旅の日記

クロアチア編その3(2001年11月11〜20日)

2001年11月11〜12日(日、月) イタリア行きの準備(Back to Dubrovnik)

 ドブロウニクに戻るためのバスは、サラエボを朝7時15分に発つ。まだ太陽も顔を出していない時間だというのに、おばちゃんは朝食だけでなくサンドイッチの弁当まで用意してくれ、「タコタコ」と言いながら私を送り出した。
 ほとんど寝ていたので、6時間の帰路は短かった。読むものといえば残りページがわずかな村上春樹の「雨天炎天」しか無かったが、おかげで退屈することなしにドブロウニクまで帰って来られた。
 三日ぶりのドブロウニクは暖かかった。凍てつくようなサラエボから下ってくると、鉛色の空の下の湿った風でさえ心地よく感じられた。天気が悪くても、ここはまだ摂氏20度はある。

 バスターミナルにはこの前のプライベートルームのおじさんが迎えにきてくれたが、バスには他に観光客が乗っていなかったので残念そうだった。彼はこの前とは別の部屋に通してくれたが、6畳ほどの大きさにベッドが一つと机、そして専用のキッチンと冷蔵庫がある。これで70クーナ(約1000円ちょっと)は格安!・・・って、何で最初からこの部屋を教えてくれなかったのよ。この前はキングサイズのダブルベッドとはいえ、キッチンなしの部屋で90クーナ払っていたんだぜ。
 火曜日のフェリーでイタリアに渡るので2泊しかできないが、冬を越せそうな勢いの良い部屋だ。

 旧市街のインターネット屋でサラエボ編の日記をアップロードし、夜、松井さんの部屋に帰国の報告に行った。しかし疲れていたので長居はせず、写真とメールのバックアップを取るためのCD-Rドライブを貸してあげて早目に引き上げた。

 翌月曜日はドブロウニク最後の日。この先はイタリアを経由してギリシャまで船旅が続き、次はいつインターネットができるかわからないので、返事を書くべきメールにリプライしておく。
 インターネット屋の帰り、旧市街のカフェでお茶をしている4人組の日本人バックパッカーに出会った。最初は読み終わった文庫本を交換してもらいたくて話しかけたのだが、彼らはブダペストのテレザハウスにいたといい、正直言って私は彼らを覚えていなかったのだが、彼らは私を知っていた。そういえば松井さんが「日本的飲み会」、もっというと「日本式ドンチャン騒ぎ」に飢えているという話をしていたので、夜、松井さんと彼らの宿に遊びに行くことにした。

 酒を飲むこと、しかも大量に飲むことは火を見るより明らかなので歩いて行くつもりだったが、松井さんの部屋でウダウダしている間に約束の時間は迫り、小雨の中、DRに二人乗りして向かった。
 私の宿と松井さんの部屋は旧市街まで歩けるかどうかギリギリの距離にあるが、彼らの宿はさらに遠く、イタリア行きのフェリー乗り場の近くだった。酒もつまみも買ってくれていて、すっかり彼らの好意に甘えることになってしまった。
 4人のうち2人は大阪人だった。一人がよくしゃべる、みんなが想像する典型的な大阪人タイプで、もう一人はおとなしめだが、たまにいう一言やツッコミが絶妙で、そこはやはり大阪人だった。秩父の葬儀屋の息子だという男の子はお笑いの「ネプチューン」のホリケンを思わせる天然キャラクターで、彼は彼だけでとても面白かった。松井さんと同じ岐阜県民の人は口数こそ少なかったが、もう6年も旅と帰国を繰り返しているらしく、一言一言に経験を感じさせた。
 彼らは別に4人で旅をしているわけではなく、テレザハウスで出会ってウマが合い、ここまで一緒に来たという。プリトビッツエ国立公園に寄ってきたというので「紅葉がきれいだったでしょう?」と聞いたら、「一面の銀世界でした」と彼らは言った。彼らはスプリット行きのバスが来るまでの3時間、雪の中で歌を歌いながら寒さに耐えたという。私が行ったのの、ほんの10日後のことだ。・・・危ないところだった。

 松井さんの彼がクロアチア人ということで、しかも男5vs女1という圧倒的な男女比率もあり、「で、どんなんどんなん?じっさい、どうなん?」という下ネタ方向に自然と話題が流れた。しかし松井さんもワインをガバガバ飲んでよく笑ってよくしゃべり、念願のジャパニーズ・アルカホリック・パーティを満喫している様子だった。

 宿のオーナーの小言がきっかけで、会はお開きとなった。私も相当飲んでいたが、二人乗りで帰れないほどではなかった。しかし松井さんはかなりグロッキーで、タンデムシートでフラフラだった原因はバイクの揺れだけではない。私は彼女を家の前で降ろしてすぐに自分の宿に向かったが、その直後、彼女はあまりにも気持ちが悪くなって私に助けを求めたようとしたらしい。しかし私はそんなこととは露しらず、「雨だとやっぱりリアタイヤが滑るのう」と呑気に走り去るのであった。
 松井さんはその後、這うようににして部屋にたどり着き、ベッドに倒れこんだという。


2日間の走行距離       30.6キロ(計67331.4キロ)

出費                   60Kn   インターネット
     60Kn 飲食費
計     120Kn
(1ドル=約8.1クーナ、約1780円) 宿泊         Begovic Boarding House
インターネット    Dobrovnic Internet Center


2001年11月13日(火) 「どっかん波」に負ける(Dubrovnik under the storm)

 11月は一年でもっとも天気の悪い月だとブランコが言っていたそうだが、まさにそんな感じで、来たころの青空が嘘のように曇天が続いている。しかも今日は小雨に加え、風がひどい。地面に置いたヘルメットが転がるほど強かった、あの南米・パタゴニアの暴力的な風を思わせる。
 イタリア行きのフェリーは今夜遅くに出る。午前中に部屋を明け渡し、荷物を預けて時間つぶしのために旧市街方面へと向かった。
 そして、ふと思った。こんな風なら海はどんなだろう?確かめるため、街を見渡せる小さな岬に行ってみる。

 すると、眼下にこんな光景が広がった。
 いつもは和やかなビーチも小舟のための桟橋も、みんな海に飲まれていた。湾の入り口に立ち塞がる、高さ6、7メートルの岩のてっぺんまで波に洗われている。巨大な波は旧市街がのっかっている絶壁に容赦無くぶつかり、腹に響くような破裂音とともに飛沫が風にのって降ってくる。いつもは深い青のアドリア海も、今日ばかりは砕けた波頭で真っ白だ。
 まさに椎名誠がわざわざ八丈島まで見に行ったという「どっかん波」だ。彼ほどじゃないけど、大きな波を見ているのは楽しい。猛々しい海の怒りは、安全なところから見ている分には飽きることがない。
 しかし、こんなんで今夜のイタリア行きのフェリーはどうなるのだ?宿のおばさんによると欠航はまず無いそうだが、相当の揺れと船酔いを覚悟しなければいけないだろう。

 やれやれ、厳しい船旅となりそうだ。しかし、それまでにはまだ相当時間があるので小雨の降る旧市街をとぼとぼ歩いた。ほかにすることが無いのだ。
 最後のインターネットをするには時間がまだ早い。日本との時差が8時間あるから、夕方以降にやったほうが今夜書かれた分のメールも読める。かといって松井さんの部屋にずっといるわけにもいかない。日本語に飢えている松井さんは「全然かまわない」というが、やはりブランコの手前、彼の理解できない日本語で会話をするのは気がきける。そうでなくても彼らに残された時間はわずかなのだから、できれば二人で過ごしてもらいたいのだ。

 つるつるとよく滑る石畳の裏通りを歩くと、実に猫が多い。そして彼らは総じて人懐っこく、愛嬌がある。猫好きな人にはたまらない街だ。
 しばらく歩いて一軒のカフェに入り、カプチーノを飲みながら先日交換した文庫本を読んだ。そして午後4時になったので「そろそろいいかな」とインターネット屋に向かった。正真正銘、最後のネットだ。

 すると、ブダペストでずっと一緒だった村上さんからメールが来ていた。彼はシシリアの南に位置するマルタ島(マルタ共和国)を目指しているが、ブダペストからの航空券は法外に高く、あきらめて列車とバス、そしてフェリーで行くことにしたという。「つきましてはドブロウニクからイタリア行きのフェリーの情報を教えてください」ということだった。
 ふーん、村上さんもここに来るんだ。その時は深く意識せず、フェリーの情報に「私はその船で今夜、イタリアに渡ります」とつけ加えて返信した。

 インターネットをした後、雨足が強くなった。その中を船上で食べるための食料を買いにスーパーへ向かう。しかし、スーパーの前まで来て疑問がわいた。「俺はどうしても今夜行かねばならないのか?」
 フェリーは週1便。今夜出ないと1週間ドブロウニクにいる事になるが、残る理由と出る理由をそれぞれあげてみた。
 まず残る理由。今夜は海が荒れていて船に酔うだろう。そしてドブロウニクはとてもいい街だ。インターネットにも困らないし、猫も多いし、宿の部屋は快適だ。松井さんも昨日の4人組もいるし、あと数日すれば村上さんとも再会できるだろう。
 それに対して、出る理由。冬が迫ってきているのでなるべく早く南下した方がよい・・・以上、おしまい。

 急いで下っても、標高の高い北部ギリシャや東部および内陸部のトルコを見るにはすでに遅い。どうせ適当な場所をみつけて越冬するつもりだったから、もう急ぐ理由など無いのではないか?地中海沿いを走るのであれば冬でも大丈夫だろう。
 同じ部屋がまだ空いていたら残ろう、うまっていれば潔く船に乗ろう、と決めて宿に引き返す。すると、あの6畳キッチンつきの部屋は新しい主の来ないまま私を待っていた。
  「もう1週間ここにいます」と宿のおばさんに告げると、彼女も「そうした方がいい。今夜の船はダメだよ」と言った。宿には他にもイタリア行きを見合わせた白人のカップルがいた。

 別れを告げるために、夜、部屋に行くと松井さんに伝えてあったが、それは「これからもよろしくお願いします」という挨拶にかわってしまった。
 そして私の判断は正しかった。松井さんの手元には日本から文庫本が何冊も届き、もちろんそれらは私も借りることができる。そして私の宿まで帰れなくなるほど雨と風が一層激しくなった。雨粒は窓ガラスをたたき、風は家を揺らし、稲光は暗闇に稜線を浮かびあがらせた。もしこれで「行く」と決めていたら、私はこの嵐の中、埠頭でフェリー乗り込みの順番待ちをしていたのだ。
 はーっはっはっは、ざまーみろ!松井さんの部屋は快適だ!(誰に対して言ってんだ?)
 そんな訳でドブロウニクに残留。はやく村上さん来ないかな・・・。


本日の走行距離        10.7キロ(計67342.1キロ)

出費                  140Kn   宿代(2泊分)
     35Kn インターネット
     3.6Kn 国際電話
     36Kn 昼食(サンドイッチ)
     8Kn コーヒー
計     222.6Kn
(約3300円) 宿泊         Begovic Boarding House
インターネット    Dobrovnic Internet Center


2001年11月14〜15日(水、木) 村上さんがやってくる(The cook arrives)

 松井さんと彼氏のブランコは一緒に食事をしない。ブランコは毎食を家に帰って食べ、松井さんは部屋で自炊する。なんでそうなんだと言われても困るけど、とにかくそうなのだから仕方がない。ドブロウニクで外食をすると高いので、私も自炊するが、それなら松井さんと2人で作った方が簡単だし、安上がりだ。
 そんなわけで毎日の昼食と夕食を、私は松井さんの部屋で食べることにした。ブランコがいない間なので密会みたいだが、彼には一応了承というか、「そういうことにしたから」と松井さんから言ってもらった。

 14日の昼食は、先日一緒に飲んだ4人組のうちの1人、よくしゃべる大阪人のヤスさんも加わった。松井さんが旧市街で再会したのだ。4人のうちの3人はすでに出発し、彼自身もハンガリーに戻るために夕方のバスに乗るという。私の作ったインチキ風カルボナーラを3人で食べたあと(きっとイタリアン・シェフの村上さんが見たらこんなカルボナーラ、怒るんだろうな)、彼をバイクでバスターミナルまで送ってあげた。
 夕食はカレーにした。ルーがひとかけらだけ残っていたので、2人分でちょうど良かった。しかし明日は何を食べよう?私のレパートリーも極めて少ないし、松井さんも俺に作らせるくらいだから、料理の腕は期待してはいけない。・・・はやくシェフが来ないかな。

 と思ったら、来た。
 翌15日、目玉焼きとお茶漬けの昼食を松井さんの家で食べて戻ったら、いきなり宿に村上さんがいた。ブダペストを出てから乗り継ぎがうまくいき、22時間ほどで着いたという。私が宿の名前をメールで教えていたので、バスターミナルに集まる数多い客引きの中でも押しが弱く、目立たない宿の主人と無事に会えたらしい。
 村上さんはネパールで出会ったという、コージ君という休学中の男の子と一緒だった。一見控えめだが、話すと彼も相当に面白い。「俺が彼を連れているわけが分かったでしょ?」とは、村上さんの言葉。

 村上さんらと松井さんを引き合わせたのち、4人で宿のまわりを散歩することにした。今日は久しぶりに天気が良いのだ。
 ポカポカとした陽光の中、宿のある半島を一周した。海はこの前の嵐が嘘のように穏やかで青く、陸はあいかわらず猫だらけだった。村上さんと私はお互いにブダペストで別れた後の話をし、松井さんとコージ君は同い年であることが判明、卒業論文や就職活動の話をしていた。

 村上さんとコージ君を旧市街に案内したかったが、宿に戻るころにはすでに日が大きく傾いていたので、明日に延期した。彼らも今日着いたばかりなので、ゆっくりと夕食を作って食べることにしたのだ。

 スーパーで買物をして帰ると、宿に日本人が増えていた・・・と思ったら、やはりブダペストのテレザハウスで出会ったモバイラー、「ツアーメン」のトシヤスさんじゃないの!一時帰国していたと思ったのに、いつの間にこんなところまで下ってきたの!?
 彼は別の宿に泊まっていたが、村上さんが宿の主人に連れられて来る途中に会い、部屋を見て移ってきたという。長い間邦人は私1人だったのに、いきなり日本人宿の様相を呈してきたのだ。

 夕食は当然、村上さんが腕をふるうこととなった。村上さんとコージ君の部屋には大きなキッチンがついていて、コンロもガス式で火力がある。今度からは松井さんが我らの宿に毎食、食べに来ることになった。その方が私もブランコに対して気を使うことがないので楽なのだ。
 今夜のメインはイカをふんだんに入れたシーフード・ピラフだったが、その後もイカのワサビ風炒め、たまごチャーハン、キャベツのスープと、酒が入るにつれて村上さんのエンジンも全開となり、どんどん料理が出てきた。松井さんはブランコとの時間を過ごすために途中で帰ったが、そのために彼女が失ったものは大きい。・・・恋愛も人生で必要だが、おいしい料理もそれと同じぐらい必要だ。
 「人はパンのみに生きるにあらず」・・・だけど、人はおいしいものを食べているとき、かなり幸せになれる。


2日間の走行距離       31.6キロ(計67373.7キロ)

出費                  108Kn   食材や酒など
     20Kn インターネット
計     128Kn
(約1900円) 宿泊         Begovic Boarding House
インターネット    Dobrovnic Internet Center


2001年11月16〜17日(金、土) 城壁と救援物資(Japanese cooking)

 村上さんとコージくんが旧市街に観光に行くというので、金曜日はそれにつきあった。城壁は一度登っているのだが、昨日にひきつづき今日も雲一つない青空が広がっているので、私も料金を払って再度登ることにした。

 真っ青なアドリア海と晴れ渡った空、そして白い石の旧市街は前回と同様のコントラストを魅せたが、陽光は確実に弱まっており、風は冷たかった。ドブロウニクにも着実に冬は訪れつつある。
 そういえば、宿の近くに薪を割っている家族がいた。旧市街にはクリスマス調にショーウィンドーのデコレーションを替えている店があった。ドブロウニクの人々も冬支度に追われているのだ。

 その夜の夕食はイカのかき揚げ丼だった。村上さんがいると毎食が楽しみになるが、翌日、我々の食生活をさらに豊かにする救援物資が日本から届いた。松井家から娘に宛てた食材の小包である。

 多くの国がそうであるように、クロアチアも小包が届くと、まず通知の紙がポストに入れられる。そして受取人はその通知と身分証明書を持って、郵便局まで取りに行かねばならないのだ。
 私はそのことを知らず、南米のチリで困ったことになった。去年、ビーニャ・デル・マルの日本人宿「汐見荘」気付の自分あてにバイクのセンタースタンドを送ってもらったのだが、それが届いたとき、私はまだペルーの山奥にいた。てっきり宿に荷物が届けられ、ご主人の山岸さんが預かってくれると思いきや、「早くチリに来て郵便局に取りにいかないと、日本に送り返されますよ」というメールが彼から来たのだ。
 無理を言ってもらい、何とか山岸さんに代理で受け取ってもらったのだが、そうでもしなければ私はクスコもマチュピチュも見ずに、まっすぐチリに南下するはめになっていただろう。

 松井さんを後ろに乗せ、バイクで郵便局に向かった。
 持っていった彼女のパスポートを見ることもなく、気だるそうな男性局員が倉庫から持ってきたダンボール箱は重さ7キロもあった。伝票を見ると、運賃は1万円を超えている。しばらくクロアチアに滞在することになった娘のために、ずっしりと愛情をこめて送った小包だ。
 宿に帰って開けてみると、味噌、醤油、だしの素、ふりかけ、味付け海苔、カレーとシチューのルー、コシヒカリ2キロ(!)など、宝がザックザック出てきた。受験の直前だというのに、彼女の妹さんが買物をして揃えてくれたものらしい。
 岐阜県は松井家のみなさん、我々のために、じゃなかった、娘さんのために救援物資をお送りいただいてありがとうございます! 大切に使います、じゃなかった、大切に娘さんのご相伴に預からせていただきます。

 ・・・・さっそくその晩、村上さんがひき肉とチーズのカレーを作った。カレーが美味しかったのは言うまでもないが、再認識したのは日本のコメのうまさだ。短い米は海外でも買え、日本風に炊くことも可能なのだが、コシヒカリの艶やかさと食感はまさに「銀シャリ」、ベツモノである。ひさしく日本のお米を食べていなかったために、海外の安いコメでも十分じゃん、という感覚に陥っていた自分を少し反省した。

 その夜、ちょっと困ったことも起きた。同じ宿のモバイラー、トシヤスさん のバイオでウィルスバスターの体験版を試したら、あっけなく感染していることが判明した。この間の松井さんの一件があったので、もう驚かないが、それにしてもみんな感染するものなんだなあ・・・。
 幸い、彼のウィルスはフロッピー経由で感染するだけで破壊活動を行わない、実被害の無い種類であったが、それだけに駆除ソフトも出回っていない。そのまま穏便に飼い続けるしか今はなさそうだが、持ち主としては決して気分のいいものではないだろう。


2日間の走行距離       28.6キロ(計67402.3キロ)

出費                   10Kn   ジュース
     20Kn インターネット
     15Kn 昼食(フィッシュバーガー)
     15Kn 夕食(カレー)
     7Kn コーヒー
     60Kn 食材、酒など買い出し
計     127Kn
(約1880円) 宿泊         Begovic Boarding House
インターネット    Dobrovnic Internet Center


2001年11月18〜20日(日〜火) 船出(The next ferry)

 18日は何をしたっけ?正直いうと、この日記はだいぶ経ってからギリシャで打っているので、はっきりと思い出せないのだ。
 たしか天気が良かったので、宿のテラスで宮本輝の「海辺の扉」を読んだ気がする。たしかCD‐Rディスクが欲しかったので、旧市街まで買いに行って、そのついでにインターネットをした記憶がある。そして夕食は肉じゃが風の煮物なだったんだけど、肉が無い代わりに貴重な味噌をちょっとだけ入れ、とても美味かった気がする。
 そんな、平和な一日だった気がしてならない。

 19日は覚えているぞ。早起きして魚市場に行ったのだ。
 学校の体育館の半分もない、港町にしては小ぢんまりとした屋内の市場だったが、町のスーパーでは決して見られない鮮魚が並んでいた。今はアンコウの季節らしく、どこの店でもグロテスクな顔がだらしなく口を開けている。
 我々は小魚1キロ分と、サバとアジと買った。どれも美味そうである。何でもっと早く市場に来なかったのだろう?

 その日もインターネットをしたが、悲痛なメールが一通、ブダペストで会ったライダーの市川君から届いた。彼は今、標高の高いトルコ東部にいるのだ。
 「ドウバヤジットが気に入ってしばらく居たら、あっという間に雪と氷の世界になってしまいました。路面凍結で転倒の連続、苦戦しています。はたして脱出できるか・・・?」
 市川君、無事に下ってくれ!そしてアンタルヤあたりでまた会おう・・・。

 コージ君は翌11月20日に22回目の誕生日を迎えるが、その日には彼も私も村上さんもドブロウニクを出てしまうので、前日の夜に祝うこととなった。生まれたのは早朝だというから、時差を加味すればむしろ正確かもしれない。彼はイスタンブールで誕生日を迎える予定だったが、我々の策略通り、ここで迎えることになってしまった。
 村上さんは朝に買った小魚を唐揚げにし、半分はビネガーで和えてマリネ風にしてくれた。そしていつものようにワインのボトルが開けられたが、みんな酒量は控えていた。このメンバーで飲むのも今夜が最後だが、明朝、コージ君の出発が早いのだ。

 20日の朝に起きると、すでにコージ君の姿はなかった。この間は前日の深酒がたたり、寝坊してサラエボ行きのバスを逃したが、今朝は無事に乗れたらしい。
 さて、あの嵐の日から1週間が経った。今日はちょっと風があるものの、空は晴れ渡り、海は穏やかだ。これならコージ君に続き、私と村上さんもドブロウニクを発つことができるだろう。

 午前中で根の生えかけた部屋を引き払い、夜まで松井さんの部屋に荷物とバイクを置かせてもらうことにした。そして村上さん、松井さんと一緒にバスに乗って旧市街へ行き、最後のインターネットとお茶をした。
 考えてみれば、バスに乗るのは初めてだった。いつもバイクで通っていた海岸通りだが、視点の高いバスの座席から見ると景色はまるで違って見えた。旧市街の帰り、夕陽が落ちようとしているアドリア海はどこまでも金色だった。今夜、あの向こうに行くのだ。

 フェリーは夜11時発なので、松井さんの部屋で最後の晩餐となった。
 考えてみればドブロウニク滞在中、初日を除き、松井さんとは毎日顔を合わせていた。ビーチで初めて会った日も夕陽が眩しかった・・・以来、彼女とはいろんな話をし、相談にも(偉そうに)のってあげた。このラブホテルみたいな部屋も、今ではかなり勝手を知ってしまった。
 そんなことを考えて夕食を食べていたら、目に涙が溜まった。しかし、そうさせたのは昨日のサバとアジで村上さんが作った煮付けがあまりにも美味しかったからだ。うっめー、マジうめー・・・村上さんの手料理も、今夜が最後。イタリア、ギリシャは物価が高いから、食生活が貧しくなるのを覚悟しなければならない。

 食後もお茶を飲みながら食卓を囲んでいたが、とうとう時間になった。
 ドウブロウニクの快適な日々に後ろ髪を引かれる思いもあったが、フェリーの長旅を前に、飛行機に乗る前のような高揚感もあった。
 しんみりと別れの言葉など言ってしまうと、きっと泣き出してしまうくらい松井さんは寂しそうだった。彼女はふたたび日本語のない生活に戻ってしまうのだ。
 「またね」とだけ言い残して、彼女の部屋を後にした。村上さんもフェリー乗り場まで乗せてあげたかったのだが、残念ながら荷物満載では無理。歩いてもらうことになった。

 フェリー乗り場に着くと、とんでもないバイクが停まっていた。英国車のトライアンフ・タイガーだが、今まで海外で見てきた何十人というライダーの中でも文句ナシに一番荷物が多い。後輪の両側に容量80リットルはあるアルミのボックスをつけ、キャリアの上には100リットルを優に超える風呂桶のようなボックス、さらにエンジンの両脇にも30リットルくらいのボックスをつけている。そのままだと自重でひっくり返ってしまうのか、サイドスタンドの下に角材を置いて高さを稼いでいた。ナンバープレートはスイスのものだ。
 ・・・ななな、なんだなんだ、このバイク!?引っ越しか?

 フェリーの中でバイクの持ち主と話をした。スイス人のマルセルとフラービアという夫婦で、半年前にスイスを出発して北欧、東欧と走り、私と同じく、これからアジア横断というところでアフガン情勢により道が断たれてしまった。これからギリシャへ渡ってどこかで冬を越し、来年の春を待つという。アジア横断が無事に果たせたらその後はオーストラリア、北南米と計4年かけて走る予定らしい。つまり二人乗りの世界一周、強力なライバルの出現なのだ。(今さら俺は何を言っているんだ?)

 何であんなに荷物が多いのかを聞くと、彼らは「居心地のいい」テントで過ごすのが好きらしく、そしてそれは長さ4メートル、幅2メートルあり、中では立って歩けて、しかも雨が降ったときのためにタープまで持っているという。そりゃテントというより、家じゃん!引っ越しというより、ヤドカリじゃん!パソコン一式を持った私や、スコップやサハラの砂を持った平野君も荷物が多い方だと思っていたが、上には上がいるのもだ。
 人が好きでやっていることに口を挟むものではないが、「いくらなんでも荷物を減らして方がいいんじゃない?」とヤンワリと言ってあげた。現に彼らはまだヨーロッパの舗装路しか走っていないが、早くもシートレールが折れ、ギリシャで修復する必要があるというのだ。そんなんじゃアジアや南米のダートでは持たないだろう。
 しかし、旦那さんのマルセルは荷物が多すぎるとは認めながらも、リア・サスペンションのスプリングを換え、フレームも補強を入れるから大丈夫だと胸を張って言った。私も人のことを言えないけど、マルセルはちょっと理屈っぽくて、サスペンションのストロークや車重などの数値を、計算機を持ち出して興奮気味に解説するのだ。
 私がたじろいでいたら、奥さんのフラービアが言った。「あの人、いつもああなの」・・・

 船はいつのまにかドブロウニク港を出ていた。私と村上さんが個室などとるわけもないが、オフ・シーズンなので客は少なく、長椅子に横になって眠れた。酔っ払ったバックパッカーがうるさかったのを別にすれば、船はたいして揺れもせず、快適な航海だった。
 今日わかったことだが、一週間前のあの嵐の夜、フェリーはやはり欠航になったらしい。もし無理して港に行っていたとしても、船には乗れなかったのだ。だからといって何も変わるわけではないが、なんとなく安心した。ドブロウニクに1週間長くいたことは、仕方のないことでもあったのだ。


3日間の走行距離       34.2キロ(計67436.5キロ)

出費                   32Kn   CD-Rディスク
     65Kn インターネット
     65Kn 飲食費
     15Kn はみがき、洗剤
     18Kn 切手、絵葉書
     490Kn 宿代(一週間分)
     55Kn ガソリン
     14Kn バス
     396Kn フェリー
計     1150Kn
(約17040円) 宿泊         Begovic Boarding House(18、19日)
イタリア行きのフェリー(20日)
インターネット    Dobrovnic Internet Center