旅の日記

ヨルダン編(2002年4月5〜7日)

2002年4月5日(金) スローボート(The slow boat)

 アカバ湾のどんづまりではエジプト、イスラエル、ヨルダン、サウジアラビアと4っの国が鼻をつき合わせており、国境密集地帯となっている。僕はエジプトからヨルダンに行くわけだが、陸路で行けばわずかな距離なのに、間にはあのイスラエルが行く手を塞いでいるのだ。
 日本人の場合、普通、イスラエルには入国できる。しかしその昔、連合赤軍がテル・アビブで暴れたりしたから、白人のバックパッカーよりは入国審査が厳しい。荷物検査、面接(尋問と呼ぶ人もいる)など、ときには数時間に及ぶこともあり、そして理由もなく入国を拒否される場合もある。
 さらには入国できても、今度はパスポートにイスラエル入国のスタンプがあれば、シリアやイランなど敬虔なイスラム国で入国を拒否される。むろん、イスラエルとアラブ諸国の関係が悪いためだ。
 別紙にスタンプを押してくれる場合もあるというが、うまくいかないこともあり、今は危険な匂いもするし、物価も高いし、面倒くさいので、僕は今回はイスラエルに行かない。
 すると、どうするか。ダハブの北にあるヌエバアという町から船に乗り、アカバ湾を横切ってヨルダンの港町アカバに行くのだ。

 エジプトとヨルダンを結ぶ船は2種類あり、一つは所要時間1時間の高速艇。こちらは45ドルするらしい。もう一つは「スローボート」と呼ばれる普通のフェリー、所要時間4時間で32ドルだという。
 13ドルの差は大きい。今日はアカバまで行ければいいと思っていたから、僕は迷わず後者にした。

 スローボートはヌエバアを昼の12時に出る。僕はそれに間に合うよう、ダハブを10時に出るミニバスに乗った。しかし実際に車が来たのは10時半で、これで間に合うのか、と不安を抱えていたが、スローボートの切符売場に着くと、悪天候でまだ船はヨルダンから到着してもいなく、1時間後にまた来いという。
 その切符売場で、僕はオーストラリアからのカップル、ゲイリーとクリスティーナに会った。ヨルダン行きの船はすべて米ドルの現金払いしか受け付けないのだが、彼らはヌエバアの銀行で換えられるという宿のオーナーの話を信じ、ここまでやってきたのだ。しかし、港のまわりは徹底的に何もない。「バグダット・カフェ」のようにうらぶれたカフェが数軒あるくらいで、ドルの置いてある銀行など望むべくもない。
 そこで、僕が彼らに貸してあげることにした。ヨルダンに行ってから返してくれればいい。

 そんなわけで、僕たちは一緒に船を待つことになった。
 1時間後に切符売場に行くと、売場が突然変更になったと言われ、500メートルほど離れたところの建物の陰に連れて行かれた。そこには何の看板も案内もなく、共産国の役人のように威張りくさった係官がアラブ親父たちに切符を売っていた。
 アラブ人の特徴ととして、列をつくらない、つくれない、というのがある。一応、列のようなものは作るのだが、いったん窓口があけば順番を無視して紙幣を握り締めた手を人の頭ごしに伸ばす。堂々と横入りする者もいるので、混雑した窓口で何かを買う、というのはかなり労力がいるのだ。

 ちょっと断線するが、カイロの地下鉄のラッシュアワーは一見の価値がある。日本や欧米の場合、普通、列車が駅に停まるとホームの人たちはドアの前を空けて待つ。そして降りる人を先に降ろしてから乗る。これは効率よく乗り降りするための、一つの知恵だ。
 しかしアラブ人に言わせれば効率などクソ食らえで、ドアが開いた瞬間、ホームで待っていた人と降りようとする人が、まるで合戦のように入り乱れて押し合いへしあいをするのだ。おばちゃんなど、もう乗り遅れまいと必死の形相でタックルしてくる。ドアの付近にいると厄介なことになってしまうのだ。

 しかし、アラブ人気質の真髄を知るのはこれからだった。
 切符を手にした僕たちは待合室でフェリーを待つことになったが、昼12時発がその後、午後4時といわれ、午後5時といわれ、午後6時と言われ、結局、4時ごろに乗り込んで船が出たのは6時半だった。

 前後するが、それまで待っていた待合室というのがまたすごく、ゴミだらけの床にトイレの悪臭、群がるハエやネコなどの中でアラブ親父たちが悶々と待っているのだ。なんか、これから乗るのが難民船のように思えてきた。
 さて、ようやく船に乗り込むことになったが、待合室からバスに乗せられて船まで行くと、今度は「パスポートの出国スタンプがないじゃないか」と搭乗を拒否された。待合室の向かいにイミグレーションのオフィスがあり、そこまで戻れというのだ。係官の、その鼻で笑ったような言い方は「そんなことも知らないのか」というようなものだった。
 そんな事いったって、誰も教えてくれなかったじゃないか!(ちなみに料金そのものも外国人というだけで2倍は取られており、ドル払いが義務づけられているのも我々だけだ。外貨をかせぐ、セコイ手である)

 急げというので荷物を抱え、汗だくになってゲイリーとクリスティーナと走って数百メートル離れたオフィスまで戻った。そして出国のスタンプをもらって船に乗ったが、今度は船上で大騒ぎになっていた。
 船に乗った段階でヨルダン側の入国審査のためにパスポートを預けるのだが、その列が長く、また横入りする者やそれを防ごうという者がいて、みんな声を張り上げて争っているのだ。
 言っていくが、彼らは子供ではない。立派なヒゲをたくわえた中年の男である。それが「入れさせろよ」「嫌だよ、並べよ」「何でだよ」「うるせえ」「あ、こいつめ」などと、やりあっているのだ。

 汗にまみれた僕はイライラして、お前らバカだろう、と声を大にして言いたくなって、そしてその通りに言った。
 「お前ら、バカだろう!!」 (もちろん日本語で)
 異邦人が突然発した謎の言葉に彼らは一瞬きょとんとして、こちらを向いてヘラヘラと愛想笑いを浮かべたが、その後、すぐにもとの争いを再開していた。

 すべての手続きを終え、3人でくつろげるスペースを確保してから、船が出るまでに1時間半はあった。・・・なんで走らせたんだよ!
 悪天候が遅延の理由だったが、風が強いわりにアカバ湾の海は穏やかで、船は止まっているかのように揺れなかった。船はなかなかきれいで、レストランで今日初めての食事をとり、免税店ではジム・ビームの1リットル瓶を買った。

 船は意外と速く、午後10時半にはアカバに到着した。道中は快適だったのでスローボートで良かったな、と思ったが、なぜか僕たちは船が接岸してから1時間以上もそのまま船内で待たねばならなかった。なんで降りられないのよ・・・?
 ようやく下船用の階段を塞いでいた係官が退き、例のごとく、アラブ親父たちと押し合いへしあいで船を降りると、時差のために現地ではもう夜の12時を回っていた。
 港のイミグレーションで預けていたパスポートを返してもらうのだが、そこでも若干頭にきた。係官が1人1人名前を読み上げて手渡すのだが、ちょっと離れたところにいた僕に向かって「おい日本人!早く取りに来い!」などとというのだ。さんざん待たせたのはお前らだろう・・・。

 港から3人でタクシーを捕まえ、アカバの中心地にある「Red Sea Hotel」に行ってみるが、あいにくと満室だった。しかし他の宿を探す気力もない僕たちに、フロントの親父は奥にある応接室で寝ることを許してくれた。ゲイリーとクリスティーナはアカバで2、3日するので、明日、部屋が空けばこの宿にチェックインするらしい。僕はペトラ方面に移動するが、どうせ一泊だけだと、シャワーを我慢してその部屋のソファーに横になった。
 今日は、本当に疲れたのだ・・・。


出費                   29LE   飲食費
     32$ フェリー代
     9$ ジム・ビーム
     0.4JD 水
計     29LE
(約820円)
     41$ (約5330円)      0.4JD (1ドル=約0.7ディナール、約75円)
宿泊         Red Sea Hotel


2002年4月6日(土) ワディ・ムサ(Town of Wadi Musa)

 朝一番でゲイリーは僕の貸した米ドルを返してくれた。ヨルダンの通貨ディナールでもいいと言ったのだが、彼は律儀にもATMで引き出したディナールを両替所で米ドルに再両替してくれたのだ。
 彼らはアカバで2、3日してからペトラに行くと言っているので、また会えるかもしれないが、とりあえず別れを告げて「Red Sea Hotel」を出た。

 さて、次に向かうペトラ遺跡はヨルダン最大の見所である。峡谷の砂岩を彫ってつくられた半地下の都市で、紀元前後に隊商の中継都市として栄えたらしい。「インディジョーンス・最後の聖戦」のロケが行われたところでもあるので、あの映画を思い出すとイメージが沸くかもしれない。

 アカバからペトラ観光の基地となる村ワディ・ムサまでは、経由便、直行便あわせて一日に数本バスが出るらしい。しかしバスターミナルに行ってみると、案内所も時刻表もなんにもなく、英語を話せるのはしつこいタクシーの客引きのみ。彼らのバスのことを聞いても教えてくれるわけがないのだ。
 ずんと腰を据えてバスが来るまで待とうと思ったが、フランス人の老夫婦を乗せたタクシーが来て、「やっぱり3ディナールでいいよ」と言ってきた。さっき6といって、僕が無視した車だ。
 3ディナールといえば直行バスの外国人料金と変わらない。老夫婦は6ずつ払っているというが、僕だけ内緒で3で乗せてもらうことにした。

 タクシーの運転手は思ったより安全運転で、2時間ほどのドライブは快適だった。
 途中道が二つに分かれ、眺めのよい「王の道」の方を通るなら1ディナール追加だ、と運転手は言った。老夫婦はOKしたので、僕だけ拒否する理由も自由もない。たしかに「王の道」は乾燥した山々を走り、ラクダを追う少年たちの姿が見られたりして悪くはなかった。

 昼ごろにワディ・ムサに着く。ここからペトラは目と鼻の先だが、ここはカンボジアのアンコールワットのように1日券〜3日券があり、通常の物価に比べるとやたらに高い。中途半端な時間から行くともったいないので、まずは宿を決め、そして昼食をとることにした。

 宿は「Saba'a Inn」というところにした。ダハブの宿の情報ノートで薦められていたところである。もう一軒有名なところがあるのだが、そこは賛否両論で、セクハラされたとか盗難があった、などの噂を聞いたのだ。
 しかし、僕のホテルもはじめに応対した青年は良かったのだが、その後にフロントに立った親父はまったく無愛想だった。そしてフロントには常に怪しい輩がタムロしていて、朝食を申し込めとか(これがやたらと高い)、ホテルの無料送迎があるのにペトラまでタクシーを申し込めとか、うるさい。
 結局、僕は夜までの間に3回朝食はどうかと聞かれ、タクシーはどうかと2回聞かれた。それぞれ、別の人にである。どこからどこまでが宿の人なのかもよくわからないのだ。

 ワディ・ムサは静かな谷あいの村だが、噂通り、スレている人が多い。
 とりあえず目の前の旅行者からむしり取れるだけ取っておこう、という考え方はモロッコやエジプトの観光地と共通する。いや、実は世界中の観光地がそういう考え方なんだろうが、アラブ世界の場合、それが露骨で表に出るので疲れるのだ。
 そんなことをしていると誰も来なくなるぞ、といいたいが、例えばここではペトラという呼び水があるから、宿で盗難しようが、セクハラしようが、タクシーでボろうが、客足が途絶えることはない。彼らが反省することもないだろう。それを考えると、ちょっとくやしい。
 ここは物価も高いし、長居する必要はない。明日ペトラを見て、明後日には出よう。


出費                    2JD   宿代(アカバ)
     4JD タクシー
     5JD 飲食費
     3.5JD 朝食用の買物
計     14.5
JD (約2690円)
宿泊         Saba'a Inn


2002年4月7日(日) 砂岩の都市(Ruins of Petra)

 ペトラの遺跡群はホテルから1キロほど離れている。無料送迎があるので朝7時にフロントに降りて来い、と昨夜いわれたのでそうすると、フロントはまだ暗く、床の上で毛布にくるまった男が寝ていた。彼を起こして「無料送迎はどうなった」ときくと、彼は通りに出て適当なタクシーを捕まえ、普段のよしみで無料にしてくれるよう交渉したあと、僕を乗せた。なんだ、無料送迎ってそういうことかい。それなら、わざわざこんなに早起きしなくても良かった。

 おかげで、僕は午前7時過ぎからペトラ観光をはじめることになった。
 まずは入口で入場券を買うが、昨日も書いたとおり1〜3日券がある。しかし過去に訪れた人の話を聞くと普通で1日、ゆっくり回っても2日あれば十分だそうで、チケットも決して安くないから、僕は一日券にした。学割が効くというので国際学生証を見せると、料金は6JDになった。「地球の歩き方」によると通常は20だというから、これは大幅な割引だ。しかしチケットを手にすると、元が10.5となっていて、その上に「学割6」というスタンプが押してあった。本当はいくらなんだろう?

 入場ゲートをくぐり、砂利道をトレッキングにでかけるような心構えで歩き出す。ペトラ遺跡の範囲は広く、険しい道を何キロも歩かなければならない。実際、ちょっとしたトレッキングのようなものなのだ。
 場内にはラクダや馬、ロバを引いた男たちがいて、それらの動物に乗せてもらって移動することもできるのだが、ナイル川のフルーカやピラミッド周辺のラクダのように料金でもめることがあるらしい。とりあえず、疲れ果てるまでは歩くつもりだ。

 しばらく歩くと幅数メートル、左右に切り立った崖の高さ60〜100メートルの、岩の裂け目のような細い通路の入口に着く。この通路は最初の遺跡まで約1キロ続いており、ペトラを最初に築いたナバタイ人が自然の峡谷に手を加えて作ったものである。両側の高さ1メートルのところには雨水が流れるための樋まで掘られている。
 早朝の太陽はまだ傾いていて、細い通路の中まで届かない。断崖に圧倒されながら薄暗い道を歩いて行くと、しばらくして突然視界が開け、ペトラ遺跡群の中でも最初にして最も有名な「エル・ハズネ」が現れた。

 「エル・ハズネ」は砂岩から掘り出された、高さ30メートルほどの霊廟である。今でこそヨルダンは思いっきりイスラム国だが、ペトラが栄えたころはイスラム教はまだなく、これらの建造物はナバタイ人が築いたか、その後に彼らを征服したローマ人が築くか改装したものだから、雰囲気はローマ風に近い。
 だから、これら遺跡の前にターバンを巻いたアラブ親父たちがいたりすると、ちょっと違和感がある。

 砂岩は加工しやすいが損なわれるのも早く、「エル・ハズネ」における細かい装飾も失われてしまっている。しかし細い通路の奥に突然現れる迫力は、やはりヨルダンを代表する名所だ。
 ペトラを訪れた人の多くは、この細い通路から「エル・ハズネ」に至るまでが一番良かった、と言っている。だとすると、ここから奥に広がる遺跡群にわざわざ足を運ぶことも無くなるのだが、さすがにそういう訳にもいかないので、「エル・ハズネ」の前を右に折れて奥に進む。

 そこからは左右の視界は開けたまま。まるでトンネルを抜けて別空間に来たみたいに広い谷になっている。
 砂利道の左右に古墳やローマ劇場があり、劇場の手前に岩山を登って行く階段があった。みんな登って行くのでさぞかし景色がいいのだろうと思い、30分かけて息も絶え絶えに頂上の「犠牲祭壇」にたどり着くが、そこからの眺めは大したことが無かった。しまった、体力を無駄に消費した。

 階段を降り、左右に古い建造物を見ながら奥に進む。次に目指したのはペトラの一番奥にあり、最大の遺跡でもある「エド・ディル」。一気にペトラ観光にトドメを刺してしまおうという戦法だ。

 さて、この「エド・ディル」も山の上にあり、そこまで約1000段の階段を登らないといけない。さきほど無駄に岩山に登り、すでに入場してから数キロは歩いている。ここで動物の力を借りるという軟弱路線に変更、僕は白いロバの小さな背中に揺られることになった。
 ロバは小さいが、さすがに脚力がある。僕を乗せながら険しい階段をカッパカッパ登り、約20分ほどで頂上に着いた。ロバ飼いの青年は歩いてついてきたが、地元民の彼も相当に息が上がっていた。4JDと交渉したのに、お釣りがなくて結局5JDになってしまったが、その価値はあったと思う。

 「エド・ディル」は修道院の跡で、高さ45メートル、幅50メートルのペトラの中でも最大の遺跡だ。やはり細かい装飾は失われているが、巨大な岩山から荒々しく掘り出された感じは迫力に満ちている。
 「エド・ディル」に対峙した丘に登り、日に当たりながら菓子パンの昼食をとった。ペトラ内部の店はどこも高いのである。

 ペトラはローマ帝国に支配されたあと、地震の被害によって次第に衰退し、7世紀には廃墟になって歴史の表舞台から消えた。
 次の世の光を浴びたのはその1200年後、スイス人の探検家によってその存在が確認され、世界に伝えられたのだ。彼ははじめ、地元民の噂からペトラのことを聞きつけたが、アラブ人ではないということでこの地を踏むことを許されなかった。その後、彼はいったんスイスに戻ってアラビア語を習得、ヒゲをたくわえてターバンを巻き、今度はアラブ人のふりをして潜入。ついに自分の目で砂岩の古代都市を確認したのだ。
 そしてその170年後、ここで「インディジョーンズ・最後の聖戦」のロケーションが行われ、さらにその姿が世界に広まることになる。

 「エド・ディル」の眺めを満喫したあと、僕は延々と階段を下ってふもとまで降り、レストランに併設した博物館を見て、古墳もちょっと見て、そしてまた延々と砂利道を歩いて「エル・ハズネ」まで戻り、そしてあの細い通路を抜けて入口まで戻り、ホテルまでも歩いて帰ってしまった。
 おそらく全部で10キロは歩いただろう。宿に戻ったのは午後3時ごろ、僕はそのまま深い深い眠りに落ちた。

 さて、ペトラの感想だが、こんなもんかな、って程度だ。正直いって。
 エジプトの遺跡群やカンボジアのアンコールワットを見たばかりなので、大きく感動することもないし、賛否両論とも聞いていたので、期待しなかったぶん、大きくがっがりすることもない。
 あの通路から「エル・ハズネ」が見えたときの感動や、全貌を目にした時の迫力はたしかにあるのだが、それでも世界的にみればパンチがあるとはいえないし、かといって繊細な装飾が残っているわけでもない。

 もちろん、これは個人的な意見だが、僕は古代エジプトやアンコールワット、マヤやインカの遺跡の方が好きだ。もちろんペトラを訪れて損したとは思わないし、悪くないとは思うのだけど。


出費                    6JD   ペトラ入場料
     5JD ロバ
     2.65JD 飲食費
     12JD 宿代2泊分
計     25.65
JD (約4760円)
宿泊         Saba'a Inn