旅の日記

モンゴル編その2(2002年8月7〜9日)

2002年8月7日(水) ゴビ砂漠ツアーに出発(Gobi desert tour)

 ゴビ砂漠を目指すツアーは、「あづさや」を午前8時半に出発した。
 使用される車はロシア製の四輪駆動バン。なかなかユーモラスなツラ構えで、あの「牛次郎号」をホーフツとさせる。ソ連崩壊まで工業製品のほとんどをロシアに頼っていたモンゴルでは、今でもロシア製の車が多く、田舎に行くとこのバンか、ジープタイプのロシア製4駆のほとんど2種類しか見ない。
 ツーリストの集まる場所に行くとこのバンがずらりと並び、自分の車の特徴を覚えていないと、どれがどれだが分からなくなるのだ。

 モンゴル人スタッフは2人。「気はやさしくて力持ち」を絵に描いたようなドライバー、バギ(34歳)と、スラリと長身で、積極的な性格の助手のメガ(21歳)だ。2人は「あづさや」の内装工事を一緒にしたのがきっかけになって、良いコンビを組むようになった。見た目も、まるで「ヤセタンとコロンタン」である。
 2人は日本語も英語もまったく話せない。「あづさや」から借りたモンゴル語の会話集だけが頼りだが、彼らは僕らがうるさく言わなくても、退屈させないように色々な見所、イベントを用意してくれていた。結果から先にいうと彼らは優秀なガイドで、おかげでツアーは最高に楽しかった。

 対するツアー参加者は僕を含めて5人。日本で学生をしていて、短期でモンゴルに来たミユキちゃんとルイコちゃん、写真が好きな元柔道部のバック・パッカー、モンゴリアン板垣(得意技・背負い落とし)、そして謎のNGO活動家、Y氏である。
 僕はこの3年間で実にいろんな旅行者と会ったけど、このY氏は、なかでもトップランクの天然キャラクターだった。大まじめに言うことがいちいち笑わせてくれて、狙ってるんだったらこの人は天才じゃないか、と思うほどだった。

 Y氏は自分のことをあまり語らない。日本では営業の仕事をしていたらしいが、「何を売っていたんですか」と聞いても、「まあ、いいじゃないですか、そんなことは」。たぶん40過ぎだと思うのだけど、年齢を聞いても、「まあ、いいじゃないですか、僕のことは」。しつこく聞いたら、「僕はラルク・アン・シエルのメンバーなんで、国籍も年齢も不祥なんです」
 このY氏は5日間のツアーの間に数々の名言・迷言を残してくれたが、それは追い追い紹介しよう。とにかく、僕たちは優秀なガイドとY氏のおかげで、まったく退屈しなかったのだ。

 ツアー初日は、ひたすら南を目指しての移動だった。
 ウランバートル市街を出ると道はすぐに未舗装路になり、やがて草原の中のワダチとなった。ウランバートルからゴビ砂漠方面に下ると、250キロ南に「マンダルゴビ」、さらに250キロ南西に「ダランザドガド」という町があるが、我々が進むのはそのメインルートより西の田舎道。
 それにしたってワダチの分岐は無数にあり、標識は全くないし、景色の変化は非常に緩慢で、地図もほとんど見ず、コンパスもGPSも持たないでよく迷わないな、と思っていたら、ドライバーのバギはその後、たまに迷った。その度に助手のメガと相談するのだが、メガの方が積極的な性格なので、結局は彼の主張する方向に進むことになる。

 バギの運転はモンゴル人にしては大人しい方らしいが、道はデコボコで、7人を乗せた車は凹凸の度によくハネる。これでよくパンクしないな、と思っていたら、した。激しい段差で右後ろのタイヤのチューブが破裂したのだ。
 しかしモンゴル人2人はものともせず、あいかわらずのコンビネーションで、当たり前のようにタイヤ交換をしていた。なんか、「牛次郎」の旅を思い出すなあ・・・。

 窓やドアは隙間だらけで、やがて車内には埃が充満した。
 ふと横をみると、Y氏は白い防塵マスクをつけ、一昔前の不良漫画の脇役みたいになっていた。Y氏は中国側の内モンゴルでNGO活動をしていたらしいが、そこでのバス移動も防塵マスクは欠かせなかったらしい。
 空気が乾燥しているモンゴルでは、喉がよく乾く。みんな大量のミネラルウォーターを持参し、それを飲みながら車に揺られるのだが、Y氏は喉が乾くとマスクを外し、ペットボトルから紙コップに水を移して飲んでいた。
 「いちいち紙コップに移すんですか」と僕がツッコむと、Y氏は「ええ、直接口をつけるとペットボトルに雑菌が繁殖して、臭くなるんです」と言った。僕は一瞬、フーンと納得したが、あることに気づき、さらにツッコんだ。「紙コップ自体は臭くならないんですか」

 しかし、Y氏の答えは僕の予想を超越していた。「臭くなるのはペットボトルの口ではなく、水そのものです。口についた水がペットボトル内に戻り、そこで雑菌が繁殖するんです。内モンゴルではそうでした!」
 Y氏がそう言った瞬間、車は大きく揺れ、彼は「お約束」のよう紙コップの水をこぼしてしまった。話しかけた僕が悪いんだけど、あまりのタイミングに笑ってしまった・・・。Yさん、ごめんなさい。
 その後も、Y氏は「ちなみに内モンゴルでは・・・」という枕詞から、色んなことを教えてくれた。僕たちはいったい、この「チナミニウチモンゴルデハ」という言葉を、何回聞いたのだろうか?

 ツアー中の宿泊は、その場で探すことになっている。車にはテントや寝袋も用意されているが、遊牧民の住むゲル(テント式住居)やツーリスト向けのゲル・キャンプ、あるいはホテルなど選択肢は多い。
 初日はエルデンダライという町から少し離れた草原にあった、おばあちゃんとお母さん、そして孫娘の住むゲルに泊まることになった。生活臭のある本物のゲルである。

 おばあちゃんのゲルは宿ではないし、電話もないから、我々が行くことは知らされてない。草原の中にポツンと立っていたゲルを助手のメガがいきなり訪れ、「なあおばあちゃん、旅行者が来ているんだ。一人一泊2500トゥグリク(約270円)で泊まらせてくれよ」と交渉したのだ。
 これが日本だったら、えらいことだ。ある日突然、あなたの家に外国人旅行者を引き連れたガイドがやってきて、「何円で泊まらせてくれ」というのだ。

 しかし旅人をもてなす習慣があり、またプライバシーという概念が希薄なモンゴルでは、こういうことは珍しくない。現金収入の乏しい遊牧民にとってはたとえ270円でも大金だし、そもそも旅人を自宅に泊めること自体、彼らにとっては何でもないのだ。
 今でこそ外出時にはゲルに鍵をかけるが、司馬遼太郎が「モンゴル紀行」を書いたころは、まだ遊牧民はゲルを離れるときは水と食料を置いて、鍵をかけないでおいたという。外出中に訪れた旅人が困らないように・・・。
 また、「ロンリープラネット」にはこうある。「モンゴルは世界でも有数のキャンプ天国だ。どこでもテントを張ることは可能だが、モンゴル人には西洋的なプライバシーの概念はまったく無いから、いきなりテントの中をひょっこり覗いてくることもある・・・」

 悪い気もしたが、結局日本人5人がゲルに泊まり、3代のモンゴル人女性とバギとメガが我々の持参したテントに寝ることになった。
 夕食は自炊である。ゲルの中心にはかまどがあり、そこに大鍋をかけ、「あづさや」が用意してくれたマカロニや野菜、モツの缶詰などを突っ込んだ。
 日本人が料理をすると、どうしても薄味になってしまう。バギとメガは「おいしい」と言ってくれたが、小さなお椀一杯ずつしか食べなかった。「モンゴル人は小食なのかな?」と思っていたら、隣のテントを偵察してきたモンゴリアン板垣が、「大変です、あいつら肉食っています!」と報告をしてくれた。彼らはどこから調達してきたのか、脂のしたたる羊肉を「ガッハッハ。やっぱ、これだもんねー」みたいな感じで食べていたというのだ。

 モンゴル人の主食は羊を中心とした肉である。栄養士が「不健康」と騒ごうが、ベジタリアンが「野蛮だ」と騒ごうが、ガツンと男らしく肉を食うのだ。麺やお米は肉を食うためのオカズであり、ここに「オカズと主食の逆転現象」が見られるのだ。
 もともと遊牧民は羊肉、バターやチーズなどの乳製品、そして馬乳酒だけで生活してきた。野菜や果物を食べるようになったのは最近で、司馬遼太郎は「モンゴルには野菜に個々の名前がついていない。じゃがいもトマトも、みんな『野菜』と呼んでいるのだ」と書いている。今ではさすがにそれほどでもないが、それでもモンゴル人が肉を食べないと物足りないと思うのは変わらないみたいだ。

 本物のゲルは快適だった。
 家畜に食べさせる草を求めて移動をくり返す遊牧民にとって、組みたて・分解の簡単なゲルは最適の住居なのだ。
 おばあちゃんのゲルは小型で、直径は5メートルほどだったが、それでも5人が寝るには十分なスペースがあった。
 遊牧民は1時間ほどでこのゲルを分解し、組みたてることができるという。移動となればゲルをたたんで馬に乗り、また適当な場所で居を構えるのだ。特定の土地にこだわらず、旅を続けるモンゴルの騎馬民族は元祖・ツーリングライダーだと思う。うーん、センパイ、カッコいいなあ!

 そう思うとゲルが欲しくなった。なんでも10万円ほどで買うことができるらしいので、僕の胸は一瞬ときめいたのだが、木とフェルトでできたゲルは、雨の多い日本ではカビだらけになってしまうだろう。ルイコちゃんによると、岐阜県に「モンゴル村」というのがあって、ゲルが立っているらしいが・・・。
 アライテントあたりが「ゴアテックス・ゲル」、略して「ゴアゲル」なんて、発売しないだろうか?


本日の走行距離            0キロ(計81021キロ)

出費                    700Tg 飲食費
     2500Tg 宿泊費
計     3200Tg(約350円) 宿泊         おばあちゃんゲル


2002年8月8〜9日(木、金) ゴビの砂丘に立つ(Dunes in Mongolia)

 ツアー2日目。おばあちゃんゲルを後にした僕たちは、ふたたびドッタンバッタンとロシア製バンに揺られ、南に下った。
 昼食は外食である。モンゴルの草原や砂漠には、「なんでこんなところに」と思うような場所にいきなり食堂がある。食堂といっても単なる小屋やゲルなのだが、僕たちは毎日、そんな食堂で焼きうどんなんかを食べるのだ。
 2日目の昼食はバヤンザグという、恐竜の骨や卵が大量に見つかった台地のそばのゲルで食べた。

 ここまで下ると、まわりの景色はすっかりサバクである。砂漠といっても、みんなが想像するような砂丘ではなく、固くしまった土や小石、岩、乾燥してねじれた潅木なんかに覆われた土地である。サハラやアタカマがそうであったように、「砂漠」といっても、サラサラの砂丘が続くのはほんの一部だ。

 昼食の後は太陽の照りつけるなか、近くの岩山に登った。ちょっとモニュメント・バレーに似た景色を眺めていると、バギとメガの2人は、固い石を使って絶壁に自分たちの車のナンバープレートの番号を彫り出した。
 残念だが、平均的なモンゴル人というのは環境保全にまったく興味がない。興味がないというより、土地に対して人口が圧倒的に少ないから、する必要がないのだ。だからゲルの近くに酒のビンが転がっていたり、村や町はずれにゴミの山ができていたりする。

 アウトドアの達人である彼らにしては意外な気がするが、もともと彼らは一ヵ所の土地に対して執着がないし、移動してしまえばいい、という考えがあるのだろう。そもそも、彼らは自然界で分解できないゴミを全く出さない生活をしていたのだ。
 彼らにペットボトルやビン、ビニール袋やアルミ包装なんかを紹介したのは、ロシアを中心とした他の国の人だ。日本がそれに加担していないとは言いきれないだろう。
 そんなものが入ってきても、それをどう処理していいか誰も教えてくれないから、圧倒的な国土面積のために目立たないけど、確実にゴミは堆積している。我々日本人の出すゴミの量に比べればケタ違いに少ないだろうが、それでも残念で、可愛そうな気がするのだ。

 その日はそのままズンズンと南下し、まず、ダランザドガドの北西にあるツーリスト・キャンプを当たってみた。
 しかし、外国人旅行者向けに作られた清潔な「やらせゲル」の並ぶキャンプは割高で、自炊もできないから食事つきで30ドルも出さなければならない。30ドルというと、モンゴルではもう法外に高い。僕たちはそこをあきらめ、ダランザドガドの町に行くことにした。

 バギとメガは、僕たちを町の入口にある「デプシルホテル」に連れていった。このホテルは「地球の歩き方」にも載っていて、それによるとツインで15ドルだそうだが、タフ・ネゴシエイターのメガは、一人5500トゥグリク(約5ドル、600円)で泊まれるように交渉してくれた。
 シャワーは水だったが、部屋は大きくてテレビもあった。僕たちはチェックインして早速、近くの食堂に向かった。ホテルでも自炊はできないが、町なら安い食堂があるのだ。

 ダランザドガドはゴビ地方の中心となる町だが、人口は千数百人程度。のどかな感じはするが、100%安全かというと、実はそうでもない。
 ロシアの影響だろうか、モンゴルにも酔っ払いは多い。ホテルにチェックインする際、一人の若者が僕たちの車に向かって石かなにかを投げてきて、仲間に取り押さえられていた。夕食後に部屋でくつろいでいると、何者かがドアを開けようとした。(女性陣の部屋でも同じ事があったらしい。このホテルの従業員は、少なくてもノックはする)
 世界中にある都市と同様、ウランバートルでもスリが横行していて、旅行者がターゲットになることも少なくない。モンゴルと聞いて草原にゲルの、のどかな風景ばかりをイメージして油断していると、足元をすくわれるのだ。(それでも西側諸国やロシアなんかに比べたら、凶悪犯罪はぜんぜん少ないのだけど)

 ツアー3日目の午前中、バギとメガは僕たちをヨリーン・アムという渓谷に連れていってくれた。何しろ言葉によるコミニケーションがなかなか取れないから、僕たちはどこに向かっているのか、次は何を見るのか、なかなか予想がつかない。しかし、それはそれでミステリー・ツアーのようで楽しいのだ。

 ヨリーン・アムはゴビ地方にあって、緑の多い渓谷に小川が流れるという珍しいスポットだ。入口にはちょっとした博物館があって、雪豹の剥製や恐竜の卵なんかが見られるが、僕たちはガムをクチャクチャと噛みながら椅子にふんぞり返って、「なんか文句あんの」みたいな態度をとっていた女性の博物館員の方が珍しかった。
 渓谷は「鷲の谷」の名前の通り、はるか上空には鷲が舞い、小川では素朴な子どもたちが水を汲んでいる。馬に乗った遊牧民が、颯爽と小川の横を走っていたりする。
 なかなかいいところである。しかししかし!僕たちはこういう景色を見に、ウランバートルから500キロも悪路を揺られてきたわけじゃないのだ。僕たちが見たいのは本当にサバクっぽい、大砂丘なのだ!

 バギとメガに「地球の歩き方」に載っていた砂丘の写真を見せ、「これを見たいのだ」と説明すると、彼らは「ふーん、これが見たいのか」というような、ちょっと意外そうな顔をした。
 どうもモンゴル人ガイドが見せたいものと、我々日本人観光客が見たいものにはギャップがあるようだ。僕たちははっきり言って昨日の岩山より、馬や牛の骨が転がった、360度の大草原の方に感動した。モンゴル人にとっては何の変哲もない見慣れた風景なのだろうが、我々にとっては「いかにもモンゴル」という感じで、他の国ではなかなか見られないものなのだ。

 ダランザドガドの南西にあるヨリーン・アムが今回のツアーの最南点で、そこからは北に引き返すことになった。目指す砂丘も北の方にあるらしい。
 しばらく走ると、バギはめちゃくちゃかっこいい、馬に乗ったおばちゃん(といっても実は僕と同じくらいかもしれない)を地平線に見つけ、走り寄って何かを訪ねていた。
 さらに少し行くと、平らな砂漠の向こうに黄色い丘が見えてきた。おお!あれこそが「モルツォク砂丘」!さっきのは風によって微妙に変わる砂丘の位置を訪ねていたのだ。

 ゴビの砂丘はサハラやアタカマなんかに比べると、だいぶ小規模だった。だけど晴れ渡った空に黄色い砂が映え、どこからともなくラクダ使いも現れ、清く正しいサバクの雰囲気をちゃんと出していた。
 初めてのサバク体験に女性陣は嬌声をあげ、モンゴリアン板垣はメガとモンゴル相撲を取り、Y氏は砂漠の生物について解説をはじめ、僕は日本に帰ってから砂時計を作ろうとペットボトルに砂を詰めた。
 平和で穏やかな、サバクの午後だった。

 その夜は、マンダル・オボという町にあるツーリスト用のゲルに泊まる事になった。旅行者用といっても宿泊費は一人3000トゥグリク(約320円)と安く、ローカルな雰囲気がした。大型のゲルで、中央のかまどを5つのベッドが囲んでいる。
 夕食は「あづさや」でも販売しているインスタント・ラーメンを食べることになったが、Y氏は今夜も絶好調だった。Y氏はそのラーメンを食べたことがあるらしく、「そのラーメンはですねえ、ラーメン味です」と言った。僕とモンゴリアン板垣は言い間違えたのだと思って、「醤油味とか味噌味とかじゃなくて、ラーメン味なんですか?」と確認すると、彼は大真面目な顔で「はい、ラーメン味です」とうなずいた。
 ラーメン味のラーメンって、いったい・・・?

 また、Y氏は玉ねぎが嫌いだが、キャベツの歯ごたえにはうるさい。
 初日の夜、「キャベツはマカロニのあとに」と主張する彼の意見を無視し、我々は早めに鍋に投入してしまったのだが、ヘロヘロになった葉っぱを箸でつまみ、Y氏はとても残念そうだった。よって、今夜は麺のあとにキャベツを入れることが絶対条件となったが、それを切るタイミングにもY氏なりのルールがあったのだ。
 じゃがいもとにんじんを切って鍋に入れ、火が通るまでにしばらく間があった。みんな手持無沙汰になり、キャベツを切ろうとしたのだが、「いやいやいや、切るのはもっと後で!」とY氏は主張した。僕らはいつ切ろうが何も変わらないんじゃないか、と思いながらも、別に反論する理由もないので、言われるままにキャベツをテーブルに載せたままにしておいた。

 グツグツと野菜の煮える音を聞きながら、僕たちはまた退屈になった。すると、オモムロにY氏が「じゃ、キャベツの芯でもとっておきましょうか」と言ったのだ。僕たちは吉本新喜劇みたいにその場に転がりそうになったが、別に反論する理由もないので、言われるがままに芯をとった。
 そしてキャベツの葉をちぎろうとした瞬間、Y氏は言ったのだ。「いやいやいや、切るのはもっと後で!」
 Y氏・・・すさまじいキャラクターだ。


本日の走行距離            0キロ(計81021キロ)

出費                   3160Tg 飲食費
     8500Tg 宿泊費
     1600Tg 博物館
計     13260Tg(約1430円) 宿泊         デプシルホテル(8日)
           マンダル・オボのツーリスト・ゲル(9日)