旅の日記

ギリシャ編その9(2002年4月22〜26日)

2002年4月22日(月) コス島の一日(Island Kos)

 コス島へ渡るフェリーは朝9時にボドルムを出る。コス島というのはボドルムの沖合にある島で、地図を見ると、なんでこの島がトルコ領じゃないのだろう、と思うほどトルコ本土に近い。したがって、コス島へ渡るフェリーは1時間もかからないで着いてしまう。港の入国管理事務所で審査を済ませ、無事ギリシャに入国したのは午前10時半ごろだった。

 コス島からアテネに向かう長距離フェリーは、今の季節はやはり週3便しかないらしいのだが、運良く今夜9時半に出る便があるという。おかげで島で一泊することなしに、あのホステル「アナベル」に帰ることができる。
 本当はサントリーニという島に寄りたかったのだが、島と島を直接結ぶフェリーの便は悪く、むしろいったんアテネに戻った方が便数ははるかに多いのだ。

 夜まで時間を潰さなければならないので、港にバックパックを預け、島の中心となるコス・タウンを歩いてみた。
 エーゲ海の島々はリゾートをウリにしているところ、遺跡・史跡をウリにしているところ、町並みの美しさをウリにしているところ、とキャラクターが分かれているが、コス島は思いっきりリゾートの島である。コス・タウンというのは単なる島の玄関口で、ヨーロッパからのリゾート客はここでレンタカーを借り、あるいは出迎えの車に乗って、島の各地にある高級ホテルに消えて行くのだ。
 だから、金のないバックパッカーにはあまり用のないところなのである。天気は良いけど、海に入れるほど暖かくはないし・・・。

 あてもなく歩き回ると、すぐに町を一周してしまった。
 ヨット・ハーバーとかシーフード・レストランの並ぶ通りを歩いていると、対岸のボドルムと何ら変わらない印象を受けるが、唯一、違うものを発見した。クリーム色の壁に水色の屋根がのった、ギリシャ正教の教会である。青空がバックの教会というのは絵葉書の定番なので、これを見てギリシャに戻ってきたこと実感した。

 やがて通りという通りを歩きつくし、僕はすぐに退屈してしまった。公園のベンチに座って1時間つぶし、ローマ遺跡の倒れた柱の上で昼寝をして1時間つぶし、カフェに入って1時間つぶし、夕食で1時間つぶし、村上龍の「イビサ」を読み終え、ようやく夜9時になって港に戻る時間になった。

 ギリシャのフェリーは意外と安く、コス島とアテネを結ぶ13時間の航路でも23.95ユーロ(約2800円)だった。もちろん個室ではなく、椅子が並んだだけのデッキの料金だが、それでもオフ・シーズンなので横になって眠れるほどに空いていた。
 船はほとんど揺れず、おおむね快適だったのだが、低速になるとエンジンの振動が大きくなり、デッキの天井にはめられた金属のパネルが共鳴してまるで大地震のようにガタガタと騒ぎ出す。フェリーは何度か途中の島に寄港するのだが、そのたびに大地震は起こり、子供たちは泣き、大人たちは「なんだなんだ」とうろたえる。
 ギリシャは中東諸国に比べればはるかに近代的なんだけど、こんなところでツメが甘いのを見ると、やはりギリシャなんだなあ、と妙に納得してしまうのだった。


出費                 11.55E   飲食費
     23.95E フェリー代
     3E 荷物保管料
計     38.5E
(1ドル=約1.1ユーロ、約4050円)
宿泊         フェリーの中


2002年4月23〜25日(火〜木) 「アナベル」に戻る(Back in Athens)

 フェリーはちょっと遅れ、午前11時に海洋大国ギリシャのメイン・ポート、ピレウス港に到着した。4ヵ月ぶりのアテネは、僕の再訪を歓迎するかのように青空が広がっていた。
 地下鉄でオモニア広場に出て、ホステル「アナベル」まで歩く。自分の庭のように知っている界隈だが、その表情はまるで違っている。氷雨の降るみじめな街にも春が訪れたのだ。

 「アナベル」のドアを開けると、フロントの親父が笑顔で迎えてくれた。そしてロビーを見渡すと・・・おお!いきなり、はーれーごり君が座っている。再会した喜びにギャーギャー騒いでいると、今度は多田君がひょっこり現れた。アナベルでずっとアルバイトをしていた多田君だったが、メールでは4月22日にバンコクに飛ぶことになっていた。しかしフライトが25日に変更になったおかげで、予想外の再会がはたせたのだ。
 そして3人でお茶をしていると、証券会社の営業マンのような男性がやってきた。よく見ると、それは僕がポーランドで出会ったヤマハXT600に乗る小梅さんだった。あの時は長いヒゲを生やし、サングラスをかけていて、何でも相談できる喫茶店のマスターのような風情があったが、ずいぶんスッキリしちゃったなあ・・・。もちろん彼女の得政(とくせい)さんも一緒で、僕たちは8ヵ月ぶりの再会を喜びあった。

 小梅さんと得政さんも僕と同様、冬の間アナベルにバイクを預けて日本に一時帰国し、ごり君はハーレーショップにバイクを置いてインドに行っていたのだ。ごり君のスポーツスター1200はリアの足回りがイカれ、今はアメリカから新しいスイングアームが届くのを待っている。3人ともアナベルに戻ってきたのはつい最近のことだ。
 宿には他に女の子が2人いて、日本人は僕を含めて7人となった。

 前回ここにいたときは料理ばかりしていたが、今回も変わりそうになく、戻った初日から僕がタイで買ってきたルーでカレーを作ることになった。中央市場で7人分の買物をし、キッチンで野菜を切っていると4ヵ月の時が嘘のように感じた。
 人は、毎日繰り返していた日常的な事こそ、まるで昨日のように覚えているものだ。イグアスの滝の轟音やアーチーズ国立公園の夕陽の記憶は薄れてしまったが、勤めていた会社の安いプラスチック製のカップや、握り続けた「牛次郎」のハンドルの手触りの記憶は色あせない。おそらくギリシャの思い出もアクロポリスの丘なんかじゃなくて、中央市場やアナベルのキッチンの風景、コンロのツマミの感触なんかになるのだろう。

 そんなわけで初日はカレーを食べ、その後は例のごとく1本40円のオランダ産安ビールで乾杯、夜遅くまで別れてからの経緯を話し合った。(というより、「青山さんが会話の8割くらい占めているなあ」とごり君に言われるほど、僕が1人でペラペラと話していた。小梅さんと得政さんは寡黙なカップルなのだ)

 翌24日は多田君のギリシャ最後の日だったので、彼のリクエストでバーベキューをやることになった。スーパーで買ってきた使い捨て小型バーベキューセットの炭は、炭のくせに赤々と炎を上げるシロモノで、一時は白い煙が充満してオーナーがすっ飛んできたが、落ち着いてくると串に刺した豚肉を香ばしく焼き上げてくれた。ずっとイスラム圏にいたので、久しぶりに食べる豚肉はとても美味しく感じた。

 25日の昼ごろ、多田君がアナベルを後にした。
 フロントの親父と別れの握手をしているとき、多田君は「親父、泣くなよ」と言っていたが、実はそんな多田君が今にも泣きそうだった。親父はイタリアのマフィアのような風貌をしているくせに、いつもアルバニアやロシアのマフィアにビビっているが、そんなこととは全く関係なく、多田君をとても気に入っていたのだ。一時は「お前を一人前のホテルマンにしてやろう」とまで言っていたが、安月給のアナベルにいつまでもいるほど多田君は酔狂ではない。約8ヵ月の滞在を終え、青空の下、すがすがしく歩み去って行ったのだ。

 その日の午後、そろそろバイクの整備でも始めようと、ごり君、小梅さん、得政さんとバイク街に行ってエンジンオイルを買ってきた。しかしその帰り道、雨が降ってきたのでオイル交換は明日に延期。みんな、実にゆっくりとしたペースでバイク復活を試みているのだ。
 夜は4ヵ月前、クロさんという旅人が紹介したあのゲーム、「ウインク・キラー」をみんなでやった。オニがウインクをして1人ずつみんなを「殺して」いくゲームだが、なぜか得政さんがオニになることが多く、オトナの女性のウインクにみんなドキドキする夜を過ごしたのだった。得政さんは僕と同い年だが、とても落ち着いている。僕はなんでいつもはしゃいでいるのだろう?


出費                  16.8E   エンジンオイル
     1.5E 交通費
     18E 宿代
     25E 飲食費
     1.8E インターネット
     7.3E テレホンカード
計     70.4E
(約8240円)
宿泊         Hostel Annabel
インターネット    Mocafe


2002年4月26日(金) バイク復活(The motorcycle wakes up)

 アナベルに戻ってから、あっという間に3日がたってしまった。そろそろわが愛車をかまってあげないと、ヘソを曲げてしまうかもしれない。旅も終盤とはいえ、あと1万5千キロは走ってもらわないといけないのだ。
 ライダーというのは自分のバイクに特別な感情を移入し、ときには擬人化までしてしまうもので、他のバイクに浮気したり、こまめに整備をしてやらないと、ヘソを曲げて壊れてしまうのではないかと心配したりするのだ。

 小梅さんのXT600と得政さんのXRバハは物置に入っていたが、僕のDR800Sはデカイので物置の外、トタン屋根の下にカバーをかけて置いていた。しかし結果からいうと風通しのよい表に置いていた方が良かったみたいで、小梅さんたちのバイクはジメジメした物置の中でカビが生えたり、ところどころがサビていたりした。

 とりあえずエンジンをかけてみようということになり、まずは小梅さんがXTのセルを回してみた。しかしモーターの音は弱々しく、エンジンがかかる気配はない。そこで僕がいつもやる、エアクリーナーにガソリンを垂らす「強制チョーク作戦」に出たところ、ボボボボ!と600ccのピストンは復活の雄叫びを上げたのだった。

 意外にも、わがDRは一発で目を覚ました。エアクリーナーにガソリンを数滴垂らし、セルを回したら0.5秒後にエンジンはかかってしまった。セルを回した当の本人が驚くほどDRは調子を維持していた。昨年の秋にバッテリーを換えたのが功を奏したのだろう。

 苦戦したのは得政さんのバハだった。セルは普通に回るのだが、エンジンはボ!もバ!も言わず、沈黙を守って揺るぎない。「強制チョーク作戦」にも動じず、プラグを換えてもガンコに黙っている。世界のホンダ、どうした!
 そこで、大容量の僕のバッテリーを繋いでみることにした。800ccを一発で目覚めさせるのだから、250ccだって叩き起こせるだろう。すると、長い「キュルキュル」の末、「ポポポポ」に音が変わり、そして「バイーン!」とようやく長い眠りから目を覚ましたのだった。
 よかったよかった、これで3台とも無事に復活、といったところで雷が鳴り、雨が降ってきたので作業を中断。バイクを屋根の下に移動して、いったん部屋に引き上げた。

 晴間がのぞいているのを確認して、今度はエンジンオイルの交換に取りかかった。ちなみにごり君のハーレーはアテネ市内のハーレーショップで眠ったままなので、彼は僕たちの作業を横から見ていた。

 冬を越したオイルは汚れていて、真っ黒だった。約8000キロぶりにオイルフィルターも交換する。キャブレターも特に問題はないのだが、オイルを買った店でキャブレータークリーナーが安く売っていたので、試してみることにした。エンジンをかけてエアクリーナーボックスからスプレーを吹きかけるのだが、エンジンはちょっと咳き込んだようになり、やがて白い煙とともにマフラーからキャブレーター内の汚れが排出される。しかし、大丈夫なのか?と思うくらいエアクリーナーボックスからはガボガボ!とタンのからんだような音がするし、相当高い回転数をキープしないとエンジンは止まってしまう。
 3人でクリーナーを買ったのに、荒療治の様子を見て、小梅さんと得政さんは自分のバイクでは試さない結論を下した。大丈夫だと思うんだけどな・・・。
 これで一応バイクは復活した。しかし、急いで北上してもまだ寒い。僕はいつまでアテネに留まるのだろうか?


出費                     6E   宿代
     1.7E 飲食費
     1.9E インターネット
     7.3E テレホンカード
計     16.9E
(約1980円)
宿泊         Hostel Annabel
インターネット    Mocafe