旅の日記

ギリシャ編その2(2001年11月25〜30日)

2001年11月25日(日) ミケーネの遺跡(Ruins of Mikines)

 朝一番にパトリックとヘレンが出発した。
 ヤドカリのようだったマルセルとフラービアは特別だが、ヨーロッパのライダーというのは大体において荷物が多い。しかしこの2人はタンデムにもかかわらず、パッキングが非常にすっきりとしている。ヘレン曰く、 「化粧道具を持たないことが秘訣ね。普段でも化粧をしないから気にならないの」
 澄んだ空気にボクサーエンジンの音を響かせて、彼らは走り去った。またどこかで会えるだろうか?それまで、safe ride!

 昨日吹いていた強風も止み、今日は穏やかな晴天の日曜日。私はナフプリオン周辺の遺跡を巡ることにした。

 まずはエピダヴロスの古代劇場を見に行った。前4世紀に建てられた15000人収容の劇場は音響効果が抜群で、丸いステージの中央に立つと自分の足音が足もとからではなく周囲の客席から反響して聞こえてくる。今でも夏になると、この劇場では劇が上演されるらしい。
 エピダヴロスは医神アスクレピオスの信仰地で、病を患う人々の保養地だった。薬などなかったので、当時は劇を観たり音楽を聴いたりして心をリラックスさせ、自然治癒力を高めたのだ。今でいうホスピスに近い。

 エピダヴロスの後はミケーネ文明の中心地、ミケーネの遺跡に向かった。
 ミケーネ文明!なんて古いんだろう!今のトルコにあったトロイヤを相手に、「トロイの木馬」で有名な「トロイヤ戦争」をしかけた文明である。
 ギリシャの歴史というと、前9〜5世紀ごろのアテネとかスパルタとかの都市国家が栄えた時代がもっとも輝かしく、アテネのパルテノン神殿をはじめ、有名な遺跡はこの頃に建てられたものが多い。それでも2500年も前で気の遠くなるような昔だというのに、ミケーネ文明の最盛期は前16〜12世紀、さらに1000年もさかのぼるのだ!
 やっぱりユーラシア大陸の歴史は違うなあ。中南米のマヤ文明とかインカ帝国の遺跡も好きだけど、ギリシャやアジアの遺跡に比べたら、ついこのあいだのものじゃん。

 ミケーネは小高い丘の上に築かれた城砦だった。さすがに原型をとどめている箇所は少ないが、獅子のレリーフがある門など、3500年前の石の加工技術に驚く。
 しかし、一番驚いたのはメインの遺跡群から少し離れたところにある「アトレウスの宝庫」だ。丘をくりぬき、内部に石を積み重ねてつくられた高さ15メートルのドーム状の宝庫は、まるでピラミッドを思わせるスケールだ。構成する一つ一つの石はきれいに四角く削られ、インカの石組みを思わせる。しかし繰り返すようだが、両者の間には2000年以上の隔たりがあるのだ!

 遺跡を二つ見て、満足してナフプリオンに戻った。ペロポネソス半島の道は気持ちのいいワインディングが多く、今日は天気も良かったので、行き帰りのライディングも楽しめた。
 しかし今日、スピードメーターのケーブルが切れてしまった。これでは時速が何キロ出ているかわからないし、走行距離もわからない。アテネで直すことにしよう・・・。


本日の走行距離        不明(計67752.1キロ)

出費                  900Dr   ピザパン&コーヒー
     5000Dr 宿
計     5900Dr
(約1860円) 宿泊         Pension Dimitrios Bekas


2001年11月26日(月) 平野君に再会する(Meeting a friend in Athens)

 ナフプリオンはけっこう気に入ったので、もう一、二泊してもいいと思ったのだが、天気予報によると水曜日あたりから天候が崩れる。雨の中を移動したり、宿を探したりするのはもうコリゴリなので、天気のいいうちにアテネに移動することにした。
 宿をチェックアウトし、町を出る前にインターネットカフェに寄ってホームページの更新を行う。アテネのバイク屋に愛車のハーレーを預けてインドに飛んだ、はーれーごり君からメールあり。インド産のバイク、ロイヤルエンフィールドを物色しているが、なかなか良いのが見つからないらしい。

 ナフプリオンからアテネまでは100キロちょっとの道のり。半島の入り口にあるコリントスという街を過ぎると、道は海沿いとなった。青さが目に眩しい。
 アテネ市街の手前にはギリシャの海の玄関口、ピレウス港がある。さすがに海洋大国、海上はタンカーや客船、フェリーで渋滞していた。

 宮本輝の「海辺の扉」で読んだとおり、アテネに入ったら道路の方の渋滞もひどい。荷物を積んでいるのですり抜けもできず、黙々と車の列に並んで走った。
 極度の方向音痴である私は、大都市に入るとまず間違いなく迷子になる。しかしアテネには格好のランドマークがあった。巨大なパルテノン神殿が建つ、アクロポリスの丘である。安宿の多い、目指すプラカ地区はそのふもとにあるので、丘を目指して走ったらギリシャの人口の約半分、400万人がひしめきあうアテネでも迷わなかった。

 プラカ地区には風情のある古い町並みが広がるが、細い路地が入り組んでいて、そのほとんどが一方通行。バイクといえども自由に走りまわれないので、バイクを置いて徒歩で宿を探す。
 一番安い宿でも一泊6000ドラクマ(約1950円)。もっと安いところがあるはずだと、もう一つの安宿が集中するエリア、オモニア広場周辺に行った。すると5000ドラクマの宿を発見、とりあえず2泊分を払ってチェックインした。

 宿の周辺をふらふら歩き、スーパーで買物をして帰ろうとすると、近くに一軒のホステルを見つけた。参考のために部屋代を聞こうと中に入ったら、カウンターには日本人の男の子が立っていた。
 多田君という彼は、部屋代を浮かすためにアルバイトをしているのだという。そしていきなり、彼の口からすごい言葉が出た。「ひょっとして平野さんを知りませんか?」
 ブダペストで会った休学中の学生ライダー、平野君は確かにアテネにいるはずだ。どの宿にいるか質問のメールを書いたのだが、今朝はまだ返事が届いていなかった。それが偶然にも、この宿に泊まっているのというのだ。

 フロントで話しているうちに、インターネットカフェに行っていた平野君が帰ってきて、目を丸くして言った。 「何でいるんスか?俺はたった今、20分もかけて青山さんにこの宿への道順をメールしたんスよ!」
 何はともあれ、大偶然で再会を果たした2人はそのまま酒を買いに行き、平野君の宿で飲むこととなった。部屋代は3000ドラクマだし、キッチンはあるし、ご主人はいい人そうだし・・・今度、この宿に引っ越そう。

 彼はブダペストを出たあと、急ぎ足でルーマニア、ブルガリアと抜けてギリシャに下ってきた。そしてアテネにバイクを置いたまま、クレタ島のさらに南の小島に一週間行っていたらしい。ネパールまで走る道は断たれ、学生の彼には来年まで待つ時間と財力がない。彼はすでに日本に向けてバイクを発送したという。
 志半ばで帰国となるが、彼は今までの旅でかなり満足しており、従って幸せらしい。あきらめがついてすっきりしたようだ。「壮大な旅の叙情詩が完成次第、日本に飛びます」と、小林稔侍似の彼はギリシャ産のブランデー、メタクサを飲みながら言うのだった。

 アテネにはバイクを泊められる安宿などなく、私の宿の主人は路上駐車で問題ないというのだが、平野君の宿の主人は駐車場に預けた方がいいという。特にオモニア広場周辺はアテネでも治安の悪いところなのだ。
 しかし今夜は酒を飲みすぎ、バイクを動かせそうにもない。移動は明日にしよう。一晩だけなら、路駐でも大丈夫だろう・・・。


本日の走行距離        不明(計67752.1キロ)

出費                 4000Dr   ガソリン
     1000Dr インターネット
     800Dr 高速道路
     10000Dr 宿(2泊分)
     450Dr 夕食(ピザパン)
計     16250Dr
(約5270円)
宿泊         Hotel Orea Thessalia
インターネット    名前のわからないカフェ


2001年11月27日(火) アクロポリスの丘(Climbing Acropolis)

 天気予報のとおり、今日はまだ青空が広がっている。アテネ一の観光スポットであるアクロポリスの丘は日曜日が入場無料らしいが、せっかくなら天気の良い日に登りたい。
 ホテルの横に小さなバイク屋があり、新しいスピードメーターケーブルの取り寄せを相談したら、店にある部品で直るという。それならということでバイクを預け、アクロポリスの丘に歩いて向かった。

 大通りを1キロくらい歩いたが、アテネの街並みは明らかに西ヨーロッパのものではない。ごみの散らばったでこぼこの歩道は人であふれ、大理石の混じった滑りやすい車道には渋滞した車のクラクションが鳴り響き、ヘルメットを被らないライダーたちは猛スピードでわずかな車間をすり抜ける。平野君によるとギリシャにおける死亡事故の発生率は日本の2倍だそうだが、決して誇張ではないと思う。
 人種もさまざまだ。金髪の白人もいれば黒人もいて、中東系も多いし、ロマ(ジプシー)もいる。よくトルコのイスタンブールがヨーロッパとアジアの接点だといわれるが、それは地理上のことであって、あそこはもうアジアそのものだと思う(トルコ人は反論するかもしれないが)。それに比べればヨーロッパの端っこ、そしてEUでも一番浮いている存在のこのギリシャこそ、ヨーロッパとアジアがぶつかり合う地点ではないだろうか?街はヨーロッパ的な近代さを誇りながらも、アジア的な喧騒、混沌をあわせ持っているのだ。

 2500年前に栄えた古代都市国家アテネの中心地アクロポロスの丘に登ると、現代のアテネ市が一望できた。雑然とした街並みは360度に広がるが、スモッグの砂色のもやが視界を邪魔した。
 汚い街だな・・・だけどエネルギーは感じる。嫌いではない。

 さて、アクロポリスの丘といえばパルテノン神殿である。アテネの守護神アテナを奉った幅30メートル、奥行き70メートルの大理石の神殿は、ギリシャの最も輝かしい時代の象徴だ。その栄光を取り戻そうというのか、神殿には足場が組まれ、復元工事が進められていた。2004年のオリンピックに向けて、かなり忠実に元の形に戻すつもりらしい。今のままの方が歴史を感じさせていいと思うんだけど・・・。

 パルテノン神殿のまわりには小さな神殿や劇場もあり、アテネでも最も遺跡が集中しているエリアだ。ギリシャに来る観光客のほとんどが訪れるというので、夏はたいへんな混雑だろう。しかし今では閑散としていて、三脚を使って神殿をバックに自分の写真を撮っても、余計な人物が写らないほどだった。
 真っ青な空の下、大理石の白さが眩しかった。料金を払ってまで今日登ったのは正解だった。

 丘を下ってバイク屋に戻ると、修理は終わっていた。店にあったケーブルで径が合ったらしい。工賃込みで15000ドラクマというのを、持ち金全部の12000に負けてもらった。(約3800円)
 路上駐車はもうしたくないので、近くのガソリンスタンドに併設された立体駐車場にバイクを預けた。「ちなみにまるまる一月預けたら、いくら?」とオヤジに聞いたところ、少し考えたから「10000ドラクマ」と彼は言った。月3000円ちょっとか!それなら冬の間バイクを預けて、どこかに飛ぶこともできるな・・・。
 問題はどこに飛ぶかだ。インドで私を待つごり君もいるし、カンボジアにも行きたい。エジプトもいい季節だろうし、ブラジルのサルバドールにも行きたい。しかしキプロス共和国とエジプトを結ぶフェリーがあるかもしれないので(私の持っている古い「地球の歩き方」には、あると書いてある)、もしあれば、私はキプロスからエジプトに渡り、レバノン、シリア、トルコと戻ってくるかもしれない。
 とにかく、ここアテネで情報収集だ。


本日の走行距離          0キロ(計67752.1キロ)

出費                 1000Dr   アクロポリスの丘、入場料
     1000Dr 昼食(サンドイッチセット)
     200Dr みかん一山
     12000Dr スピードメーターケーブル
     200Dr ジュース
計     14400Dr
(約4550円)
宿泊         Hotel Orea Thessalia


2001年11月28日(水) シーフードカレーな1日(A day of seafood curry)

 午前中に平野君の宿に引っ越したあと、彼がこのあいだ日本領事館で知り合った邦人留学生の部屋にカレーを作りに行くというので、一緒に行くことにした。
 カレーを食うのは夜だ。しかし男って、カレーには時間と命をかける。昼前から「現代のアゴラ」に行き、まずは食材の仕入れからはじめた。

 「現代のアゴラ」と仰々しい名前で「地球の歩き方」には書かれているが、平たくいえば中央市場である。古代の市場跡があるので(そっちは「古代アゴラ」らしい)、それに対しての言葉らしい。
 さすが400万人都市の台所。魚市場の建物を囲むように肉屋の露店が並び、道路の反対側には野菜と果物の青空市場がある。規模はかなり大きく、食材の豊富さと人々の活気はアジアを思わせる。魚屋には立派なタコやアンコウも並んでいるし、肉屋にはウサギもぶら下がっていて、「何でも食ってやろうじゃないか」というオーラが感じられるのだ。
 私も含め、旅人はこんな市場が大好きだ。興奮気味の私と平野君は「せっかくなので思いっきりカレーの中をエーゲ海にしてやろう」と、鼻息荒くエビやムール貝、イカを買うのだった。

 カレーパーティーの会場となる部屋の持ち主は、写真の留学でアテネに来た「ドラ」という娘である。短く刈り上げた髪や、安全ピンをピアスにした個性的なルックス、音楽CDが散乱し、クラブのフライヤーが壁に貼られた彼女の部屋などを見ると、日本の保守的なオジさんなんかは「今時の若者だなあ。遊んでいるのだろうなあ」と思ってしまうのだろうが、彼女はとても努力している。
 ギリシャ語は当然ペラペラだし、勉強机の上は分厚い英語版のブリタニカ百科事典が開かれたままだった。床には商売道具の一眼レフが3台転がっていて、モノクロのベタ焼きの山もあった。彼女は「地雷の踏んだらサヨウナラ」の一ノ瀬泰造のような戦場カメラマンに憧れているのだ。

 午後2時ごろからカレーを作る作業をはじめた。イカをさばき、貝を湯で、小エビの頭を延々と取った。貝の茹で汁で野菜を煮込み、イカとエビを加えたら、ルーを入れる前なのにダシやアクやその他モロモロの海鮮エキスですでにカレーのような色になった。しかし男って、時間をかけて煮込めば何でも美味いカレーになると信じているのだ。
 そしてその信仰は正しかった。カレーとブイヤベースのハーフのような料理になったが、それは口の中にエーゲ海を展開し、その海はインドに続いていると確認させるものだった。コメもうまく炊けて、文句なしのシーフードカレー・「現代のアゴラ」風に、制作総指揮をとった平野君もウットリと目を細めて満足気だった。ドラの友達で、調理師学校に通っていたクミッチからもお褒めの言葉が寄せられ、ロンドンに留学していて、旅行でギリシャに来たモヒカンのカズヤ君も「うまいうまい」と食べてくれた。
 結局、その夜は午前2時ごろまでドラの部屋で飲んでいた。カレーにささげた1日だった。


本日の走行距離          0キロ(計67752.1キロ)

出費                 3000Dr   宿代
     450Dr カレー
     2000Dr 酒など
     850Dr インターネット
計     6300Dr
(約2050円)
宿泊         Hostel Annabel
インターネット    Mocafe


2001年11月29日(木) 悩むトシヤス君(A friend under virus attack)

 私も含め、最近、コンピューターウイルスの被害が広がっているような気がする。クロアチアで会った松井さんも、ブダペストとクロアチアで会ったトシヤス君も、みんなコンピューターがウイルスに感染していた。近頃のメールもウイルスに関するもの、あるいはウイルスつきのものが多い。
 一体どうなってるんだ?ウイルスを作るヤツへの怒りと同じに、マイクロソフトの姿勢にも怒りを感じる。なんでお前らの製品が無防備なのを、我々が自腹を切って埋め合わせせにゃならんのだ?「だったら使うな」とか言われそうだけどね・・・。

 今朝、そのトシヤス君と再会した。
 彼はクロアチアのドブロウニクで別れたあと極寒のコソボを抜けてきたが、先日感染が判明した実害のないウイルスとは別に、もっと悪質なものに感染していたことがわかったらしい。駆除はあきらめてシステムの再インストールをするので、手伝って欲しいとアテネに到着した私にメールをくれたのだ。

 プラカ地区のホテルまで彼を迎えに行き、私の宿への引っ越しを手伝った。平野君のみつけた、このAnnabelというホステルより条件のいいところはちょっとない。口コミで来た韓国人旅行者が一番多いが、日本人や中国人もいる。白人もいることはいるが、肩身はちょっと狭い。ちなみに宿のギリシャ人オーナーは同胞の宿泊を認めていない。アジア人旅行者を中心に営業した方がトラブルが少ないと知っているのだ。

 トシヤス君の部屋が決まった後、さっそく彼のパソコンのシステムを再インストールすることに。どうやらCD−Rには焼き込まれないウイルスなので、必要なデータを私のドライブで焼き付け、それからリカバリCDをセットした。
 しかし・・・何も起きない。あれ?確か面倒な手順など無かったはずなのに。
 トシヤス君はウイルスに感染したファイルを検索し、それらを全て削除したらしい。きっと、その中にはシステム上で必要なものも含まれていただろう。別の手順を調べようにも、ウインドウズのヘルプまで立ち上がらないのだ。
 さて、困ったもんだ。システムを入れなおすなんて必要なのは時間だけで、決して難しい作業ではないはずなのに。結局私は何の役にもたたず、トシヤス君が自力で成功したのはその数時間後だった。俺のCD‐Rドライブは役になったけどね・・・。

 その夜はまたドラの家に行くことになった。昨日、会社の同期が餞別にくれた大切なアーミーナイフを忘れてきてしまったのだ。
 ドラの家でスパゲティを作ると約束していたのだが、私とトシヤス君と平野君はあまりにも腹が減っていたので先に3人で食べてしまった。そうしてドラの家に行ったら、餓死寸前のドラとクミッチとカズヤ君がいたので、結局おなじ料理を作りなおすことになった。
  腹が減っていたぶん、みんなガツガツと食べてくれたが、それが嬉しいことだと最近気付いた。小食な私に、母はよく「あなたには料理の作りがいがない」と言っていたが、今ではそれがよくわかる。

 昨夜は宿に帰るのが遅くなってしまい、門番としてフロントで寝ている多田君を起こさなければならなかったので、今夜は早めにドラの家を出た。
 そして宿に戻って気がついた。アーミーナイフは持ってきたが、今日持って行った大切な調味料入れ(ワサビ、ダシの素など!)を忘れてきてしまった。俺はアホか・・・。


本日の走行距離          0キロ(計67752.1キロ)

出費                  550Dr   ジュース、水
     450Dr 昼食(サンドイッチ)
     3000Dr 宿代
     1000Dr テレホンカード
     400Dr スパゲティの材料
計     5400Dr
(約1750円)
宿泊         Hostel Annabel


2001年11月30日(金) 誕生日にはステーキを(Beef steak for a friend's birthday)

 午前中に日本領事館に行き、実家から送ってもらったパソコンソフトのCDを受け取ってから、日本への航空券を買う平野君につきあって旅行会社を回った。バイクをアテネに置いてどこかへ飛ぶことになると思うが、その行き先はまだ決めていない。まずは各方面への航空券の相場を知りたいのだ。
 いろいろ調べた結果・・・ブラジルのリオ往復230,000ドラクマ(72000円)、エジプトのカイロ片道62000ドラクマ(20000円)、エジプトストップオーバーでバンコク往復185000ドラクマ(58000円)。ちなみに全てアテネ発着で、平野君の買った日本への片道は140000ドラクマ(44000円)だった。あ、インドへの相場を調べるのを忘れた。
 さ〜て、どうしようか?日頃の八方美人ぶりのおかげで、世界各地から「こっちに来なさい」というメールが来ている。・・・ちょっと考えよう。

 さて、今日は平野君の23回目の誕生日だ。だからというわけではないが、今日はステーキをガツンと食おう!ということになった。
 「現代のアゴラ」に行き、適当な安い肉を見つけて「1キロくれ」と言ったら、お兄さんは「はいよ!」と肉をミンチの機械に放り込み、「あっ!やめて!」という悲痛な叫びの届く前にひき肉にしてしまった。日本じゃステーキに値する肉だが、ここではミンチ用にしかならないらしい。
 気をとりなおし、今度はどう見たってステーキ用のTボーン肉1400グラムを購入。平野君、トシヤス君、そして私の3人で割って一人約300円。日本じゃいくら取られるだろう?
  1.5リットル400円の安ワインにボチャン!と漬け込んで、大型ガスコンロのゴーッ!という火でジューッ!と焼き、ガツン!と食べたらドカン!と美味かった。やっぱりステーキにはダイナミズムが必要なのだ。

 そのあとは3人で夜のアクロポリスに行ってみた。ライトアップは確かにきれいだったが、肝心のパルテノン神殿がアングルの関係でよく見られなかった。すでに門は閉まっている時間なので、丘の周辺から見上げるしかないのだ。
 ただ、入場口の反対側にある小高い岩山からアテネの夜景が見られた。街の規模のわりには灯りが少なく、日本でいえば郊外の住宅地のような夜景だった。

 冷たい岩肌になにか転がっていると思ったら、なんと寝袋で寝ている人がいた。トシヤス君によると、この前もいたらしい。
 旅行者のわりには荷物が少ないし、ホームレスでもなさそうだし・・・。こんな岩の上に直接寝るのなら、土の上で寝た方がよっぽど快適だと思うのだが、きっと彼には彼なりの理由があるのだろう。精神的なこととか・・・?


本日の走行距離          0キロ(計67752.1キロ)

出費                 1400Dr   インターネット
     1000Dr 地下鉄
     3000Dr 宿代
     1350Dr CD‐Rディスク
     1400Dr 夕食(ステーキ)
計     8150Dr
(約2640円)
宿泊         Hostel Annabel
インターネット    Mocafe