旅の日記

ロシア横断編(2002年7月16〜20日)

2002年7月16日(火) 大転倒!と「クロの親父」(An accident)

 ホテル「ツーリスト」で朝食を食べてからモスクワを出発した。例のごとく、大都市モスクワから東に抜けるルートは入念に調べておいたので、迷うことなく国道7号線にのることができた。
 モスクワから遠くなるにつれ、どんどん田舎臭くなってくる。現金収入の乏しい小さな村の住民は、道沿いに露店を出して少しでも生活の足しにしているが、彼らの着ている服がどんどんボロくなってくるのだ。売っているものは村ごとに違い、たとえばコーヒーばかり沸かして売っている村もあれば、中国あたりからの流れ物だろうか、ゴムボートやゴムボールばかり売っている村もある。

 道路の状態はところによって大きく違う。真新しいアスファルトの箇所もあれば、穴だらけだったり、トレーラーのタイヤの跡で波打った路面もある。
 モスクワから200キロほど進んだときだった。前のトレーラーが遅いので、そのケツについてゆっくり走っていたら、いきなりある段差で荷台の蓋が開き、中からダンボール箱が10個ほど転がり出してきたのだ。箱は路面に落ちるとバラバラになり、中に入っていた真空パックの極太ソーセージが散乱した。
 「おお、ソーセージ!美味そう・・・」と僕は思ったが、そんな場合ではない。僕はそれらを踏まないように急停止し、拾いたい衝動を押さえ、対抗車線に出て気付かずに走り去っていったトレーラーを追いかけた。
 その運転席に並んでクラクションとジェスチャーで伝えると、トレーラーは路肩に止まった。荷台を調べれば何が起きたかわかるだろう。
 さてみなさん、今日のタイトルを読んで、僕はここで転倒すると思ったでしょう?でも、違うのです。

 モスクワから420キロほど東のネスキー・ノブグロドを越え、さらに80キロほど進んだ小さな町で、ベッドのマークの標識を見つけた。種類やランクはどうであれ、宿泊施設があるというしるしだ。
 矢印を追って行くと、ロシア人向けの安宿に出た。外国人などまず泊まることはないのだろうが、受付のお姉さんは笑顔で対応してくれた。「駐車場が必要です」と覚えたてのロシア語でいうと、近くの庭みたいなところを案内されたが、屋根も囲いもないので不安が残る。すでに僕は注目を浴び、バイクを見に子どもたちが集まってきているのだ。
 130ルーブル(約500円)という宿泊費は魅力だったが、バイクが心配だし、まだ夕方の5時なので、僕は町を後にしてさらに進むことにした。
 この選択が失敗であり、そして成功でもあったのだ。ほんと、人生は面白い。

 町を出て少し行くと、対抗車線の車がパッシングをするようになった。普通なら「この先に警察がいるぞ」ということなので、僕はスピードを落とした(それでも時速60キロは出ていたと思う)。
 そして緩やかなコーナーを抜け、「あれ、警察なんかいないじゃないか」と思った頃、突然、まったく突然に、前後のタイヤともグリップを失った。そこに広がっていたのは黒光りするアスファルト。オイル?と思ったが、違う。これは生乾きのコールタールだ!
 60キロの速度から僕はまともに転倒した。コールタールまみれになって路面を転がる僕が目にしたのは、対向車線を滑って行く僕のバイクと、その向こうから走ってくる巨大なトレーラー。その時、僕は思ったのだ。
  「ああ、バイクが轢かれる。俺の旅はこれで終わりだ・・・」

 しかし、僕の運もけっこうしぶとい。トレーラーはその手前で止まってくれ、前後の車から僕を助けようとロシア人のドライバーが出てきた。
 みんなでバイクを起こしたが、またみんなで転びそうなほど路面はヌタヌタだった。みれば約200メートルにわたり、道路の表面がコールタールの薄い膜で覆われている。恐るべしロシア人!標識も立てず、片側通行にすることもせず、このまま放置しておくとは・・・。
 後から来た車が僕たちを追い越そうとして異変に気付き、ブレーキを踏んだが、90度ほどスピンしていた。

 バイクは左側に倒れたので、左のサイドケースはバックルがもげ、バイクよりさらに10メートル先まで滑っていた。ハンドルバーは無残に曲がり、左側だけセパハンの状態になってしまった。ナックルガードは割れ、クラッチレバーとシフトペダルはひしゃげて妙な角度になっている。
 しかしエンジンは一発でかかった。根本的なダメージはない。まだいける!
 幸い僕自身もすり傷だけで済んだ。カンボジアで買ったニセモノのリーバイス501とラフ&ロードのゴア・ジャケットは穴が開き、コールタールで真っ黒になったが、これでどこから見ても金満日本人じゃないぞ!

 誰かが通報したのだろうか、しばらくして2人の警察官が車に乗ってやってきたが、言葉が通じないのと僕が大丈夫なのを知ると、すぐに立ち去っていった。あのー、本当はこの路面の責任者を何とかしてもらいたいんですけど・・・。

 バラバラになった荷物をパッキングしなおしていると、今度はバイクの排気音が聞こえた。顔をあげると、そこには大きな荷物を積んだホンダのオフロードバイクが。
 2人とも目が合ったまま、相手が何人なのか何者なのか、1〜2秒の間、伺っていた。そして僕たちは日本語で言ったのだ。「こんにちわ!」

 ホンダのXR400に乗って東側、つまり僕とは逆から走ってきたのは「クロの親父」こと岡野さんだった。Northern Walkersの掲示板で、岡野さんが今夏日本から走って来ているのは知っていた。どこかで会えるかな、とは思っていたが、こんな形になるとは・・・。
 転倒したとき、僕は「さっきの宿に泊まっておけば良かった」とさんざん後悔したのだが、もしそうしていれば、こうして出会えることはなかったのだ。僕は安宿のベッドの上に体を横たえ、岡野さんはそのまま走り去っていただろう。

 岡野さんもそろそろ僕と会えるはずだと思っていて、カフェで休憩するときは目立つところにバイクを停めるなど、すれ違いにならないよう工夫をしていたらしい。宿泊は野宿が多いらしいが、日本人にだけわかるように「ここに日本人ライダーが寝ています」というノボリを立てようかとも思ったらしい。
 岡野さんはノボシビリスクのあたりで、あの小梅さんと得政さんのカップルとも会ったという。ここから約1週間分の距離だ。くそー、遠いな・・・。

 岡野さんはロシアを横断したあとヨーロッパを回り、アフリカ、南米〜北米、そしてアジア〜オーストラリアと、4年9ヵ月、5大陸走破の予定で走りつづける。ここまでも、通常は列車に載せる東シベリアの区間を、泥の道や川越えに負けずに自走したツワモノである。(本人は「やめときゃ良かった」と言っているけど)

 せっかくこうして会えたのだから、たとえ進む方角が違っても、「それじゃ良い旅を」というわけにはいかない。僕たちは近くの町まで行き、カフェに入ってビールで乾杯したあと、適当な林のかげを見つけて一緒にキャンプすることにした。
 ロシアで初めてのキャンプだったが、一帯はさきほど雨が降ったみたいで蚊は少なかった。(僕は多少気になったのだが、岡野さんにいわせると「こんなのシベリアに比べればまだまだでっせ」)

 岡野さんは、バックルが破損した僕のサイドケースを固定するためにゴム紐と、使い終わった「地球の歩き方・モンゴル編」を僕にくれた。そして僕たちはヘッドランプの明かりを頼りに午前1時ごろまで話したが、まだまだ話し足りない。ここがどこかの街だったら・・・。


本日の走行距離        約580キロ(計75186キロ)

出費                    130P  ガソリン
     30P 飲食費
計     160P
(約610円)
宿泊         そこらへんの林


2002年7月17〜18日(水、木) 5速3500回転の男(Riding East, East...)

 17日の朝、岡野さんと別れて一路東を目指した。次に会えるのはきっと日本、それも何年も先だろう。それまで気をつけて走ってください・・・。
 かつて僕は時速110〜120キロで巡航していたが、ロシアに入ってからかなり速度を押さえるようになった。タリンで交換した最後のリアタイヤ、これを日本に帰るまで持たせなければならないのだ。スピードメーターが壊れているので何キロ出ているかわからないが、5速3500回転をキープして走っているから、きっと時速80キロ前後だと思う。ロシア製のオンボロ乗用車に追い越されながら、僕は東の空を目指してひたすらアクセルをひねり続けた。

 モスクワを出ると、あとはもう原野しかないように思われるが、実はノボシビリスクまでの約3500キロの間、数百キロおきにある都市はどれも人口100万人を超える大きさである。ほとんどが工業都市で、街が近づくと煙をもくもくと上げる工場や、人間味をを全て排除した「巣」のような団地が見えてくる。とても入っていく気にはならないので、どの都市も環状道路を使って迂回した。

 カザンという都市を迂回してしばらく行くと、目の前に暗雲が広がった。ロシアの原野は基本的には西風が吹いているから、雲も僕と同じように西から東に旅している。わざわざ追いついて雨に降られたくはないので、道路脇にあった茶屋で休憩することにしたが、そこの女の子が英語の先生を目指しているらしく、カタコトの会話ができた。僕はコーヒーをすすりながら、女の子と話をして雨雲が去っていくのを待った。

 さて、都市に寄らずにどこに泊まるのかというと、モーテルである。国道を走っていると、要所要所に大きなガソリンスタンドや修理工場、カフェと一緒になった宿泊施設があるのだ。
 17日は、茶屋から30キロほど東にあった宿に入った。シャワーも水道もなく、手や顔を洗う水は大量のペットボトルに入れられた雨水を使うしかないのだが、一泊60ルーブル(約230円)と激安だった。
 コンセントはあったので、さっそく16日の分の日記を打った。転倒や岡野さんのことなど、書くことがたくさんあるのだ。

 18日、バイクがグズついた。
 朝、エンジンがかからないのでエアクリーナーボックスにガソリンを垂らす「強制チョーク作戦」で始動させたが、その後も電気系統がおかしい。ウインカーの点滅速度が速くなったり遅くなったり、エンジンを一度止めると、イグニションがONにならなかったりする。エストニアでもあったので、今回もヒューズの接触不良かと思い、外して磨いてみたが、あまり改善されない。おいおい、大丈夫か?

 ウファ(UFA)という、やはり大きな工業都市を抜けると、永遠に変わることがないと思われた景色に変化が現れた。ロシアをヨーロッパ側とシベリア側に隔てるウラル山脈にさしかかったのだ。
 しかし、山脈といっても大した高さも険しさもなく、道から見える景色は「丘陵地帯」といったものである。それでも、それまではずっと平野だったから大きな変化ではあるのだ。

 シム(Sim)という峠のあたりに小奇麗なモーテルがあったので、ちょっと早目だったが切り上げることにした。しかしこれが大正解で、バイクをガレージに入れさせてもらうとすぐに大雨が降ってきた。
 バイクの不調の原因を確かめようと、ガレージでいろいろやっているうちに、とうとう全くイグニションがONにならなくなった。ヒューズを磨いても何の変化もない。
 自分に落ち着け、と言い聞かせながらも、モスクワから1500キロも離れた山の中で、バイクの電気系統がイカれたらどうなるのだろう?と考えてアセる。どこが断線しているのか、テスターもなしにわかるのだろうか?自分で直せなかったら、どうやって、どこに運ぶのだろうか?トラックをヒッチしてモスクワ?

 とりあえずできることからやろうと思い、バッテリーの端子をきれいに磨いてみると、いとも簡単にバイクは復活した。僕は安堵のあまり、その場にへたり込んでしまった。はぁー、よかった。
 ガレージの外をみると、ウラル山脈の上に見事な虹が出ていた。まるで僕の気持ちを表しているかのようだった。

 その他にもちょっとしたトラブルがあった。アルミの工具箱に入れていた、エストニアで買ったばかりのチェーンオイルの缶に穴があき、中の液体が全て漏れていたのだ。すくえるだけ小さなペットボトルに入れたが、これで日本まで持つだろうか?(チェーンオイルくらいは手に入りそうだが)
 また、実に23000キロぶりにスパークプラグを交換した。これもエンジンのかかりが悪かった原因かもしれない。 


2日間の走行距離       約967キロ(計76153キロ)

出費                    364P  ガソリン
     161P 飲食費
     295P 宿泊費
計     820P
(約3120円)
宿泊         道沿いのモーテル(名前などない)


2002年7月19〜20日(金、土) 疲れる(Getting tired)

 19日の朝、部屋の窓から見えたのは立ち込めた黒い雲だった。モーテルが快適なので延泊したいところだが、こんな山の中にもう一日いてもしようがない。
 カッパを着て出発すると、案の定冷たい雨が降ってきた。ウラル山脈を越える道は舗装がガタガタで、雨の中、こごえながら気を使って走るのはしんどかった。

 ウラル山脈を越えると雨は止んだ。一応、ここからがシベリア地方ということになるが、ロシアの3分の2はシベリアだから道のりはまだまだ遠い。
 昼食に寄った人気のないカフェで、愛想のないおばちゃんはなぜか勘定をタダにしてくれた。ロシア人は表情から読めないところがある。

 ロシア人のやさしさに触れて少しはやる気が出たが、ちょっと走ると、また嫌になってきた。
 ウラルを抜けたら景色は単調な原野に戻った。何百キロ走ろうと何日走ろうと、ぜんぜん変わらない。地平線をたぐり寄せて後ろに流す、単純な作業のくり返しなのだ。
 異常に肩が凝るので寒さのせいかと思っていたが、考えてみればもっと寒かった北欧でも肩は凝らなかった。これは、この前の転倒で曲がってしまったハンドルバーのせいだ。左手と右手の高さが違うから、ヘンな姿勢になって疲れるのだ。

 その夜はクルガン(Kurgan)という町の先にあったモーテルに入った。
 なかなか快適だったが、レストランで夕食を食べていると、酔っ払った青年が絡んできた。「バイクに乗せてくれよぉ」みたいなことを言っているのだが、僕は「ロシア語わからないんだ。ごめん」とずっと言い続けた。しかし、これは僕の会ったほとんどのロシア人に言えることだが、こっちがロシア語が理解できないと分かっても、話すことをあきらめないのだ。
 きっと平均的なロシア人というのは、言葉の通じない相手と接する機会がほとんどないのだろう。中央アジアあたりからの異国人でも、基本的にはロシア語を話せるからだ。だから言葉に頼る。ある言葉が通じなくても、ほかの言い方をしたり、ジェスチャーで伝えることはない。その言葉をずっと言い続けるのだ。こっちが分からないと言っているのに・・・。
 そのうちにレストランのおばちゃんが青年を追い払ってくれた。後でわかったことだが、何とその青年はモーテルの警備員だったのだ。おい、警備員が客に絡んでどうするよ!っていっても、ここはロシアだからなあ・・・。

 しかし本当に疲れたのはその次の日だった。
 モーテルを後にして150キロほど進むと、カザフスタンとの国境に近づいた。そのまま行くと、国道はカザフスタン領内を抜ける。ロシア人はきっとビザなしで入れるから気にしないのだろうが、僕の場合は違う。カザフスタンビザなど取っていないから、ロシアに張り出したカザフスタンの部分を迂回しなければならないのだ。
 迂回路のことは岡野さんに詳しく聞いていたので迷わなかったが、途中工事中の箇所があり、深い砂利で走りにくかった。

 迂回路を抜け、次の都市オムスクまで繋がる一本北の国道に出たところで、朝から350キロほど走っていた。道路脇にモーテルがあったのだが、さすがにまだ早過ぎる。またあるさ、と思って走り続けるが、期待空しくあとは原野ばかり。
 そこからオムスクまでは330キロ。今夜はキャンプか、と覚悟を決め、途中のガソリンスタンドでミネラルウォーターを買い、適当な林を見つけて入っていくと・・・
 ぎゃー!10秒もたたないいちに巨大な蚊がうようよ集まってきた。あまりの大きさに、ヘルメットに「コツン、コツン」とぶつかる音がするくらいである。とてもこんなところには泊まれないと、今にして思えば甘い考えでその場を後にした。

 こりゃ、もう今夜はオムスクのホテルに泊まろうと、夜9時ごろにようやく人口130万人の都市に到着する。
 ロシア編の「ロンリープラネット」は地方都市の地図も載っているが、なぜかオムスクは載っていない。そこでタクシーに先導してもらって一軒のホテルに行くが、その運転手と料金のことでモメた。最初にいくらだ、と聞いて、運転手が「5」と指を出して5ルーブルだと思ったのだが、数百メートル離れたホテルに着いたら50ルーブルだというのだ。僕は「話が違うじゃないか」と怒り、運転手と喧嘩になって、もうこの街なんかいいや、とその場から走り去ってしまった。
 しかし後から考えてみれば、いくらロシアといえどもタクシーを利用して(それがわずかな距離でも)、5ルーブル(20円)てことはないだろう。悪かったのは僕の方だ。

 気付いても時すでに遅し、ホテルの前は険悪なムードになっていて今さら戻れない。オムスクをそのまま後にするが、時刻はすでに午後10時。日の長い夏のロシアといえど、太陽は沈もうとしていた。
 30キロほど走ったところに適当な林があったので、今夜はそこでキャンプすることにした。蚊はあいかわらずだが、もう贅沢は言っていられない。ヘルメットとグローブをしたままテントを張り、必要なものだけを中に放り込み、僕自身も滑り込むように入ってジッパーを閉じ、ようやく一息つけた。
 岡野さんが「蚊がひどくて自炊なんてとてもできません。だって野グソもできないんですよ」と言っていたのがよくわかる。なにせ、テントを張っているときに曇るのでヘルメットのシールドを開けたら、そのわずかな隙間にワーッと蚊が寄ってくるのだ。ほんと、ススメバチの巣を駆除する保健所の職員のノリなのである。

 ストーブが使えないので、モスクワで買った古いパンとサラミをモソモソと食べるしかなかった。あー辛いなあ、みじめだなあ。早く日本に帰りたいなあ・・・。


2日間の走行距離      約1223キロ(計77376キロ)

出費                    545P  ガソリン
     250P 宿泊費
     164P 飲食費
計     959P
(約3650円)
宿泊         モーテル(19日)
           そこらへんの林(20日)