旅の日記

モンゴル編その7(2002年8月28日〜9月4日)

2002年8月28〜29日(水、木) 古都ハラホリン(Old city of Harhorin)

 ツアー4日目、ウランバートルに向けて引きかえす日。湖に関しては残念だが、嫌というほど乗馬ができたからいいか・・・。
 ロシア製のバンは僕たちをのせて、ふたたびドッタンバッタンと揺れながら湖と火山を後にした。

 その日は全身ほこりまみれになって夕方まで移動。午後5時ごろにハラホリンに到着、そこから観光をはじめた。
 ハラホリンはかつてカラコルムと呼ばれ、モンゴル帝国の中心だった街だが、今では「エルデニ・ゾー」を見所とした静かな観光都市だ。

 「エルデニ・ゾー」は200メートル四方ほどの白い外壁に囲まれたモンゴルでも最大級の寺院で、16世紀に建設された。
 バギは正面入口に車を止めたが、そこには他のツアーの車もあった。日本人の姿も見られ、みんな小奇麗な格好をしている。それに比べ、僕たちは風呂にも入れずツアー4日目。髪はバクハツして砂で真っ白、顔は志村けんの「変なおじさん」か、浮浪孤児のような勢いだ。
 僕たちはどこから来たのだと思われただろう?

 外壁をくぐって内部に入ると、そこは思ったより閑散としていた。お堂や寺、仏塔が点在しているが、中心の建物はソ連によって破壊されたらしい。そこではかつて、僧侶が交代交代で200年以上にもわたってお経をあげ続けていたという。200年も止まないお経の声って・・・すごいなあ。
 残っている建物の内部を見せてもらったが、金色の仏像や曼荼羅、壁に描かれた宗教画を見るうちに、僕は気づいた。俺はやっぱり坊さん顔をしている。だって、俺に似ている顔がいっぱい描かれているんだもん。

 内部を見た後は、街の裏側にある丘に登って「エルデニ・ゾー」と街の全景を楽しんだ。小麦だろうか、郊外に畑が広がっているのが印象的だった。遊牧民族の国モンゴルでは、畑ってなかなか見られないから・・・。

 そこから僕たちは街の近くを流れる川に移動し、テントを張った。
 実はツーリスト・キャンプの客引きがやってきて安い金額を提示してくれたのだが、今夜は最後の夜。いまさら中途半端にシャワーを浴びても仕方がない。ここまで来たら最後まで汚いまんまで通し、明日「あづさや」で心置きなく体を洗おう、と僕たちは決めたのだ。

 川には中型の魚が泳いでいて、地元の少年たちが釣り上げていた。それをみてチイ兄と進之介が釣りに挑戦したが、収穫はゼロ。やがてそのまま水浴び大会と化し、僕が湖で夢見ていた「ははは、水をかけちゃうぞ、それそれ」「キャー、それならこっちも!」(バシャバシャ) 「ははは、やったな、こいつう!」を男2人でやり、唇を紫色にしてガタガタと震えていた。

 最後の夜もけっこう寒かった。僕たちは余った食材を全部ブチ込んだ「人類巨大化計画鍋」をつくり、余った酒も飲み干して寝袋に潜り込んだ。
 明日はウランバートル、あっちの方もやはり寒くなっているんだろうか・・・?

 と思っていたら、やっぱり寒かった。
 翌朝、川原を出発した僕たちは一路ウランバートルを目指した。ハラホリン〜ウランバートル間はほとんど舗装路のはずで、行きはほとんど問題が無かったのに、帰りは工事のための迂回路が多く、僕たちは最後の最後まで車の揺れと砂埃に悩まされた。

 途中、道路脇に砂丘が見えてきたので寄ることにしたが、すでに全身砂まみれになっているみんなはヤケクソになって砂に埋まったり、砂丘から転げ落ちたりしていた。カメラを死守するモンゴリアン板垣と、後始末が面倒だと思った僕はやらなかったけど・・・。
 この砂丘群、草がところどころ生えているのを除けばけっこう立派で、いいアングルで写真を撮って「これがゴビです」と見せれば人は信じるだろう。実際、ふもとにはツーリスト・キャンプもあって、日本人のグループが泊まりにきていた。ウランバートル近郊では見所の一つなのだろう。

 ウランバートルに戻ってきたのは夕方だった。
 わずか5日間で街の様子はガラリと違っていた。風は涼しく、日光に力はなく、街行く人も重苦しい格好をしている。この前まではヘソ出しギャルがいたのに!
 「あづさや」に戻ると、野口オーナーまでもが室内でジャケットを着込んでいた。ここ数日でウランバートルも一気に冷え込んだらしい。モンゴルの秋の到来はいつも突然で、今年はそれでも遅いほうだという。

 その夜はシャワーを浴びて5日分の砂を流したあと、ツアーのみんな+@で韓国料理を食べにいった。チイ兄と進之介が明日モンゴルを発つので、ツアーの無事終了記念&お別れ食事会なのだ。
 他の長期滞在組もそろそろ動き出すようだ。俺もそろそろ潮時かな?
 ちなみに今回のツアー代(車のチャーター料)は一人47ドルだった。食事など、現地での費用を含んでも一人60ドルもいかなかった計算になる。あいかわらず安いなあ。(天候が良ければもっと楽しめたのだけど)


2日間の走行距離           0キロ(計81021キロ)

出費                   5800Tg 飲食費
     2000Tg エルデニ・ゾー入場料
     47$ ツアー代
計     7800Tg(約840円)      47$ (約5640円) 宿泊         川のほとりでキャンプ(28日)
           あづさや(29日)


2002年8月30〜31日(金、土) 米津さんのこと(A missing rider)

 久しぶりにインターネットカフェに行くと、先日モンゴルで行われたオートバイ・ラリー、「ラリーレイド・モンゴル」に参加中、行方不明になった日本人ライダーの件でメールが来ていた。
 そんな不幸な日本人がいる、というのは噂で聞いていたが、実は僕の知り合いの知り合いだったのだ。日本では詳しい情報が入らないので、現地で何か分かったら教えてほしい、という依頼。僕はとりあえず日本大使館に電話をして詳細を聞いてみた。

 それによると、行方不明になったのは米津誠さん(33)。
 8月17日、ラリー6日目にウランバートルの南40キロのゾーンモドを出発、ハラホリンの南東30キロのホジルトを目指した。しかし午後2時半に中間チェックポイントを通過、そしてゾーンモドから350キロ地点で目撃されたのを最後に、ホジルトの手前100キロのチェックポイントに現れなかった。
 地元警察の協力を得て捜索が行われているが、2週間近くたった今でも、本人もバイクも見つかっていない。

 メールに添付されていた日本の報道だと、行方不明になったのはウランバートルの南西1000キロということになっているが、実際はそんなに離れていない。
 そこは観光都市のハラホリンやツーリストキャンプからそう遠くなく、モンゴルでも特に人里離れた場所、というわけではない。確かに大草原を突き進んで行けば誰にも発見されないような場所に行けるが、あのレースはピスト(轍状の道)以外の走行は禁止されているはず。

 また、遊牧民の距離感覚、情報伝達能力は我々の想像を越え、彼らは自分のゲルを中心とした周囲数十キロのことをよく把握している。事故を起こした後どこかのゲルで手当てを受けていて、その情報が2週間経っても届いていない、というのも考えにくい。
 かといって山賊や武装強盗団に襲われた、というのはもっとあり得ない。日本製のオートバイを盗んで乗りまわす、あるいは売り飛ばすという行為は、それこそ目立ちすぎて遊牧民の噂のタネになってしまう。
 「あづさや」の野口オーナーといろいろと話をしたが、考えれば考えるほど不自然だ。

 一旅行者に過ぎない僕にできることは限られているが、とりあえず英語と日本語で「たずね人」の張り紙をつくり、周辺のゲストハウスに配ることにした。本格的な観光シーズンは去ってしまったが、これからまだ同じ方面に行く旅行者はいるだろう。もしかしたら何かひっかかるかもしれない。

 また、30日にはチイ兄と進之介が立て続けに「あづさや」を後にして、みんなの溜まり場であるテレビ部屋は急にがらんとしてしまった。モンゴリアン板垣も9月1日の日曜日に出るという。俺も出発の準備をせねば・・・
 と思って僕が向かったのは、外国人登録所。30日しか有効でないビザを延長するのに、まず外国人登録が必要になるのだ。

 なんで出発するのにビザの延長をするんじゃい、と思われるかもしれません。しかし僕はツアー最終日、揺れる車内で気づいてしまったのです。僕がモンゴルに入国したのは8月3日。だから9月2日までに出ればいいと思っていたのですが、よく考えてみれば30日ってことは9月1日に出ないといけない。ウランバートルから一日でロシア入国は難しいから、「あづさや」出発は8月31日になる。米津さんの件もあるし、日記も溜まっているし、そんなの無理じゃん!
 というわけで僕はウランバートル出発を9月4日に設定、それまでビザを延長することにしたのです。

 しかし30日は金曜日。外国人登録をするのにパスポートを一日預けなければならないが、週末にかかるので月曜日に取りに来いといわれた。仕方がない。
 その午後は「あづさや」のコンテナに入れっぱなしのバイクを久しぶりに出し、ちょっと整備をした。前タイヤに張りがないのでハンドポンプで空気を足そうとしたが、ポンプが壊れていて、足すどころかほとんどの空気が抜けてしまった。しまった、余計なことした!
 今後もポンプは必要なので、僕は近くの雑貨ザハへ買いに走った。

 すると自転車部品屋で中国製のポンプを発見。ごく普通のポンプでかさばるけど、2500トゥグリグ(270円)とやたらに安い。
 購入を決めたが、その時僕は手持ちのトゥグリグがなく、米ドルしか持っていなかった。
 「両替をしてくるから、ちょっと待ってて」と店の親父に言ったが、彼は「両替ならこっちだ」と、ザハにたむろする両替商のもとに僕を連れていった。モンゴルに限らず、闇両替はリスクが伴う。合法だとしても偽札を掴まされたり、金額をごまかされたりする事があるのだ。たいしてレートも変わらないので僕はいつも両替所まで足を運んでいたのだが、このときはモンゴル人が一緒なのでまあいいか、と思った。

 僕は両替商のおばちゃんに20ドルを渡した。レートは1ドル=1110トゥグリグだから、20ドルでは22200トゥグリグになるはず。
 おばちゃんは高額紙幣を1枚、2枚と数えながら僕の手のひらに4枚のせ、続いて1000トゥグリグ札を2枚のせ、そして作業を終えた。
 「おいおい、おばちゃん。端数の200はどうしたのよ!」と僕は抗議するが、彼女は「細かいのがない」と突っぱねる。そうしているうちに一緒に来た親父は僕の袖を引っ張り、その場から離れようとした。え?なに?なんで無理やり引っ張るの?もしかして君もグル?

 その時だった。おばちゃんはあることにハッと気づき、僕の手から1万トゥグリグ札を2枚引ったくった。あれ、1万トゥグリグ札が4枚入っていたのか?
 彼女は大きなミスを犯していたのだ。僕に22000トゥグリグを渡すところを、5000トゥグリグ札と1万トゥグリグ札を間違え、4万2000トゥグリグを渡していたのだ。そして受け取った僕もボーッとしていたから気づかなかった。気づいていたのは親父だけ。だから彼ははやく立ち去ろうと言っていたのだ。
 その帰路、親父は「お前はバカだなー、もったいないなー」とずっと言っていた。だって海千山千の闇両替商があんな単純なミスをするなんて思わないもん!

 何はともあれ、僕は無事にポンプを購入し、前タイヤに空気を入れ、ふたたびバイクをコンテナにしまった。来週から、またこいつのお世話になるのだな。


2日間の走行距離           0キロ(計81021キロ)

出費                   4960Tg 飲食費
     2100Tg インターネット
     2500Tg エアーポンプ
     6100Tg 外国人登録費用
計     15660Tg(約1690円) 宿泊         あづさや
インターネット    New@COM


2002年9月1〜3日(日〜火) 最後の日々(Last days in Ulaan Baatar)

 1日の日曜日にはモンゴリアン板垣が中国に向けて出発した。これでまた寂しくなるな、と思ったら、ドドドドッと立て続けに学生さんたちがチェックイン。閑古鳥の鳴いていたテレビ部屋が、急に通勤列車並みの混み具合になってしまった。
 彼らはまた新しい雰囲気を「あづさや」に持ち込んだ。日本人宿はしょせん箱である。そこに泊まっている人たちによって、雰囲気は大きく左右されるのだ。僕の1000日記念を祝ったころとメンバーはガラリを変わり、同じ建物、同じ部屋なのに、別の場所にいるような妙な違和感がある。
 これは沈没型旅行者が誰しも経験する、ある種の波のようなものだ。同じ顔ぶれで、永遠に続くかのような生活を送るが、あるとき、そのうちの2、3人がいなくなる。そうすると他のみんなも「じゃ、そろそろ動くか」と一斉に出発するのだ。そして、総入れ替えになる。

 新しく生まれた雰囲気に順応するのに、また時間がかかる。そして、それを振りきって出発するのにまた時間がかかる。僕は彼らにあまり深入りせず、溜まった日記を打ったり、出発の準備をして過ごした。

 2日の月曜日、僕は外国人登録所でスタンプの押されたパスポートを受け取り、そして正式にビザ延長の手続きを取るために外務省に趣いた。
 窓口はごった返していた。列は二つあるが、対応しているのは神経質そうな男性一人だけ。案内などどこにもないので、僕は他の人の様子を見て申請用紙に記入し、並んで順番を待った。
 モンゴル人はアラブ人同様、列をつくれない。「すぐに済むから入れてくれ」「さっきここに並んでいて、ちょっと外しただけだ」とか言って(あるいは何も言わずに堂々と)、横入りしようとする。そしてそれを阻止しようとする人と口論になり、行列あるところ混乱あり、の図式を作り上げている。

 一方、窓口の向こうの係官はそんなことは気にもとめていない。効率的にさばくという意識はゼロで、役人である自分の方がエライと本当に思っているから、長蛇の列が出来ていようが混乱が起きてようが関係ない。自分の都合で仕事を中断したり、あるいは窓口を突然閉めてしまったりという話はよく聞く。これも共産主義の負の遺産だ。

 ようやく僕の番がきた。パスポートと申請用紙を窓口に提出すると、銀縁メガネの男は「受付時間を書いた紙はどうした」という。よくみると、まわりの人は3センチ四方の小さな紙切れを持っていて、そこには「何時何分に受付」と書いてある。でも、そんなものが機能していない証拠に、みんな列に並んでいるのではないか?
 「たのむよ。俺は1時間もここで並んだんだ。だいたい、誰もそんなことを教えてくれなかったし、どこにも書いていないじゃないか」と僕は食い下がったが、メガネの男はいやらしいピンクのシャツを汗で濡らして、こう言った。
 「あの紙は入口の警備員が配っているのだ。何でまわりの人に聞かなかったのだ?みんな知っているぞ」

 ・・・うーん、そう堂々と言われると、さすがに面食らうよなあ。つまり、窓口では「こういう風にしてください」と説明する義務はなくて、我々の方でどうやればいいか見つけろ、ってことね。まあ、そんなもんだろうなあ・・・民主化してまだ10年だし。
 仕方なく、また一から並び直す覚悟で入口まで戻り、警備員にその紙きれをもらうと、なんとそこに書いてあったのはまさにその時の時刻だった。まったく訳わからん。
 そこで窓口に戻り、他の人を押しのけ、「今の時刻の紙を持ってきたぞ」というと、銀縁メガネとピンクシャツと汗の男は「それでよし」みたいな感じで受付をしてくれた。
 このシステム、なんか意味あるのか?というより、こういうのをサクサク効率的にできるようになると国は発展するんだろうけど、モンゴルらしくなくなるのだろうなあ。

 3日はまさに最後の日だった。ウランバートルでも最近は朝の冷え込みが激しく、窓の外の温度計は5度を切ったりしている。これは防寒対策が必要だろうと、僕はザハでマフラーやトレーナーのズボンを買い足した。
 最後に打てるところまで打った日記をアップロードして、夜は余った酒を全部飲んでしまえ!とビール3缶、アルヒ1本(みんなにも振るまったけど)を飲んだら、すっかり酔っ払ってしまった。
 やばい。これで明日、出られるかな?


3日間の走行距離           0キロ(計81021キロ)

出費                   8710Tg 飲食費
     2750Tg フロッピーディスク
     2350Tg インターネット
     6000Tg マフラー、トレーナー
     41$ ビザ延長代
     27$ 宿泊費
計     19810Tg(約2140円)      68$ (約8160円) 宿泊         あづさや
インターネット    New@COM


2002年9月4日(水) さらば「あづさや」(Leaving Ulaan Baatar)

 案の定、二日酔い気味である。しかしグズグズ言ってはいられない。僕は今日、ウランバートルを出発するのだ。
 今日は9月4日。この前迎えた1000日記念というのは一時帰国していた期間を除いた、純粋に旅行だけをしていて1000日目ということで、もともと僕が出発したのは1999年9月4日。つまり、ちょうど3年前ということになる。
 あの日、僕と久美子は大勢の人たちに見送られて成田空港を後にした。あのころは2年以内に旅を終え、30前には次の職をみつけ、30過ぎには子どもでも・・・などと勝手に考えていた。それが3年経った今でも旅は続いているし、一人身になっているし、考えもしなかったモンゴルにいる。(大体、あのころは自分のバイクでモンゴルまで来られるなんて思いもしなかった)
 いやー、旅も人生も先が見えないなあ。来年の俺は何をしているんだろう?(こう書くと、なんかとても他人事のように思える)

 朝一番で「ダーッ!」と出るのが正しい旅立ちのあり方なのだけど、今のウランバートルはそんなことを言っていられないほど寒い。朝8時に起きると、まだ外の気温は5度にも達していなく、吐く息は真っ白だった。
 とりあえずバイクを「あづさや」の前まで持ってくる。正確にいうと、わがDRは今まで「あづさや」の野口オーナーのビジネスパートナーのトゥルーさんが車庫にしているコンテナの中に入れてもらっていたわけで、それは「あづさや」からちょっと離れているのだ。

 トゥルーさんの車に乗せてもらい、コンテナまで行ってバイクを出すが、やはりエンジンがかからない。秋の冷え込みはバッテリーから力を奪い、セルモーターはまるで「キュル・・・キュル・・・あっ・・・旦那・・・これじゃ・・・やっぱり・・・無理でっせ・・・勘弁して」と言っているように、弱々しい。
 結局、部屋まで戻ってジグボトルを持ってきて、エアクリーナーフィルターにガソリンを垂らす「強制チョーク作戦」で無理やりエンジンを叩き起こした。それだって数回目のトライでやっとかかったのだ。それを音で表現すると、「キュル・・・キュル・・・あっ・・・旦那・・・ガソリン・・・垂らすのは・・・反則・・・ボッ・・・ですぜ・・・ボボッ・・・フィルターが痛んで・・・ボボボッ!・・・ああ〜・・・ボボボン!ドッドッドッ・・・・」となる。
 やれやれ、なのだ。

 次に国立デパートで昨日撮ってもらっていた証明写真を受け取り、スーパーでアルヒを一本買った。昨日の今日で酒のことなど考えたくもないが、これからもキャンプをすることがあるだろう。寒いときにはやっぱり酒が頼りになるのだ。
 そういえば北欧でもウイスキーをラッパ飲みしながら走っていたなあ。(おいおい)

 全ての支度が済むと、午前11時ごろになっていた。気温も何とか走れるぐらいにまで上がっている。
 まとめていた荷物をサッと載せ、パッと出発することにした。野口オーナーは「いやあ、バイクとなるとさすがに目つきが違いますな。ウチでいたずらに時を過ごしていた青山さんとは違います」と言ったが、違うんだ。
 僕は最近、ちょっといろいろ重なって、精神的にちょっと落ち込んでいた。旅を続ける気力も萎えていた。本当はここからバイクを日本に送り返し、飛んで帰りたかった。そうしなかったのは、このHPの読者の応援と、世界を走るライダーとしてのプライドにギリギリ支えられたからだ。(空輸代が高いってのもあるんだけどネ)

 後ろ髪を引かれる思いなのだ。別れを惜しんでいると、決意が鈍ってしまうかもしれない。泣いてしまうかもしれない。僕は見送ってくれた一人一人と簡単に握手をし、記念写真も撮らずにそそくさと「あづさや」を後にした。
 モンゴルに、こんなパラダイスがあったなんて知らなかったな。野口さん、またいつか来ますね。

 ウランバートルを出たあとは、ひらすらロシアとの国境を目指して北上。
 モンゴルでも最も整備された国道で、一ヵ月前にも通ったのだが、そのときには気づかなかったものを発見した。200キロほど走ると、道路脇に塩湖が広がっていたのだ。
 ボリビアのウユニとは比べ物にならないが、それでも草原ばかりを見てきた眼には新鮮に映る。僕は昼飯代わりのチョコレートを食べながら、白く干上がった湖面を見ていた。

 夕方に国境の町、スフバートルに着いた。まだ日は高いが、来たときと同じく、国境越えには相当時間がかかるだろう。キャンプでも良かったが、日記が打ちたいのと、余ったトゥグリグを有効活用したかったのでオルオンホテルというシケた宿に入った。
 宿もシケていれば、町もシケていた。すべてが埃と哀愁に包まれ、酔っ払いの姿が目立った。ああー、早く日本に帰りたいぜ、と思いながら、僕はシケた食堂でシケたシチューをすするのだった。


本日の走行距離        約350キロ(計81371キロ)

出費                   3120Tg 飲食費
     6400Tg ガソリン
     330Tg インターネット
     8100Tg 宿泊費
計     17950Tg(約1940円) 宿泊         オルホンホテル
インターネット    あづさや