旅の日記

タイ・バンコク編(2002年1月18〜22日)

2002年1月18日(金) タイヘ飛ぶ(Flying to Thailand)

 タイ行き、エジプト・エアー864便は午後12時15分にカイロ国際空港を飛び立つ。2時間前には行っておきたいし、さらに時間のかかる市バスで行こうと決めていたので(タクシーに乗るための現金がもうないのだ)、午前7時に目覚ましをセットしていた。
 しかし目が覚めたのは午前8時。バスで行くにはギリギリの線なので、あきらめてタクシーを拾う。そのためにわずか10ポンド(約300円)を新たにATMで引き出さなければならなかった・・・。

 さて、エジプトで最後に乗るタクシー。人を選んで乗ったつもりだったが、ちょっとバトルがあった。
 エジプトでは、先に料金のことを言い出す運転手は信用しないほうがいいらしい。気前良く「何ポンドで行ってあけるよ!」とかいう運転手は、必ずといっていいほど後でモメるらしいのだ。行き先だけを告げ、降りるときに相場の金額を黙って渡す。それがエジプト流なのだ。
 マホトマ・ガンジーのような風貌の運転手は「空港までの相場を知っているかね?」と走り出してからすぐに言った。ちょっといやだな、と思いながらも「20ポンドだろ」と僕はいう。空港までは20〜25が相場、地元民なら15で行く距離だ。
 「とんでもない。25はもらわなきゃ」とガンジーは言った。事前交渉は避けたいから、「もういい。他のタクシーを捕まえるからそこで停めてくれ」と僕は言った。面倒くさそうなタクシーはさっさと降りてしまった方がいい。
 「わかった、わかった。20で行けばいいのだろう?」
 「いや、もういいから停めて」
 「いったい、お前は20で行くのか、行かないのか?」
 「だからもういいって!停めろ、Right now!」
 「なんなんだ、お前は。だから20で行くと行っているだろう!」
 車内でしばらく口論が続いたが、他にタクシーを捕まえるのも面倒くさいし、時間もないし、このガンジーも根は悪い人じゃなさそうなので、結局そのまま乗ることにした。

 しかし、その後も口論は続いた。
 「まったく、あんたらが今日はじめての客なんだよ。おかげで今日一日、暗い気分になる」
 「ああ、そうかい。そりゃお互いさまだね。俺の一日も暗くなるだろう」
 「メーターどおりの金額で走ったって、メシは食えないんだ。このメーター料金は政府が勝手に決めたもので、現実に即していない。だいたい、メーター料金が上がれば誰もタクシーに乗らないだろう?(意味不明)」
 「あのねえ、言わせてもらえりゃそんなの我々に関係ないの。相場の20ポンドも払えば十分だろう?」
 「他の仕事ができれば誰もタクシー運転手なんかやらないんだ。我々が置かれている厳しい状況を理解してほしい」
 「旅行者の厳しい状況だって理解してほしい。タクシーに乗るたびにこんな口論が待っているんだぞ」

 その後、僕は日本語でなるべく感情的に文句を言った。そうすることで本気で怒っているということを示したかったのだ。するとガンジーは懐柔策に出たのか、あるいは僕なんかよりずっと大人なのか、その後は一転して穏やかな口調になった。
 「・・・日本から来なすったか。ようこそ、エジプトへ」(今から出国するんだけどな・・・)
 「アスワンに行かれましたか。私はあそこの出身です。家族もアスワンにいます」
 「あそこに見るのは軍警察の本部です。あっちはシェラトン・ホテルです」
 そして最後にまた、「タクシー運転手のおかれている状況を理解してください」(しつこい)
 僕も、「旅行者の置かれている状況も理解してください」(負けじとしつこい)

 そんなこんなでカイロ国際空港に到着。約束どおりガンジーに20ポンドを支払ってタクシーを降りる。結局はいいオヤジだったので、ちょっと反省する。だけどモロッコやエジプトにおいては、その人が善人かどうかは最後にならないとわからない。だから悲しいことだけど、疑ってかかったほうが無難ではあるのだ。

 あの支店長おばさんのお墨付きをもらっているので(我々の予約データにその旨が書きこまれている)、搭乗拒否されることもなく無事にチェックインを済ませた。
 最後に余ったポンドでシャーイを飲み(そこでも若干バトルがあった。いちいち書くのも疲れる)、エジプト航空のボーイング777に乗りこむ。アテネから乗った機体よりはるかに新しく、混んでいるにもかかわらず、まずまず快適である。
 そして午後1時前、約30分遅れで機は離陸した。村上春樹の「遠い太鼓」を読んだり、あるいは寝ながら、我々は紅海を越え、インドを越え、インドシナ半島に近づいていった。


出費                   11LE   タクシー代
     4.75LE シャーイ
     1.5LE 絵葉書
計     17.25LE
(約490円)
宿泊         タイ行きエジプト航空機


2002年1月19日(土) カオサンロードのお祭り騒ぎ(Gala of Khaosan road)

 バンコク国際空港は24時間稼動しており、そんな空港では安いフライトはとんでもない時間に離発着する。我々を乗せたエジプト航空機が滑走路を踏んだのは19日の午前2時だった。
 さて、バックパッカーの登竜門とされるバンコクだが、実は、僕は初めてなのである。しかも持っている情報といえば「安宿はカオサンロード周辺に集中している」ということだけ。こんな時間に行っても大丈夫なのだろうか?

 イミグレーションの列に並んでいると、前にいた旅行者の夫婦が「カオサンまでタクシーをシェアしないか」と言ってきた。彼らは日本人のトモさんとオーストラリア国籍のタイ人ジャスミンさんのカップルで、そういえばルクソールのホテル「アッサラーム」の屋上レストランでみかけた顔だ。
 バンコクには詳しいようなので、そのまま彼らにくっついて行くことにした。

 空港からタクシーを捕まえ、深夜のバンコクを走る。驚いたことにタイは左側通行だった。道路の両脇にシャッターの閉まったアーケードが続き、そして時折、セブンイレブンやファミリーマートが煌々と営業しているのが目に入る。
  「ここはコンビニが多いんだよね」とトモさん。車窓を見ていると、まるで日本に帰ってきたみたいだ。

 カオサンロードに着いたのは午前4時。こんな時間だというのに、街をブラつく旅行者の姿がチラホラ。営業している屋台も何軒かある。玉子入りの焼き蕎麦を食べたら美味かった。やはりアジアの食事は舌にあう。
 トモさんとジャスミンさんの定宿「J&Joe」に行くが、チェックアウトタイムの午後12時ごろにならなければ部屋は空かないという。それまで中庭で待っていようと思ったが、なにしろ蚊が多いのでギブアップ。ちょっと高めだが、僕と松井史織は空き部屋のあった「Green House」にチェックインした。
 虫といえば、カオサンを歩いている間に巨大なゴキブリを何匹も見た・・・。まあ熱帯なんだから、そりゃいるだろう。しかし理屈でわかっていても、イヤなものはイヤなのだ!


 20日、目が覚めたのは午後1時ごろ。さっそく街に出てみる。
 するとどうしたことだろうか?何の騒ぎだろうか?通りは人で溢れかえり、その間をけたたましい音をたててトゥクトゥク(3輪タクシー)が走りぬける。カオサンに集まるバックパッカーは年ごとに増えているというが、これじゃ飽和状態だ。
 物価が安い、メシがうまい、治安がいい、見所もある、そして世界各地への航空券が安いなどの理由で、バンコクは旅の起点の定番だ。特に日本から近いので、日本人パッカーはまずバンコクへ飛び、そこで次の目的地までのチケットを買うというパターンが多い。

 僕も旅の途中、「ああ、カオサンに帰りたい」と、遠い目をしながらいう旅行者に何人も会った。そして実際、みんな日本に帰る前にもう一度カオサンに立ち寄る。だからカオサンを歩いていると「長旅はこれからです」、あるいは「タイだけで日本に帰ります」という小奇麗な「新入生」パッカーと、「長旅から戻ってきました」、あるいは「ずっと沈没してこんなんなっちゃいました」という「なれの果て」パッカーの、2パターンがいることに気付く。
 バックパッカーたちの交差点。みんなここから出ていって、そして戻ってくる。ここでは旅先で知り合った友との再会が待っている。南国の熱気のなか、シンハービールを飲みながら旅のエピソードを語り合ううち、また旅路につきたいと思うようになる。そうして次の目的地までの航空券を買うか、日本に帰るのでも往復のチケットを買うのだ。いつでもカオサンに戻ってこられるように・・・。

 午後は古本屋に行き、中古の「地球の歩き方」、タイ編とカンボジア編を買う。これで今後のプランが立てられるだろう。
 夜になって、トモさんとジャスミンさんと日本食レストラン「レックさんラーメン」に行った。実は昼食もここで食べたのだが、昼のラーメンも夜の鳥唐揚げ定食も日本の味そのものでおいしかった。日本の雑誌や漫画も置いてあるし、客の大半は日本人だし、ここはもう日本だ。
 こういうのも日本人パッカーが溜まる理由だろう。バンコクに来れば擬似ジャパンが待っているのだ。

 しかしカオサンにいる旅行者は日本人ばかりではない。むしろ大半は白人である。国別ではイスラエル人が多いそうだ。
 食事のあと、カフェでビールを飲みながらカオサンロードを行き交う人々を見ていたが、涼しい夜の方が人通りが多い。派手なネオンの点ったビル、並ぶ屋台、通りを埋め尽くす人、人、人・・・これじゃまるで地方都市の縁日だ。
 「カオサンロード商店街大感謝祭」。そんな様相を呈しながら、通りは深夜まで熱気に包まれていた。


出費                   125B   宿代
     30B インターネット
     55B シャンプー
     540B 中古の「地球の歩き方」タイ編とカンボジア編
     267B 飲食費
計     1017B
(1ドル=約43バーツ、約3070円)
宿泊         Green House
インターネット    Hello Internet


2002年1月20〜22日(日〜火) あのコンビと再会する(Arrival of friends)

 20日から21日の夕方にかけては、カオサンロード周辺でダラダラと過ごしてしまった。というより、ダラダラと過ごさざるを得なかったのだ。
 まず暑い。暖を求めてきたのだから文句をいう資格はないのだけど、それにしても溶けてしまいそうな蒸し暑さだ。久しぶりに汗をかいた僕の肌は、あせもができてかゆくなってしまった。
 そして時差ぼけのために明け方まで眠れなくなってしまった。夜が白みはじめるころになってようやく寝つけるのだが、ホテルの部屋の裏では工事をしており、午前8時にもなればドンデンガンデン!と、無情なモーニングコールをよこすのだ。それにもめげずに眠るのだが、おかげで午後の目覚めも非常にすっきりしない。
 本当はホテルを換えた方がいいのだけど、近々アユタヤの方に移動する計画もあり、またある人にメールで居場所を伝えているので、彼が訪ねてくるまでは動けないのだ。

 そして21日の夕方、その「ある人」はけたたましく僕の部屋をノックした。ドアを開けると、そこには真っ白な歯をニカッとみせた村上さんの顔が!
 ハンガリーの「テレザハウス」で出会った彼とは、これでルーマニアとクロアチアについで3度目の再会となる。クロアチアからイタリアに渡るフェリーを最後に別れた後、彼はマルタ島に行っていたのだが、バンコクの日系新聞社から誘いを受けてバンコクに戻ってきたばかりなのだ。
 そして村上さんの傍らにはコージ君もいた。彼はクロアチアの後にトルコを経て帰国していたが、最近またバンコクに来たという。これでクロアチアのドブロウニクで一緒だった4人が揃ったわけだ。
 再会の街カオサンロード。僕らも例外ではなかった。

 夜はそのまま飲み会に突入した。飛行機を降りてからまだ数時間しか経っていない村上さんは大好きなタイに戻ってこられてハイテンション。屋台食堂でどんどんビールを追加した。
 「いやあ、タイに戻ってこれて嬉しいなあ。青山さんにも会えて嬉しいなあ」(グビグビ)
 「俺も村上さんに会えて嬉しいなあ」(グビグビ)
 「今夜は飲みましょう」(グビグビ)
 「ええ、今夜は飲みましょう」(グビグビ)
 「おばちゃん!ビール追加」
 「うんうん、どんどん持ってきて!」

 そんな僕らはすぐに壊れた。飲み会が始まって2時間でプッツリと記憶が飛んでしまったのだ。僕は村上さんとコージ君の写真を撮ったことも覚えていないし、隣にいた若い日本人旅行者を巻きこんだ(あるいはカラむというのかもしれない)ことも覚えていない。その後、気持ち悪くなってトイレに立てこもったのはなんとなく覚えているけど・・・。

 意識が回復したのは22日の朝。僕は部屋のベッドの上でパンツ一枚で寝かされていた。どうやら松井史織とコージ君が運んできてくれたらしい。まっさきに思ったことは「あっ、やっちゃった・・・」。
 800日に迫るこの旅の中でも最大級の酔っ払いだ。

 死神にとりつかれたような表情の僕とはうらはらに、ホテルに訪ねてきた村上さんはすっきりとしていた。しかし彼も昨夜の記憶は全然ないらしい。
 「いやー、こんなこともあるでしょ。全然OKです。それじゃ今夜も飲みますか!」・・・いや、今日は遠慮しておきます。

 22日はバンコクに詳しい村上さんとコージ君に連れられて、伊勢丹デパートに買い物に行った。そう、バンコクには伊勢丹も紀伊国屋もそごうもあるのだ。
 伊勢丹などを含む一大ショッピングセンター、「ワールド・トレード・センター」の規模、新しさに驚かされる。僕はバンコクをナメていた。ここは近代都市じゃないか!

 伊勢丹で新しいジーンズを買い、紀伊国屋で最新の「ビッグコミック」を立ち読みをした。伊勢丹の食品売場には日本食材が何でも揃っていたが、今日は食欲がないのでドラ焼きを一つ買うにとどめる。アテネに帰る時はここで買いだめをしていこう。
 それにしてもバンコクにはなんて日本人が多いんだ!僕はブラジルのサンパウロが世界最大の日本人街だと聞いていたけど、バンコクの方がよっぽど多いじゃないか。日本人がここで生活していくのに、いったいどんな不便があるというのだろう?

 レストラン街にも日本食が目立ったが、やはり現地感覚からすればとんでもない金額だ。しかし、それでもタイ人の高校生で賑わっている店もある。「すしセット900バーツ(2700円)」みたいな店に制服姿の高校生がいるのだ!
 村上さんによるとタイ人の平均収入は日本の10分の1にも満たないらしいが、貧富の差は大きく、持っている人は持っているという。きっとこんな所で食事をしたりデートをしている高校生たちは、ほんの一握りの階級の子たちなのだろう。

 帰りは運河を走る乗合ボートに乗ったが、そこで見るバンコクはまた別の表情をしていた。
 長さ15メートルはあるボートは、その大きさからは想像も出来ないような猛スピードでドブのように汚れた水面を突っ走る。運河の両脇にはバラックが立ち並ぶが、飛沫が客にかからぬよう走行中はビニールの幕を上げるので、あまり外の風景は見られない。
 停留所に停まる時間はほんの数秒。その間に乗り降りを済ませなければ、置いて行かれるか運河に落ちることになる。勤め人、学生、おばちゃん、みんな器用に揺れる船の手すりに足をかけ、ひょいと乗り降りする。実にあっという間に。
 「ワールド・トレード・センター」のような近代的なバンコクの一面を支えているのも、実はこうした庶民なのだろう。けたたましいボートのエンジン音の中、アジアの人々のパワーを感じていた。

 屋台でもち米を炊いたものとナマズの蒲焼を買い、村上さんの宿のテラスで食べたが、あまりにも蚊が多いので早めに退散した。まったく、蚊と話し合えることができればこう言いたい。「少々の血などくれてやるから、かゆくしたり病気をうつすのはやめてくれ!君たちが合意してくれるのなら、我々人類は献血センターから血液を提供するぞ!」 (僕はそのために献血してもいい)


出費                   375B   宿代
     66B インターネット
     950B ジーンズ
     497.5B 飲食費
     8.5B 交通費
     75B クリーニング
計     1972B
(約5960円)
宿泊         Green House
インターネット    Hello Internet