旅の日記

モンゴル編(2002年8月3〜6日)

2002年8月3日(土) 騎馬民族との出会い(Entering Mongolia)

 稲川さんと一緒に朝食を食べてから出発しようと思っていたが、なぜかホテルのカフェは週末で休みだという。12階にあるバーに行け、とフロントのお姉ちゃんが言うので行ってみると、食べ物はパンきれにハムがのったカナッペしかなかった。
 ウラン・ウデの街を見下ろしながら、午前8時にカナッペを食べるのは妙な気分だった。立食パーティじゃないんだから・・・。

 街外れまで一緒に走り、イルクーツクに向かう国道M55号線と、モンゴルに向かう国道A165号線の分岐で稲川さんと別れた。
 稲川さんは晴れ男らしい。昨日の天気予報ではウラン・ウデは雨のはずなのに、今日も雲一つない青空が広がっている。よっしゃ、今日はモンゴルだー!

 モンゴルに下る国道は舗装されているものの、ところどころ剥がれていたり、砂がたまっていたりして走りにくかった。
 ようやく100キロほどを走り、休憩を挟んだところで、向こうから2台のバイクが走ってきた。あー、ロシアに帰ってくるのが早いよ・・・。

 そう、彼らは小梅さん&得政さんのカップル。イスタンブール以来の再会だ。彼らもモンゴルに入ったことはメールで知っていたが、「西モンゴルに行ってきます」と書いてあったので、僕がウランバートルで待っていれば、そこで再会できると思っていたのだ。
 しかし彼らも「クロの親父」こと岡野さんと同じく、自力でモンゴルを走ろうとしたものの、標識一つないわ、道は悪いわで、早々に西モンゴルから引き上げてきたらしい。なにしろモンゴルの未舗装路というのは、メインルートと枝道の区別もつかないらしい。

 「もしウランバートルで青山さんに会えたら、もうウラジオストクまで一緒だね、って話してたんですよ」と得政さんが眼鏡の奥で罪作りな笑顔を浮かべながらいう。うっ、クラクラ・・・一瞬、このまま引きかえして二人と東に向かおうかとも思ったが、ここまで来たらやっぱりモンゴルに行かなければ。
 30分ほど路肩に止まり、別れてからの経緯を語り合った。そして僕たちはふたたび北と南へ走り去った。焦らなくても、彼らとは日本に帰ったらいくらでも会えるさ。僕が日本に帰るころには、彼らも日本に着いているはずだから。

 さらに100キロ走ってモンゴルとの国境に到着。小梅さんたちが4時間かかったという通り、ロシア出国のゲートは閉ざされ、その前にモンゴル人の乗った車がズラリと並んでいる。これはなかなか手ごわそうな国境だぞ。
 長期戦にそなえ、まずは腹ごしらえをすることにした。羊肉の串焼きを食べさせる屋台があったので、そこのテーブルに座ると、反対側に座っていた人相の悪いモンゴル人運転手が話しかけてきた。
 「お前は、日本のヤクザか」「ちがうよ(あんたの方が百倍怖いぜ)」「あのバイクを運転させてよ」「えー、かんべんしてよ」
 などと話しているうちに串焼きが出され、僕は運転手と一緒にムシャムシャとそれを食べた。食事が終わると、モンゴル人運転手は「バイクを前に押すぞ」と言い出して、僕は何が何だかわからないまま、彼に力を借りてバイクを列の一番前まで押した。
 モンゴル人は列を作るのが苦手で、横入りなど当たり前らしい。僕もバイクなら前に行かせてくれるかな、などと甘い期待をしていたのだが、みんながジーッと待っているのを見ると、とてもそんなことはできなかったのだ。

 僕が列の前に出ると、ちょうどほんのわずかな間だけゲートが開き、僕は2台の車とともに滑り込むことができた。
 ふたたび閉められた金網のフェンスの向こうで、人相の悪い運転手は「じゃーなー」と手を振っていた。見かけによらず、いい人だなあ。「バイラルラー!(ありがとう)」と僕は大声で言った。

 ロシアの出国手続きは入念で、簡単な荷物検査もあったが、英語の話せる係官がいて雰囲気は悪くなかった。「ここの国境で料金はかかりません。係官に要求されてもお金を払わないで下さい」という看板があったのが、何か「エサを与えないで下さい」みたいな感じで笑えた。
 ロシア側を抜けてモンゴル側に行くと、雰囲気がまるで違う。イミグレや税関の建物はほったて小屋だし、道だって舗装されていない。
 モンゴルの入国手続きは1時間ぐらいで終わった。全部で3時間半はかかったことになる。やっぱりこの国境は越えるのに数時間はかかるのだ。

 61カ国目、モンゴル。国境から首都ウランバートルに向かう道はきれいに舗装されていて、道の左右にはガイドブックやテレビで見たとおりの草原が広がった。背の高い木はほとんど無く、上からのしかかってくる青空をさえぎるものはない。誰かが「世界で一番、空の大きな国」と言っていたが、それがよくわかる。
 鉄の騎馬民族は、とうとう本物の騎馬民族の大地にやってきたのだ。

 国境からウランバートルまでは300キロ以上あり、今日のうちに到着するのは厳しい。ロシアのようなすさんだ雰囲気もないし、そこらへんでブッシュキャンプすることにしたが、水がない。

 一応、モンゴル第2の都市というダルハン(といっても、人口9万人の田舎町だが)で水を買ったが、その間にバイクのまわりに騎馬民族たちが群がってきた。
 しかしモンゴル人はロシア人のようにあんまり色々と聞いてこないし、顔つきも親近感があるし、嫌な感じがしない。写真を一枚撮らせてもらったけど、これもロシアなら僕はしないなあ。「そのカメラを見せろ」とか言われそうで・・・。

 国境から150キロ走ったあたりでいい繁みがあったので、今夜はそこに泊まる事にした。
 時刻はすでに9時を回り、だんだんと暗くなってくる。しかし僕はテントを張る前に、まずリアのブレーキパッドを交換した。さっき国境で何気なく見たとき、とても減っているのを発見したのだ。
 古いパッドを外してみると、パッドの部分はほとんど無くなり、土台の鉄がブレーキディスクを削る寸前だった。危ない危ない、最後に交換して15000キロ以上走っているのを忘れていた。

 それからテントを張り、インスタントラーメンを作って食べたが、モンゴルの草原は蚊がいない。何て快適なんだろう!やっぱり、この国はキャンプ天国なのだ。
 さて、明日はウランバートルの日本人宿「あづさや」だ。どんな人たちがいるのかな?


本日の走行距離       約390キロ(計80801キロ)

出費                     81P  飲食費
     240P ガソリン
     450Tg 水
計     321P (約1220円)      450Tg(1ドル=約1110トゥグリク、約50円) 宿泊         そこらへんの繁み


2002年8月4〜6日(日〜火) 「あづさや」に到着(Arriving in Ulaan Baatar)

 快適なブッシュキャンプだったが、雨粒がテントを叩く音で起こされた。
 「あーあ、雨か。でも、今日はウランバートルに着きさえすれば良いのだ・・・」と、しばらくウトウトしていたが、あることに気がついて僕は飛び起きた。舗装された国道からテントを張った繁みまで、僕は土のダートを走ってきたのだ。雨でぬかるんでしまったら戻るのが大変になる。僕は雨の中、濡れたテントを急いでたたみ、超ブルーな気分で走り出した。
 モンゴルは1年のうち300日は晴天という国だが、少ない雨は夏の間に集中的に降る。それにしても、モンゴルでも雨。僕は旅の前半、北米〜南米間はほとんど雨に降られなかった。しかしヨーロッパに渡ってからは、「これでもか」というくらい雨に降られている。俺はやっぱり雨男なのかな。

 200キロあまり南に走り、首都ウランバートルに着くころには雨はあがったが、目指す日本人宿「あづさや」を探して迷っているうちに、また降ってきた。
 モンゴルには番地という概念がなく、ある場所を探し出そうと思ったら、通りの名前や近くにあるランドマークを頼りにするしかない。「あづさや」は国営デパートのすぐ近くなのだが、予想に反してそれが見つからないのだ。僕はウランバートル市内に入ってすぐのところに賑わった界隈があったので、てっきりそこが中心街だと思っていたのだが、実際には5キロもずれていた。「地球の歩き方」にも「ロンリープラネット」にも「国営デパート」という言葉のモンゴル語表記が載っていなかったので、僕は人に道を尋ねることもできず、雨の中、見つかるはずもないデパートを探し続けていたのだ。

 結局2時間ほどウロウロし、ヤケクソになって、郊外に出てからやり直しだ、と街外れを目指したら、その途中で国営デパートとその横の「あづさや」をあっさりと見つけてしまった。そして到着と同時に雨はあがった。何なんだよ、いったい!

 濡れてドブネズミのようになった僕を、「あづさや」のオーナーは乾いたタオルを持って温かく迎えてくれた。
 さて、この「あづさや」だが、僕はウランバートルに日本人宿があるなんて最近まで知らなかった。しかし、この宿は今まで泊まった日本人宿の中でもトップランクに居心地が良い。NHKが見られるし、本はいっぱいあるし、温水シャワーの出はいいし、ドミトリーのベッドにはカーテンも専用のコンセントも電気スタンドもあるし、安眠用の耳栓とアイ・マスクも貸してくれるし、コチュジャンからタカのツメまで各種調味料のそろったキッチンには、何と何と!食べ放題の白米まで用意されているのだ!
 これで一泊4.5ドル・・・ヤバイ宿である。本当に住めちゃうぞ、ここには。

 8月4日と、翌5日はほとんど宿で過ごした。僕は濡れた服とテントを乾かし、たまった日記を打ち、近くのインターネットカフェからそれをアップロードした。
 8月6日、僕は航空貨物会社を紹介してもらおうと、大韓航空の代理店とMIAT(モンゴル航空)のオフィスを訪れた。しかし教えてもらった大韓航空のオフィスに電話をしても誰も出ず、MIATのオフィスは列をつくることの出来ないモンゴル人の客と、社会主義的な対応しかできない窓口のおばさんの対決の場と化していて、航空券に関係ない質問をできる雰囲気ではない。

 刺すような陽射しの中、ウランバートル市内を歩いているうちに、僕はモンゴルから日本にバイクを送り返そうとしている自分がバカバカしく思えてきた。
 あとちょっとじゃないか。ロシアに戻ることを考えると気分がブルーになるけど、やっぱりウラジオストクまで自走してフェリーで日本に帰ろう。

 そんなわけで、僕は翌7日に出発する「あづさや」主催、4泊5日のゴビ砂漠ツアーに参加することにした。
 せっかくモンゴルに来たのだから、やっぱり草原や南部のゴビ砂漠を満喫したい。しかしモンゴルの田舎道は舗装されていないどろころか、標識も何もない単なるワダチである。GPSと詳しい地図、軽いオフロードバイクの組み合わせなら自走したいところだが、重たい僕のDRはGPSどころかトリップメーターも動かないから、何キロ走ったか距離を計ることもできない。
 ガイドをつけて走ることもできるが、今度は減ってきたタイヤや伸びてきたチェーンが問題になる。バイクを空輸できるのなら最後の思い出にモンゴルを走り回ろうと思っていたが、ウラジオストクまで自走となると守りに入らざるを得ない。
 ロシアを延々と走ってきて、バイクからちょっと離れたいという気持ちもある。よって僕はツアーに参加し、日本人旅行者たちとワイワイ楽しくやる方を選んだのだ。


3日間の走行距離       約220キロ(計81021キロ)

出費                  22960Tg 飲食費、国営デパートでタッパーなど買物
     3370Tg インターネット
     1200Tg 洗濯代
     13.5$ 宿泊費
計     27530Tg(約2980円)      13.5$(約1620円) 宿泊         あづさや
インターネット    New@COM