旅の日記

ギリシャ編(2001年11月21〜24日)

2001年11月21日(水) バーリの一日(A day in Bari)

 朝8時、フェリーは予定通りイタリアのバーリに着いた。
 夏のハイシーズンであれば、ドブロウニクからバーリを経由してギリシャまで行くフェリーがあるそうだが、今ではここで別の船に乗らなくてはならない。
 村上さんはこのまま列車で南下して、マルタ島を目指す。彼に別れを告げ、私はマルセルとフラービアと一緒にギリシャ行きのフェリーのチケットを買いに行った。

 港の中、彼らの後ろについていったのだが・・・太陽のもと、走る彼らの後姿は異様だった。まるでアルミの箱が勝手に動いているようで、南米の田舎でよく見る、小さなロバに山ほどの薪や干草を運ばせている光景を想像してしまった。
 小さな段差のたびにボックスはユッサユッサと揺れ、鉄のフレームはしなっていた。これじゃ、舗装路で折れるのも無理はない。

 幸い、ギリシャ行きのフェリーはその夜にあった。夜8時に出て、翌朝ギリシャ北西部のイグメニッツアに寄港したあと、午後12時半にペロポネソス半島のパトラに着く。長旅であるうえ、たいしてリクライニングもしない椅子の料金とドミトリー(大部屋)の寝台の料金がさほど変わらなかったので、後者のチケットを買った。イグメニッツアで降りて自走するという手もあるが、なぜか途中で降りても終点まで行っても料金が同じなので、パトラまで行くことにした。
 買ってから気づいたのだが、ギリシャ航路は数社がフェリーを出しており、選択肢は他にもあった。我々がチケットを買った「FastFerry」という会社の船は一番大きくて近代的であり、そしておそらく一番高かったのだろう。今さら言っても仕方がないのだが・・・。

 カフェで朝食を一緒に食べたあと、マルセルとフラービアといったん別れてバーリの町を歩いてみた。
 旧市街も一応あるが、何の変哲もない港町で、特に興味のそそられるものはない。しかしアドリア海を渡ってきて、明らかにイタリアに来た、という実感がある。人間がまるで違うのだ。
 車の運転がまず違う。「歩行者なんてどけどけ!」という勢いで街中を暴走し、車の長さ+30センチのスペースがあれば、バンパーで前後の車を押しのけて駐車する。ラテン民族の国では、バンパーはぶつけるためにある部品だ。
 そして感情表現が違う。駐車スペースを横取りされたお姉さんは、車を道路の真ん中に停めて出てきて、駐車した車の運転手に罵詈雑言を浴びせていた。道ですれ違った母娘は、何かの拍子で母親がいきなりキレ、感情をむき出しにして娘をバシバシたたいていた。
 ・・・ラテンだなあ。それに比べて、クロアチア人ははるかに穏やかだった。

 ただひたすらに町を歩き、食事をし、また歩き、そして船に乗りこむ時間になったので、バイクを置いてきた港に戻った。
 「SuperFastU」号は全長174メートル、全幅24メートルで、車850台が収容できるカーデッキは5層に分かれている。おそらく私が乗ったフェリーの中でも一番大きいだろう。(あ、「さんふらわあ」号とどっちが大きいだろう?)
 船には二つのレストラン、三つのバー、カジノ、免税店、今は営業していないプールなどあって、ISO9000規格をクリアーしたという最新鋭艦だった。結果からいうと船はまったく揺れなかったし、寝台は簡素だが十分だったし、シャワーもたくさんお湯が出たし、快適な船旅ではあったのだが、船員のサービスや態度がサイアクだった。

 まず、イタリアからギリシャに行くフェリーなのに、イタリアの通貨が使えないのだ。余ったリラでメシでも食おうとしたのに、ギリシャのドラクマに両替しないと使えない。クレジットカードも受け付けない。あきらかに手数料を稼ぐため、両替をせざるをえないシステムにしている。
 そして、その両替デスクがサイアクだった。レートは悪いし、小銭は扱わないし、30000リラ(約1600円)以上でないと交換しない。責任者のような中年の男はパリっとした制服に身を包んでいるものの、文句を言われれば客に向かって舌打ちするし、キレるし、無視するし、10000リラ札を細かくしてくれとフランス語で頼んだ黒人のお兄さんを、まるでゴミを見るような目で見下ろした。

 両替なんてしてやるかボケッ、と思っていたが、マルセルとフラービアが「バーでビールを飲もう。ドラクマがないなら、おごるよ」といった。そうなると、ケチって両替をせずにご馳走になるわけにはいかない。10ドルをドラクマに換え(レートは1ドル約370ドラクマなのに、3500ドラクマにしかならなかった)、3人でビールを飲んだ。
 マルセルはサンタクロースのような立派な口ひげをたくわえているので、一見オッサンに見えるが、よく見ると若く、30過ぎといったところだろう。彼はパン職人、フラービアは看護婦として働いて旅の資金を貯めたらしい。
  パン職人はいかに重労働かとか(夜中の1時に起きて仕事を始めるらしい)、スイスの医療保険制度の不公平さとかを、色々と聞かされた。マルセルは英語があまり話せないが、オランダ人のモトグッチ・ライダー、オノみたいに話し出すと止まらないのだ。

 しばらくするとバーはディスコタイムになったらしく、照明が落ち、ビート系の音楽が大音量で鳴り始めた。しかし誰一人としてその変化を歓迎するものはいなく、客は一人、また一人と静かな船室に消えて行った。我々も例外ではなく、席を立った。
 誰もいないダンスフロアーに空しく音楽が響いていた。過ちに気づかないバーテンダーは客が突然居なくなったことを気にもせず、せっせとグラスを磨いていた。
 ピカピカの船なのだが、すべてが空回りしているように思えた。


本日の走行距離         3.8キロ(計67440.3キロ)

出費                 6000L    朝食(コーヒーとパン)
     1000L みかん
     159000L フェリー
     9000L 昼食(ピザ)
     2500L ペン
     2600L 食材
     850Dr ビール
計     180100L
(1ドル=約2200リラ、約9820円)      850Dr(1ドル=約370ドラクマ、約280円) 宿泊         ギリシャ行きのフェリー


2001年11月22日(木) オリンピックのふるさと(Cradle of Olympic games)

 ギリシャ神話によると、ギリシャの神々はかなり人間くさくて感情的だ。すぐに怒るし、裏切るし、殺人はするし(殺神か)、近親相姦までしてしまう。汚い体でギリシャの地に降り立つことに腹を立て、罰を下さないとも限らないので、船がパトラに着く前にシャワーを浴びた。
 あ、嫉妬もするんだったっけ。俺のようなナイスガイに、やはりゼウスは稲妻を落とし、ポセイドンは三又の鉾を突くのだろうか?

 晴れ渡った空の下、フェリーはペロポネソス半島の北岸にある港町パトラに到着した。マルセルのトライアンフはなぜかバッテリーがアガっていたが、フェリーから降りるスロープで勢いをつけ、ギアを入れてエンジンをかけることに成功した。あれだけの荷物だから、いくら三気筒エンジンといえども押しがけは不可能に近い。
 彼らはまっすぐアテネに向かうというが、私はせっかくだから半島を回ることにした。港から向かう方向が逆なので、彼らと記念撮影をして別れた。メールアドレスも交換したし、冬を越すというプランも一緒なので、またどこかで会えるだろう。

 さて、記念すべき50カ国目のギリシャである。期待してはいけないと思いながらも、「やっぱり暖かいんじゃないか」とどこかで希望をつないでいたが、やっぱり、たいして暖かくはなかった。日が出ているとポカポカするが、雲が遮るととたんに風が冷たくなる。これならトルコ南部もたいして変わらないだろう。
 西ヨーロッパの人々とEUについて話すと、みんな「ギリシャだけは異質だ」と口を揃えて言う。もちろんいろんな意味でだろうけど、ちょっと走って、その一端を見た気がした。看板がギリシャ文字で書かれているということもあるけど、道沿いの景色が少なくても西ヨーロッパ的ではない。路肩にゴミは散らばっているし、舗装は荒れているし、どことなく南米やアジア的な猥雑さがあるのだ。

 今日の目的地オリンピアまでは100キロちょっと。午後にフェリーで到着した初日としては、ちょうどいい距離だ。
 オリンピアは言わずと知れた、古代オリンピック発祥の地。紀元前8世紀に初めて行われた4年に1度の競技大会は、ビザンチン帝国の時代に禁止になるまで、じつに約1200年間にわたって休むことなく続けられた。戦争中の国は休戦協定を結んでまで参加したという。

 しかし時は流れ、今やオリンピアは小さな村でしかない。観光シーズンが終わったあとでは、遺跡が唯一の呼び物となっている村は死んだような静けさだった。
 探していたユースホステルはすぐに見つかった。部屋にベッドは6つあったが、客は私だけ。すいているのはいいが寒々しい。

 荷物を置いて、さっそく村はずれにある遺跡を見に行った。
 選手の宿泊所や闘技場などの競技施設から、神殿や祭壇などの宗教的建造物まであるが、いずれも紀元前のもの。ビザンチン時代に一帯は破壊され、さらに地震によって地中に没した。発掘されたのは19世紀末である。中心にあったゼウス神殿は無残に崩れ、失敗しただるま落としのように太い柱が倒れていた。

 遺跡群のはずれに石のアーチの入場門があり、そこをくぐると幅30メートル、長さ200メートルのトラックにでる。四方を囲む斜面は2万人の観客を収容したという。1200年もの間、ここで数々のドラマが生まれたのだ。(近代オリンピックは始まってからまだ100年しか経っていないから、その12倍の歴史を誇ったことになる)
 その時代にドーピングなどあったのだろうか?「自分を誉めてあげたい」とか「今まで生きていて最高に幸せです」とか、名ゼリフも誕生したんだろうか?やっぱり斜面の上にはテレビカメラが並び、その放映権をめぐって血みどろの合戦があったりしたんだろうか?大会の委員長は絶大な権力を誇り、そいつはサマランチとかいう名前だったのだろうか?

 塩味の効いたピタパンで包んだギリシャ風ケバブを食べ、宿に戻って日記を打った。
 午後9時ごろ、白人の若いバックパッカーが宿にやってきた。疲れているんだろうけど、あいさつしても力のない返事が返ってくるだけで、会話にならない。そのくせ何の感情もこもっていない目で、パソコンに向かう私をジーッと見つめている。どこの国籍かもわからないが、はっきりいってブキミである。こういうタイプは苦手なのである。そんな人とドミトリーで2人きりというのは、あんまりいい気がしない。
 こんなことをいう俺も、わがままだとは思うけど。


本日の走行距離       119.7キロ(計67560キロ)

出費                 1500Dr   朝食(コーヒーとパン)
     2000Dr 宿
     600Dr 遺跡入場料
     1500Dr 食材
     1700Dr  夕食(ケバブ2本とビール)
計     7300Dr
(約2370円) 宿泊         Youth Hostel Olympia


2001年11月23〜24日(金、土) また世界一周カップルだ!(Meeting another couple)

 23日は朝から雨が降っていた。昨日の晴天が嘘のように空は厚い雲で覆われ、見渡しても切れ目はない。様子を見たところで何も変わらないだろう。
 もう一泊するか、出発するかで悩む。宿は安いがオヤジの小言がうるさく、同室の白人は今夜も泊まるみたいだ。オリンピアの村もたいしてすることがなく、博物館ぐらいしか行くところがない。
 ええい、雨ぐらいなんだ。北欧でさんざん降られたじゃないか。意を決し、私は雨の中を走り出した。

 そして30キロも走らないうちに後悔した。雨は予想以上に激しく、ブーツカバーやグローブカバーを持たない私は手足がびしょ濡れになった。おまけに今日は、カッパの下のジーンズにまで水がしみて来た。
 今日の目的地ナフプリオンへの道は険しい山道のうえ、ところどころに雨が洗い流した土砂がたまり、走るのに神経を使う。急斜面に古い村が広がっていたりして、晴れていれば好ツーリングルートなのだろうが、今日のような天気では心細くて仕方がない。
 雨の冷たさに震えながら自分を呪った。あのままオリンピアに残っていれば、今ごろ乾いた部屋でヌクヌクしていただろうに。あの白人だって、話してみればいいヤツだったかもしれないじゃないか・・・。

 しかし、無理して出発して良かったのだ。
 ペロポネソス半島を横切って港町ナフプリオンに到着し、宿を探していると、ライディングジャケットを着て歩いている男女に会った。彼らはイギリス人の夫婦で、BMWのGSパリダカに2人乗りしてやってきたという。これから中東を抜けてアフリカを縦断、南米〜北米と走り、そしてアジアに行くという。あら!マルセルとフラービアとは逆回りだけど、やはり2人乗り世界一周じゃない!
 たて続けに会うなんて(しかもこの俺が)、なんて偶然だろう!

 宿探しは難航していたのだが、彼らの泊まっているペンションに行ってみると、安いうえにロケーションが素晴らしかった。バルコニーからは町が一望できて、背後には古城を冠した岩山が迫るのだ。即、チェックイン。
 冷え切った体に栄養を与えるため、夕食は町のタベルナでタラのフライを食べた。スペインやイタリア同様、ギリシャでも食堂のことをタベルナというのだ。食べるところなのにタベルナ、これはすぐに覚えてしまった。ちなみにスペイン語でイカのことをカラマレスという。これも覚えやすいでしょ?

 夜はギリシャ名物のウゾー(アニス酒)を飲みながら、部屋でイギリス人の夫婦と話をした。
 パトリックとヘレンという彼らは、30代後半だろう。2人とも教師で、南米のガイアナにボランティアとして2年間、教えに行っていたこともあるという。
 その話が興味深いのでいろいろ聞いてみると、イギリス発祥のNGO団体にVSO(Voluntary Services Overseaの略。辞書ソフトが消えてしまったのでスペルに自信なし)というのがあり、海外青年協力隊のように世界各国にボランティアを派遣する活動をしているらしい。NGOなので政府の思惑とは関係なしに独自の判断で人材を送りこめるが、その分資金が限られているので、給与は派遣先の国の平均賃金ほどしか支払えない。たとえば彼らはガイアナで月に200ドル弱しかもらっていなかった。住居は用意されるが、それも現地の学校教師と同レベルのもの。彼らは庭で野菜を栽培し、鶏を飼って生活していたが、それは素晴らしい日々だったという。本来の意味での「ボランティア」に、非常に近いのだ。
 そういう経験のためか、彼らはイギリスを発って2ヵ月しか経たないが、とても旅慣れたような感じだった。荷物を見せてもらったが、極めてコンパクト。2人分あわせて今の私と同じぐらいだった。

 そのほか、彼らの話で興味深かったのを二つ。
 その一、CNNの一連のテロ、アフガン報道について。「彼らはタリバンのアフガン国民に対するプロパガンダ云々とか言っているけど、自分たちの報道のやり方が反イスラムのプロパガンダじゃなくて、いったい何なの?」
 ・・・まったく同感。ヨーロッパ人の多くがアフガン空爆を冷めた目で見ているが、派兵したイギリス人といえども同じらしい。
 私もスイスのトニーの家でCNNをずっと見ていたが、テロの直後の合同慰霊祭(というのだろうか)で、政党を問わず過去の大統領が参加したのを、レポーターが「今、二つの政党に分かれていたアメリカが一つとなって立ちあがりました!」と感動的に伝えていて、ちょっとゾッとした。

 その二、ガイアナでは何でも重さで売るのが好きらしい。たとえばロープ。1メートルいくらじゃなくて、1キロいくららしい。だから太さに関係なく一つの値段しかなく、1キロ買ったら太いロープはその分短く、細いロープなら長いらしい。彼らはハンモックを吊るすために3メートルのロープが欲しかったのだが、何グラム、何キロ分なのか検討もつかなかったという。
 飛行機も重量にうるさく、国内線は体重+荷物で何キロまで、という決まりがあるらしい。だから搭乗前に一列になって体重計にのり、デブで荷物が多かったら追加料金が取られる。やせていたら、その分多く荷物を持ち込める。フェアといえばフェアだ。

 そんな話を延々としながら、夜は更けていった。久しぶりに聞くクィーンズ・イングリッシュは耳に心地よかった。


 翌24日、午前中は日記を打ち、午後になってインターネットカフェに行こうと部屋を出たら、パトリックとヘレンが岩山の城に登りに行くところだったので、一緒に行くことにした。

 岩山の高さは200メートルちょっとあり、頂上の城までは999段(彼らのガイドブックによると)の階段を登らなくてはならない。ヘレンのペースに合わせてゆっくりと話しながら登ったが、さすがに最後は息が切れた。
 パラミディ城というこの城は、17世紀にベネチア人が築いたもの。19世紀前半のギリシャ独立戦争では、包囲したトルコ軍を相手に15ヵ月も陥落しなかったらしい。
 今ではギリシャの長い歴史の1ページを伝えるモニュメントとして町を見下ろしている。吹き飛ばされそうなほど風が強かったが、城からは数キロ離れたアルゴスの町まで手に取るように見えた。

 町に下ったらひざがもう、腹を抱えて笑っていた。普段運動をしていないから、たまに筋肉を使うと過敏に反応してしまうのだ。
 パトリックに教えてもらったインターネットカフェでギリシャ初のネットをして、明日の日曜日は店が閉まるから、スーパーで大量に食料を仕入れて帰った。

 夜はまた彼らと話をした。ここからトルコに行くのなら、アテネ近郊のピレウス港からロードス島などのエーゲ海の島を経て、フェリーで行くのが早くて簡単なのだが、ギリシャの島とトルコ本土を結ぶフェリーは距離のわりに料金が非常に高い。はーれーごり君はロードス島とトルコを結ぶ100キロにも満たない航路で、150ドルも取られたらしい。ギリシャ国内のフェリーはそれほど高くないのだが・・・。
 かといって陸路で行こうとすると、北へぐるーっと、ほぼエーゲ海を一周することになる。北部ギリシャはすでに雪が降っているし、イスタンブールは摂氏2度しかないという情報もある。

 出発を明日に控えた彼らは悩んでいたが、彼らはいずれにしてもイスタンブールでシリアのビザを取らなくてはならない。高い料金を払ってフェリーで渡っても、そこからどうせ北に向かわなくてはならないわけだ。(俺ならまだ暖かいトルコ南部にバイクを置いて、バスでビザを取りに行くけどね)
 彼らは陸路でトルコまで行くことに決めた。天気予報によると、水曜日ごろからギリシャ北部の天候が崩れるので、それまでにできるだけ距離を稼ぐつもりらしい。
 明日の朝、出発前の彼らの姿を写真に撮る約束をして、私は部屋に戻った。


2日冠の走行距離       192.1キロ(計67752.1キロ)

出費                 5000Dr   ガソリン
     10000Dr 宿(2泊分)
     7610Dr 飲食費
     1300Dr インターネット
     300Dr  城の入場料
計     24210Dr
(約7850円) 宿泊         Pension Dimitrios Bekas
インターネット    名前のわからないカフェ