選んだ林は底冷えして、僕は午前5時ごろに目が覚めてしまった。しばらくウトウトしていると、雨粒がテントをたたく音が聞こえてきた。テントから出てみると、西の空から鉛色の雲が近づいてきていて、目指す東の空は晴れている。雨雲に追いつかれてしまったのだ。
これはいかん、と支度をしてその場を後にしたのは、日が出てまもない午前6時前のことだった。
今日目指すのはシベリアで一番大きな街、ノボシビリスク。ロシア横断のちょうど中間地点にあるこの街が、僕のとりあえずの目的地だった。ホテルもたくさんあるみたいなので、2、3日ほどゆっくりして体を休め、さらなる長旅に備えたい。
ただし、そこまでの距離は700キロある。えっちらおっちら、僕は休憩を挟みながら東へ向かった。
「チタまで3200キロ」というすごい標識を見つけたので、写真を撮ろうとバイクを停めたところ、後ろから一台のバイクが走ってきた。ピカピカのBMW-F650GSである。
ライダーはロシア語で話しかけてきたので、「ロシア語はわかりません」と例のごとくいうと、「じゃ、英語は話すか?」と流暢な英語で言ってきた。なんだ、英語うまいじゃないか。
バイクのナンバーはロシアのものだった。しばらく英語で話すが、妙に英語がうまいし、ピカピカのバイクに乗っているし、これはお金持ちのロシア人なのだろうと僕は思った。
彼は休暇でモスクワから走ってきて、行けるところまで東に行くという。彼も今夜ノボシビリスクに泊まるので、同じ宿にしようということになったとき、彼はオモムロに携帯電話を取り出して、あるホテルに電話をかけた。
モスクワで調べてきた安いビジネスホテルだというのだが、「外国人は泊まれません」と彼は断られてしまった。「くそっ、こういうロシア人が頭に来るんだよな」と彼がつぶやいたので、僕はおや?と思って聞いてみた。
「あなたは何人なの?」「俺かい?俺はアメリカ人だ」
彼は英語の流暢なロシア人ではなく、ロシア語の流暢なアメリカ人だったのだ。名前はテイト、モスクワに住んで5年のビジネスマンだった。
「君はロシア語も話せないで、携帯電話も持たないで、バイクでロシアを横断するとはなんて勇敢なんだ。ここらへんの道路脇の看板、なんて書いてあるかわからないだろう。『強盗が出ますので、ガソリンスタンド以外では停まらないようにしましょう』って書いてあるんだぜ」
「・・・・・」
結局、僕たちはロンリープラネットに載っていた大きなホテル「ノボシビリスク」に泊まる事にして、また別れた。彼はけっこう飛ばすので、僕はついていけないのだ。
途中立ち寄ったガソリンスタンドで酔っ払いに絡まれながらも、午後6時にノボシビリスクに到着する。大都市なのでちょっと迷ったが、目指すホテルは中央駅の前なので、中心地に出たらあとは簡単だった。
先にチェックインしていたテイトに手伝ってもらって、駅を見下ろす部屋に入った。一泊1225ルーブル(約4800円)。一人で泊まる宿としては、この旅で最高の金額だ。しかし清潔な部屋だし、お湯の出るシャワーもバスタブもあるし、今までがんばって走ってきた自分へのご褒美として、2泊することにした。
ここで僕は自分の時計が1時間狂っていたことに気付いた。今朝、僕が出発したのは午前6時じゃなくて、5時だったのだ・・・。
シャワーを浴びた後テイトと街をぶらついたが、適当なレストランがないので、結局ホテルのレストランで食事をすることにした。
夕食の後も、そのままビールを飲みながら夜遅くまでいろんな話をした。聞くと彼はやり手のビジネスマンで、極東を含むロシア各地で仕事をしてきたという。今はテレビ関係の仕事をしているらしい。
ロシアで仕事をする上で苦労するのは、行動が結果に繋がる、という簡単なことをロシア人に教えることだという。たとえば、ロシア人は「出世させてくれ。そしたら頑張るから」というらしい。「いや、頑張ったら、その結果として出世させてあげよう」という会話を、彼は何度も繰り返したという。
また、地元の有力者やマフィアとのコネがないと、物事は遅々として進まないという。外国人だけでビジネスはできないので、パートナーとしてロシア人を入れるしかないのだが、そのパートナーがまたトラブルを起こしたりするらしい。
しかし、ロシアはチャンスに溢れているという。何でもいい、ホテルをやるのでも物を作るのでも、西側の仕事のレベルでやっていけば、まず失敗はないという。逆にいえば、それほどロシア国内で行われている事業はレベルが低いのだ。
「例えば」、と彼はミネラルウォーターのペットボトルを手にして言った。「このミネラルウォーターの会社の創立者を僕は知っている。彼はアメリカ人で1993年にロシアにやってきた。奥さんはロシア人で、彼はアメリカでトラック運転手をやっていた。彼はビジネスのことなどまったく知らなかったし、勉強をしたこともなかった。それがロシアで『水でも売ってみよう』と、5万ドル(約600万円)で販売会社をつくったんだ。そして9年たち、先月、彼はその会社の経営権を某西側企業に売却した。その金額は150万ドル(約18億円)だったよ」
アメリカや日本ではどんな事業をやっても競争が激しくて、成功するのは難しいという。それがロシアなら、当たり前のことやっても金になるのだ。
いろんな話をしているうち、彼の携帯電話が鳴った。すると、「もしもし?あ、ちょっと待って」と言い、彼は僕に電話をよこした。「日本語で話してみな」
「??もしもし??」「あ・・・こんにちわ。テイトの家内でございます(日本語)」
なんだ、奥さん日本人じゃないか!もう、早く言ってよ・・・。
そんなこんなで、午前5時出発の疲れも忘れて僕はテイトと話した。彼は夕食をごちそうしてくれたばかりか、明日、地元の知り合いに街を案内してもらうので君もどうだ、と言ってくれた。しかし、僕は日記やメールを打ったりバイクの整備をしなくてはならないので遠慮することにした。移動続きだと、さすがに日記が溜まるのだ。
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