旅の日記

ロシア横断編その5(2002年9月5〜7日)

2002年9月5日(木) ロシア再入国(Re-entering Russia)

 ロシアに再入国するのに相当時間がかかるだろうと思い、午前9時ごろに国境に挑んだが、今回は僕の予想を超えていた。
 モンゴル側はいたってスムーズだった。延長したビザの件も、書かなかった税関申告書の件も(入るときに用紙をくれなかった)何ら問題にならず、役人は並んでいた車を抜かさせてくれて、30分ほどで出国手続きを終えた。
 問題はその先だった。

 両国間にある中立地帯には、僕のようにモンゴルを出国し、ロシア入国を待つ車が数台並んでいた。
 ロシア側のゲートは閉まっていた。まあ、ジタバタしたって仕方がない。待つしかないのだ。
 ・・・しかし1時間経っても、2時間たっても、いっこうにゲートは開かない。これが少しずつでも列が進んでいれば希望が持てるのだが、まったく動かないとなると、あとどれくらい待てばいいのか、あるいは全く徒労に終わるのか、予想がつかない。金持ちと思われるメルセデスに乗ったロシア人も、「これだからウチの役人は」と怒っていた。

 やがて昼時になった。僕は朝から何も食べておらず、矢吹丈との試合を控えた力石徹の状態にかなり近づいていた。
 中立地帯には食堂も商店もない。絶望感が募ったとき、どこからともなくカバンを抱えたおじさんが登場。彼は我々の前でカバンを下ろすと、中からアルミ製の大きな器を取り出した。中に入っていたのはホカホカのボウズ(羊肉の肉まん)。彼は流しのボウズ売りだったのだ!
 しかし、彼の持ってきたボウズの数は人数に対して圧倒的に少なく、群がるモンゴル人に圧倒されて出遅れた僕は一つも買えなかった。そこで大量ゲットに成功したおばちゃんに「腹減った、死にそう。それ、くれくれ!」とゼスチャーで伝え、何とか二つを譲ってもらったのだった。
 その油ギトギトのボウズの美味かったこと!

 結局、ロシア側の女性係官が気まぐれのようにゲートを開けたのは午後3時過ぎだった。僕たちは中立地帯で5時間も待ったことになる。
 そこから1台1台荷物検査をして、書類を作成して、僕の再入国手続きが終わったのは午後4時ごろだった。手続き上で問題はなかったけど、正味7時間もかかったのって、今回の旅で最長記録かもしれない。
 その夜はそこから200キロほど北上し、ウラン・ウデの街に泊まることにしていた。あそこなら両替もできるし、安くていいホテルも知っている。夜までには到着できるだろう。いざ北上!進めや進め!

 と思ったら、本当の試練はそれからだった。
 一ヵ月前に来た道を戻っているつもりが、いつのまにかダートになり、山の中に入っていく。素直に引き返せばいいのだが、そこはツーリングライダーの悲しき性。「無駄に走る」ということをしたくないのだ。
 途中で人に道を聞いたが、僕はウラン・ウデのある北ではなく、まったく明後日の方向である東南に進んでいることがわかった。それでも引き返さず、なんとかウラン・ウデ方面に戻る道を探すが、夕暮れは一ヵ月の間に確実に早くなっていた。午後6時半で空は赤くなり、僕は人里離れた川原に芝生という絶好の野宿ポイントを見つけてしまった。

 結局、僕はウラン・ウデをあきらめ、そこで泊まることにした。そして夜、テントの中で考えていると、ウラン・ウデに戻る意味があまり無いことに気づいた。僕は東に進んできており、ここから北西のウラン・ウデに戻るとなると、丸一日を無駄にすることになる。問題はロシアの通貨ルーブルをあまり持っていないことだが、これはこの先のチタ市でも替えられるだろう。
 夜空には星も見えた。グズグズせず、天気が良いうちにこのまま東に進もう。


本日の走行距離        約180キロ(計81551キロ)

出費                    200Tg ボウズ
     4000Tg ガソリン
計     4200Tg(約450円) 宿泊         ナイスな川原


2002年9月6日(金) チタに到着(City of Chita)

 そんなわけで僕は6日の朝、日の出とともに川原を出発した。
 北上してきたが、標高がだいぶ下がったぶん、モンゴルほど冷え込みは厳しくない。60キロほどダートを飛ばし、ウラン・ウデとチタを結ぶ国道55号線にぶつかったのは午前9時だった。
 チタは幹線道路で行ける、最も東の都市だ。その先で舗装は途絶え、極東地方まで進もうと思ったら泥ヌタヌタ、川越え当たり前の険しいダートを覚悟で進むか、みんながやるように列車に載せるしかない。

 つまり、チタはモスクワ方面から伸びてくる国道の行きつく先なのだ。終わりが近いことを告げるように、幹線道路のくせに道幅は狭く、路面は荒れ、頼りない。
 そんな道を僕はひたすら東に進み、そして僕の頭にずっと流れていたのは、なぜかベルベット・アンダーグラウンドの曲だった。ギリシャで多田君にコピーさせてもらったヤツだから曲名を知らないのだけど、オルゴールのような音にあわせてルー・リードが「Sunday morning...」と気だるく歌う、スローなナンバーだ。

 3回の給油、1度の食事を挟み、その曲が何百回転かしたころ、今朝の川原から約700キロ離れたチタに到着。思ったよりも大きい街なので驚いた。
 夜が近いので自力でホテルを見つけることをあきらめ、タクシーに先導してもらってロンリープラネットに載っている2軒をあたるが、いずれも満室だという。両替どころじゃない、嫌な予感がした。ここまで走ってきて野宿?

 しかし、2軒目のホテルで教えてもらった郊外のホテル「バイカル」というのに、無事、空室があった。部屋は600ルーブルだが、外国人登録をするのなら1200になるという。なんじゃそりゃ!と思ったが、チタに長居するつもりはないので、登録はしないことにした。また、ここは珍しく敷地内にバイクを停めさせてくれた。
 久しぶりに700キロも走るとさすがに疲れる。部屋は高いだけあり、バスタブつきだった。僕はゆっくりと湯に浸かり、今後の計画を練った。明日はまず両替、土曜日だけど大丈夫だろうか?また、どこから列車を拾うべきなのか?


本日の走行距離        約700キロ(計82251キロ)

出費                    278P  ガソリン
     100P タクシー
     600P 宿代
     195P 飲食費
計     1173P (1ドル=約31.5ルーブル、約4470円) 宿泊         ホテル「バイカル」


2002年9月7日(土) ロシア人の優しさ(Kindness of Russian people)

 土曜日でも午前中なら銀行で両替ができるというので、歩いて街に出てみるが、銀行がなかなか見つからない。チタは思ったより大きな街で、メインストリートも長い。ウロウロしている間に時間と体力を浪費し、僕はあきらめてタクシーを捕まえることにした。困ったときのタクシー作戦だ。
 「両替がしたい」と運転手に告げると、彼は市場に立っていた闇両替商のところまで僕を乗せていった。闇両替か・・・この際、仕方がないだろう。見せ金かもしれないけど、その男はドルとルーブルの札束を両手に持っており、「いくらでも替えてやるぞ!」というオーラを放っていた。レートは1ドル=31.5ルーブル。ツーリスティックなホテルの両替屋よりよっぽどいい。

 タクシーの窓越しに「400ドル替えたい」と伝えた。その時、運転手の眉がピクッと動いたのを僕は見逃さなかった。400ドルといえば、こっちの月給の2〜3ヵ月分。日本でいえば4、50万円の価値はあるだろう。両替商は僕からドルを受け取ると、500ルーブル札をドン!と束にして渡してくれた。
 次にチタの駅まで行ってもらったが、もしかしたらこの運転手は人気のないところまで僕を乗せていって、刃物でも突きつけて「さっきの金を出せ」とでも言うんじゃないか、とちょっと心配だった。しかし、そんな疑惑をよそにタクシーはチタ駅に到着。おそらく通常よりかなり高い100ルーブルを請求されたが、あれだけの札束を見られていては、50ルーブルとか20ルーブルとかの単位でモメる気にはならない。

 チタの駅に行ったのは、極東地方までバイクごと列車で乗せていってもらう段取りをつけるためだ。みんなはもっと東、シルカやチャルフシェスクあたりから乗っているが、ここチタはシベリア鉄道の要所でもある。ここからでも乗れないわけはないだろう。
 ・・・と思い、窓口に行くが、辞書を持ってくるのを忘れていた。何とかジェスチャーと筆談で、次にまともな道の現れるシマノフスクまでバイクごと乗りたい、と伝えると、駅の裏手にある貨物専用の窓口を紹介された。
 そこに行き、恰幅のよいおばちゃんに同じことを説明すると、まず最初に旅客用の切符を買い、その後に戻ってきて貨物輸送の手続きをとれ、みたいなことを言われた。うーん、バイクと俺は一緒の車両に乗れるのだろうか?別送になると、めちゃめちゃ不安なんだが・・・。
 結局、チタの駅から乗るのはやめにした。妙にシステム化されていて逆に不安だ。やっぱりみんながやっているように、シルカまで走ってそこで列車を捕まえよう。

 宿に戻ったのは昼前だった。今日はもう一泊するつもりだったのだが、何気なく部屋のテレビをつけると天気予報をやっていて、そして西から低気圧が近づいてきていると伝えていた。
 決断は早かった。朝から何も食べていなかったが、空腹を抱えて走るほうが、雨のダートを走るよりはるかに楽であることを僕は体験的に知っている。昨夜洗った下着も乾いていなかったが、かまわずバックパックに突っ込み、僕は急きょチェックアウトすることにした。雨が来る前にシルカまで走ってしまおう。

 チタを出て100キロほどは新しい舗装路だったが、その先はアップダウンの激しいフラットダートになった。しかし路面は乾いているし、砂利や砂も浅いので走りやすい。これくらいのダートなら、むしろ楽しくて歓迎だ。時速60〜80キロで針葉樹林の中をさらに100キロほど進む。

 そして午後4時ごろシルカに到着した。鉄道駅を中心とした小さな町である。
 その入口で僕を待っていたのは・・・ウオッカの一気飲みだった。結婚式があったらしく、花嫁がウオッカの注がれたショットグラスを持ってきて、「さあ、飲んで飲んで!祝って祝って!」というのだ。
 無下に断るわけにもいかず、クイッと空けると、「さあさ、もう一杯」と、結局2杯も飲まされてしまった。空腹にウオッカを2杯。すっかり酔っ払っちったい、べらんめーめ、こんちくしょう、この勢いで列車捕まえるぞ、ウーイ!

 ・・・と千鳥走行で駅に行くが、窓口のおばちゃんは「ここではバイクは載せられません」とニベもない。むむっ、予想していなかった展開!都合のいい列車が来るまで2、3日待つことは計算に入れていたが、ここで載せられないとなると、話はまったく違ってくる。
 僕はノートとペンと辞書と「地球の歩き方」と「ロンリープラネット」の巻末についている会話集を駆使し、「でも友達は8月にここから載せた。問題はなかった」と伝えるが、彼女は「バイクを運ぶのならガソリンを抜いて、木箱に入れなさい」という。「どこでそんな箱が手に入るのか」と聞くと、今度は肩をすくめて「アタシが知るわけないじゃない」という。

 しかし、ここであきらめてしまっては世渡り上手、交渉上手がモノをいう世界ライダーの名折れだ。僕は自称ベビーフェイスとラブリースマイルの懐柔策に切り替え、おばさんを口説き落とす。ねえ、いいじゃないか、愛しているんだよ、ベイビー。僕を悦楽のシベリア鉄道に乗せておくれよ!
 すると、おばさんはため息をつきながら、「今夜、モスクワ発ウラジオストク行きの長距離貨物列車904号というのが来ます。それに載せられるか、列車が来たら交渉してあげましょう」と言った。
 オー、ベイビー、そうこなくっちゃ!

 あとは夜まで待つのみ。2、3日待つことを考えれば、数時間なんて軽い軽い。僕はバイクを見にきた町の少年やおじさんたちと談笑しながら、時が経つのを待った。
 しかし、予定の午後7時8分を過ぎても列車は来ない。窓口に戻ると「1時間遅延」と張り紙がしてあったが、今度は8時過ぎになってもこない。日は落ち、不安が募る。
 そうこうしているうちに、あのおばさんがいなくなった。いつのまにか窓口には別のおばさんがドッカと座り、「アタシはあんたなんて知らないからね」みたいな態度でこっちを睨んでいる。
 ぬおー、逃げられた!交渉してやるっていったのに、あのオババ!!

 ホームはすっかり暗くなり、いつしか電燈が取り残された僕とバイクを照らしていた。関係ない列車が駅を通過していくが、それを見てますます不安になる。

 さて、左の写真は翌日撮ったものである。写っているのは後に出てくるマキシム君、身長約170センチ。彼の後ろにあるのが僕の乗った貨物車両で、まさにこの扉の向こうに僕のDRが積まれているのだ。ホームとの高低差、優に1メートルはある。
 シルカはただの田舎駅だ。荷物を積むための高いプラットホームもなければ、フォークリフトもない。8月にここから乗った小梅&得政ペアは「おじさんが数人がかりで軽々とバイクを持ち上げてくれた」と言っているが、俺のDR800Sでも上がるのだろうか?荷物を全部取り去っても220キロはあるぞ。

 心配していると、急に英語で話しかけられた。振り向くと、スラッとした長身の私服の若者と、制服を着た警察官が数人いる。駅の構内には警察署もあり、彼らはそこに勤務しているらしい。私服の若者はセルゲイといい、やはり警察官だが、今日は非番だという。英語は学校で習ったそうだ。
 「どうした?」というので事情を説明するが、彼もここからバイクを載せるのは難しいという。この先のチャルフシェスクは車を載せるための設備があるので、そこへ行くべきだと彼は言うが、すでに夜になってしまっている。すると、彼は警察署で眠ってもいいと言ってくれた。しかも列車が来たら、一応彼が交渉してくれるという。
 なんていい警察官なんだ!まったく、捨てる神あれば拾う神ありである。

 夜9時過ぎ、結局2時間遅れで問題の904号は現れた。セルゲイは適当な車両に目星をつけると、「ここで待ってろ」と言い、ホームの暗がりに消えて行った。
 そしてなかなか戻ってこない。運行表によると、この駅での停車時間はわずか11分。果たしてその間に話がまとまり、この高い貨物車両にバイクを積めるのだろうか?
 僕は半ばあきらめていた。彼のいう通り今夜は警察署で泊めてもらって、明日、チャルフシェスクまで行った方が確実だろう・・・。

 しかし、しばらくすると、セルゲイはホームの向こうで手を振って僕を呼んだ。エンジンをかけてそこまで走っていくと、彼は「シマノフスクまで1500ルーブル(約5700円)と言っているが、どうだ?」と心配そうに僕に聞いた。
 1500!まさに小梅&得政ペアが払ったのと同じ金額だ。シマノフスクまで約1300キロ、その金額なら全く問題なし、ノープロブレマー、ハラショーハラショー、交渉大成立!なのだ。

 さて、金額の話がつけば後はバイクを載せるだけだ。小梅さんたちは荷物満載のままだったというが、さすがに僕の場合はそうはいかないだろう。急いで荷を下ろし、DRをハダカにする。
 すると、警察署から制服姿のお巡りさんが「エッホ、エッホ」とやってきた。そしてセルゲイの号令のもと、5、6人でDRを取り囲み、「エイヤッ!」・・・うおおおー!浮かんだ飛んだ!舞った昇った!2002年9月7日午後9時半、220キロの巨体はシルカ駅の上空1メートルに位置していたのだ!

 そのまま前輪から「ドン!ドン!」と押し込み、ウソのようにDRは貨物車両の中に収まってしまった。
 しかし感心している余裕はない。僕はホームに残された荷物をかき集めてバイクの横に押し込み、いつもはバックパックを縛りつけているタイダウン・ベルトでバイクをきつく固定した。列車が動き出すまで時間がないのだ。
 すべてが終わってセルゲイと固い握手を交わすと、ホームに放送が流れて出発の時間になった。「気をつけて」と彼は言い残し、滑り出した車両から笑顔で飛び降りた。

 僕は、ロシアに戻ってきて良かったと思った。
 ウランバートルの「あづさや」にいるころ、僕はロシアに戻るのが嫌で嫌でたまらなかった。ロシア人に対していい印象がなく、走っていても道も景色も単調で、単にユーラシア大陸を横断した、という自己満足以外に何も得られないと思っていた。これからロシアを目指す旅行者を見ては、「あー、可愛そうに」と思ったものだ。

 それが思いがけないところで、しかも悪名高い警察官からロシア人の優しさを教えてもらった。
 彼らはシミひとつない、ノリの効いた制服を着ていた。僕のバイクは砂と油で汚れていた。しかし、彼らは躊躇しなかった。どこの馬の骨かわからない東洋人のバイクを、何の徳を得ることもなく、一所懸命持ち上げてくれたのだ。
 3年間旅を続けても偏見から抜け出せない自分が愚かしく思えた。最初に駅のホームで彼らを見たとき、ちょっと嫌な感じがした。ワイロでも請求されるのでは、と思ったのだ。
 ありがとうセルゲイ、そしてお巡りさんたち。確かにどうしようもないヤツはロシアにいる。だけど、それ以上にいい人もいる、という単純なことを僕に気づかせてくれた。モンゴルから飛んで帰っていたら、僕はこの国を見誤っていただろう・・・。

 貨物列車で僕を待っていたのも、とびきり優しい人たちだった。
 車両は約3分の2が貨物スペースになっていて、コピー用紙の束や綿の詰まった袋、あとは何が入っているのか分からない木箱がたくさん積んであった。その空きスペースに僕のDRが押し込まれたのだ。
 残り3分の1が居住スペースで、小さい2段ベッドが一つ、トイレが一つ、あとは簡単なキッチンと机があった。先客は3人。ウオッカですでに酔っ払っているスラーバおじさんと、ボスらしき静かな男・アレキサンダさんと、一番若いマキシム君。3人はどうやら、荷物の番を仕事としているらしい。居住スペースは生活感で満ちていた。

 酔っ払いのスラーバおじさんは、「俺たちはこれからウラジオストクまで行くのだ!お前も一緒に行こう!」とツバを飛ばしながら言った。
 ・・・え?そこまで乗っていくのも可能なの?小梅さんたちはハバロフスクまで行きたいと言ったそうだが、それは無理だと断られたらしい。それで、僕もてっきりシマノフスクあたりまでしか乗れないものと思い込んでいたのだ。
 シマノフスクで降りても、そこから数百キロはダートがある。ウラジオストクまでとは言わないけど、ハバロフスクまで行けたらその区間も飛ばすことになり、メチャクチャ楽なのだ。
 「ハバロフスクまで行きたい」と僕はいった。すると、スラーバおじさんはウオッカ臭い息をハアハア吐きながらペンとノートを取りだし、「よっしゃ、だったらいくら払う?」と言ってきた。ハバロフスクまで行くのは可能、あとは条件交渉だ。

 結局ハバロフスクまで約2000キロ、40数時間の列車旅で3000ルーブル(約11400円)ということになり、僕はその場でボスのアレキサンダさんに支払った。スラーバおじさんは「よっしゃ、よっしゃ、一緒に行こう!」とますます興奮してウオッカをあおり、僕に頬ずりをした。
 ははは、ちょっと疲れるけど、こうしているうちにハバロフスクに着けるのならとても楽チンだ。

 3人は僕に2段ベッドの上段を提供してくれた。幅70センチ、長さ2メートルほどの簡易ベッドだが、この車両においては特等席と言っていい。下の段にはアレキサンダさんが、スラーバおじさんとマキシム君は貨物スペースに布団を敷いて寝ることになった。
 ここでも人に恵まれた。僕は東に向かってタイガを突き進むシベリア鉄道に揺られながら、深い眠りについたのだった。(書いていて自分でもビックリ。今日の日記、メチャクチャ長くないか?)


本日の走行距離        約190キロ(計82441キロ)

出費                    110P  ガソリン
     150P タクシー代
     3000P シルカ〜ハバロフスク鉄道代
計     3260P (約12420円) 宿泊         貨物列車904号