旅の日記

モンゴル編その3(2002年8月10〜12日)

2002年8月10日(土) ナーダムを見る(Local Naadam festival)

 ゴビの砂丘を見て、一応我々の目標は達成された。ツアー4日目、僕たちは帰路につくことになった。
 マンダル・オボから北上していると、我々のバンに怯えて走り去る鹿の姿が見えた。
 「鹿だ」「あれがガゼルというのかな」などとみんなで話していると、Y氏は自信たっぷりに言った。「あれはウサギです」

 聞き逃しても良かったのだが、座席から落ちそうになったみんなは体勢を立て直し、反論した。「今の、ウサギよりめちゃめちゃ大きかったですよ」
 すると、Y氏はだまってモンゴル語の会話集を取りだし、助手席のメガに何かを訪ねた。しかし彼は首を横に振り、「違う」と言った。
 そのままそっとしておくのが優しさというやつだが、意地悪な僕はそこでツッコんでしまった。「今のはやっぱり、『さっきのはウサギか』と聞いたのですか」
 しかし、Y氏は今朝も絶好調だった。答えに窮した彼はこう言ったのだ。「・・・今のはウサギであるか鹿であるか、総合的に訪ねたのです」
 総合的に訪ねるって・・・?

 ゲルの食堂に寄り、さらに北上していると、ゼッケンをつけた少年が馬に乗って走っていた。それを指差し、メガは言った。「ナーダム」
 ナーダム!!車内はいきなり興奮のるつぼと化した。
 ナーダムとは、モンゴルの夏祭りである。国をあげての大ナーダムは7月に終わっており、見る機会はないとあきらめていたのだが、まだ地方ではローカルな祭りが行われていたのだ。
 こんなものまで用意されているとは。さすが、僕たちが「名プロデューサー」と影で呼んでいるメガ(21歳)である。

 しばらく進むと、草原の真ん中に群衆が見えてきた。みんな馬や車、またはバイクに乗り、付近一帯から集まってきたのだ。その数、およそ2、3千人。
 ナーダムは子ども競馬と弓射、モンゴル相撲の3種類の競技で構成されている。弓射はすでに終わっているのか、行われている様子はなく、子ども競馬は先頭がゴールを果たし、流れ解散的に競技の終了を迎えようとしていた。
 しかしモンゴル相撲はこれからだというので、僕たちはその会場へと向かった。会場といっても人垣に囲まれた単なる草地で、しかも微妙に傾斜しているのだけど・・・。

 モンゴル相撲のルールは至って簡単だ。膝から上のどこかが地面につけば負けであるが、手はついてもOK。土俵というものがないから、押し切りはない。
 対峙した2人の力士は、まず自分に有利な組み方に持っていこうと両手で体勢を探り合う。そしてガッチリ組み合うと、足を払おうとしたり、相手を体ごと浮かそうとしたり、または振りまわしてバランスを崩そうとする。試合運びは相撲というより、むしろ柔道に近い。

 勝敗が決まると敗者は勝者の脇の下をくぐり、負けを認める。しかし取り組みは同時に何組も行われ、審査員の目もなかなか届かないから、敗者が負けを認めず、とり直しというのも少なくなかった。
 敗者が素直に負けを認めると、勝者は審査員から勝利の帽子を受け取り、それを被って国旗のまわりをひらひらと舞う。この帽子が「快獣ブースカ」と「霊玄導師」(だっけ?)のキョンシーを同時に彷彿とさせ、また鳳凰をイメージしたという舞いは力強いというより、むしろ軽快でふわふわとしている。まるで「おれ、勝っちゃったもんねー」といっているみたいで、なんともユーモラスなのだ。

 大会はトーナメント方式だった。プロだろうか、体格ががっしりして、相撲用の衣装を着た力士が数人いて、それにTシャツや軍服姿の素人力士が一回戦で挑戦する形だった。そして休憩のあと、勝ち残った力士同士がまた取り組みを始めた。
 僕たちは1時間ほどそこにいて、2回戦までを見た。いつのまにか会場を囲む人垣は何重にもなり、酒臭く、足元のおぼつかない男たちも目立つようになった。「そろそろ行こう」というメガに従い、僕たちはナーダムの会場を後にした。
 短い間だったけど、予想もしていなかったナーダムはツアーのハイライトになった。

 その夜、僕たちはナーダムの会場から少し離れたゲルのそばでキャンプをすることになった。
 テントを張る前に、僕たちはバギとメガに引き連られてゲルの家族に挨拶にいった。中は子どもでいっぱいだったが、直接の子どもは3人だけで、あとは近所の家の子だという。それでもみんな自分の家のように自由に出入りし、当たり前のように妹や弟でもない年少者の面倒をみている。
 なるほど西洋的なプライバシーの概念は皆無だが、彼らは彼らなりのコミュニティーを形成し、大自然の中で助け合って生きているのだ。

 その夜は星がきれいだった。僕たちはテントの前で焚火を起こし、調理をし、食後も炎を囲んで色々と話をした。
 そんなロマンチックなシチュエーションの中でも、Y氏はとどまるところを知らない。彼は中国における結婚事情について解説していたのだが、次のように言ったのだ。
 「中国ではかつて、結婚に厳しい年齢制限があったのですが、最近は緩和され、女性なんかはよく結婚しているみたいですよ」
 おーい、じゃ、男の方はどうしたんだ?

 しかし星が本当にきれいだったのは、ゲルの灯も焚火も消え、ナーダム帰りの車やバイクの突然の訪問がなくなった深夜のことだった。
 ゲルで飲ませてもらった馬乳酒のせいだろうか。僕は午前2時前に腹痛を覚え、テントの出口付近で寝ていたモンゴリアン板垣の厚い胸板を踏みつけ、外に出た。
 すると満天の星空が僕を圧倒した。地上に星のまたたきを邪魔する光りはなく、僕は頭上の北斗七星やカシオペア座なんかと、尻の下のウンコに挟まれ、壮大な宇宙に思いを馳せるのだった。


本日の走行距離            0キロ(計81021キロ)

出費                    800Tg 飲食費
計     800Tg(約90円) 宿泊         満天の星空の下


2002年8月11日(日) 羊の解体作業(Slaughtering a sheep)

 11日の朝、出発前に近くのゲルに行ってみると、羊の解体作業が行われていた。
 お父さんが手馴れたで皮をはぎ、骨を折り、腹を裂いて内臓を取り出す。使うのは果物ナイフのような小さな刃物一本だ。お母さんは内臓を受け取り、バケツできれいに洗う。胃の中の草を捨て、腸の中の汚物をしぼり出し、一つ一つていねいに洗っていく。捨てるのはほんの一部、それも隣で待っている犬に食わせるのだ。
 そんな作業を、幼い息子がじっと見守っている。僕たちが行った時にはすでに羊は死んでいたが、きっと彼は羊が胸を裂かれ、心臓を絞められて死ぬ瞬間を見ただろう。
 これは、とても重要なことだと思う。

 前にも書いたと思うけど、僕は正義ヅラするベジタリアンが大嫌いだ。
 ベジタリアンにも色んな種類がいる。宗教上の理由で肉を食べない者、健康上の理由で食べない者、あるいは単なる好き嫌いで食べない者。彼らは彼らなりの主義・主張を貫き、他人にその価値観を押しつけない。
 僕が嫌いなのは、肉を食べないことで自分がいかに自然にやさしいか、動物愛護的かを示そうとし、肉を食うことがいかに野蛮か、残虐かを説こうとする「正義ヅラするベジタリアン」だ。

 彼らに聞きたい。お前らは病気になったとき、動物実験の末に完成した薬を飲まないのか。革製品を一切身につけないのか。お前らが快適に住んでいる家が建つ前、その土地には草が生え、花が咲き、野生動物が闊歩していたのではないか?
 わずか3年間だけど、僕が世界を見て得た感想は、この世は所詮、弱肉強食だということだ。それが自然界のルールであり、人間社会も大してかわらない。民主主義だ、人権尊重だと言いながも、やはりこの世は大国の論理、戦勝国の論理、力の論理で回っている。

 人間一人の生活は、多くの犠牲に支えられている。
 「肉を食べるのは野蛮」とか、「動物が死ぬ瞬間を子どもに見せるべきではない」というのは、そういう現実から目をそむけているにすぎない。そんな考えが「生」と「死」の概念を希薄にし、魚は切り身のままで海を泳ぐと信じ、カブトムシが動かなくなったら電池を換えようとし、人を簡単にナイフで刺す子どもたちを産み出すのだと思う。
 僕は将来、子どもが生まれたら、家畜が殺され、解体されていく様子を見せてあげたい。臭いものにフタをしたり、見にくいもの(醜いじゃないぞ)から目をそむけるのではなく、現実に直面した上で、いかに犠牲を減らすか、無駄を減らすかを一緒に考えてあげたい。
 モンゴルの治安が残念ながら悪化していることは前にも書いた。しかし無意味に人を刺したり、殺してバラバラにするような凶悪犯罪はまだまだ少ない。

 解体作業を小1時間ほど見て、僕たちはウランバートルに向けて出発した。
 最後の昼食は、ツアー初日に最初の昼食を食べた、ほったて小屋の食堂で食べることになった。あの日は曇天で寒いくらいだったけど、今日はピーカン照りで暑い。まわりの景色の印象もまるで違うのだ。
 腹いっぱいの焼きうどんがこなれるのをテーブルで待っていると、Y氏は「あづさや」から借りたモンゴル語の会話集を手にして、こういった。「この本、会話の種類が非常に限定されていて、肝心な時に使えないんだよな」
 しかし、そのわずか5分後だった。彼はその本をふたたび手にすると、しみじみとこう言ったのだ。「いやー、今回のツアー、この本が役に立ったなあ」
 僕とモンゴリアン板垣は、ハーモニーでツッコんでしまった。「いったい、どっちなんですか!」
 すると、自分の言ったことの矛盾にまったく気づかず、なんでツッコまれたのかもよく分からない様子のY氏はこういった。「いや、ツアーを普通に楽しむだけなら十分なのですが、イザというときには使えない、ということなのです」
 Y氏・・・最後までエンジン全開の男だった。

 ウランバートル市街に入り、数日ぶりのアスファルトを走って、午後5時すぎにロシア製のバンは「あづさや」に戻った。
 見渡す限りの草原、真っ青な空の下の大砂丘、予想外のナーダム、Y氏を筆頭とする楽しい仲間。今回のツアーは旅行というものに疲弊しきっていた僕を、奮起させるほどに面白かった。ロシアを走っていたときには日本に帰ることばかりを考えていたが、やっぱり旅を続けているといいこともあるのだ。
 
 これも優秀なドライバーのバギと、「名プロデューサー」のメガのおかげである。みんなでお礼を言おうとしていたのだが、彼らは「あづさや」のオーナーからねぎらいのビール数本を受け取ると、「ガッハッハ。やっぱ、これだもんねー」みたいな感じで、さっさと走り去ってしまった。
 ああ、浸っていた感傷が・・・。そういえば出発前、オーナーにきつく言われたのだ。「彼らには仕事中、絶対に酒を飲まないように言ってありますので、みなさんからもすすめないでください。トラブルが起きるとすれば、酒の入った時なのです。戻ったときには飲ませる約束ですので」
 それにしたってビール数本でコロっと・・・彼らを突き動かしていたのは、禁酒パワーだったのか!
 
 全身ほこりまみれで、髪の毛は逆立ち、ドリフの爆発コントのオチみたいになった僕たちは順番にシャワーを浴び、残った食材で夕食をつくることになった。
 しかし5夜連続の麺を嫌ったY氏は僕たちを裏切り、一人でカレーを食べていた。「あまった食材?いやいやいや、私はもう結構ですので・・・」
 「あづさや」さんとツアーの精算をしたが、4泊5日の車のチャーター代と食材費で一人75ドルだった。現地でかかった費用はほとんど無いから、全部で100ドルもいかなかった計算になる。
 楽しかっただけでなく、予算的にも大満足のツアーだったのだ。


本日の走行距離            0キロ(計81021キロ)

出費                   1300Tg 飲食費
     75$ ツアー代
計     1300Tg(約140円)      75$ (約9000円) 宿泊         「あづさや」


2002年8月12日(月) 財布をすられてとり返す(Fighting with a pickpocket)

 12日の朝、Y氏は「それではみなさん、またどうぞ・・・」という謎の挨拶を残し、日本に帰ってしまった。しかし、彼はその後もしばらく我々の話題の中心に居続けるのだった。
 姿を消しても絶好調の男。まったく稀有で、強烈なキャラクターだった。

 「あづさや」に着いてからの3日分と、続くゴビ砂漠ツアーの5日分の日記が溜まっているが、今日はモンゴリアン板垣がミユキちゃんとルイコちゃんを引き連れてザハ(市場)に行くというので、僕も行く事にした。
 僕もザハに行ったことがないし、モンゴリアン板垣(将来の夢:マドリッドで日本人宿『チョーク・スリーパー』をオープンすること)に女性陣を一人占めされるのもシャクである。
 そんなわけで、僕たちはタクシーに乗ってナラントール・ザハに向かったのだった。

 ウランバートル市内には衣類のザハや食料品のザハなど、いろんなザハがあるが、ナラントールは郊外にある総合的な市場で、食料品から衣類、家具からバイクまで揃い、ノミの市のようにガラクタを並べる露店も並ぶ。
 僕たちはまずモンゴルの民族衣装、デールを買いに行った。デールにはコートのように丈の長いものからブレザーのように短いものもあり、生地も厚くて重いものから室内でも羽織れそうな軽いものまで、色もチャイナ・ドレスのように艶やかで刺繍の入ったものから、無地の灰色まで様々である。

 観光客とみると、デール売りはなかなか値段を下げてくれない。結局、僕は紺色で落ち着いた感じの丈の短いデールを14000トゥグリク(約1500円)で買った。
 モンゴリアン板垣はエンジ色の長いデールを買おうとしたが、値段交渉がうまくいかず、いったん出直すことにした。すると、彼は帽子屋ででモンゴル相撲の「勝利の帽子」を発見。3000トゥグリクという安さとそのユーモアあふれるデザインにすっかり心を奪われ、山の中から自分の大きな頭に合うのを探して出して買っていた。
 彼は翌日、日本に帰国するミユキちゃんとルイコちゃんにその帽子を持っていってもらったが、注目を浴びるのが密かに好きな彼は「保存用」とは別に「被って旅行する用」の帽子をもう一つ買い、それを被って一人、悦に入るのだった。
 「あの長いデール一着で、この帽子が6つ買えるんですよ。これがあればデールなんかいらないや・・・」

 デール売場の後はノミの市のエリアに行き、僕はこの間の転倒で壊れたサイドケースのバックルを固定する小さなネジと計算機を買った。
 その後は市場の中をブラブラとし、やがて夕方になって片付けに入る店も出てきたので、僕たちは宿に帰ることにした。
 すると、出口の近くで靴の修理屋を発見した。僕は日本を出てからずっと履き続け、シリアで修理をしてもらったものの、ふたたび崩壊し始めているライディング・シューズを直してもらうことにした。

 作業はすぐに終わると思ったのだが、あらゆる点でニブそうな太ったおばちゃんと、一生ウダツの上がらなそうな痩せたおじちゃんの手際は驚くほど悪く、炎天下の中、小1時間待っても終わらない。僕は他の3人に先に帰ってもらうことにした。
 その後、30分ほどしてようやく靴の修理は終わった。時間はかかったが、シリアよりは丁寧にやってくれたので日本までは持つだろう。
 しかし、この靴修理屋にいる間に僕は目をつけられていたのだ。顔立ちは同じで汚い格好をしていても、やはりモンゴル人にとって日本人観光客を見分けるのは簡単らしい。

 出口の狭いゲートをくぐろうとした時だった。前を歩いていた二人の少年がいきなり向きを変え、僕に体に押しつけてきた。僕は一瞬、警察か地元のチンピラか、少年たちが出会いたくない相手に出くわし、いきなり方向転換をしたのだと思った。それほど彼らの方向転換は突然であり、僕は体を押されて「おっとっと」と後退してしまった。
 その刹那、ズボンの左前のポケットに入れていた財布が抜き取られる感触があった。こいつらは、スリだ!

 チーン。頭の中のレジスターが財布に入っている残金を計算する。およそ3万トゥグリク、3000円強。あとは国際学生証が一枚入っているのみ。財布そのものはブルガリアで200円で買ったものだ。
 少年たちは刃物を持っているかもしれない。まわりに大勢の仲間がいるかもしれない。大人の組織のバックがついているかもしれない。被害額を考えれば、リスクを負うべきではない。

 しかし、僕はキレてしまった。
 財布を盗られた怒りと、そもそも自分に目を付けた怒り(俺はやっぱり狙いやすいか?)と、このまますられたんじゃ情けないなあ、とう感情がごっちゃになって、マグマとなり、噴火した。
 僕は向かって左の少年、財布を抜き取ったヤツの胸倉を左手で掴んだ。身長は僕と同じぐらい、体格ははるかにいい。右にいた小さめの少年はヤバイと思って仲間を捨て、走り去った。
 僕は左手を離し、そして力の限り少年の首をあたりを突き飛ばした。同時にできるだけ凄みをきかせて日本語でがなりたてた。何を言ったか覚えていないが、たぶん「てめえ、殺すぞ。このガキが」とか言っていたんだと思う。
 まわりは異変に気づき、僕たちをとり囲んだ。この大勢の人たちの前で、このまま逃げられたら恥ずかしいなあ、という思いもあった。僕はふたたび少年を掴み、自分が怖くなるほど凶暴性をムキ出しにしてキレまくった。少年は野球帽を被り、口にはマスクをし、そしてその目は明らかに狼狽していた。ひょっとしたら僕のことを中国人と間違えたかもしれない。

 すると少年は意外にもあっさりと、「ほら、ほら」という感じで僕に財布を差し出した。僕はそれを手に取り、自分のものであるかを確認する。その間に少年はその場から逃げようとした。財布が戻ってきたんだからもういいのだが、やはりこの大勢の人たちの手前、ちょっとケジメを取っておきたい。僕は逃げ去る少年の尻に「直してもらったばかりの靴キック・遠慮がちバージョン」を一発お見舞いして、「日本人をなめんな!」と叫んだ。できればモンゴル語で言いたかったが・・・。

 すべてが終わると、人垣はまるで何事も無かったかのようにスーッと消えて行った。
 できるだけ早くその場から離れたくて、僕はタクシーに乗って「あづさや」に戻った。そして事の顛末をみんなに話すと、財布をすられかけたり、ポケットをナイフで切られた人は他にも大勢いた。ウランバートルのザハはやっぱり油断ならない。スリは日常茶飯事で大して珍しくもないし、酔っ払いが絡んできてトラブルに陥ることもある。

 地道に働いても月50ドルのモンゴルでは、外国人はやはりいいカモだ。
 ボランティア活動をしようとモンゴル来て、現実を見て失望し、この先どうしようか悩んでいる人が「あづさや」にいた。よくある話だが、たとえば日本から100万円の援助が来ると、もっともらしい団体が90万円くらいを自分の懐に入れ、本当に困っているたちには申し訳程度にしか残らない。援助関係で大金持ちになったモンゴル人もいる。援助する側は100万円を出した時点で満足しているから、それが行き届いているかどうか、あまり追求しない。

 モンゴル人は貨幣とほとんど縁のない遊牧生活を2000年も繰り返して、そしていきなり共産主義下で生きることになった。そしてソ連が崩壊して資本主義に移行してから、まだ10年あまりしか経っていない。平均的な人々はまだ経済に関する西側的/資本主義的な常識、ルール、モラルを持ち合わせていない。タダでもらえるならドンドンもらおうとするし、とりあえず「くれ」と言ってみるし、スキがあるなら盗ってみたりもする。どうやったら本当に豊かになるのかは誰も教えてくれない。
 「援助はその国をダメにする」とよく言われる。一概には言い切れないが、地元の団体/組織に全てをまかせてしまえばそうなる可能性は高いだろう。援助する側は援助した分をしっかりと監視する義務がある。
 個人的にも組織的にもカモになりがちな日本人だが、モンゴル人のことを思うと、腹立たしいというよりかわいそうに思える。いきなりこんな世の中になって、何がなんだかさっぱり分からないのだろう。

 僕の財布を盗ろうとした少年も、きっと親に捨てられ、マイナス40度に達する冬にはマンホールに潜って生活するストリートチルドレンの一人なのだろう。
 そう思うと、財布をあげていた方が良かった・・・というのが100万円援助して、その後は知らん、というヤツだ。やはり長い目で見れば鉄拳制裁、「スリは割りに合わないぞ」と教えてあげた方がいいのだ!
 来るなら来い、スリどもめ!(でも実はザハを後にするとき、足がちょっと震えていた)

 その夜は「あづさや」のみんなで、ウランバートル市街を見下ろすザイサン・トルゴイの丘に行った。ゴビ砂漠ツアーでは見られなかったが、今、流星群が来ているというのだ。
 モンゴルでは流れ星は不吉とされる。星の一つ一つは人の命と対応しており、星が流れるときは誰かが死ぬときといわれる。だからモンゴル人は流れ星を見ると「俺の星じゃないように」と願うのだ。
 と、「地球の歩き方」には書いてあったのだが、実際夜のザイサン・トルゴイに行って見ると、モンゴル人の見物客も多かった。羊肉を焼く露店まで出ていた。

 「あづさや」のオーナーもびっくりするほどウランバートルの夜景は明るかった。ここ最近、街はどんどんと発展しているらしい。おかげでその方角の星は見えにくく、みんなは反対側の山の方を向いていた。
 しばらくすると空がキラッと輝いた。みんなは歓声をあげ、1秒ほどの間、星が流れるのを見た。
 日本人なら、やっぱり流れ星ときたら願い事である。僕は次に流れ星が来たら何を願おうか、考えた。
 「お金持ちになれますように」というのはいかにも物欲丸出しだし、「きれいなお姉ちゃんと付き合えますように」というのは性欲丸出しである。「世界が平和でありますように」というにはいかにも偽善的だし、「新しいピカピカのバイクが欲しい」というとDRが怒って自爆しそうだ。「無事に日本に帰れますように」というのは、この機会にはちょっともったいない気がする。
 結局、僕は「幸せになれますように」という抽象的かつ総合的、またヤクザ者との愛憎劇に疲れた水商売のお姉ちゃん的な願い事に統一し、その後、夜空が輝くたびに唱えるのだった。
 その夜、1時間ほどの間に僕は6つの流れ星を見た。


本日の走行距離            0キロ(計81021キロ)

出費                   2300Tg タクシー代
     50Tg ザハ入場料
     3200Tg 靴修理費
     700Tg ネジ
     1000Tg 計算機
     14000Tg デール
     3200Tg 飲食費
     400Tg インターネット
計     24850Tg(約2690円) 宿泊         あづさや
インターネット    New@COM