旅の日記

モンゴル編その4(2002年8月13〜19日)

2002年8月13〜15日(火〜木) ラスト沈没(The last idle days)

 13日の早朝、ミユキちゃんとルイコちゃんも日本に向けて発ち、ゴビ砂漠ツアーの面々で残されたのは僕とモンゴリアン板垣の2人だけとなった。
 しかし、ここで僕たちの前に燦然と輝くニューキャラクターが現れることになる。その名は「チイ兄」。彼は白い歯を見せ、「カッカッカ」と笑って僕と対面した。

 チイ兄は、僕も知っているある旅行者と交わした「男の約束」を守るため、地球の裏側、ニューヨークから仕事を辞めて飛んできた。彼は去年エジプトにいる時、その旅行者と他の2人と計4人で、2002年7月7日にウランバートルで再会する誓いをたてたのだ。
 彼らはメールアドレスを交わさなかった。別れてからも連絡がとれてしまえば、「やっぱり8月にしよう」とか、「やっぱり俺は行けない」などと、約束はズルズルと反故にされてしまう。途中の連絡は一切なし、言い訳なしの一本勝負だったのだ。
 しかし、である。フタを開ければウランバートルに来たのはチイ兄一人。彼は集合場所のサーカス小屋の前で、密かに目に涙を溜めたのだった。

 その噂を、僕は一足先にウランバートルに到着していた小梅さん&得政さんからメールで聞いた。「青山さんも知っているあの人のことを、ここでずっと待っている『チイ兄』という人がいます」
 当時ロシアにいた僕は、その事をすぐにその旅行者に知らせた。彼はいろんな事情でウランバートルに来られなかったが、言い訳はせず、「チイ兄にこう伝えてください」とお詫びのメッセージを僕に寄せた。

 僕はそのメッセージを持って「あづさや」に来たわけだが、チイ兄は僕とは入れ違いで地方に「一人ウルルン滞在記」をしに行っており、13日、戻ってきた彼にようやくそれを伝えることができたのだ。
 「男の約束」を守ったチイ兄は、やっぱり男である。彼はそのメッセージを聞きながら、「カッカッカ」と白い歯を見せて笑った。自分一人しか来なかったことをすでにネタにしており、来なかった3人のことは全く気にしていない。「いや〜、そんなこともありまっせ!」
 チイ兄の笑い方は本当に気持ちが良い。まるで初代の水戸黄門か、本当に一部の人しか分からないだろうが、ブラジル在住の生駒先生である。まわりの人まで幸せにする笑い方なのだ。

 そんなわけで、僕とモンゴリアン板垣はここに来られなかったある旅行者の代わりに、チイ兄と一緒に沈没生活を送ることになった。
 僕はブダペストのテレザハウスにいたころが最後の沈没生活だと思っていたが、どっこい、「沈没型うだうだライダー」に分類される僕は、最後の最後まで沈没してしまうのだった。どうだ、参ったか!

 この3日間は溜まった日記を打ったり、花村萬月の「真夜中の犬」や、椎名誠の「哀愁の町に霧が降るのだ」なんかを読んで過ごした。
 14日にふたたびナラントール・ザハに行き、「ラングラー」をコピーしたインチキ・ジーンズなどを買ったが、今度はスリは現れなかった。
 夕食はみんなで自炊した。「あづさや」のキッチンには本当に色んな種類の調味料が揃っている。きれいなガラスの瓶に入れられて、見ているだけで「何が作れるかな」などと、東急ハンズを見て歩くときと同じようなときめきを胸に覚えてしまうのだ。


3日間の走行距離           0キロ(計81021キロ)

出費                   6775Tg 飲食費
     50Tg ザハ入場料
     2000Tg インターネット
     6000Tg ジーンズ
     800Tg タクシー代
計     15625Tg(約1690円) 宿泊         あづさや
インターネット    New@COM


2002年8月16〜17日(金、土) 1000日記念(The 1000th day)

 16日もいつものように近くの食料品のザハに行き、野菜や肉なんかを買い込んで、みんなでカレーを作った。僕とチイ兄は国営デパートで賞味期限切れの安いオランダ産ビールをケースで買い、半分こにすることにした。
 そして夜は深まっていった。「あづさや」のテレビではNHKが見られ、またサマータイムのモンゴルは日本と時差がない。やがてNHKのカタブツそうなアナウンサーは「日付が変わりました」と穏やかに、しかしはっきりと言った。
 2002年8月17日。僕が旅立ってから、一時帰国の期間をきっちり除いて1000日目の日が来たのだ。

 チイ兄はワインを買い、みんなに振る舞った。そしてみんなは僕の1000日目を祝して乾杯をしてくれた。
 1000日・・・振りかえってみると、やっぱり長いなあ。旅のはじめのころを思うと胸がキュンとなってしまう。僕はガッパガッパとビールを飲みながら、遠い目をした。チイ兄は「カッカッカ」と笑い、モンゴリアン板垣はみんなの写真を撮っていた。
 それにしても1000日で81000キロ。一日あたり81キロ。俺はやっぱり「沈没型うだうだライダー」なのだ。

 翌朝、僕は1000日目くらいは何かをしようと、モンゴル仏教の総本山、ガンダン寺に行ってみた。
 モンゴルの仏教はチベット仏教の流れを組むため、寺の雰囲気は日本のものともタイのものとも違っている。日本の寺より華やかであるが、タイのほどハデではない。「セブンイヤーズ・イン・チベット」で見た、ラサの印象がどことなく感じられた。

 全ての宗教を否定したソ連の共産主義は、当然ながらモンゴル人の信仰にも影響を及ぼした。黄金に輝く高さ26メートルの大観音像は民主化してから作り直されたもので、初代の像はスターリンの命によってロシアに持ち去られたまま、戻っていない。
 返還を要求する運動は起きているそうだが・・・ロシア人、いい加減に返してやれよ、というより、もうないんじゃないか?

 土曜日だからだろうか、本堂の方では少年から老人まで様々な年齢の僧が集まって式典がとり行われていた。
 この儀式が特別なものではなく、定例のものであるという印象を僕が抱いたのは、アイラグ(馬乳酒)の酸っぱい臭いとともに堂内を満たしていた、気だるい雰囲気のためだった。
 僧侶は3列ずつで向き合っており、その一番前が、こういうと失礼かもしれないけれど、あまりやる気があるとは言えない感じでお経をあげる。そして区切りがつくと、2列目以降の僧侶たちが思い出したように太鼓を「デンデン」と叩いたり、ホルンのように長いラッパを「ブオー」と吹いたり、鈴を「シャンシャン」と鳴らしたりする。私語を交わしている僧侶も多い。

 そんな行動の合間に、僧たちはお椀に入れられたアイラグを飲んでいる。少年僧もぐびぐび飲んでいる。「ちょっと飲ませてくれ」と、僧から椀を借りるモンゴル人の客もいた。
 なんだかお堂全体が酔っ払っているようで、アンニュイな感じだった。例えるなら、明るいうちからビールを飲んでしまった日曜日の午後。

 いったん宿に戻ったあと、夜はみんなで中華料理を食べにいった。一応僕の1000日記念ということになっているが、みんな美味いメシを食べ、ビールを飲むのにたいして理由は必要としない。
 久しぶりに贅沢な晩餐会だが、今夜はメンバーが悪かった。飢えた野獣ども12人、花はなし。
 名幹事チイ兄は数種類の料理を注文した。まずはじめに「牛肉とにんにくの芽の炒めもの」が運ばれてきたが、その正体が全員に知られる前に、空になった皿が回転台の上でくるくると回っていた。前後して運ばれてきた白米やビールに気をとられ、出遅れた連中は歯軋りをした。
 彼らは、つづく「鶏肉とピーナッツの炒めもの」で逆襲に転じた。しかし先ほどの料理を十分に味わった陣営も遠慮を知らず、皿を自分の方に引き寄せようとする。
 果たして直径150センチの丸テーブルは大いなる闘いのリングと化した。

 僕たちがその店を出るまで、1時間もかからなかった。料理を注文したり、その余韻を楽しんだのを除く正味の食事時間はなんと30分。嵐のようにやってきて、嵐のように消えて行く12人なのであった。
 ちゃんとした中華料理屋に入って、こんなに早く食事を終えたのは初めてだな・・・。


2日間の走行距離           0キロ(計81021キロ)

出費                  15360Tg 飲食費
     2400Tg インターネット
計     17760Tg(約1920円) 宿泊         あづさや
インターネット    Plus Zone


2002年8月18〜19日(日、月) アホの謎に迫る(The secret of garic)

 18日、前夜食べた「牛肉とにんにくの芽の炒めもの」を再現しようと、食料品のザハ(市場)へ行ってにんにくの芽を求めたのだが、その時、売り子の少女は僕に「アホ」といった。
 その瞬間、僕は大いなるロマンを感じた。アホといっても、別に馬鹿にされているのではない。アホというのはスペイン語でにんにくのことであるが、何とここモンゴルでも同じようにいうのだ!
 ユーラシア大陸のあっちとこっち、同じ言葉は数千キロの距離をどう越えたのだろうか?ひょっとしてチンギス・ハーンは大のにんにく好きで、遠征には欠かさず持っていっていて、それが「アホ」という言葉とともに広がったのだろうか?あるいは逆に、モンゴルの大騎馬部隊がヨーロッパの地を踏んだとき、そこで「アホ」と出会ったのだろうか?
 僕は「あづさや」でにんにく臭い息を吐きながら、興奮気味に「アホ」と大草原の関係について考えるのだった。

 しかし僕の胸に灯ったロマンの火は、翌日にあとかたもなく消える運命にあった。
 19日の朝、僕は最後の悪あがきをしようと、アエロフロート(ロシア国営航空)のオフィスに行った。土曜日、MIAT (モンゴル航空)のオフィスにふらりと寄ると、それまでに無くカウンターのおばちゃんは暇そうだった。そこで僕は航空貨物会社の有無を聞いたのだが、なんとMIATはいっぱしにそういう別会社を持っており、そしてそのオフィスはアエロフロートのビルの中にあるというのだ。
 さすがに週末はやっていないだろうから月曜日を待って行ってみたのだが、なぜかアエロフロートの社員は「そんなものは知らん!」と胸を張っていう。そこで町にあふれる公衆電話屋(コードレスホンを手に持ってそこらへんにタムロしている)を捕まえてその航空貨物会社に電話をかけてみると、予想に反して英語の達者な女性が対応してくれた。

 彼女によると、成田までの航空貨物料金はキロあたり3.61ドル。
 航空貨物の料金算出には実重量かヴォリューム・ウエイトか、どちらか数字の大きい方が適用される。ヴォリューム・ウエイトというのはすなわち荷物の長さ(センチ)×幅×高さ÷6000であり、たとえば僕のDRの前輪を外して長さ200センチ、幅80センチ、高さ100センチとした場合、266キロになる。266×3.61は960ドル、それに諸経費が別にかかるだろうから、ざっと1200〜1300ドルといったところだろう。
 さらにモンゴルから日本に飛んで帰ろうとすると、片道の航空券だけで500ドルはするという。合計1800ドル、ダメだこりゃ!

 そんなわけで、僕はやっぱりウラジオストクまで走る決意を固め、しかしそれとは関係なく、食料品ザハの中にある床屋に行った。襟足が伸びて気になっていたのだ。
 僕の髪を切ってくれたのは、灰色のタイトなワンピースを着た30年配の女性だった。彼女は僕の前髪を持ち上げると、それにハサミを添えてニコッと笑い、「アホ」といった。
 なんだなんだ?なんで前髪の話ににんにくが出てくるのだ?僕の頭の中はにんにくと大草原とチンギス・ハーンと前髪と女性のえくぼでごっちゃになった。
 どうやら彼女は「ここは切るか?」と言っているようだった。前髪は切りたくないので、とりあえず僕は首を横に振った。

 宿に帰ってから「あづさや」のオーナーににんにくと前髪の因果関係について聞いてみると、モンゴルでは「いりますか?」「必要ですか?」というのを「アホ?」というらしい。
 スペイン語もにんにくも、全く関係がない。にんにく売りの少女は「いりますか?」と聞いただけなのだ。僕の大陸級のロマンは見事に崩れ去った。
 僕はその夜、余っていた羊のひき肉と玉ねぎとにんじんとともに、「これでもか」という量のにんにくを炒め、ガバガバと食べてやった。にんにくは「アホ」でも「アホ」でなくても、やっぱりうまいのだ。こんちくしょう。


2日間の走行距離           0キロ(計81021キロ)

出費                   2820Tg 飲食費
     1600Tg インターネット
     600Tg 電話代
     2750Tg フロッピーディスク
     1000Tg 床屋
計     8770Tg(約950円) 宿泊         あづさや
インターネット    New@COM