ダハブはシャルムに比べると小ぢんまりとしたリゾートである。長さ1キロほどの湾状のビーチに沿ってゲストハウスやレストランが並んでおり、わが宿「セブンヘブン」はそのちょうど中間あたりに位置する。
ビーチ沿いのレストランは大抵、砂浜の上に直接絨毯をしき、その上でくつろぐベドウィン・スタイルになっている。僕は「セブンヘブン」の目の前のレストランで朝食を取ったが、しつこく群がってくるハエを別にすれば、紅海の波打ちぎわで贅沢なひとときを過ごすことができた。
料金が安いのも嬉しい。カイロに比べればまだ高いが、宿もレストランも明らかにバックパッカー向けの料金設定になっている。シャルムでは最低でもここの2、3倍はしていた。この二つのリゾートは、まるで銀座の高級クラブと新橋ガード下の赤提灯のように、近いながらも客層をきっちりと分けているのだ。
貧乏、またはけちんぼうのバックパッカーでもダイビングはするので、ダハブのビーチにもダイビングショップが並んでいる。
しかしシャルムより料金が安いかわりに中にはいい加減な店もあるらしく、僕は複数人から事故、トラブルの現場に遭遇した、あるいは器材がひどかった、という話を聞いた。ダイビングの事故は命に関わる。エジプト人的いい加減さは陸の上ではまだ可愛いが、水の中では御免被りたい。
しかし、ダハブはシャルムの北に位置しながらも、実感としては暖かい。同室の人に聞いても水はそれほど冷たくないらしく、いろんな話を聞くうちに僕もやっぱり潜りたくなった。
さて、ダハブには現在、日本人インストラクターのいるダイビングショップが二軒ある。ひとつは「セブンヘブン」内の店で、宿泊者はほぼ確実にここの男性インストラクターT氏に声をかけられ、申し込むことになる。
ところが、僕はこのT氏に関してあまりいい評判を聞いていなかった。同室の大学生も彼に教わってオープン・ウォーターのライセンスを取得中だが、なんとわずか3日で取らせるらしい。実技はスパルタ式で、学科では宿題の答え合わせをほとんどやらないという。僕は4日で取ったが、それでもかなりきつかった。あれから一日縮めるとすれば、それは学科を割愛するしかないだろう。
しかし、このショップにはもう1人、日本人女性のインストラクターがいる。彼女の評判はいいので、同じショップでもどちらに教わるかで大きな差が出そうだ。
もう一軒は、最近ひそかに人気を呼んでいる「ダイブ・ゾーン」である。サトミさんという女性インストラクターがここで働いている。
ここには日本人は彼女1人しかいないので、日本人がライセンス取得コースに申し込めば、すべて彼女の担当となる。サトミさんはとても小柄なチャーミングな女性で、話した感じでとても利発だと思ったら、中国に留学した経験があるという。したがって中国方面からのダイバーも彼女の担当となるが、いまだに来たことはないらしい。
彼女もタイの某島でインストラクターの資格を取ったが、タイにおけるダイバーの「大量生産システム」が性に合わなかったらしく、今では紅海で、ゆっくりとしたペースの日本語コースを開いている。今のところ客足も彼女の理想に近く、コースは基本的にマンツーマンか、多くても2、3人である。
コースは生徒の希望するペースで行われる。僕が偶然通りかかり、日本語の看板につられて訪れたときも、サトミさんは女子大生に5日間かけてオープン・ウォーターのライセンスを取らせているところだった。人より覚えの遅い人や、不安のある人にはうってつけだと思う。
ただし、前述のように彼女は女子大生を指導中であり、僕はすでにライセンスを持っていて英語も話せるから、ファンダイブはエジプト人のダイブ・マスターと潜ることになるという。それでもマンツーマンだというし、レンタル器材や対応にも不安はないので、僕は明日、2本潜ることにした。
ダハブにも多くのダイビング・ポイントがあるが、一番有名なのは「ブルー・ホール」という、岩盤に大きく開いた縦穴のある場所である。しかし深度があるそうなので、僕はシャルムでの反省も活かし、初日は近くて浅いポイントで潜ることにした。それで問題がないようならブルー・ホールで潜ってみよう。
そして30日の午前中、メインビーチの北端にある「ライトハウス」というポイントで一本目が行われた。ライトハウス、といっても灯台があるわけではなく、ちょうど灯台があるべき岬の突端にリーフがあるので、それがライトハウスと呼ばれているのだ。
ダハブのポイントはいずれも岸から近く、シャルムのようにボートを使わない。ビーチエントリーという、浜からジャブジャブ歩いて海に入っていく方法が主流なのだ。船を使わないこともダイビング料金が安い一因だろう。
砂浜から海に入り、まだ10メートルか20メートルしか沖に出ていないところで潜行を始めるが、そこですでに深度は10メートル近い。透明度はシャルムほどではないが、メインのビーチからわずかな距離なのに、サンゴや小魚の群れが普通に見られるのが驚きだ。
ここでのダイビングは岬状のリーフをぐるりと回り込み、そして戻ってくるのだが、ここの潮流もかなり激しく、息があがるほどにキックをしないと進まない箇所があった。
やはり酸素の消費が早く、30分を過ぎたあたりで浮上。しかしレンタルしたウェットスーツがまるでオーダーメードのように体にフィットして寒さを感じないだけでなく、早めに浮上してもエジプト人のダイブ・マスター、イハブとマンツーマンなので、誰に迷惑をかけるわけでもない。久々に楽しいダイビングができた。
そして午後の2本目。今度は「アイランド」という、名前のとおり島状のリーフで行われた。
1本目より落ち着くことができ、魚に目を向ける余裕がでてきた。ハナミノカサゴという、白と茶色と黒の縞模様で、まるでドラッグクイーンの衣装のように派手な形状のヒレを持つ魚が何匹も群れているのが印象的だった。この魚は強い毒を持ち、そのケバケバしさから一匹だけでも相当に存在感があるのだ。
中型の銀魚の群れ(スエズフュージラ?)が激しく泳ぎ回っているのも楽しかった。エサがあったのか、砂地に群れをなして頭をつっこみ、砂を舞い上げている姿が海における命の営みを思わせた。まったく、海中世界というのは食べること、寝ること、産むこと、そんな生命の根底にかかわる行為からして陸上とはいちいち異なっている。
そんな世界が、地球の7割を占めているのだ。ダイビングに全く興味のなかったころは、残りの3割から地球を推し量ろうとしていた。しかしいくら陸の上を走りつくしても、何ヶ国回っても、海中ほどに違う世界というのは経験できないのではないか?
海中には人間は住めない。だから文化もなく、そういう意味での面白みや深さはない。街もなければ遺跡もなく、食べたことのない料理や飲んだ事のない酒もない。だけど、陸上では想像もできないような形や大きさの生物が、想像もできない方法で生活している。そしてそれも、わが地球のまぎれもない一側面なのだ。
・・・なんてことは実は陸に上がってから考えたことで、「アイランド」においても潮流は強く、僕はイハブに手を引っ張ってもらって潜行点に戻った。
さて、このイハブ青年、海の中ではまったく問題がないのだが、陸に上がるとちょっといい加減になる。
ダイバーはすべて「ログブック」という、いわばダイビング手帳を持っており、何月何日、どこで何メートル、何分もぐった、などのデータを記入し、ダイブショップのスタンプをもらうことになっている。これは公式な記録となり、新しい場所、新しい店で潜る場合、このログブックを見せて自分のダイビング経験を証明するのだ。
しかしこのイハブ、店に戻ると「10分で戻る。ログブックの記入はその後でやろう」と言って、そのまま姿を消してしまった。その後1時間待っても戻らず、僕はイライラしてきたが、「どうした?」と聞いてきた別のスタッフのその後の言葉にさらに頭に来た。
「君はまだダハブに滞在するんだろう?だったら何の問題があるのだ?明日でもいいだろう」というのだ。
「いや、問題だろう。器材を片付ける場所を教えたり、ログブックの記入をしないまま、あいつは俺をほったらかしにしてどこかに行ってしまったのだぞ」
「落ち着け。もしかしたらあいつの車が故障したのかもしれない。大丈夫だ。人生は、君が思うほど複雑じゃない」
言ったのは20歳そこそこの、いうなればガキである。お前なんかに人生語られたくはないし、それはお前みたいに生きてれば人生簡単だろうなあ!
・・・とは声を大にして言いたかったが、あと2本ほどこの店で潜る予定なので、ちょっと自重した。店のオーナーとサトミさんは、よくできた人なのだ。ただ、一部のスタッフはやはりエジプト人気質をそのままダイビングの世界に持ち込んでいる。
結局ログブックの記入は明日以降に回し、店を出たが、イハブとは夜に偶然会った。そしたら彼曰く、「ごめん、車が壊れたんだ」・・・人生について僕を諭そうとしたあの若いスタッフのいう通りであり、そしてそれはおそらく、エジプト人に共通する便利な言い訳の一つなんだろう。
実はイハブが何をしていたか、別の筋から聞いていたのだ。「イハブ?彼なら友達と一緒にメシを食いに行ったよ」・・・まあ、ダイビングは楽しかったからいいや。
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