今日から12月。ギリシャというと暖かいイメージがあるが、実際は四季がはっきりしている。冬は予想以上に寒いうえ、1年分の雨が集中的に降る季節でもあるのだ。
今日、その雨が降った。息は白く、汚い街は曇天に覆われ、雨はシトシトと途切れなく降り、かなりミジメな気分である。宿は完璧に近いが、暖房が無いという欠点がある。暖房さえあればここで冬を越せるのだが。
さて、日本人のDNAには「寒いと鍋料理が食べたくなる」記号が書きこまれており、それが今日、機能した。暖かい鍋がどうしても食べたくなったのである。
ちなみにモロッコ人のDNAには「旅行者を見るとガイドはいらないか?といいたくなる」記号があり、ラテン人のDNAには「車やバイクに乗ると限界まで飛ばしてみたくなる」記号が書きこまれているのだ。
平野君と「現代のアゴラ」に行き、前から目をつけていたアンコウ屋でアンコウを買った。平野君は明朝の便で日本に飛ぶので、今夜が最後の晩餐。どうせならドーンとアンコウで行こう!と決めたのだ。それでもキロあたり約800円だから、そんなに贅沢品ではない。
メインキャストが名優でも、脇が弱ければ良い舞台はできあがらない。安くておいしい脇役を探して市場を歩いたら、ビニール袋に入ったカキが売られていた。生ではとても食えないが、鍋物には十分。一袋、身だけで500グラムはありそうだが、約300円とバカ安なので購入を決定。
アンコウとカキ!なんて素敵な共演なんだろう。気持ち悪くニヤニヤ笑う日本人2人を、ギリシャ人はどう思ったのだろう?
ついでに食堂で昼食を食べた。私は前回と同じ魚のスープを頼んだが、平野君はチャレンジャーである。牛の足がデーンと入ったスープをオーダーしたのだ。
一口飲んで、ピタッと彼の動きは止まった。私も試したら、それはアブラそのものを飲んでいるような濃厚な汁で、「天下一品ラーメン」のこってりスープどころの騒ぎじゃなかった。どうやら骨についた脂身も食べるものらしいが、それは「コラーゲン」という久しく使わなかった言葉を思い起こさせた。ある意味、体にいい料理かもしれない。
私はすっかりアブラまみれになった口で、「これでこの牛が狂牛病だったら、間違いなく俺らも感染するね」と言った。平野君はクチャクチャ脂身を噛みながら、「昨日のステーキだって怪しいッスね」と言った。
正直なところ、狂牛病が心配でバイクの旅はできない。狂牛病で死ぬ確立より、乱暴運転のギリシャ人の車に轢かれて死ぬ確立の方が100万倍ほど高いだろう。
夜、トシヤス君も交えて3人で鍋を作った。といっても、白菜の代わりのレタスとネギをちょっと煮て、本だしで味を整え、ブツ切りにしたアンコウとカキを加えるだけだが。ちなみにポン酢は醤油にレモンとオレンジの汁を加えて作った。
そうして出来たアンコウとカキの鍋は、予想を上回る感動的な美味さとなった。ポン酢を使わなくても、アンコウとカキから濃厚なダシが出たのだ。ただ、アンコウをよく洗わなかったので砂っぽくなってしまった。アンコウって砂を大量に飲んでいるのね・・・初めて知った。
具を食べ尽くしたあとも、雑炊というクライマックスが残されていた。ていねいにすくった汁の上澄みでごはんを煮込み、最後にとき卵を加えたら完璧な雑炊ができあがった。
日本人のDNAには「うまい日本食を食うと日本人で良かったと思う」記号が書きこまれているが、3人とも例外ではなかった。ギリシャ産のアンコウとカキのおかげで、長期旅行者が失いかけていた日本人としてのアイデンティティは保たれたのだ。
腹を膨らませたあと、平野君とドラの家に行った。最後の夜はみんなで飲もうと約束していたのだ。
やはり明日の早朝にロンドンに帰るカズヤ君と、平野君、ドラ、そして私の4人で安ワインとメタクサを飲んだが、飲み始めたのが遅かったので、すぐにカズヤ君と平野君が空港に向かう午前3時となった。
強い雨の中、タクシーに乗りこむ前の平野君と固い握手を交わした。柔道と山登りで鍛えた大きな手だった。あと20時間もすれば彼は日本の地を踏むことになるだろう。
大学を休学し、工場で働いて資金を作った。気持ちが萎えかけ、「世界一周」を思い立った場所に戻って決意を確認したこともあった。海外に出るのは短期旅行の韓国についで2回目だった。夏はレモン畑で野宿をし、新鮮な実を絞って飲んだ。冬はライディングジャケットを買う金がなく、Gジャンで震えながら走った。テロの影響でアジア横断をあきらめ、エーゲ海の孤島で1週間を過ごした。誰もいない砂浜で、焚火の炎を見ながら走った日々を振り返った。そして「いい旅だった」と思うことができた。
半年間、22000キロ、世界半周の旅は終わった。そして青年は一つ歳をとって日本に帰る。
走り去るタクシーの助手席から彼が向けた笑顔はすがすがしかった。何かをやり遂げた男の顔だった。酒が入っていたこともあるが、ジーンときた。
そして部屋に戻って寝ようとしたら・・・おい!平野君!大事なものを忘れてんじゃん!ドラが印刷してくれた帰国記念のポストカードの束!さっきの笑顔は、単なるヨッパライの笑顔かい!
私が本当に本当に良い人なら、どこかで無理やりタクシーを捕まえて空港まで行くのだが、残念ながら安ワインを飲みすぎた私には気力も体力も残されていなかった。ごめん平野君、日本に送ってあげるから勘弁して・・・おやすみ。
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