寝ていたのだ。
 僕はその上をゆく、「ハバロフスクまで2000キロ、3食ベッドつき、3000ルーブルでおまかせパック」。僕はウランバートルからウラジオストクまで2週間はかかると思っていたが、どうやらその半分で済みそうだ。シルカで列車を待つ2、3日、そしてシマノフスクからハバロフスクまでダートを走る2、3日が無くなったのだから・・・。
 うーん、やっぱり日頃の行いが良いから?

 午後の時点で列車は4時間ほど遅れていた。そのままでは到着が夜になってしまい、暗い中での宿探しを覚悟していたが、夕方になって、金色に輝く川の向こうに大都市が見えてきた。
 まさか、と思ってマキシム君に聞くと、やっぱりそうだった。「あれがハバロフスクだよ」
 いつのまに挽回したんだ?運行表を見ると、明らかに停まっていない駅がある。どうなってんだ?まあ、早く着くのだからいいのだけど。

 アレキサンダさんは僕に段取りを説明した。
 「俺たちもハバロフスクで降ろす荷物があるので、まずはそれをやりながら、ホームに警察がいないかチェックする。荷物を受け取る者たちが来ているから、人手には困らない。君は中で待っていろ」
 ・・・ほんと、密航のノリだな。

 貨物列車904号はハバロフスク駅に滑り込んだ。車両の扉が開けられ、男たちが数人乗り込んできて綿の詰まった大きな袋をホームに下ろした。うまい具合に警察はいないらしい。今だ、とアレキサンダさんは合図した。
 男たちのほか、ホームにいた迷彩服の兵隊たちも手伝ってくれてDRは数秒のうちにホームに降ろされた。ホームから道路へのアクセスが心配だったが、すぐ横が駅前のロータリーになっており、塀も段差もない。とことんツイている。

 バイクに荷物を載せていると、ようやく警察官が3人巡回してきて僕を発見した。チラリと横目で見ると、アレキサンダさんたちはすでに車両の扉を閉め、姿を消していた。別れやお礼を十分に言えなかったけど、それでいい。あとはこっちの問題だ。
 警察官は僕のパスポートやバイクの書類を簡単にチェックすると、すぐに解放してくれた。ロータリーからちょっと入って停車しているように見えたのだろう。まさか、目の前のこの列車に乗ってきたとは思わないだろうな・・・。

 45時間の列車旅の末、僕は無事にハバロフスクに降り立った。勝利の雄叫びを上げながら、駅前のレーニン広場から走りだす。
 「地球の歩き方」で目星をつけていたホテル「ツーリスト」に行くが、非常に共産主義的な対応で、法外な外国人料金をビタ一文まけてくれない。こんなホテルで2150ルーブル(8000円)も払えるかってーの!
 次に「ロンリープラネット」に載っていた安ホテルに向かったが、新装オープンで小奇麗に様変わりしていた。1280ルーブル(4900円)とやや高めだが、まさに日は落ちようとしていた。フロントのお姉さんは最初こそ冷たかったが、こっちが日本人だとわかるとカタコトの日本語を話し出した。よし、フンパツしてここに泊まってしまおう!

 ただし、宿泊に際して一つ条件があった。明日の朝から予約が入っているので、午前7時ごろにはチェックアウトしてほしいというのだ。1280ルーブル払ってゆっくりできないのは辛いが、今から他の宿をあたる気にもならない。
 また、ハバロフスクからロシアの最終地点ウラジオストクまでは約750キロある。2日に刻むつもりでいたが、早朝に出るのであればがんばって一日で行ってしまおう。
 うおお、いきなりウラジオストクが視野に入ってきた!明日の夜には日本海に達するのだ!

 そんなわけで僕はそのホテル「ベルサル」にチェックインしたが、すぐ近くの有料駐車場は「日本人には世話になっているから」と、無料でバイクを停めさせてくれた。
 さっきのフロントのお姉さんといい、この駐車場といい、極東に来たらいきなり待遇が良くなった。やっぱり、ここらへんの人たちの目はモスクワではなく、アジアの方に向いているらしい。


本日の走行距離         約10キロ(計82451キロ)

出費                   1280P  宿泊費
     51P 食費
計     1331P (約5070円) 宿泊         ホテル「ベルサル」


2002年9月10日(火) 日本海だ!(Reaching sea of Japan)

 日の出とともにハバロフスクを出発。
 ホテルは朝食つきで、朝6時には部屋に届くはずだったが、来なかった。しかし今日に限ってはそんなことはどうでもいい。僕の頭にあったのはウラジオストク!日本海!ラスト750キロ、行ったるでェー!

 列車に乗っている間ずっと快晴だったので、その晴間がやってくるものかと思っていたが、ハバロフスクを出てからしばらくは曇天だった。おかげで気温がなかなか上がらない。
 途中、何回か給油に停まるが、腹ごしらえに適当なところがない。いや、あることはあるのだが、「今のカフェに寄ろうかな、引き返そうかな」などと考えているうちに面倒くさくなり、結局そのまま「行ったるでェー!」と進んでしまうのだ。

 今日、僕の頭に流れていたのはU2の「One」だった。U2は、別に好きでも嫌いでもなかった。家に帰ればCDが2枚あるけど、僕はこの曲を知らなかった。(たぶんヒットしたんだと思うけど)
 初めて聴いたのは、オランダのおしゃべりオノの家でだ。彼は別の歌手がコピーしたこの曲をかけてくれて、次にオリジナルであるU2のバージョンを聴かせてくれた。そして僕は一発で気に入ってしまって、その場でコピーさせてもらったのだ。この旅で出会ったイカす曲ベスト10に入るだろう。
 その他に口ずさんだのは、いつものブランキー・ジェット・シティのナンバー。アルバム「ハーレム・ジェッツ」に入っている5、7、11曲目だ。
 ここまで来れば、もうタイヤやチェーンのことは心配しなくていい。僕は今までのストレスを発散するようにトラックや遅い車を抜かして進んだ。あいかわらずスピードメーターは動かないけど、たぶん時速100〜110キロくらいのペースだっだと思う。

 ハバロフスク〜ウラジオストク間の道路はきれいに舗装されていて、交通量も多かった。そしてそのほとんどが日本車である。極東には日本から流れてきた中古車が多いとは知っていたけれど、僕が思っていたよりずっと綺麗で新しい車が走っている。
 後から聞いた話だが、日本から来るのは必ずしも中古とは限らないらしい。ロシア人でも金を持っている人は持っているので、新車のランドクルーザーをポーン!と買って運んで来たりするのだ。
 確かに「学校法人みどり幼稚園」とか「山田運送(株)」とか「清里高原しらかば荘」とか書いてあるバスやトラックも多いんだけど・・・。

 結局、何も食べずにウラジオストクに近づく。道路は片側2車線になり、交通量はいよいよ多い。人口は60〜70万人だというが、かなり手前から家が建ち並び、かなりの大都市に近づいている感覚がある。100万人超のノボシェビリスクだって、こんなに大きくは感じなかったぞ。
 やがて街の中心部に入り、港湾施設が見えてきた、と思ったらズドン!視界が開けた!

 雲一つない空の下、静かな海が広がっていた・・・日本海!
 最後に海を見たのはユーラシア大陸の向こう側、10000キロ離れたエストニア。僕はようやく世界最大の国、ロシア横断を果たしたのだ。
 しかし、正直いって胸にガツン!と来るものがない。ここから富山県に渡って走って帰るから、やっぱり僕の旅のゴールは実家のある横浜ということになるのだろう。
 海もいいけど、暗くなる前に宿、宿。

 ウラジオストクは思ったよりモダンで綺麗な街だった。極東の治安の悪さや経済の低迷ぶりを聞いていたので退廃した都市をイメージしていたのだが、とんでもない。なかなかいいところじゃないか!
 ただ、港町にありがちだが坂が多く、道が狭くて渋滞が激しい。僕は車の列をかき分けるようにしてホテル「ウラジオストク」に向かった。

 無事ウラジオストクにたどり着いたら、僕は最後の日々をちょっといいホテルで過ごそうと決めていた。高層ホテルの部屋の窓から日本海を見下ろし、ブランデーグラスを傾けながら、開高健ばりに今までの冒険を振りかえるつもりだった。
 高級ホテルは手が届かないが、「地球の歩き方」で目星をつけたここくらいなら・・・と思ってフロントに行くが、一部屋1500ルーブル、約5700円。やっぱり無理だわ、さようなら〜。(5700円ぐらいで騒いで何が開高健だ、って噂もある)

 結局、イワケンたちに教えてもらった「コリアンハウス」という韓国料理屋の2階にある、民宿紹介所の部屋に落ちつくことになった。トイレ、シャワー共同で、部屋は蒸し暑く、窓を開けると蚊やハエやゲジゲジなんかが「待ってました〜」と押しかけてくるが、600ルーブルで済む。
 それでも600か・・・。夕食のファストフードもけっこうしたし、ウラジオストクは決して安いところではないと僕は悟った。


本日の走行距離        約770キロ(計83221キロ)

出費                    600P  宿泊費
     147P 飲食費
     320P ガソリン代
計     1067P (約4060円) 宿泊         民宿紹介所