旅の日記

タイ・バンコク編その6(2002年3月15〜20日)

2002年3月15〜16日(金、土) グルメでゴーゴーなナイト(Gourmet nights)

 15日、16日の両日はどういうわけか村上さん、マシュー、松井史織と4人でグルメを楽しむことになった。

 15日、マシューがロンリープラネットに載っている「インディアン・ハット」という、名前もマークも「ピザ・ハット」からパクったインド料理に行きたいというので、みんなで行くことになった。
 しかし、いざ着いてみるとこの店、けっこう高級なのである。席の大半は白人か商談中のインド人が占め、タイ人や若い旅行者は少ない。それでも日本円にすれば1000円に満たないし、せっかくなので食べてみることにした。

 4人で2種類のカレーと卵料理を分けたので量は少なかったが、久々にナンで食べるカレーは美味しかった。タイ料理は安くてうまいが、最近さすがに飽きてきた。たまに食うインド料理は胃の中を実に国際色豊かにしてくれる。

 言い出しっぺのマシューをはじめ、満足した4人は店を出ると今度はタクシーに乗ってパッポン通りに向かった。
 パッポン通り。邦人バックパッカー諸兄の間であまりにも有名なこの通りは、バンコクの夜の顔を代表する東南アジア随一の歓楽街だ。半ば売春婦の斡旋所となっているゴーゴーバーが軒を並べるが、アヤしさとか悲壮感というよりは、むしろ底抜けに明るくてアッケラカンとした雰囲気である。夫婦やカップルで訪れる観光客も多く、最近では女性客を相手にした「ゴーゴーボーイ」も人気らしい。

 ゴーゴーバーの中央にはステージがある。店内にはディスコティックさながらの大音量の音楽が流れ、ステージではお姉ちゃんがクネクネと踊っている。かつては全裸だったが、最近では手入れが入って若干自粛しているらしい。ステージのまわりを囲むようにカウンターがあり、さらにその外にテーブル席がある。客はそこで一杯100バーツ(300円ほど)のドリンクを飲みながら壇上のショーを見るのだ。
 そしてお気に入りの娘がいると店にナニガシかの金を払い、お姉ちゃんにもナニガシかの金を払えば(気が合えば払わなくても大丈夫というケースもあるらしいが)、ひとときの快楽が得られるのだ。
 ドリンクは意外としっかりしていて、ビールと同じ金額のウイスキーを注文したらちゃんとしたスコッチにロックアイスが浮かんできた。ドリンクだけで冷やかしているのもまったく問題はなく、むしろそんな客の方が多い。
 そんなわけでシックな夜の次はドンチャン騒ぎの夜だった。僕はゴーゴーバーのステージを前に、背筋も鼻の下も伸ばすのだった。


 16日は同じ4人で「レックさんらーめん」を取材することになった。
 村上さんの今の肩書きはフリーライターである。村上さんはタイで発行されている日本語新聞「バンコク週報」の編集部に友だちがいるが、そこにたまに原稿を寄せているのだ。そして今回はレストラン紹介のコラムでカオサンロード近くの「レックさんらーめん」を取り上げようと、突発的に取材を敢行することとなった。
 そして今回はなぜか僕が記事を書くことになった。若干の原稿料が出るが、経費が出ないので4人で食べればすぐに無くなってしまう。

 「レックさんらーめん」はバンコク市内の日系ラーメン屋で修行を積んだタイ人のご主人、レックさんが経営する店だ。麺類を中心とした和風味つけの中華料理で日本人バックパッカーに人気があるが、レックさん以下、スタッフに日本人は1人もいない。レックさんは若干の日本語が通じるが、あとのスタッフは日本語どころか英語もほとんど通じないのだ。
 僕らが行ったときには運悪くレックさんがいなかったので、取材にきた、といってもみんな何が何だかわからない。だから今夜はとりあえずドンドン料理を食ってバシバシ写真を撮って、ムズカシイ話は後に回そうということになった。

 今までもこの店で何回も食事をしているが、今日、新たに代表的なメニューをずらりと並べて食べてみた。チャーシューメン、冷やしラーメン、天津丼、マーボードーフ、半ラーメン・半カレーセットそして鯖照り焼き定食である。
 撮影のあと、「くいしんぼ」のように「この麺のシコシコ感がなんとも・・・」とか「この天津丼の卵がフワフワしていて・・・」とかやろうと思っていたが、みんな腹が減っていたのであっという間に全てをたいらげてしまった。

 その後、村上さんとマシューは例によって飲みに出かけたが、僕は部屋でその原稿を書くことにした。文字量は大したことないし、「学生街にあるような古き良きラーメン屋」という切り口は以前から考えていたので、思ったよりスムーズに書くことができた。
 日記をダラダラと書くより、決められた文字数で何かを集中して書く、というのは頭の体操になる。たまにはいいものなのだ。


出費                    56B   インターネット
     1030B 飲食費
     50B 薬代
     200B 宿代
     200B CD
     40B ジーンズのすそ詰め
計     1576B
(約4770円)
宿泊         Blue House
インターネット 101 Internet Service


2002年3月17〜18日(日、月) 帰国、出国の準備(Last shopping in Bangkok)

 アテネまで戻るか、はたまたエジプトで飛行機を降りるかまだ分からないが、いずれにせよ僕は20日の深夜にバンコクを発つ。松井史織も19日の朝に日本に帰るので、僕たちは17日からにわかに忙しくなった。彼女はお土産を買わなければならないし、僕は今後の旅で必要なものを揃えておかなければならない。

 17日の朝、僕たちはバンコクの郊外で週末に行われる「ウィークエンドマーケット」に行ってみた。広大な敷地に簡易的な店舗が並び、複雑に入り組んだ通路はすぐに迷子になりそうだ。売っているのは衣服や靴を中心に土産物、骨董品、植木、雑貨など。メキシコシティの「テピート」をちょっとキレイにした感じだ。
 この日も蒸し暑く、マーケットは人でごった返していて、僕はすぐに疲れてしまった。2時間くらいブラブラしたあと、今度は伊勢丹やパンテップ・プラザのあるエリアへ移動した。

 僕はパソコン用品屋がひしめくパンテップ・プラザの簡易印刷屋で「延長 2003年4月3日まで有効」という意味の英語のスタンプを作ってもらった。実は、僕の国際運転免許証は今年の4月3日に切れてしまう。かといってわざわざ新しいのを作るために日本には帰れないので、このスタンプを押してごまかすことにしたのだ。
 有効期限が1年しかない国際運転免許証の制度は、僕たち長期旅行者にとってはとても不便だ。「1年以上海外に滞在される方は現地の運転免許を取得してください」ということらしいが、1年以上、複数国にまたがってバイクや車を運転する旅行者がいる、ということを当局は想像できないらしい。1年以上海外にいる人というのは、もう駐在員とか留学生とかしかいないと決め付けているのだ。

 そんなスタンプで大丈夫なの?と思うかもしれないが、大丈夫です、たぶん。海外の警察は国際免許証を見慣れていなく、むしろ登録証やカルネ、保険などバイクに関する書類の方に目がいく。ただしアフリカの警察は1年の有効期限のことをよく知っていて、それを口実にワイロを請求してきたりするそうだが・・・。

 スタンプを作ったあとは伊勢丹に行き、文房具やポジフィルムなどを買った。
 そして夜は村上さんと、彼の友達である某東大生クンとカオサンで会った。この東大生クンは卒業旅行でアジアに来ていて、明朝の便で日本に帰るところだった。総合商社に就職が決まっているそうで、春からはサラリーマンなんです、などと話していた。
 しかし、この話にはすさまじいオチがつく。後日、日本に帰った彼から村上さんにメールが来たそうだ。その内容とは・・・「単位が足りなくて卒業できませんでした」。

 宿に帰ると、今日は一度も会わなかったマシューが僕たちを待っていた。彼は明朝のバスでカンボジアに向かうので、別れを告げたかったのだ。
 今度こそ本当のお別れだ、といって握手をした。しかしお互い運が良ければ、今夏ロシアで会うかもしれない。


 18日の日中もカオサンロード近辺で買物をした。そして僕は「三角クッション」を買うことにした。
 このクッションはタイ土産の定番で、床に寝そべったり、座ったりするための座椅子のようなクッションで、背もたれの部分が三角形になっている。色や柄はさまざまだが、象の刺繍が入っていたり、民族衣装のような模様のあるアジア風のものが人気だ。
 かなりかさばるが松井史織も一つ買うというので、二つまとめて日本に持っていってもらうことにした。名古屋空港には青葉ちゃんが車で迎えにきてくれるらしいのだ。

 松井史織は明朝7時に空港に行かなくてはならない。そのため、僕たちは今日のうちに空港行きのマイクロバスのチケットを買っておくことにした。
 申し込んだのは「寺裏」と呼ばれるエリアの外れにある「キッキッキッ・トラベル」という旅行代理店。自らを「キッキッキッ」と名乗る、妙になれなれしいオバさんのやっている店だ。「ワタシノ アダナハ キッキッキッ」などとカタコトの日本語を使い、「アナタ、ワタシ、トモダチ」などという。世界共通の常識として、すぐに「トモダチ」とか「フレンド」とかいう輩は信じてはいけない。しかし、たかが空港に行くバスのことなので、そこで申し込むことにした。
 だが僕の不安なのちに現実のものとなる。
 
  松井史織の最後の夜。彼女の大学の友達が卒業旅行でタイに来ているので、みんなでタイすきを食べることになった。
 そしてビールを飲んでいるうちになぜか顔にマジックで落書きを描くことが流行りだした。村上さんに羽交い締めにされた松井史織は、友達のミツコちゃんに腹話術人形のような口の線を描かれていた。うん、たしかに彼女の顔は腹話術人形のようである。

 お開きになったのは午後11時前で、僕たちは午前5時には起きなくてはならないが、松井史織の帰り支度は深夜にまで及んだ。彼女に持っていってもらう荷物は三角クッション以外にもけっこうあるのだ。


出費                   560B   ポジフィルム2本
     30B CDケース
     60B CD-Rディスク
     60B ペン、メモ用紙
     350B スタンプ
     80B 文庫本2冊
     60B 抗生物質
     110B 証明写真
     50B 財布
     800B 三角クッション
     640B 飲食費
     200B 宿代
     102B 交通費
計     3102B
(約9380円)
宿泊         Blue House


2002年3月19日(火) さらば松井史織(A friend goes back home)

 今日は松井史織の9ヵ月に及ぶ旅行の最後の日だ。しかし、最後の最後まで彼女はトラブルに見舞われる。

 空港行きのバスは午前6時に迎えにくるというので、僕たちは5時半には宿を出て40分には「キッキッキッ・トラベル」の前に着いた。細い路地の向かいにある家の人はすでに起きていて、托鉢僧にお米を喜捨していた。夜行バスか早朝のフライトで着いたのだろうか、白人のカップルが「キッキッキッ・トラベル」が店を構えるゲストハウスの宿直の少年を起こし、チェックインした。
 僕たちの他にバスを待つ人はいなかった。空はまだ薄暗く、しつこい蚊が僕たちに群がった。空車のタクシーが何台もやってきて、大きな荷物を抱えた僕たちを見ては「空港まで行こうか」と言って停まった。僕はその度にバスを待っているから、と断った。
 しかし待てど暮らせどバスは来ない。僕たちは6時20分まで待ってあきらめ、タクシーを捕まえて空港に行くことにした。

 時間があまり無かったので、すぐそこに停まっていた交渉制のタクシーに乗った。本当はメーター式の方がいいのだけど、僕たちは200バーツで空港まで行ってもらうことにした。
 しかしこの運転手、正式なタクシーの免許がないのか何なのかわからないけど、途中で警察官に停められてしまった。警察官は彼の免許を取り上げ、運転手は「返してくだせえ、お代官様」などと頭を下げている。僕がイライラして「何でもいいから早くやってくれ。時間がないのだ」と2人に言うと、警察官はしぶしぶ免許を返し、我々は解放された。

 ところがこの運転手、今度は無理な車線変更をしたおかげで隣の車を怒らせてしまった。
 信号を待ちをしていると、隣の車から男が出てきて運転手に何か話しかけてきた。タイ語というのは甲高い発音をするので、それが文句を言っているとははじめ分かわからなかったが、男の手には鉄でできた頑丈なハンドルロックが握られていた。何かあったときの武器だろう。
 運転手はヘラヘラと笑って謝ってなんとかその場を切りぬけ、僕たちはようやく空港に着いた。

 と思ったら、今度はフライトが2時間も遅れた。がんばって急いできたのに・・・。
 遅延の代償として中華航空は食事券をくれた。本当は1人分だと思うのだけど、それを持って階上のバーガーキングに行くと2人分のセットをくれた。そんなわけで僕たちは最後の食事をした。

 ゆっくりと食事をしたあと空港内のコンビニや土産物を冷やかしたが、やがて時間がきて、松井史織をパスポートコントロールの前で見送った。
 彼女と旅をして3ヵ月が経った。その間けっこう色々と動き回ったから、あっという間のような気がする。僕は(そして村上さんも)、「口を閉じろ」とか「がに股で歩くな」とか「早く食え」などとさんざん彼女に小言を言ったが、これだけガミガミ言われたのだから彼女は精神的に強くなっただろう。
 社会に出ても強く生きていくのだぞ!今度は日本で会おう!

 帰りは普通のバスに乗り、宿に戻ると、松井史織が置いて行った草履がポツンと下駄箱にあった。それはまるで彼女が立ち去った足跡のようで寂しかったけど、そんな感傷はすぐに吹き飛ぶことになる。
 「キッキッキッ・トラベル」に行って、バスが来なかったのでチケット代を払い戻して欲しいというと、「キッキッキッ」は1時間後に戻ってこいと言った。話が通じたのだと思った。
 しかし1時間後に行くと、彼女はその間に運転手に電話をしたが、確かにバスは朝6時にここに来たという。なので間違っているのはあなたで、払い戻しはできない、というのだ。

 「ちょっと待て。俺は5時40分からここにいて、向かいの家の様子も知っているし、その時間に白人のカップルがチェックインしたのも知っている。なんなら聞いてみてもいい」と説明するが、彼女は全く聞く耳を持たないばかりか、ますます感情的になって怒り出す。
 「お前は120バーツのはした金が惜しいのか」 「金が惜しいんで来てるんじゃない」「それなら何でここに来る」「筋が通らないじゃないか。とりあえず話を聞けよ」「聞く必要はない。私は15年この商売をしていて、間違いはない。あの運転手も経験豊富でプロフェッショナルだ」「何年商売をやろうが、客のいうことくらい聞く義務があるだろう」「いい客のいうことは聞く。お前はタチが悪い。自分がこの場所に居なかったことを棚にあげて、小銭をかせごうとしている。お前のいうことを聞く必要はない」
 僕は、だからそんな小銭が惜しくて言ってるんじゃない、と言いたくて、「I told you, I don't care about that fucking money」といったら、英語のあまり上手でない彼女は自分が罵られたと勘違いし、「お前はなんて失礼なヤツだ。出て行け!」とキレた。

 穏やかな人の多いタイで、ここまで無理やりな人がいるとは思わなかった。彼女は思いっきり華僑の顔立ちなのでタイ人とは言えないのだが・・・。
 くやしい僕はツーリストポリスに行って相談した。窓口の若い青年はその場で「キッキッキッ」に電話をしてくれたが、彼もギャーギャー言われただけだった。「金額が金額だし、我々は何もできない」と、生粋タイ人の彼は代りに僕に頭を下げてくれた。
 タイで残された時間の少ない僕にできる復讐といえば、ここに書くことぐらいだ。いいですか、カオサン近辺に行くみなさま。「キッキッキッ・トラベル」には気をつけましょう。最初こそニコニコしてフレンドリーですが、何かあると手の平を返したような態度にでます・・・。

 その夜、僕と村上さんは男2人になったのをいいことにゴーゴーバーに繰り出した。
 くわしく書くのもナンなので、詳細は省くが、今夜のショーはすごかった!バナナとかピンポン玉とかコカコーラ瓶とかが出てきたぞ!ソイ・カウボーイの「ロングガン」という店です。
 そんなわけで、今朝5時に起きて、それで午前2時近くまでショーを見ていて、僕のバンコク最後の夜は眠くてフラフラだった。

 ちなみに松井史織は帰国できたが、途中で急に体調が悪くなり、台北でのトランジットではフラフラになって次の便に遅れそうになり、名古屋について体温を測ったら38度以上あったという。
 三角クッションでぐっすり休むべし・・・。


出費                    27B   インターネット
     524B 飲食費
     188B 交通費
     200B 宿代
     15B はみがき粉
計     954B
(約2880円)
宿泊         Blue House
インターネット 101 Internet Service


2002年3月20日(水) さらばバンコク、さらば村上さん(Leaving Bangkok)

 今度は僕がバンコクを発つ番だ。フライトは21日になっているが、午前0時45分発なので夜10時には空港に行っておきたい。
 「Blue House」の部屋をチェックアウトしてフロントに荷物を預かってもらうと、僕は村上さんとタニア通りの「築地」で寿司ランチを食べた。ヨーロッパに戻ると日本食など高くて手が出ないだろうから、今のうちに食いだめしておく必要があるのだ。
 村上さんと2人でカウンターに座り、黙々と寿司を味わった。やはりここの寿司ランチはバンコクで食べる日本食の中でも質・量・値段ともにトップクラスだと思う。これだけ日本食を食べていても、ここの寿司は五臓六腑に染み渡る。

 そしてカオサンに戻る途中、伊勢丹にある食品売場でカレーのルーやドラ焼きなど、アテネに持っていくお土産を買った。今のところエジプトで降りられるかどうかは五分五分だが、アテネまで行けば多田君やはーれーごり君、そしてドラやクミッチにも会えるはずだ。
 そしていつも通り、汚い運河を爆走するボートに乗ってカオサンに戻る。もはや日常の足になったこのボートだが、これに乗るのも今日が最後だ。

 村上さんといったん別れ、最後のインターネットをしてから宿に戻ってシャワーを浴びさせてもらい、廊下のソファーで昼寝をした。
 そして午後6時、荷物を持って宿を出る。買い溜めた本と日本食がズシリと重い。
 空港まではマイクロバスで行くことにしたが、いくら安いとはいえ「キッキッキッ・トラベル」で申し込む気にはなれない。他の旅行代理店で申し込み、そこで荷物を預かってもらうことにした。

 マイクロバスが出るのは午後9時。それまでの3時間、僕は村上さんと最後の飲み・一本勝負に挑んだ。会場はカオサンロードにあるもう一つの日本食屋「竹亭」。はじめて行く店だ。
 
「竹亭」は小奇麗で、店の半分が畳敷きの居酒屋のようなつくりになっている。料理もタニア通りにあるような居酒屋と同じくらいの金額がするから、バックパッカーといえども短期の旅行者とか白人をターゲットにしている。
 はじめは残ったタイ・バーツの範囲内で食べようかと思ったが、冷えたビールをジョッキ一杯飲んだら、もうどうでも良くなった。カード払いができるというから、どんどん頼もうではないか。村上さんともこうして飲むのも最後なのだ。

 ざるそばをズルズルと流し込み、天ぷらをサクサクとほおばり、梅おにぎりにかぶり付き、枝豆を皮ごとしゃぶった。その間にもビールをウグウグ体内に補給したのは言うまでもない。今夜はやけにビールがうまいのだ。
 「いやあ、お別れですねえ」「そうですねえ」と僕たちは話した。彼とは昨年の秋にハンガリーで初めて会い、その後ルーマニア、クロアチア、そしてバンコクで再会した。4回目の別れである。

 そうこうしているうちにあっという間に時間はたち、僕は荷物を預けた旅行代理店に戻った。村上さんが一瞬いなくなった、と思ったらシンハービールを2瓶買ってきた。そんなわけでマイクロバスが迎えにくる瞬間まで僕たちは店先で飲み、僕は完全な酔っ払いとなってカオサンロードを後にしたのだ。
 さらなバンコク、さらば村上さん。しかし、そんな感傷はすぐに吹き飛ぶことになった。ビールを飲んだら当然の結果、トイレに行きたくなったのだ。かといって空港まで1時間のバスでわざわざ止めてもらうわけにも行かない。僕はバンコクの夜景を油汗を浮かべながら眺めていた。

 ようやく空港に着いてトイレに駆けこみ、エクスタシーに近い安堵感を得た僕はエジプト航空のチェックインカウンターに向かった。
 そして「経由地のカイロで降りたいのだが」と相談すると、タイ人の職員は実にあっけなく「はい、わかりました」と言った。この瞬間、僕はカイロで飛行機を降り、紅海でダイビングをして、ヨルダン、シリア、トルコと中東各国を陸路で回りながらアテネに戻ることが決定した。
 これでライダー復活はまた遠くなった。多田君やごり君にも会えなくなった。しかし、計画が大きく変わったということに僕は少なからず興奮を覚えた。旅はいきもの、その形がかわるままに身をまかせよう、というのが僕の信条だ。すべてのことを計画通りに進め、ガイドブックで見た通りの風景を見て、そして予定通りに帰国するのであれば、おそらく旅の楽しみの半分は損なっていると思う。僕の個人的な意見だが。
 旅の興奮は未知との遭遇にある。紅海!ヨルダン!シリア!一ヵ月前には頭の片隅にもなかった場所だ。いったいそこは、どんなやねーん!

 バンコク発カイロ行きのエジプト航空機は満席だった。僕は3列の座席の真ん中で、左には体臭のきつくて体のデカイ(そして態度もそれに比例してデカイ)エジプト親父、右には頭をすっぽりとベールで覆った女性が座った。すでに中東度ムンムン、はやくもカイロに着いたような気分になった。
 そして午前1時すぎ、急に襲ってきた眠気のなか、僕は宙に浮く感覚を覚えた。窓の外にはバンコクの夜景が広がっていた。
 タイは同じアジアということもあって、まるで日本にいるようにくつろぐことができた。それに対し、アラブ諸国は僕の住んでいる世界から最もかけ離れていると思う。僕はずっと旅を続けているわけだが、なんだか、これから旅に出るような気分になっていた。


出費                    22B   インターネット
     1231B 飲食費
     108B 交通費
     351B 日本食材
     203B 郵便代
     600B オーバーステイ罰金
計     2515B
(約7600円)
宿泊         Blue House
インターネット 101 Internet Service