11月は一年でもっとも天気の悪い月だとブランコが言っていたそうだが、まさにそんな感じで、来たころの青空が嘘のように曇天が続いている。しかも今日は小雨に加え、風がひどい。地面に置いたヘルメットが転がるほど強かった、あの南米・パタゴニアの暴力的な風を思わせる。
イタリア行きのフェリーは今夜遅くに出る。午前中に部屋を明け渡し、荷物を預けて時間つぶしのために旧市街方面へと向かった。
そして、ふと思った。こんな風なら海はどんなだろう?確かめるため、街を見渡せる小さな岬に行ってみる。
すると、眼下にこんな光景が広がった。
いつもは和やかなビーチも小舟のための桟橋も、みんな海に飲まれていた。湾の入り口に立ち塞がる、高さ6、7メートルの岩のてっぺんまで波に洗われている。巨大な波は旧市街がのっかっている絶壁に容赦無くぶつかり、腹に響くような破裂音とともに飛沫が風にのって降ってくる。いつもは深い青のアドリア海も、今日ばかりは砕けた波頭で真っ白だ。
まさに椎名誠がわざわざ八丈島まで見に行ったという「どっかん波」だ。彼ほどじゃないけど、大きな波を見ているのは楽しい。猛々しい海の怒りは、安全なところから見ている分には飽きることがない。
しかし、こんなんで今夜のイタリア行きのフェリーはどうなるのだ?宿のおばさんによると欠航はまず無いそうだが、相当の揺れと船酔いを覚悟しなければいけないだろう。
やれやれ、厳しい船旅となりそうだ。しかし、それまでにはまだ相当時間があるので小雨の降る旧市街をとぼとぼ歩いた。ほかにすることが無いのだ。
最後のインターネットをするには時間がまだ早い。日本との時差が8時間あるから、夕方以降にやったほうが今夜書かれた分のメールも読める。かといって松井さんの部屋にずっといるわけにもいかない。日本語に飢えている松井さんは「全然かまわない」というが、やはりブランコの手前、彼の理解できない日本語で会話をするのは気がきける。そうでなくても彼らに残された時間はわずかなのだから、できれば二人で過ごしてもらいたいのだ。
つるつるとよく滑る石畳の裏通りを歩くと、実に猫が多い。そして彼らは総じて人懐っこく、愛嬌がある。猫好きな人にはたまらない街だ。
しばらく歩いて一軒のカフェに入り、カプチーノを飲みながら先日交換した文庫本を読んだ。そして午後4時になったので「そろそろいいかな」とインターネット屋に向かった。正真正銘、最後のネットだ。
すると、ブダペストでずっと一緒だった村上さんからメールが来ていた。彼はシシリアの南に位置するマルタ島(マルタ共和国)を目指しているが、ブダペストからの航空券は法外に高く、あきらめて列車とバス、そしてフェリーで行くことにしたという。「つきましてはドブロウニクからイタリア行きのフェリーの情報を教えてください」ということだった。
ふーん、村上さんもここに来るんだ。その時は深く意識せず、フェリーの情報に「私はその船で今夜、イタリアに渡ります」とつけ加えて返信した。
インターネットをした後、雨足が強くなった。その中を船上で食べるための食料を買いにスーパーへ向かう。しかし、スーパーの前まで来て疑問がわいた。「俺はどうしても今夜行かねばならないのか?」
フェリーは週1便。今夜出ないと1週間ドブロウニクにいる事になるが、残る理由と出る理由をそれぞれあげてみた。
まず残る理由。今夜は海が荒れていて船に酔うだろう。そしてドブロウニクはとてもいい街だ。インターネットにも困らないし、猫も多いし、宿の部屋は快適だ。松井さんも昨日の4人組もいるし、あと数日すれば村上さんとも再会できるだろう。
それに対して、出る理由。冬が迫ってきているのでなるべく早く南下した方がよい・・・以上、おしまい。
急いで下っても、標高の高い北部ギリシャや東部および内陸部のトルコを見るにはすでに遅い。どうせ適当な場所をみつけて越冬するつもりだったから、もう急ぐ理由など無いのではないか?地中海沿いを走るのであれば冬でも大丈夫だろう。
同じ部屋がまだ空いていたら残ろう、うまっていれば潔く船に乗ろう、と決めて宿に引き返す。すると、あの6畳キッチンつきの部屋は新しい主の来ないまま私を待っていた。
「もう1週間ここにいます」と宿のおばさんに告げると、彼女も「そうした方がいい。今夜の船はダメだよ」と言った。宿には他にもイタリア行きを見合わせた白人のカップルがいた。
別れを告げるために、夜、部屋に行くと松井さんに伝えてあったが、それは「これからもよろしくお願いします」という挨拶にかわってしまった。
そして私の判断は正しかった。松井さんの手元には日本から文庫本が何冊も届き、もちろんそれらは私も借りることができる。そして私の宿まで帰れなくなるほど雨と風が一層激しくなった。雨粒は窓ガラスをたたき、風は家を揺らし、稲光は暗闇に稜線を浮かびあがらせた。もしこれで「行く」と決めていたら、私はこの嵐の中、埠頭でフェリー乗り込みの順番待ちをしていたのだ。
はーっはっはっは、ざまーみろ!松井さんの部屋は快適だ!(誰に対して言ってんだ?)
そんな訳でドブロウニクに残留。はやく村上さん来ないかな・・・。
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