旅の日記

カンボジアその3(2002年2月14〜16日)

2002年2月14日(木) 神経質オヤジと悪路に揺られる(Bus ride to Phnom Penh)

 プノンペン行きのミニバスは朝7時過ぎに宿を出た。ほかにゲストハウスを数軒まわって座席を埋めたあと、国道6号線を東に走り出したのが午前8時。
 バスはどうせ、プノンペンのゲストハウスか旅行代理店が走らせているのだろう。旅行者専用で、7ドルでプノンペンまで連れて行ってくれる。僕の持っている「地球の歩き方」の2001〜2002年版では陸路でプノンペンまで行こうと思ったら事故が多く、賊に襲われる危険のあるスピードボートで行くしかないと書いてある。しかし最近シェムリアップ近郊の治安が改善されたので、道路でも問題なく行けるようになったのだ。

 でも、道の状態はぜんぜん改善されていなく、問題だらけである。
 「国道」とは名ばかりで、車2台分の幅のダートが延々と続く。たまにアスファルトがあると思ったら穴だらけで、運転手が調子に乗ってスピードを出すぶん段差でのショックが激しい。
 状態は国境からシェムリアップまでの時と同じだが、今日のバスは古く、サスペンションが完全に仕事を放棄しているのだ。車雑誌でいう「ダイレクトな接地感」というやつだが、本当に路面の凹凸がダイレクトに尻を突き上げ、「もういいから、わかったわかった」といいたくなるのだ。
 しかし本当にいえば舌を噛むし、だからと言って大人しく本を読もうと思っても、村上龍の「音楽の海岸」の表紙をみるだけで、もう「おおんんっがあががあくのんかかいがんんん」みたいな状態で、とても読んではいられない。
 パソコンの入ったデイパックを膝に大事に抱えながら、脂汗を顔に浮かべてじっと耐えるしかないのだ。

 乗客は20人ほど。日本人は僕らのほかに男性が2人いるが、うち1人はアンコールワットでも何度か見かけたことがあり、宿も一緒の人だった。日焼けしていて筋肉質なので、一見、チャリダー(自転車旅行者)に見えるのだが、どうやら違うらしい。彼は会うたび、まるで誰かに話しかけているようにハッキリと独り言をいっているので、僕らはちょっと怖くなったのだ。だから今日は彼はほっておく、じゃなかった、1人でそっと独り言をいわせておいてあげよう。
 と思ったら、となりに座った日本人と仲良く話しているようなので、よかったよかった。

 しかし、僕らが驚愕したのは右斜め前に座った、ブルース・ウィリスを分裂症にしたような白人のオヤジだ。ベースボールキャップに小粋な半袖シャツ、シミひとつないチノパンツという清潔な出で立ちだが、清潔すぎて、神経質の権化という感じがする。実際、車内には蚊とハエの中間のような羽虫がたまにいて、刺したりはしないのだが、彼は目の前にそれが現れるたびに怒りをあらわにし、手のひらをバチンバチン!とあわせて殺そうとする。虫が窓に止まればガラスが割れそうな勢いでバンバン叩く。たまに成功すると、手の平についた死骸を隣のフランス人の女の子に見せ、ニヤリと笑う。もちろん女の子だってそんなもの見せられてもぜんぜん嬉しくないから、歪んだ愛想笑いを浮かべるだけだ。
 僕は気づかなかったが、松井史織によると彼はバッグの横にハエたたきを刺していたらしい。そんなものまで持っていたのかと驚くし、それをなんで使わないんだろうという疑問もわくし、そもそも、そんなに虫が嫌いなら何でわざわざ東南アジアなんかに来たんだろう、と思う。

 そんなわけで、愉快な一行を乗せたミニバスは国道という名のモトクロスコースをガタピシガタピシと進み、到着までには8時間かかるということだったが、昼食に止まった時点ですでに午後12時。そして全行程の3分の1しか進んでいない。
 予定の午後4時に着くことはあきらめたが、それでも6時には着くだろうと思っていた。しかしミニバスが埃で真っ白になっても、でっかな夕陽が田んぼの向こうの地平線に沈んでも、神経質オヤジがイライラして30秒に一度腕時計を見るようになっても、プノンペンは見えてこない。

 結局、プノンペン郊外にならぶケバケバしいレストランのネオンが見えてきたのは7時を大きく回ってからだった。それでも渋滞にはまったわけじゃないし、バスは悲鳴をあげながらがんばって走ったし、どこをどうすれば「所要8時間」という計算になるのかわからない。目的地であるプノンペン市内のホテルに着いたのは午後8時、距離にして300キロもない道のりに実に12時間もかかったのだ。
 神経質オヤジは、まだバスが動いているのに車内の一番後ろに積まれた荷物の山から自分のバッグを引っ張り出し、ドアが開くと同時に乗客全員を呪い殺すような表情で飛び出していった。あの人に奥さんはいるのかな?いたら、苦労しているだろうな。
 バスの車体に「Capital Tour」と書いてあったのでピーンと来ていたのだが、やはり止まったのはプノンペンの老舗安宿「Capital」の前。しかし、一階にある食堂がやけに混んでいると思ったら、やはり満室。かわりに近くにあった「Hello Guest House」にチェックインする。1人2ドル、部屋にはトイレと水シャワーがついている。

 「Capital」の一階に夕食を食べに行くが、ちょっと警戒する。シェムリアップは平和そのものだったが、首都プノンペンは事情が違う。メキシコシティにいるとき、ある信頼できる旅人から「ここよりは治安が悪い」と聞いていたのだ。その後何人かに聞いたみたが、実際被害にあった人はいないものの、夜は出歩ける雰囲気ではないという。なにしろ人口100万人の街に対し、内戦で使用された15万丁の銃器が残っているというのだ。所得が極端に低いため、警官でさえも強盗に化けることがあるという。
 とはいうものの、「Capital」を中心としたエリアは旅行者も多く、機関銃を背にした警官も立っていて(さすがにこれだけの人の前では悪さはしないだろう)、怖い感じはしなかった。もちろん、だからといってフラフラ意味もなくさまようことはしなかったけど・・・。


出費                    1$   昼食
     8000R 夕食
計     1$
(約130円)
      8000R (約270円) 宿泊         Hello Guesthouse


2002年2月15日(金) カンボジアの暗部(Traces of genocide)

 アンコールワットは文句なしに素晴らしい。あれはカンボジアが最も輝かしかった時代、かつてクメール王国と呼ばれ、インドシナ半島の大半を支配していたころの栄光の足跡だ。
 しかしどの国、どの世界にも光があれば陰がある。今日はカンボジアの陰を見ようと、トゥール・スレン博物館を訪れた。

 実は、僕はこの博物館を訪れるためにわざわざ12時間も悪路を揺られてプノンペンまで来たのだ。
 プノンペンは治安が悪く、大きな見所もないから、タイから入った旅行者の多くはアンコールワットだけを見て引き返してしまう。ベトナム方面に抜けようとする人、あるいは逆にベトナムからタイを目指す人は立ち寄ることになるが、我々のようにタイから来てタイに帰るというのにプノンペンまで足を伸ばすのは少数派だ。
 しかし、僕はどうしてもトゥール・スレン博物館が見たかった。この博物館はポル・ポトの虐殺行為を後世に伝える東洋のアウシュビッツだ。ある国を理解するには、その国の光と陰の両方を見るのが近道だと思うし、カンボジアのみならず、この世界のことをもっと考えるために訪れる必要があると思ったのだ。
 僕はポーランドでも三ヵ所のナチス強制収容所跡を訪れた。人間がどれほど悪魔に近づけるか、なぜ狂気に走ったのか、かの地で考えることはとても重要だと思う。

 トゥール・スレン博物館は宿から15分ほどのところにある。散歩がてら歩いて行くが、太陽のもとで見るプノンペンはちょっと凄かった。
 首都の中心地だというのに一本路地を入ればもう舗装はなく、ガタガタの路面の上をバイクやトラックがもうもうと埃をあげて走っている。そこら中に屋台や露店が出ているが、みんなゴミを適当に捨てるから異臭が鼻孔を刺激する。
 そのくせに道の両側の家々は意外と豪華で、きっと金持ちの華僑の家なのだろう、旧正月の飾りつけなんかをしているのだが、塀の高さは3メートルはあり、その上は鉄条網や鋭利な鉄片などで縁取られている。「入ろうとしたらタダじゃおかねえぞコノヤロー」というオーラがひしひしと感じられるのだ。
 昨日のデコボコ国道もそうだったけど、中米のホンジュラスかニカラグアあたりによく似ていると思う。緯度も季候も近いし、ちょっと前まで内戦でモメていたというのも同じだ。

 そして博物館に到着する。
 ここはポル・ポト政権下において反逆分子の収容、尋問のための施設だったが、もとは高校なので、3階建ての校舎が中庭をコの字に囲むつくりになっている。規模は日本にある小さめの公立中学校を想像してもらえればちょうどよい。
 鉄条網が幾重にもまきつけられた塀を抜け、入場料を払ってから時計回りに建物を見て回る。

 ポル・ポトは1975年、共産勢力「クメール・ルージュ」を率い、5年に及んだ内戦を制して政権についた。彼は都市を無人化して国民の総農民化を図り、貨幣制度と学校制度を廃止、宗教を禁止するというムチャクチャな政策をすすめ、異を唱えるものをもちろん、独裁体制に邪魔な知識人を片っ端から虐殺した。
 1979年、彼がベトナム勢力に追われてプノンペンを放棄するまで、カンボジアにおける人口は実に300万人以上も減少したのだ。300万人!当時の人口はわからないが、今で1200万人ぐらいだから、今でいっても4人のうち1人は殺されたか、病死したか、餓死したのだ。これはもう、えらいことなのである。

 みなさんは「5パーセントの法則」というのを知っていますか? 会社でも国でも軍隊でも、ある組織を実質的に動かしているのは5パーセントの人たちである、という法則で、たとえば社員1万人の大企業なら500人の部課長クラスがいて、彼らを25人の役員が動かし、それをまとめるのが1人の社長である、ということです。
 まあ、必ずしも出世する人が優秀な人ではないけれど、カンボジアにおいては政府高官、教師、学生、弁護士、科学者、技術者、高僧など、そのまま生きていれば国の中心になっただろう知識階級を中心に、5パーセントどころか30パーセント以上もいなくなってしまった訳です。
 これじゃ、その後の国力の伸び悩みは火を見るより明らかですね。

 最初の建物には尋問のための部屋が並ぶ。
 がらんとした部屋の中央にマットレスのない金属のベッドがあり、囚人をくくりつけたチェーンや重い鉄でできた手かせ、足かせがのっている。
 なんの説明もないが、壁に一枚だけ、この施設が解放された時に撮られた部屋の写真が掲げられている。
 モノクロでピントも曖昧だが、ベッドの上には苦痛で背中をのけぞらせたまま息絶えた死体がのっており、その血が床を黒く染めている。写真が鮮明なら拷問のあとがはっきりわかるのだろうが、どうやら腹がえぐられているような印象を受ける。

 ポル・ポトに忠実だった高官・党員も、ひとたび「裏切り者」の烙印が押されればこれらの部屋で拷問にかけられ、仲間の情報を強要された。拷問する側で疑問を持った者もいるだろう。しかし、それを悟られることは死を意味する。恐怖は思考を停止させ、人を機械にする。やらなければ自分がやられるのだ。

 次の建物を埋め尽くすのは収容された人々の写真だ。
 この施設には老若男女約2万人が連行されたというが、彼らはナチスの収容所同様、まず記録用の写真を撮られた。生きて出られたのはわずか数人だというから、これらの人々はまず亡き人だと考えてよい。

 子供もかなりいる。当然、彼らは反逆分子たりえないが、逮捕者の家族一同、赤ん坊に至るまで連行されたというから、彼らはまったく無実な小さき犠牲者なのである。
 わずかだが白人もいる。アメリカやオーストラリアからのジャーナリストで、狂気政権の深部を覗こうとして捕らえられたのだろう。本国から救いのないまま、志半ばにして彼らもカンボジアの土となった。

 それにしても壁一面に並んだ写真の表情が凄い。恐怖に顔が歪み、すでに暴行を受けて顔を腫らしている人もいる。写真が新しいというのもあるけど、ナチスの収容所のものよりはるかにリアルである。記録用の小さな顔写真が大半を占めるが、中には全身を撮ったポートレートのような大判写真もある。単なる引き伸ばしじゃなくて、大判フィルムで撮ったと思われる鮮明で粒子の細かい写真なのだ。

 なぜ、どのような目的でこれらの写真が撮られたのだろうか?怯え、とまどい、そして憎悪の表情を余すことなく捕らえている。写真係が単に記録目的で撮ったのでは、こんなものは撮れない。写す側のエネルギーがものすごく感じられて、写真集になるような、語弊を覚悟でいうと「アートな写真」なのだ。

 僕はきっと、カメラマンも被害者なんだと思う。写真が好きで、本当は人々の笑顔なんかを撮りたいのだけど、命じられて、これから拷問されて殺される人々の記録写真を撮っているのだ。そして彼は思ったのだ。この虐殺を、狂気の行いを、罪亡き犠牲者の姿を後世に伝えなければならない。これは囚人の記録写真であると同時に、カンボジア史上もっとも悲しき時代のポートレートなのだ・・・。
 もちろん真相はわからない。だけど、僕はきっとそうだと思う。

 三つ目の建物は囚人の収容棟だ。1階が煉瓦で仕切られた独房、2階は木の板で仕切られた独房、3階は教室をそのまま利用した雑居房だ。
 独房の広さは1.5畳ほど。毛布もまくらもなく、囚人はかせをはめられたまま固い床の上で寝たのだ。すべての動作に許可が必要だったから、寝返りを打つのにも看守の同意を得なければならない。規則に背いたものには電気ショックによる拷問が待っていた。
 トイレは大便用と小便用に分けられたバケツで行った。2日から4日に一度、囚人たちは一ヵ所に集められ、放水機のようなもので水をかけられて体を洗った。こんな衛生状態だから病気が蔓延したが、囚人のために用意された医薬品はなかった。

 1階から3階まで、ベランダは全て鉄条網で覆われていた。脱走防止のためかと思ったが、僕は甘かった。これは囚人が飛び降り自殺をしないためのものなのだ。
 誰だって拷問が日課のような日々に陥ったら、死んだ方がマシだと思うだろう。しかし彼らは生きることも死ぬことも許されなかった。すべての自由を奪われ、「殺してもらえる日」をただ待つだけだったのだ。

 最後の建物には拷問の道具や尋問、処刑の様子を伝える絵や写真が展示されていた。どこかに飾られていたのだろう、ポル・ポトの胸像もあったが、顔には墨で大きな×がつけられていた。この施設を開放した勢力か、犠牲者の親族が恨み骨髄でつけたのだろう。
 しかし驚くべきことにこの男、政権を追われたあともタイ国境に近いジャングルに逃げ込み、支持者の支援を受けながら「クメール・ルージュ」を率いてゲリラ戦を展開、1998年まで生きていたのだ。
 これほどの残虐行為を行っても捕まることなく、その後20年も生きたのだ。いったい誰が彼を支援したのだろう?

 最後の部屋には犠牲者の頭蓋骨で作られたカンボジアの地図があった。その横には3年8ヵ月のポル・ポト政権で失われたものが一覧表になっている。それによると人命3.314,768、民家635,522、学校5,857、病院796、仏教寺院1,968、イスラム寺院104・・・。
 カンボジアは決して大きな国ではない。人口でいえば東京都と同じぐらいの規模だ。そんな国において、これだけの被害が出たのは尋常じゃない。

 トゥール・スレン博物館は1時間もあれば見て回れるが、一通り見るとヘビーである。土産物屋の前のベンチに座り、しばし休憩した。
 精神的に回復したところで1台のバイクタクシーに3人乗りし、巨大なドーム型の中央市場に行ってみるが、思ったよりも面白くないので早々に立ち去る。近くの銀行でトラベラーズチェックから米ドルのキャッシュをつくり、地球の歩き方にも載っていた餃子専門店で餃子を食べた。
 帰りにスーパーマーケットに寄ってみるが、リーバイスの501が7ドルちょっとで売っている。なぜか社会の窓がチャック式だが(501ってボタンですよね、普通)、それ以外には「バッタもの」のような雰囲気はなく、つくりもしっかりしている。ジーンズはいくらあっても困らないので、買っておくことにした。松井史織に日本に持って帰ってもらおう。

 プノンペンの午後の陽射しはもう溶けてしまいそうな勢いで、洗ったTシャツなんかちょっと干しておくだけでパリパリに乾く、というより固まる。涼しくなる夕方まで扇風機にあたりながら昼寝をして、夕食を「Capital」の一階で食べたあと、インターネットをした。事務的な手続きがちょっとたまっているのだ。


出費                     2$   トゥール・スレン博物館
     7.2$ ニセ?リーバイス
     1500R バイクタクシー
     6200R インターネット
     16400R 飲食費
計     9.2$
(約1200円)
      24100R (約800円) 宿泊         Hello Guesthouse
インターネット    Friendly Internet


2002年2月16日(土) キリングフィールド(Killing Field)

 「Capital」の一階には旅行代理店もあり、プノンペン近郊の各種ツアーを受け付けている。普通こういうツアーは割高なのだが、我々が訪れようとしていた「キリングフィールド」は往復の交通費とガイド料で1人2ドル。バイクタクシーで行っても5ドルはかかるというので、これは破格だ。
 そんなわけで昨日に引き続き、今日もカンボジアの暗部を見つめようと「キリングフィールド2時間ツアー」に参加した。

 トゥール・スレンにも処刑場はあったが、収容された人々の多くはプノンペン郊外にあるこの「殺戮の原」に連行され、処分された。それらの遺体は深い穴にまとめて埋められたが、そんな穴は全部で130もあるという。埋められた2万人のうちまだ9000人分の骨しか見つかっていないが、それらは白い慰霊塔に収められている。
 
  慰霊塔はガラス張りで、中に並べられている頭蓋骨がよく見えるが、ガイドのいう通り穴が開いていたり大きな傷があったりして無傷のものを探す方が難しい。
 ポル・ポトは銃弾を惜しみ、「手作業」による処刑を命じた。人々はトゥール・スレンで苦しみぬいたあと、オノやハンマー、ナイフ、ナタなどでむごたらしく処刑されたのだ。キリングフィールドには巨大な葉の根元にノコギリのようなギザギザがついたヤシの木が生えているが、それで首を切ることもあったという。

 ナチスの強制収容所はガス室において効率的に殺戮を行ったことから「殺人工場」と呼ばれた。しかしポル・ポトは非常に原始的な方法で、実に非効率的に処刑を行った。ナチスが「殺人工場」なら、ここは「殺人職人のアトリエ」だ。

 掘り返された穴の上には木の屋根が設けられているが、そのうちの一つ、100人以上の女性と子どもが埋められたという穴の横に、一本の木が立っている。ガイドによるとポル・ポトの兵士は幼児を処刑するとき、足を持って頭をこの木に叩きつけて殺したという。そしてその死体を横の穴に捨てたのだ。
 トゥール・スレン博物館でその図は見ていたが、実際にその木を前にすると阿鼻叫喚が蘇るようだ。何の罪もない、未来のある人間の子どもを、ギリシャの漁師が生きたタコをコンクリートに叩きつけるようにして、殺したのだ。
 そしてその首謀者は支持者に囲まれて長生きした。この世はどうなっているのだ?

 我々の女性ガイドは一通りを見せたあと、バスに帰っていってしまった。他のツアーのガイドが熱心に話しているので耳を傾けると、ちょうど誰がポル・ポトを支援していたのか説明しているところだった。我々のガイドより訛りの少ない英語だ。
 彼によると、ポル・ポトを支持したのは西側諸国やタイをはじめとするASEAN諸国だったという。ポル・ポトはソ連に支援されたベトナム軍によってプノンペンを追われた。そのままだとベトナム軍はカンボジア全土を手中に収め、タイまで脅かしただろう。その防波堤として、あらたにカンボジア西部に根をおろしたポル・ポトを支援したのだ。

 それを聞いて、僕はますます暗くなってしまった。結局、というかやはりというか、カンボジアの悲劇も東西冷戦の延長であり、タイを西側につけておくために狂人ポル・ポトは利用されたのだ。
 僕はずっと西側世界の住民で、民主主義は優れたシステムだとは思うけど、一見、フェアで平和そうに見える我々のシステムも、実は多くの犠牲によって支えられている。そう考えると、カンボジアの人々に申し訳ないような気持ちになってしまった。

 キリングフィールドから宿まで12キロの悪路を揺られて帰り、昼食はまた餃子を食べた。日本の実家に電話をしたが、インターネット電話は安いかわりにブツブツ途切れて話しづらかった。
 「Capital」の一階の代理店でシアヌーク・ビル行きのバスと、そこからタイ国境に近いコ・コンまで行く高速艇のチケットを買った。我々は明日の早朝、タイに戻るのだ。


出費                     2$   キリングフィールドツアー
     18$ タイ国境行きバス、ボート
     1.5$ 電話
     1$ インターネット
     21300R 飲食費
計     22.5$
(約2925円)
      21300R (約710円) 宿泊         Hello Guesthouse
インターネット    Friendly Internet