アンコールワットは文句なしに素晴らしい。あれはカンボジアが最も輝かしかった時代、かつてクメール王国と呼ばれ、インドシナ半島の大半を支配していたころの栄光の足跡だ。
しかしどの国、どの世界にも光があれば陰がある。今日はカンボジアの陰を見ようと、トゥール・スレン博物館を訪れた。
実は、僕はこの博物館を訪れるためにわざわざ12時間も悪路を揺られてプノンペンまで来たのだ。
プノンペンは治安が悪く、大きな見所もないから、タイから入った旅行者の多くはアンコールワットだけを見て引き返してしまう。ベトナム方面に抜けようとする人、あるいは逆にベトナムからタイを目指す人は立ち寄ることになるが、我々のようにタイから来てタイに帰るというのにプノンペンまで足を伸ばすのは少数派だ。
しかし、僕はどうしてもトゥール・スレン博物館が見たかった。この博物館はポル・ポトの虐殺行為を後世に伝える東洋のアウシュビッツだ。ある国を理解するには、その国の光と陰の両方を見るのが近道だと思うし、カンボジアのみならず、この世界のことをもっと考えるために訪れる必要があると思ったのだ。
僕はポーランドでも三ヵ所のナチス強制収容所跡を訪れた。人間がどれほど悪魔に近づけるか、なぜ狂気に走ったのか、かの地で考えることはとても重要だと思う。
トゥール・スレン博物館は宿から15分ほどのところにある。散歩がてら歩いて行くが、太陽のもとで見るプノンペンはちょっと凄かった。
首都の中心地だというのに一本路地を入ればもう舗装はなく、ガタガタの路面の上をバイクやトラックがもうもうと埃をあげて走っている。そこら中に屋台や露店が出ているが、みんなゴミを適当に捨てるから異臭が鼻孔を刺激する。
そのくせに道の両側の家々は意外と豪華で、きっと金持ちの華僑の家なのだろう、旧正月の飾りつけなんかをしているのだが、塀の高さは3メートルはあり、その上は鉄条網や鋭利な鉄片などで縁取られている。「入ろうとしたらタダじゃおかねえぞコノヤロー」というオーラがひしひしと感じられるのだ。
昨日のデコボコ国道もそうだったけど、中米のホンジュラスかニカラグアあたりによく似ていると思う。緯度も季候も近いし、ちょっと前まで内戦でモメていたというのも同じだ。
そして博物館に到着する。
ここはポル・ポト政権下において反逆分子の収容、尋問のための施設だったが、もとは高校なので、3階建ての校舎が中庭をコの字に囲むつくりになっている。規模は日本にある小さめの公立中学校を想像してもらえればちょうどよい。
鉄条網が幾重にもまきつけられた塀を抜け、入場料を払ってから時計回りに建物を見て回る。
ポル・ポトは1975年、共産勢力「クメール・ルージュ」を率い、5年に及んだ内戦を制して政権についた。彼は都市を無人化して国民の総農民化を図り、貨幣制度と学校制度を廃止、宗教を禁止するというムチャクチャな政策をすすめ、異を唱えるものをもちろん、独裁体制に邪魔な知識人を片っ端から虐殺した。
1979年、彼がベトナム勢力に追われてプノンペンを放棄するまで、カンボジアにおける人口は実に300万人以上も減少したのだ。300万人!当時の人口はわからないが、今で1200万人ぐらいだから、今でいっても4人のうち1人は殺されたか、病死したか、餓死したのだ。これはもう、えらいことなのである。
みなさんは「5パーセントの法則」というのを知っていますか?
会社でも国でも軍隊でも、ある組織を実質的に動かしているのは5パーセントの人たちである、という法則で、たとえば社員1万人の大企業なら500人の部課長クラスがいて、彼らを25人の役員が動かし、それをまとめるのが1人の社長である、ということです。
まあ、必ずしも出世する人が優秀な人ではないけれど、カンボジアにおいては政府高官、教師、学生、弁護士、科学者、技術者、高僧など、そのまま生きていれば国の中心になっただろう知識階級を中心に、5パーセントどころか30パーセント以上もいなくなってしまった訳です。
これじゃ、その後の国力の伸び悩みは火を見るより明らかですね。
最初の建物には尋問のための部屋が並ぶ。
がらんとした部屋の中央にマットレスのない金属のベッドがあり、囚人をくくりつけたチェーンや重い鉄でできた手かせ、足かせがのっている。
なんの説明もないが、壁に一枚だけ、この施設が解放された時に撮られた部屋の写真が掲げられている。
モノクロでピントも曖昧だが、ベッドの上には苦痛で背中をのけぞらせたまま息絶えた死体がのっており、その血が床を黒く染めている。写真が鮮明なら拷問のあとがはっきりわかるのだろうが、どうやら腹がえぐられているような印象を受ける。
ポル・ポトに忠実だった高官・党員も、ひとたび「裏切り者」の烙印が押されればこれらの部屋で拷問にかけられ、仲間の情報を強要された。拷問する側で疑問を持った者もいるだろう。しかし、それを悟られることは死を意味する。恐怖は思考を停止させ、人を機械にする。やらなければ自分がやられるのだ。
次の建物を埋め尽くすのは収容された人々の写真だ。
この施設には老若男女約2万人が連行されたというが、彼らはナチスの収容所同様、まず記録用の写真を撮られた。生きて出られたのはわずか数人だというから、これらの人々はまず亡き人だと考えてよい。
子供もかなりいる。当然、彼らは反逆分子たりえないが、逮捕者の家族一同、赤ん坊に至るまで連行されたというから、彼らはまったく無実な小さき犠牲者なのである。
わずかだが白人もいる。アメリカやオーストラリアからのジャーナリストで、狂気政権の深部を覗こうとして捕らえられたのだろう。本国から救いのないまま、志半ばにして彼らもカンボジアの土となった。
それにしても壁一面に並んだ写真の表情が凄い。恐怖に顔が歪み、すでに暴行を受けて顔を腫らしている人もいる。写真が新しいというのもあるけど、ナチスの収容所のものよりはるかにリアルである。記録用の小さな顔写真が大半を占めるが、中には全身を撮ったポートレートのような大判写真もある。単なる引き伸ばしじゃなくて、大判フィルムで撮ったと思われる鮮明で粒子の細かい写真なのだ。
なぜ、どのような目的でこれらの写真が撮られたのだろうか?怯え、とまどい、そして憎悪の表情を余すことなく捕らえている。写真係が単に記録目的で撮ったのでは、こんなものは撮れない。写す側のエネルギーがものすごく感じられて、写真集になるような、語弊を覚悟でいうと「アートな写真」なのだ。
僕はきっと、カメラマンも被害者なんだと思う。写真が好きで、本当は人々の笑顔なんかを撮りたいのだけど、命じられて、これから拷問されて殺される人々の記録写真を撮っているのだ。そして彼は思ったのだ。この虐殺を、狂気の行いを、罪亡き犠牲者の姿を後世に伝えなければならない。これは囚人の記録写真であると同時に、カンボジア史上もっとも悲しき時代のポートレートなのだ・・・。
もちろん真相はわからない。だけど、僕はきっとそうだと思う。
三つ目の建物は囚人の収容棟だ。1階が煉瓦で仕切られた独房、2階は木の板で仕切られた独房、3階は教室をそのまま利用した雑居房だ。
独房の広さは1.5畳ほど。毛布もまくらもなく、囚人はかせをはめられたまま固い床の上で寝たのだ。すべての動作に許可が必要だったから、寝返りを打つのにも看守の同意を得なければならない。規則に背いたものには電気ショックによる拷問が待っていた。
トイレは大便用と小便用に分けられたバケツで行った。2日から4日に一度、囚人たちは一ヵ所に集められ、放水機のようなもので水をかけられて体を洗った。こんな衛生状態だから病気が蔓延したが、囚人のために用意された医薬品はなかった。
1階から3階まで、ベランダは全て鉄条網で覆われていた。脱走防止のためかと思ったが、僕は甘かった。これは囚人が飛び降り自殺をしないためのものなのだ。
誰だって拷問が日課のような日々に陥ったら、死んだ方がマシだと思うだろう。しかし彼らは生きることも死ぬことも許されなかった。すべての自由を奪われ、「殺してもらえる日」をただ待つだけだったのだ。
最後の建物には拷問の道具や尋問、処刑の様子を伝える絵や写真が展示されていた。どこかに飾られていたのだろう、ポル・ポトの胸像もあったが、顔には墨で大きな×がつけられていた。この施設を開放した勢力か、犠牲者の親族が恨み骨髄でつけたのだろう。
しかし驚くべきことにこの男、政権を追われたあともタイ国境に近いジャングルに逃げ込み、支持者の支援を受けながら「クメール・ルージュ」を率いてゲリラ戦を展開、1998年まで生きていたのだ。
これほどの残虐行為を行っても捕まることなく、その後20年も生きたのだ。いったい誰が彼を支援したのだろう?
最後の部屋には犠牲者の頭蓋骨で作られたカンボジアの地図があった。その横には3年8ヵ月のポル・ポト政権で失われたものが一覧表になっている。それによると人命3.314,768、民家635,522、学校5,857、病院796、仏教寺院1,968、イスラム寺院104・・・。
カンボジアは決して大きな国ではない。人口でいえば東京都と同じぐらいの規模だ。そんな国において、これだけの被害が出たのは尋常じゃない。
トゥール・スレン博物館は1時間もあれば見て回れるが、一通り見るとヘビーである。土産物屋の前のベンチに座り、しばし休憩した。
精神的に回復したところで1台のバイクタクシーに3人乗りし、巨大なドーム型の中央市場に行ってみるが、思ったよりも面白くないので早々に立ち去る。近くの銀行でトラベラーズチェックから米ドルのキャッシュをつくり、地球の歩き方にも載っていた餃子専門店で餃子を食べた。
帰りにスーパーマーケットに寄ってみるが、リーバイスの501が7ドルちょっとで売っている。なぜか社会の窓がチャック式だが(501ってボタンですよね、普通)、それ以外には「バッタもの」のような雰囲気はなく、つくりもしっかりしている。ジーンズはいくらあっても困らないので、買っておくことにした。松井史織に日本に持って帰ってもらおう。
プノンペンの午後の陽射しはもう溶けてしまいそうな勢いで、洗ったTシャツなんかちょっと干しておくだけでパリパリに乾く、というより固まる。涼しくなる夕方まで扇風機にあたりながら昼寝をして、夕食を「Capital」の一階で食べたあと、インターネットをした。事務的な手続きがちょっとたまっているのだ。
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