ゴビ砂漠を目指すツアーは、「あづさや」を午前8時半に出発した。
使用される車はロシア製の四輪駆動バン。なかなかユーモラスなツラ構えで、あの「牛次郎号」をホーフツとさせる。ソ連崩壊まで工業製品のほとんどをロシアに頼っていたモンゴルでは、今でもロシア製の車が多く、田舎に行くとこのバンか、ジープタイプのロシア製4駆のほとんど2種類しか見ない。
ツーリストの集まる場所に行くとこのバンがずらりと並び、自分の車の特徴を覚えていないと、どれがどれだが分からなくなるのだ。
モンゴル人スタッフは2人。「気はやさしくて力持ち」を絵に描いたようなドライバー、バギ(34歳)と、スラリと長身で、積極的な性格の助手のメガ(21歳)だ。2人は「あづさや」の内装工事を一緒にしたのがきっかけになって、良いコンビを組むようになった。見た目も、まるで「ヤセタンとコロンタン」である。
2人は日本語も英語もまったく話せない。「あづさや」から借りたモンゴル語の会話集だけが頼りだが、彼らは僕らがうるさく言わなくても、退屈させないように色々な見所、イベントを用意してくれていた。結果から先にいうと彼らは優秀なガイドで、おかげでツアーは最高に楽しかった。
対するツアー参加者は僕を含めて5人。日本で学生をしていて、短期でモンゴルに来たミユキちゃんとルイコちゃん、写真が好きな元柔道部のバック・パッカー、モンゴリアン板垣(得意技・背負い落とし)、そして謎のNGO活動家、Y氏である。
僕はこの3年間で実にいろんな旅行者と会ったけど、このY氏は、なかでもトップランクの天然キャラクターだった。大まじめに言うことがいちいち笑わせてくれて、狙ってるんだったらこの人は天才じゃないか、と思うほどだった。
Y氏は自分のことをあまり語らない。日本では営業の仕事をしていたらしいが、「何を売っていたんですか」と聞いても、「まあ、いいじゃないですか、そんなことは」。たぶん40過ぎだと思うのだけど、年齢を聞いても、「まあ、いいじゃないですか、僕のことは」。しつこく聞いたら、「僕はラルク・アン・シエルのメンバーなんで、国籍も年齢も不祥なんです」
このY氏は5日間のツアーの間に数々の名言・迷言を残してくれたが、それは追い追い紹介しよう。とにかく、僕たちは優秀なガイドとY氏のおかげで、まったく退屈しなかったのだ。
ツアー初日は、ひたすら南を目指しての移動だった。
ウランバートル市街を出ると道はすぐに未舗装路になり、やがて草原の中のワダチとなった。ウランバートルからゴビ砂漠方面に下ると、250キロ南に「マンダルゴビ」、さらに250キロ南西に「ダランザドガド」という町があるが、我々が進むのはそのメインルートより西の田舎道。
それにしたってワダチの分岐は無数にあり、標識は全くないし、景色の変化は非常に緩慢で、地図もほとんど見ず、コンパスもGPSも持たないでよく迷わないな、と思っていたら、ドライバーのバギはその後、たまに迷った。その度に助手のメガと相談するのだが、メガの方が積極的な性格なので、結局は彼の主張する方向に進むことになる。
バギの運転はモンゴル人にしては大人しい方らしいが、道はデコボコで、7人を乗せた車は凹凸の度によくハネる。これでよくパンクしないな、と思っていたら、した。激しい段差で右後ろのタイヤのチューブが破裂したのだ。
しかしモンゴル人2人はものともせず、あいかわらずのコンビネーションで、当たり前のようにタイヤ交換をしていた。なんか、「牛次郎」の旅を思い出すなあ・・・。
窓やドアは隙間だらけで、やがて車内には埃が充満した。
ふと横をみると、Y氏は白い防塵マスクをつけ、一昔前の不良漫画の脇役みたいになっていた。Y氏は中国側の内モンゴルでNGO活動をしていたらしいが、そこでのバス移動も防塵マスクは欠かせなかったらしい。
空気が乾燥しているモンゴルでは、喉がよく乾く。みんな大量のミネラルウォーターを持参し、それを飲みながら車に揺られるのだが、Y氏は喉が乾くとマスクを外し、ペットボトルから紙コップに水を移して飲んでいた。
「いちいち紙コップに移すんですか」と僕がツッコむと、Y氏は「ええ、直接口をつけるとペットボトルに雑菌が繁殖して、臭くなるんです」と言った。僕は一瞬、フーンと納得したが、あることに気づき、さらにツッコんだ。「紙コップ自体は臭くならないんですか」
しかし、Y氏の答えは僕の予想を超越していた。「臭くなるのはペットボトルの口ではなく、水そのものです。口についた水がペットボトル内に戻り、そこで雑菌が繁殖するんです。内モンゴルではそうでした!」
Y氏がそう言った瞬間、車は大きく揺れ、彼は「お約束」のよう紙コップの水をこぼしてしまった。話しかけた僕が悪いんだけど、あまりのタイミングに笑ってしまった・・・。Yさん、ごめんなさい。
その後も、Y氏は「ちなみに内モンゴルでは・・・」という枕詞から、色んなことを教えてくれた。僕たちはいったい、この「チナミニウチモンゴルデハ」という言葉を、何回聞いたのだろうか?
ツアー中の宿泊は、その場で探すことになっている。車にはテントや寝袋も用意されているが、遊牧民の住むゲル(テント式住居)やツーリスト向けのゲル・キャンプ、あるいはホテルなど選択肢は多い。
初日はエルデンダライという町から少し離れた草原にあった、おばあちゃんとお母さん、そして孫娘の住むゲルに泊まることになった。生活臭のある本物のゲルである。
おばあちゃんのゲルは宿ではないし、電話もないから、我々が行くことは知らされてない。草原の中にポツンと立っていたゲルを助手のメガがいきなり訪れ、「なあおばあちゃん、旅行者が来ているんだ。一人一泊2500トゥグリク(約270円)で泊まらせてくれよ」と交渉したのだ。
これが日本だったら、えらいことだ。ある日突然、あなたの家に外国人旅行者を引き連れたガイドがやってきて、「何円で泊まらせてくれ」というのだ。
しかし旅人をもてなす習慣があり、またプライバシーという概念が希薄なモンゴルでは、こういうことは珍しくない。現金収入の乏しい遊牧民にとってはたとえ270円でも大金だし、そもそも旅人を自宅に泊めること自体、彼らにとっては何でもないのだ。
今でこそ外出時にはゲルに鍵をかけるが、司馬遼太郎が「モンゴル紀行」を書いたころは、まだ遊牧民はゲルを離れるときは水と食料を置いて、鍵をかけないでおいたという。外出中に訪れた旅人が困らないように・・・。
また、「ロンリープラネット」にはこうある。「モンゴルは世界でも有数のキャンプ天国だ。どこでもテントを張ることは可能だが、モンゴル人には西洋的なプライバシーの概念はまったく無いから、いきなりテントの中をひょっこり覗いてくることもある・・・」
悪い気もしたが、結局日本人5人がゲルに泊まり、3代のモンゴル人女性とバギとメガが我々の持参したテントに寝ることになった。
夕食は自炊である。ゲルの中心にはかまどがあり、そこに大鍋をかけ、「あづさや」が用意してくれたマカロニや野菜、モツの缶詰などを突っ込んだ。
日本人が料理をすると、どうしても薄味になってしまう。バギとメガは「おいしい」と言ってくれたが、小さなお椀一杯ずつしか食べなかった。「モンゴル人は小食なのかな?」と思っていたら、隣のテントを偵察してきたモンゴリアン板垣が、「大変です、あいつら肉食っています!」と報告をしてくれた。彼らはどこから調達してきたのか、脂のしたたる羊肉を「ガッハッハ。やっぱ、これだもんねー」みたいな感じで食べていたというのだ。
モンゴル人の主食は羊を中心とした肉である。栄養士が「不健康」と騒ごうが、ベジタリアンが「野蛮だ」と騒ごうが、ガツンと男らしく肉を食うのだ。麺やお米は肉を食うためのオカズであり、ここに「オカズと主食の逆転現象」が見られるのだ。
もともと遊牧民は羊肉、バターやチーズなどの乳製品、そして馬乳酒だけで生活してきた。野菜や果物を食べるようになったのは最近で、司馬遼太郎は「モンゴルには野菜に個々の名前がついていない。じゃがいもトマトも、みんな『野菜』と呼んでいるのだ」と書いている。今ではさすがにそれほどでもないが、それでもモンゴル人が肉を食べないと物足りないと思うのは変わらないみたいだ。
本物のゲルは快適だった。
家畜に食べさせる草を求めて移動をくり返す遊牧民にとって、組みたて・分解の簡単なゲルは最適の住居なのだ。
おばあちゃんのゲルは小型で、直径は5メートルほどだったが、それでも5人が寝るには十分なスペースがあった。
遊牧民は1時間ほどでこのゲルを分解し、組みたてることができるという。移動となればゲルをたたんで馬に乗り、また適当な場所で居を構えるのだ。特定の土地にこだわらず、旅を続けるモンゴルの騎馬民族は元祖・ツーリングライダーだと思う。うーん、センパイ、カッコいいなあ!
そう思うとゲルが欲しくなった。なんでも10万円ほどで買うことができるらしいので、僕の胸は一瞬ときめいたのだが、木とフェルトでできたゲルは、雨の多い日本ではカビだらけになってしまうだろう。ルイコちゃんによると、岐阜県に「モンゴル村」というのがあって、ゲルが立っているらしいが・・・。
アライテントあたりが「ゴアテックス・ゲル」、略して「ゴアゲル」なんて、発売しないだろうか?
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