旅の日記

タイ・バンコク編その4(2002年2月17〜24日)

2002年2月17日(日) バス、ボート×2、バイク、トラック(Back to Thailand)

 10日間の急ぎ足だったが、カンボジアの光と陰を一通り見ることができた。そろそろタイに戻る頃合である。
 さて、バンコクに戻るのには三つの方法がある。まず飛行機。これが一番楽で早いが、圧倒的に高い。なのでダメ、はい消えた、と愛川欽也が机をたたく勢いで選択肢から外れるのである。次にシェムリアップ経由でバスで帰る方法、つまり来た道を帰るという方法だが、あの悪路をまたシェムリアップまで12時間、さらに国境まで6時間揺られるというのはかなり辛い。きっと痔と胃下垂とパンチドランカー症になってしまうだろうし、第一、面白くない。
 そこで我々はプノンペンの南西、南シナ海に面したリゾート地シアヌーク・ビルまでバスで行き、そこから高速艇で国境まで北上するという第3の方法をとることにした。このルートはここ1、2年で確立されたらしく、「地球の歩き方」2001〜2002年版ではまだこの国境は開いていない、となっている。

 シアヌーク・ビル行きのバスは午前7時すぎに「Capital」の前を出発した。シアヌーク・ビルの中心地と港は若干離れているので、普通に町を訪れる人用と我々のように船に乗る人用と2台に分かれるのだが、後者は40乗りのバスに7人とガラガラ。さすがに首都と随一のリゾート地を結ぶ路面は舗装されていて、中国人ドライバーの運転は乱暴なのだが、いたって快適である。シェムリアップとプノンペンを結んだあのガタピシ・バスと比べると、黒塗りのロング・リムジンにお姉ちゃんとドン・ペリニオンつきぐらい快適なのである。

 約300キロ、4時間の道のりはあっという間に過ぎ、午前11時にシアヌーク・ビルに到着する。そこで流線型の白い高速艇に乗り換え、今度は150キロほど北のコ・コンを目指す。船が出るのは午後12時、けっこう慌しい。

 船はあまり大きくないが、中に入ってびっくりする。細い通路を挟んで両脇に4つずつ小さいシートがあり、全部で200人くらい詰め込む設計になっている。高速で飛ばすから窓は開かない仕組みになっており、出入り口は2ヵ所だけ。飛行機のエコノミークラスを上回る人口密度、まるで潜水艦のような閉塞感だ。頭上に救命胴衣があるが、いざ沈没したらあの出入口から全員が脱出するのに小1時間はかかるだろう。まず絶望的だ。

 しかし我々の心配をよそに、ほぼ満員の高速艇はシアヌーク・ビルの港を出発すると、穏やかな海面をまるで滑るように飛ばした。あまりに揺れないので出航したときに気づかなかったくらいである。15ドルとカンボジアにしてはえらい高い金額を取るだけあって船は速く、時速にすると60キロや70キロは出ていると思う。ほんと、びっくりするほど速い。「スピード・ボート」と呼ばれるのはダテじゃないのだ。

 高速艇は途中1ヵ所の寄港をはさみ、4時間ほどかけてある港に到着した。説明も何にもないので果たして終着地コ・コンなのかどうかよく分からないが、どうやらタイへ越境する人はここで降りるらしい。なにしろカンボジアの「地球の歩き方」は1年古いし、タイの最新版はなくしてしまったばかりなので、他の旅行者の動向をうかがうしかないのだ。

 他のパッカーたちは高速艇を降りると、待ち構えていたモーターボートに乗りこんで行った。聞き耳を立てると、みんな3ドルを払っている。それが相場のようだ。
 小さなボートには乗客が3人しか乗らないが、我々と一緒になったイタリア人のお姉ちゃんは「去年は1ドルだったのに」と怒っていた。きっとツーリストがたくさん来るようになって、みんなでケッタクして値を上げたのだろう。それでも払わなければならないというのは、他に選択肢がないということだ。

 ボートはざっぱんざっぱんと水飛沫を上げながら海面を進んだ。こんなんで国境に向かっていると思うと、ちょっと密入国みたいでスリルがある。
 眼鏡のレンズが水滴で見えなくなったころ、ボートは小さな船着場に到着した。すると今度はタクシーが待ち構えている。ボートから降りる僕を助けるフリをして荷物を奪った運転手は、そのまま車のトランクに荷物を放り込んでしまった。「いくらだ?」と聞くと「ボートと同じですゼ、ミスター。1人3ドル」という。高い!そりゃ高い!僕はトランクから荷物を取り出した。
 するとタクシーの運転手は今度はバイクタクシーの運転手に豹変し、「よっしゃ、バイクに3人乗りなら2000でいいよ」という。なぬ?2000リアルといえば50セント、いきなり12分の1ではないか!彼は車もバイクも持っているらしい。
 そんなわけで、可愛そうな110ccのホンダに3人乗りし(しかも荷物つき)、我々はタイ国境までの最後の一区間を走った。すぐに着くかと思ったが、意外に距離がある。10キロ以上は走った。プノンペン市内でちょっと乗っても1500から2000はかかるから、これで2000リアルなわけがない。何かオチがあるはずだ。

 バス、高速艇、モーターボート、バイクタクシーと乗り継ぎ、ようやく国境に到着する。
 リアル紙幣は1800ぶんしかないので、「これで負けてくれ」と差し出すが、運転手はつまらない冗談を聞いたような表情で「200バーツ(タイの通貨)と言ったでしょう」という。200バーツといえば5ドル弱。車と変わらないじゃないか、このやろう!
 口から泡を飛ばしてわめいていると、まわりの運転手や闇両替商も集まってきた。みんな「2000リアルじゃ可愛そうですゼ」と彼を味方する。そりゃそうだ、2000であの距離は安すぎる。かといって200バーツはボリすぎだ。僕は「これでどうだ」と、1ドル札を1800リアルに上乗せして彼に差し出す。彼は「もう1ドル」と粘る。しかし、ここで払ってしまうと後からくる旅行者のためにならない。1ドルと1800リアルを彼のシャツの胸ポケットにねじ込み、立ち去った。彼は泣きそうな表情をしていたが、追ってこなかったからしぶしぶ納得したのだろう。それでも十分に利益はあるはずだ。

 めまぐるしく乗り物を換えて国境まで来たが、みんなが急いでいた理由がわかった。国境は午後5時で閉まるらしく、時刻は4時50分だった。プノンペンからこのルートで同日中にタイに越境するには、この乗り換えリレーしかないのだ。
 カンボジアを出国し、タイ側であらたに30日の滞在許可をもらって入国する。この日数が切れる前に僕はギリシャに帰る事になるだろう。

 さて、タイに戻ってきたのはいいが、ここはどこだ?一番近い町は?
 すると今度はみんな、やはり待ち構えていたピックアップトラックの荷台に乗りこんで行く。運転手のおばさんは行き先も言わず、「100バーツ」と手を差し出す。どこに行くか知らないが、とにかくみんな乗っているし、みんな100バーツを払っている。他に選択肢はないらしい。
 荷台がいっぱいになるとトラックは出発した。モーターボートで一緒だったイタリア人のお姉ちゃんがいたので聞いてみると、みんなはバンコク行きのバスが出るトラートという町に行くらしい。夜7時発のそのバスに乗ると、11時にバンコクに着くのだそうだ。つまり早朝にプノンペンを出て、その夜にバンコクまで行くことが可能なのだ。
 しかし、我々はもう疲れていっぱいいっぱいだった。そんな時間に激戦地カオサンに戻っても宿は簡単に見つからない。落ち着くのは早くて深夜1時になるだろう。別に急いでいるわけでもないので、我々はトラートの町に泊まることにした。

 トラートは意外に遠く、国境から100キロほど北上したところにあった。到着は夜7時、プノンペンを出てから12時間がたっていた。
 宿がなかなか見つからず、ようやく客引きにひっかかって連れて行ってもらうと、できたばかりの新しいゲストハウスだった。とてもきれいで1人75バーツ。町は静かだし、これはカオサンなんかよりもはるかに落ち着ける。
 我々はカンボジアの疲れを癒すため、明日もこの町にとどまることに決めた。


出費                    3$   モーターボート
     2850R バイクタクシー
     4100R 飲食費
     100B ピックアップトラック
     80R 夕食
     75R 宿代
計     3$
(約390円)
      6950R (約230円)       255B (1ドル=約43バーツ、約770円)
宿泊         Tok Guesthouse 2


2002年2月18日(月) 静かな町(A quiet town)

 静かな町で、静かな一日を過ごす。午前中に日記を打ち、午後から町に出てみた。
 田舎といえど、そこはタイ。カンボジアとは全然違うのだ。道は舗装されているし、セブン・イレブンもケンタッキーも小さなデパートもある。同じ東南アジアでも違うもんだ。

 去年のクリスマス以来髪の毛を切っていないので、床屋にいくことにした。坊主がそのまま伸びて、妙なところだけハネて皇帝ペンギンみたいになっているのだ。
 本当はハネているところだけ揃えてもらいたかったのだが、英語が通じず、唇の厚いお姉ちゃんは「スキンヘッドか?イエスか、ノーか?」と迫ってくる。説明するのも面倒くさいし、その迫力に負けたのもあり、「・・・イエス。スキンヘッド、プリーズ」ということになってしまった。
 かくしてお姉ちゃんはバリカンをウインウインと唸らせ、僕の頭を丸めてくれたのだ。すっかりマルコメくんみたいになった僕を見て、お姉ちゃんは満足そうであった。ほかのお姉ちゃんたちも笑顔を浮かべていた。ちなみにタイでは坊主というのはモロにお坊さんを連想するらしく、若者にはマッタク受けないという。まあ、すっきりしたからいいのだ!
 この頭で明日、カオサンに戻るぞ。果たしてどれくらい混んでいるのだろう?静かになっていればいいけど。


出費                    75B   宿代
     124B 飲食費
     60B 散髪代
計     259B
(約780円)
宿泊         Tok Guesthouse 2


2002年2月19〜21日(火〜木) へんな団体(A big campany)

 トラートからバンコクまでバスで5時間と聞いていたが、実際にカオサンロードに戻ってくるまでに8時間以上もかかってしまった。ひどい渋滞のせいでバンコク東バスターミナルに着くのも遅れたし、そこから乗ったタクシーも遅々として進まない。中国系の運転手はずっと舌打ちしていた。

 ようやく戻ったカオサン通りの混雑ぶりはあいかわらずで、人はちっとも減っていない。静かなところに泊まりたいので、人を掻き分け、村上さんが今回泊まっているというチャオプラヤー川方面を目指した。
 利便性より静寂を求める人は、「寺裏」と呼ばれるカオサン通りの突き当たりにある寺の周辺を好むが、最近ではそこも静かとは言えない。僕らが目指したのはさらに奥、白い要塞がモニュメントとして残る公園から小さな運河を渡ったあたりだ。
 木造の古い民家が建ち並び、下町を思わせる一画に隠れるようにして数軒のゲストハウスがある。まずは村上さんの泊まっているところにいくが、あいにくと良い部屋がないので近くの「Blue House」にチェックインした。木造の民家に青いペンキを塗りたくって無理やりポップにしているのがいじらしい。質素な宿だが、静かなことだけは確かだ。

 再会した村上さんは疲れていた。今日、タイのビザを延長するためにいったんカンボジアに越境して戻ってきたばかりだという。僕らも疲れていたので「チャイディ・マッサージ」に行って全身を揉み解してもらい、夜は大人しく過ごした。
 宿の近く、白い要塞のある公園では毎日午後6時になると大エアロビ大会が行われる。穏やかな夕陽をバックに、何百人もの人が必死に体を動かしているのはまことに不思議な光景なのである。地元のおばちゃん勢に混じって旅行者の姿も見える。バンコクの過ごし方にもいろいろあるのだ。

 20日、クーラの効いたインターネット屋でゆっくりと過ごした。ニュースを見ていたらコロンビアで政府とゲリラの交渉が決裂し、内戦に突入するおそれがあると出ていた。またエジプトでは、僕らがこのあいだ乗ったばかりのカイロ発ルクソール行き列車で火災が起き、300人以上が死亡したという。
 自分がよく知っている国で悪い事が起きると、やはりショックだ。

 その夜、松井史織の妹、青葉(あおば)ちゃんがバンコクに到着した。4月から大学生になるのだが、それまでの春休みにタイに遊びに来たのだ。
 彼女から新しいクレジットカードを受け取る。横浜の僕の実家から大垣の松井家に宅急便で送ってもらい、それを持ってきてもらったのだ。やはりクレジットカードを国際郵便や国際宅急便で送ってもらうのは気が進まない。この2月いっぱいで古いカードが切れるところだったので、青葉ちゃんの来泰はまさに渡りに船だった。

 そして21日には村上さんがマルタ共和国で会ったというオランダ人のマシューがやってきて、松井姉妹も一緒に5人で魚介を食べに行った。
 村上さんは彼のことを「白人で初めてのツレ」と表現し、村上さんが空港まで迎えにいっただけでも感激していたのに、僕が「大阪人がいうツレとは、単なるfriendではなくbuddyということだ」と教えてあげたら、タイ・ビールの酔いも手伝って、彼は泣きそうになっていた。

 マシューは20歳の理系人間で、数値やデータが大好きだ。かなり物知りで頭脳も明晰なのだが、若さゆえか、ちょっと理屈っぽい。
 たとえばエジプトの鉄道火災について話したときだ。彼もあの列車に乗ったことがあるというので、「日本語のニュースによると、運転手が火災に気づかずに数キロも走りつづけたため、時速100キロ以上で走る列車から飛び降りようとして死んだ人もいるらしいね」と僕はいった。
 すると彼は「時速100キロ以上?バカな。あの列車がそんなに速いわけがない。いいか?カイロからルクソールまでを約500キロとして、俺の記憶によると夜の××時に出発して朝の××時に着いたから、平均時速は××キロで、しかるに、100キロ以上は出ない計算になるのだ」と言った。
 いや、俺のいいたいことはそうことじゃないんだけどサ・・・。

 村上さんはそんな話を聞かせられると、「いいかげんにしろ」とツッコミをいれる。そんなときマシューはとても嬉しそうだ。
 なにはともあれ、タイ人にしか見えない大阪人と、理屈っぽいが気の置けないオランダ人と、常にボーッとしている岐阜の姉妹と、坊主頭から耳が突き出して宇宙人のような横浜ライダーは、その後ずっと一緒に行動することになるのだった。


出費                   300B   宿代
     685B 飲食費
     80B マッサージ
     214.5B 交通費
     48B 荷物預かり代
     56B インターネット
     12.5B 洗濯代
計     1396B
(約4220円)
宿泊         Blue House
インターネット 101 Internet Service


2002年2月22〜24日(金〜日) MP3プレーヤーとムエタイ(Thai Boxing)

 22日は寿司を食べに行こう!ということになった。日本人ビジネスマンの溜まり場であるタニア通りに「築地」という寿司屋があり、ランチだったら110バーツで食べられると聞いていたのだ。
 宿の近くの桟橋からボートに乗り、チャオプラヤー川を20分ほど南下。そこからスカイトレインという「ゆりかもめ」を彷彿とさせるモノレールに乗り、3つ目の駅で降りるとそこがタニア通り。ビルに並ぶ飲食店の看板は日本語ばかりで、新橋駅周辺のような雰囲気がある。その一本となりはパッポン通り、東南アジアを代表する歓楽街だ。

 「築地」は思ったより高級な店で、畳の座敷に通されると、遠い昔のサラリーマン時代を思い出した。メニューを見ると、通常は1カンで数十バーツは取る。ランチで110というのはサービス中のサービスランチだ。きっとビジネスマンなんかに昼食で店を覚えてもらい、夜の方で稼ぐのだ。だから僕らのようにランチしか食べない客は、はっきりいってお呼びじゃないのだろう。
 だけど、たどたどしいながらも丁寧な日本語を話す和服姿のタイ人ウェイトレスは、僕らを厚くもてなしてくれた。運ばれたランチは握り10カンに巻きもの二つ、小鉢二つ、そしてあさりのお吸い物つき、とたいへん豪華。味も文句なしで、これで110は安すぎる!と、みんな感涙を流していた。

 しかし寿司が初めてのマシューは「何だ。この魚は!」「うええ、へんなの」 などとうるさい。醤油をつけてないので「つけた方が美味いよ。というより、つけるものだよ」と教えてあげたのだが、「いや、ソースをつけない方が自然な魚の味がするのだ」と言って聞かない。はじめは面倒を見ていた村上さんも「黙って食え」と怒ってしまうのであった。

 寿司屋のあとはコンピューターや家電用品店の集まるパンテップ・プラザに寄ったが、最近一斉摘発があり、あれほどあった違法コピーソフト屋が姿を消していた。きっと一時的なことで、ほとぼりが冷めればまた営業をはじめるのだろうけど。
 僕はMP3プレーヤーが欲しくなってしまった。この3年間、僕に尽くしてくれているバイオPCG-C1初期型も最近ではパワー不足が否めない。MP3のデータはたくさん持っているのだが、再生しようとするとすぐにハングアップしてしまうのだ。そうでなくても音楽を聞くのにわざわざパソコンを開けるのは億劫で、僕は最近、音楽から遠のいた日々を送っている。
 パンテップ・プラザで探してみると、どこも東南アジアや中国製の怪しいブランドのものばかり。一番安いので3990バーツ(約12000円)。うーん、どうしようかな?ちょっと考えよう。

 といいつつ翌23日、僕はやっぱり買ってしまった。中国製の青い、安っぽいプレーヤーでウォークマンぐらいの大きさがある。実は「本当に動くのかいな?」と心配していたが、帰って早速試してみると、ブランキー・ジェット・シティのナンバーを安っぽい音ながらも確実に再生してくれた。なかなか可愛いヤツよのう。よし、南の島に連れていってあげよう。

 そう、僕らはいよいよ南の島に移動することにして、24日、タオ島でのオープンウォーター・ライセンス取得コースを申し込んだ。25日の夜にバンコクを発ち、翌26日の朝に着いていきなり4日間の講習がはじまる。申し込んだのは「ビッグ・ブルー」という日本人経営のダイビングショップだ。料金は約170ドル、世界的に見てもかなり安い部類に入る。
 青葉ちゃんとマシューもライセンスを取ることにした。村上さんはオープンウォーターの次のアドバンスド・ライセンスまで持っているのだが、閉所恐怖症のためにダイビングはやらない(それじゃ一体、なんでそこまで取ったのだろう?)。しかし島には行きたいそうなので、結局5人で島に向かうことになった。

 その夜、僕たちはムエタイを見に行った。いわずと知れたタイ式キック・ボクシング、メキシコのルチャ・リブレ(プロレス)や日本の相撲のような、国民的格闘技なのだ。
 試合は1ラウンド3分間の5ラウンド制で、前座からメインイベントまで何時間もかけて行う。午後6時から始まり、僕たちは7時ごろに着いたのだが、それでも12ある試合のうちまだ4番目だった。

 席はリングサイド1000バーツ、2等400バーツ、3等200バーツの3種類があるが、僕らの選んだ2等が一番いいように思えた。座席は指定ではなく、空いていればどんどん前に詰められる。思ったより客はいないから、僕らはリングサイドのすぐ後ろに陣取ることができ、しかも一段高くなっているからリングがよく見渡せた。リングサイドでも見たことのある村上さんによると、リングサイドは確かに近いが見上げるような角度になり、照明が眩しいらしい。
 リングサイドと2等は600バーツも差がある。600バーツといえば「築地」の寿司5回分だ。やはり断然、2等だろう。また、すり鉢状のスタジアムは思ったより大きくないものの、3等は天井桟敷のうえ金網ごしになる。2等と3等の差は200バーツだから、ここはケチるべきではないと思う。

 9試合目までが前座で、その前半は15、6歳の少年によるものだ。肘や膝も使えるからクリンチ(抱き合い)になっても激しい打ち合いが続くが、あどけなさの残る少年同士だとまるで子どものケンカみたいだ。そしてみんな、けっこう鼻血を出す。見ていて痛々しいのだ。
 試合の前に両選手はリング上で闘鶏をイメージした祈祷の舞いを披露する。そしてゴングと同時にチャルメラを中心とした単調な音楽が会場に流れ出すが、この音楽はラウンド間のインターバルを除き、ずっと流れている。テープでも流しているのかと思ったら、これが実は生演奏だった。何時間もずっと吹いているなんて、彼がらが一番タフなのかもしれない。

 前座も後半になると選手の年齢、体重が増え、迫力が出てくる。相変わらず流血は多いが、意外とレフリーがしっかりしていて、一方がダウンしたり戦意を喪失するとすぐに試合を停めてしまう。僕はムエタイなんかほとんどルールがなくて、もう血まみれのノックアウト続出!と思っていたのだが、結果からいうと僕たちが見た8試合のうち、ノックアウトらしいノックアウトは2試合しかなかった。

 10〜12試合目の「メインイベント」に突入したのは、時刻が午後10時に迫ろうとしているときだった。10試合目の両選手はどちらも身長が高く、きっと180センチ近くはあっただろう、かなり熱いファイトを見せてくれた。
 そして残る2試合には日本人ボクサーが登場するのだ。いよう、待ってました!大和魂を見せてくれ!と思ったら、タイ人の観客は続々と席を立つ。あれれ、あれだけ長い時間かけて前座を見たのに、メインは見ないで帰っちゃうの?

 実は、さっきの10試合目が本当のメインイベントだったらしい。あとの二つは日本人向けのサービスというか、エキゼビション・マッチで、タイ人は興味がないのだ。
 11試合目に登場した日本人ボクサーは、まったくボクサーの体をしていなかった。色が白いから脂肪のついた腹が余計目立つ。きっとウェイトにうるさくない空手か何かの出身で、きっと今はやりの総合格闘技を目指してムエタイを経験しているのだろう。
 一方のタイ人は生粋のムエタイ体型。体重が同じで脂肪がないぶん、身長やリーチが全然違う。クリンチになるとお互い膝で相手のボディを打ち合うのだが、腰の位置がまったく違うから、日本人の膝はなかなか相手の腹に届かない。タイ人の膝は日本人のわき腹を確実に捕らえ、白い肌を紅潮させていた。
 インターバルになると日本人はコーナーに用意された木の椅子のへたれ込み、トレーナーは水をかけたりマッサージをしたりと大忙しだ。かたやタイ人は椅子に座ることもしない。余裕しゃくしゃくなのだ。
 それでも日本人は後半盛りかえし、5ラウンドを闘いぬいた。判定でもちろん負けたけど・・・。

 そしてファイナル・マッチ。ムエタイではなく普通のボクシングで、この試合は6ラウンドまでやるらしい、などと思っていたら、わずか10秒ほどで終わってしまった。赤いトランクスの日本人ボクサーが襲いかかると、タイ人ボクサーはほとんどパンチを受けていないのにその場に倒れ込み、「イヤンイヤン」と戦意の喪失どころかプライドまで完全に捨て去ってギブアップ。まだ何にもやっていないじゃないか!

 メインイベントは肩透かしに終わったが、それでも4時間は見ていたから400バーツぶんのモトは取った。満足気に帰路につくが、僕らの行ったラヤダムナーン・スタジアムは歩いても近かった。また来てもいいかもしれない。


出費                   300B   宿代
     820B 飲食費
     4190B MP3プレーヤー
     7750B ダイビングコース料
     400B ムエタイ
     34B インターネット
     67B 交通費
     20B 洗濯代
計     13581B
(約41060円)
宿泊         Blue House
インターネット 101 Internet Service