旅の日記

ロシア横断編その4(2002年7月30日〜8月2日)

2002年7月30〜31日(火、水) ライダーたちの宴(Rider's party)

 午前9時半、モンゴル領事館が開くと同時にモンゴルビザの押されたパスポートを受け取った。日本語の話せるおばさんは、しげしげと僕のパスポートをめくりながら「世界中を回ったねェ」と言った。いやいや、まだまだ行ったことの無い国の方が多いのだ。

 それからホテル「アンガラ」をチェックアウトし、3人のいる「バイカル」へ。
 「バイカル」というのは旧インツーリストホテルで、目の玉飛び出るような金額かと思っていたが、3人はダブルルームにエキストラベッドを入れたりして、僕が「アンガラ」に一人で泊まるよりずっと安くあげていた。

 3人がパッキングをしている横で、僕は彼らのバイクや装備を調べていた。
 まずはジュンヤ君である。彼は4年前、バルト3国をバックパッカーとして回ったとき、あのSRのケンジさんに会っているのだ。そしてその時、「海外をバイクで」という旅の選択肢に気付いたという。選んだバイクも同じヤマハのSR400だが、これは偶然で、ケンジさんに会ったときには彼のバイクがSRだとは知らなかったらしい。

 さて、ジュンヤ君だが、荷物が多い!というより重い。なんと70キロもあるそうだ。海外では良いのが手に入らないと思って、エンジンオイルを10リットルも持ってきたという。そりゃいらんよ・・・。
 その他にもジュンヤ君はビデオカメラ(壊れて結局イルクーツクで捨てたけど)やパソコンなど色んなものを持っているが、中でも大切なのはお絵描きセット。そう、彼はプロの絵描きなのだ!
 彼の作品は、ЗВЕЗДА(ズヴェズダ)という彼のホームページに紹介されているぞ!表紙のイラストからして彼の作品なのだ。
 旅のことも書いてあるから、みんな見るのだ!ちなみに「ズヴェズダ」とはロシア語で星のことである。

 次にイワケン&グリ君のペアである。
 イワケンは以前ホンダのトランザルプに乗っていたが、自宅の前で盗難にあってしまった。本来ならそのトランザルプで来ていたところだが、この旅のためにバイクを買うことになり、ホンダ党ということもあってXRバハにしたそうだ。
 荷物は一見多そうだが、まとめてキャリアの上に積んでるのでかさばって見えるのだ。はやくヨーロッパで振り分けバッグを買いたいという。

 グリ君は元トンカツ屋さん。寡黙で、自分のことをほとんど語らない。そしてちょっと石原裕次郎に似ている。対してイワケンはクラブやレイヴのイベント関係の仕事をしていて、よく話し、よく冗談をいう。対照的な2人だが、古い友達で、いいコンビなのだ。
 3人はこれまで野宿を繰り返し、苦労の多い日々だった。グリ君は海外旅行も初めてだが、イワケンは「あいつは弱音も吐かないでよくやっているよ」としみじみ言っていた。そんなグリ君をいいと思うし、そういうことを言うイワケンもいいと思う。うん、友情ってやつだなあ。

 3人のパッキングが済むと、僕たちは4人でバスターミナルの近くにある安ホテル「ウゾリ」に移動した。従業員の態度はイマイチで、シャワーは氷水だが(僕は初めて浴びられなかった)、一人8ドルでホテルのすぐ裏が駐車場になっている。
 グーパーで部屋割りを決めたが、僕はイワケンと一緒になった。

 チェックインして一服したあと、ホテルの隣にある中華マーケットをぶらつき、僕は電熱湯沸し棒と靴下を買った。サンクトペテルブルグで買った電熱棒がすぐに壊れてしまったのだが、そのあと探してもなかなか見つからなかったのだ。ここの電熱棒は15ルーブル(約60円)と、今まででダントツに安かった。

 その後は中央市場に行って昼食を食べ、夜のおつまみ用にキャビアの小瓶を買って、インターネットをしに行った。
 そして4人で宿まで歩いていると、目の前にパトカーが止まり、中からぞろぞろと警官が降りてきた。あぁー、嫌な雰囲気!

 「パスポートを見せろ」というので、みんなで見せる。今朝、モンゴル領事館から受けとっておいて良かった!
 「ビザはどこだ」「レジストレーションは」などと警官はパスポートをめくるが、レジストレーションのことで僕たちはちょっとモメた。
 ロシアのビザは入国して72時間以内に、レジストレーション(外国人登録)を行わなくてはならない。これは通常きちんとしたホテルか、ビザの招待状を出した会社が行うことになる。僕はサンクトペテルブルグのあるホテルで、大枚をはたいて10月まで有効というレジストレ−ションをしてもらった。しかし登録といっても、白い紙切れにホテルのスタンプを押し、そこに「何月何日から何月何日まで」と書きこむだけである。登録というより、宿泊証明のようなものだ。

 しかし別の都市に行ってしまうと、新たに登録しなおすことが必要らしいのだ。みんなこれはあまり気にしていなくて、やらなくても全く問題なかったという人も多いが、やらなくて身柄を拘束された人もいる。しかし、安い宿にはこのスタンプが無いし(法律上、もはや旅行者はどんな宿に泊まってもいいはず)、旅行者本人がOVIR(外国人登録所)に行っても相手にされないらしい。じゃあ、どうするのよ?
 この外国人登録というシステムは旧体制の名残りのようなもので、矛盾だらけで、誰も何が正しくて、何が正しくないのか把握していないように思える。

 僕はとりあえずサンクトペテルブルグでもらった「10月まで」というスタンプを見せるが、「これはサンクトペテルブルグのじゃないか。ここはイルクーツクだ」と警官はいう。調べると、僕は「アンガラ」でもスタンプをもらっていて、それは今日まで有効だった。それを見せると、「お前は問題ない」と僕は解放された。
 問題なのはあとの3人だ。彼らはおとといは「バイカル」でスタンプをもらったのだが、昨日はもらっていなく、そして今日の宿はそんなスタンプすら持っていない。警官によると、彼らのレジストレーションは29日で切れていてプロブレムだというのだ。

 とりあえず英語や日本語で適当に反論していると、警官たちは3人が単なるスタンプのもらい忘れと思ったのだろうか、「ちゃんとスタンプをもらえよ」みたいなことを言って去っていった。もっとしつこいか、ワイロでも要求されると思ったのに、良かった・・・。
 はあ、しかし一体、本当はどうすればいいんだろう?毎回毎回、良いホテルばかりには泊まれないし・・・。一番いいのは、「到着72時間以内」というルールがあるのだから「さっきこの町に着いた」と言う事か、本当に一都市あたり72時間以上滞在しないことかな?3人は期限の切れたスタンプを持っていたから、逆に問題になったのだ。
 まあ、本当に悪徳な警官なら、書類がちゃんとしてようが何だろうが難癖をつけるだろうけど・・・。

 無事に宿に帰れた僕たちは、キャビアとハムをつまみにビールで宴会を開いた。
 今夜も遅くまで色んな話をしたが、お開きになって部屋に帰ったあとも、僕とイワケンは午前3時ぐらいまで話していた。同い年なのでもう敬語はやめ、僕たちはタメ口で今までの人生のことなど、ディープに語り合った。まったく違う世界で生きてきた2人の人生が、こうしてロシアの安ホテルの部屋で交錯するというのも面白いものだ。

 次の日は出発する予定だったが、僕とイワケンは二日酔い気味だし、ジュンヤ君は風邪気味だし、結局みんなで延泊することにした。
 一日をゆっくりと過ごし、また警官と遭遇することが怖かったが、夜はみんなで豪華にイタリアンレストランに繰り出した。期待していなかったが、味はまあまあだった。
 夜はまた酒盛りだったが、トーンは下げ、酒量も控えて明日に備えた。僕は東へ、彼らは西へ向かうのだ。


2日間の走行距離        約15キロ(計79951キロ)

出費                     15P  電熱湯沸し棒
     106P インターネット
     550P 宿代
     794P 飲食費
     20P 靴下
     60P 駐車場代
計     1545P (約5885円) 宿泊         Hotel Uzory
インターネット    Web Ugol


2002年8月1〜2日(木、金) 今度は稲川さんだ!(Meeting another rider)

 さて、出発だ、と思ったら雨である。昨日までイルクーツクは晴れ渡っていたのに、まったく嫌になる。
 パッキングをし、ゆっくり朝食を食べ、隣の中華マーケットで買物をしてから宿を出ると、時刻はもう午後12時をまわっていた。
 3人はクラスノヤルスク方面、僕はウラン・ウデ方面に向かうが、きっと道は郊外に出てから分かれるのだろうと思い、一緒に街外れを目指す。ところが雨は強くなってくるし、道はよく分からないし、僕たちはたまらず一軒のガソリンスタンドに入った。

 車に給油をしていたおじさんに道を尋ねると、3人は目の前の道を行けばいいという。僕は街の反対側まで行かなければならないらしい。
 その時点ですでに午後2時だった。降りしきる雨の中、4人はガソリンスタンドの隅で話し合った。「もう一泊した方がいいかもしれない・・・」
 みんな口では「どっちでもいい」というので、多数決を取ることになった。結果は出発2、延泊2の半々。しかし「延泊」のうち一人は僕だったので、行動を共にする3人のうち2人は「出発」を選んだことになる。彼らはやっぱり出発すべきだろう。
 かといって僕も一人でイルクーツクに残る気にはなれないので、僕もやっぱり街を出ることにした。黒い雲、強い雨、濡れた服、午後2時のポイント・オブ・ノーリターン。しかし、これが大正解だったのだ。

 3人と別れ、再び一人で市街に入っていくと、意外にも「ウラン・ウデ方面」というしっかりとした標識が出ていて、1時間もかからないうちに街を東に抜けられた。
 そして1時間ほど走ると雨はあがり、両脇に針葉樹の迫るワインディングを抜けると急に視界が開け、その先にバイカル湖が広がっていた。

 バイカル湖。世界最大の湖。面積こそ世界6位だが、1600mという深度を誇るため、たたえる水は世界一。その量はアメリカの五大湖を合わせたよりも多く、世界中の淡水湖を合わせた5分の1に匹敵するという。
 また、湖はガスや生物の死骸がたまって沼化が進み、通常は3万年でその寿命を迎えるという。ところがこのバイカルは2500万年前からあったことが確認されており、生態的に見ても脅威の湖なのだ。

 しかし雨は上がったものの、鉛色の空の下の水面はアスファルト色。それでも一応、三脚を出して記念撮影をしていると、ロシア製のバイクに乗った少年がやってきて、「これらはいくらだ」「何キロ出るんだ」「いじらせてくれ」などと、いつもの一連の会話が繰り広げられるのだった。
 まったくロシア人というのは、人をほっておいてくれない。ロシアを「白いインド」と呼んだ人がいるそうだが、インドに行ったことのない僕の感覚だと「白いアラブ」かな?

 道はバイカル湖畔に沿っていた。しばらく進むと雲は去り、青空がのぞくようになったが、服が濡れたままなので寒い寒い。
 休憩を取りたいが適当なカフェがないし、早く進まないと明るいうちに450キロ離れたウラン・ウデに着けない。結局ほとんど停まらずに、午後10時にウラン・ウデに到着。夜の帳が下りる前に、ギリギリ間に合った感じだ。

 「クロの親父」こと岡野さんに教えてもらったホテルにチェックインし、目の前にある有料駐車場にバイクを預けに行くと、日本製のバイクが停まっているじゃないか。それを見ていると、駐車場のオヤジはノートをめくりながらこう言った。
 「そのバイクの持ち主はだな・・・そうそう、イナガワというのだ」

 イナガワ!というと、あの稲川さんか!僕はホテルのフロントに戻り、稲川さんの部屋番号を聞くと、まっしぐらに部屋に行った。
 ドンドンドン、ドンドンドン、「稲川さん!稲川さん!」。興奮気味にドアを叩くと、しばらくして眠そうなヒゲの男性がドアを開けた。
 「初めまして!青山です!」「ふぁ・・・あ、青山さん、初めまして。稲川です」
 稲川さんはすでに眠っていたらしい。しかし、ずうずうしい僕は30分後に戻ることを約束し、シャワーを浴び、インスタントラーメンを食べ、コーヒーの缶と電熱湯沸し棒を持って再び524号室を訪ねた。

 稲川さんはすでにバイクで世界を2周している海外ツーリングの達人だ。今回はロシアを横断してアフリカ方面へ下る予定で、スズキ・ジェベル250に乗って日本を約2週間前に出発した。こっちに向かっていることは知っていたが、まさかこんな形で会えるとは・・・。
 もし僕がイルクーツクで延泊していたら、すれ違いになっていたかもしれないのだ。やっぱり出発して良かった!

 何しろ部屋を訪ねたのが11時だったから、稲川さんから色んな話を聞くうち、すぐに深夜になってしまった。
 「それで稲川さん、明日は何時に出るんですか?」
 「いや、せっかくこうして会えたのだからもう一泊・・・」
 おお、そうこなくっちゃ!そんなわけで僕たちは次の朝にまた会う約束をして、とりあえずその夜はお開きにした。

 8月2日のウラン・ウデは快晴だった。ホテルのカフェで朝食を食べたあと、稲川さんがインターネットをやりたいというので2人で街に出てみた。
 ウラン・ウデは、ロシアで最もロシアらしくない街といわれる。モンゴルとの国境まで約230キロあるが、ここが最後の都市。巨大なレーニンの頭が中央広場を見下ろしているが、その前を通りすぎる人々の半分は親近感あふれる顔つきをしたモンゴル人だ。

 気候の良い今が結婚シーズンなのだろう。金曜日だったが、広場ではウェディングドレスとタキシードのカップルが何組か見られた。中にはモンゴル人女性とロシア人男性のカップルもいて、なかなか微笑ましい光景だった。
 インターネットは電話局にあったが、なぜかホットメールはできないという。何でだろう?
 仕方なくカフェでビールを飲み、「この後どうしましょうか?」と稲川さんに聞くと、「うーん、部屋で語らいましょうか」という答えが帰ってきた。僕はこの「語らう」という単語に、妙にウケてしまうのだった。

 そんなわけで僕の部屋で語らっていると、部屋の壁にかけられている、ある機械が僕の目に止まった。
 「稲川さん、このキカイ、何ですかね。よくロシアのホテルにあるんです」
 「さあ、気付かなかったなあ。右のはスピーカーですね。これがボリュームかな?」
 2人でスイッチを入れたりしていると、スピーカーがハウリングをおこし、「あ、うるさいうるさい」とツマミを元に戻そうと思ったら、スピーカーから火花が散り、やがて「ボン!」という音がして煙が上がった。まるで正体を知られそうになったスパイが自爆するかのように・・・。

 これはきっと何かの受信機なんだろうな。周波数を調整するツマミがないから、きっと緊急用ラジオか、あるいは共産党チャンネル専用ラジオか・・・(まさか盗聴機じゃないだろう)。壊れてしまったけど、火事にもならなかったし、まあ、ホテルにもバレないだろう。
 それにしても、爆発したときはびっくりした!(それに対して稲川さんは、表情一つ変えていなかった。なんて落ち着いている人なんだ)

 夕食を食べに出たが、ウラン・ウデの街にはレストランが無いので、ホテルのレストランで食べるしかない。しかし僕たちのホテルのレストランでは結婚式をやっていて、モンゴルオヤジが赤ら顔でスピーチをしている最中だった。
 仕方なく隣のホテルのレストランに行ったが、けっこうちゃんとした感じのところだったのに、魚料理とコーヒーで100ルーブル(約400円)だった。モスクワなんて全く比較にならなし、イルクーツクよりも全然安い。本当にロシアは都市によって物価が違うのだ。

 夕食の後はまた部屋に戻り、夜11時ごろまで稲川さんとビールを飲みながら語らった。
 稲川さんもウラジオストクからバイクで走ってきて、はやくもロシアに疲れてきたという。ハードな区間は列車に載せて越えたが、そこで嫌なロシア人といろいろあって、国の印象ががらりと変わったという。
 「ロシアは本当に気力を奪う大地ですねえ」と、僕たちはうなずきあった。はあ、俺もモンゴルから日本に帰れないとしたら、ウラジオストクまでまだまだ走らないといけないんだよな・・・。


2日間の走行距離       約460キロ(計80411キロ)

出費                     45P  タッパー
     214P ガソリン
     726P 宿代
     356.8P 飲食費
     30P 駐車場代
計     1371.8P (約5230円) 宿泊         Hotel Buryatia