旅の日記

ボスニア・ヘルツェゴビナ編(2001年11月8〜10日)

2001年11月8日(木) 戦争と平和のコントラスト(City of Sarajevo)

 バイクをドブロウニクに置いて、バスでボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボまで行ってみることにした。バイクでも行けるのだけどサラエボの標高は500メートル以上で、それまでにさらに高い峠をいくつも越えなければならない。寒いのは嫌なのだ。
 プライベートルームのおじさんは快くバイクと不要な荷物を預かってくれたばかりか、「空室あり」というプラカードを持って客引きに行くついでに車でバスターミナルまで送ってくれた。

 タンクバッグと南米で買った小さな布のバッグ、そして寝袋だけを持って(今度は絶対に無くさないぞ)、朝8時発のバスに乗った。後で気づいたのだが、バスのチケットを往復で買うのを忘れてしまった。往復で買えば安くなるはずと、せっかくブランコが教えてくれたのに・・・。

 バスは6時間かけて山を登り谷を越え、国境を抜けてボスニアに入国し、内戦の傷跡が深く残るモスタルの街に立ち寄ったのち、サラエボに到着した。私は2回あった休憩時間も外に出ず、村上春樹の「スプートニクの恋人」と「地球の歩き方・中欧」のボスニア編を読む以外は、ずっと寝ていた。しかし、たまに車窓から見た山々は紅葉がきれいだった。
 バスターミナルにはドブロウニクのおじさんが紹介してくれた、やはりサラエボでプライベートルームを営む女性が迎えにきてくれた。彼らは国際的に同盟を結び(結託ともいう)、自分の所に泊まった客を紹介し合うのだ。自分の足で、少しでも条件のいいところを探したい人にはおせっかいかもしれないが、私のように一定金額以下ならそんなにこだわらない人には宿探しの手間が省けて嬉しい。

 その女性は50代にしか見えなかったが、実は69歳だと後でわかった。それほど元気で、「やりすぎと違うか」と思うほど明るくて愛想がいい。英語はほとんど話せないのだが、ボスニア語でどんどん話しかけてきて、そして一人で笑う。どうやら、ボスニアにいる間は私があなたの「ママ」で、あなたは私の「ベイビー」ということらしい。「わかったわかった」というと、彼女は「アハハハ」と私の頭をくしゃくしゃにして撫でた。ううむ、リアクションに若干困る。
 それというのもヒロ君から、サラエボにはプライベートルームを営む邦人男性狂いのおばちゃんがいて、異常に愛想とサービスが良いかわりに迫られるんだそうな・・・。それで、ちょっと警戒してしまったのだ。
 しかし、そんなことは全くなかった。彼女は一人暮しの年金生活者で、月200マルク(約11000円)の年金ではとても生きていけないからプライベートルームをやっているという。もともと明るくてやさしいおばちゃんなのだ。ただ、旦那さんのことを話すときだけ顔が暗くなった。「夫はね・・・」と彼女はいい、首を吊るジェスチャーをした。内戦の時らしいが、それ以上はとても聞けなかった。

 彼女の家は戦闘の激しかったグルバビッツア地区にあった。ここはサラエボを3年半にわたって包囲 したセルビア軍の前線があったところで、立ち並んだ高層マンションは廃墟と化し、人が住んでいる棟にも銃弾や砲撃の跡が残っている。復旧は行われているが、まだまだ時間はかかりそうだ。

 おばちゃんにお茶を出してもらったりしていたら午後3時をまわり、はやくも暗くなり始めてきた。サラエボは思ったより寒くはないが、見所の集まる旧市街は遠く、観光は明日からにして近所をブラブラすることにした。

 ここでサラエボ、ひいてはボスニア・ヘルツェゴビナで何が起きたのか、簡単に説明しなくてはならない。ここで大変な紛争が起きたというのは知っていても、それが何だったのかはみんな意外と知らない。それほど複雑であるし、日本ではあまり詳しく報道されなかったから。(南米で読んだ落合信彦の本に、ボスニアやユーゴで忌々しき事態が起こっていて、セルビア勢力なんてムスリム人女性に無理やり自分たちの子供を生ませるための「レイプ収容所」なんかを作ってナチスまがいの悪行が横行しているのに、日本のマスコミは矢がささった「矢ガモ」をトップで扱っていた、と嘆いているものがあった。そりゃ嘆くわな)


  ・・・むかしむかし、といっても1991年までだけど、ユーゴスラビアという国がありました。今では便宜上「旧ユーゴ」といわれるその国はけっこう広く、スロベニアやクロアチア、ボスニア、セルビア(今でいうユーゴスラビア)なんかも、みんなみんな含まれていて、それはそれは色んな民族、宗教(イスラム教徒の人もいたのです)が入り混じった大変な国だったんですが、チトー将軍という人がうまくまとめていました。
 彼はもっとむかし、この地を支配したナチス・ドイツに対抗して共産ゲリラ・パルチザンを組織した人でした。ナチスはクロアチア人による傀儡政権を置き、彼らはユダヤ人とともにセルビア人を迫害、多くの人命が強制収容所で奪われたのです。
 ナチスが戦争に敗れると当然、チトーは英雄として大統領になりました。しかし彼の何がすごいかって、彼は国に社会主義体制をしいたのですが、かといってソ連に迎合するわけでもなく、もちろんアメリカの言いなりになるわけもなく、東西冷戦の中でフランク・シナトラばりに「わが道〜My Way」を歩んでいたのです。
 だけど、そんなチトーさんも寄る年波には勝てず、1980年に87歳で帰らぬ人に。すると、強力すぎるリーダーがいなくなった時の歴史は繰り返されるもので、やはり国はまとまらなくなってきました。

 追い討ちをかけるように東西ドイツが統一、ソ連が崩壊、東欧に民主化の大波がビッグ・ウェンズデー、あるいは稲村ジェーンのように押し寄せました。当時(といっても今もだけど)ユーゴスラビアは経済的にうまくいっていなく、国内で大きな経済格差があったのですが、一番のお金持ちのスロベニアがとうとう1991年、「これ以上つきあってられん。いち抜けた!」と独立を宣言してしまいました。
 時同じくしてクロアチアも独立宣言をしたのですが、クロアチアの中にはユーゴに残りたいセルビア人たちもいて、当然ユーゴスラビアも彼らを支援。両者間の戦火は各地に広がりました。

 しかし、一番ややこしくなってしまったのがボスニア・ヘルツェゴビナで、やはり1992年に独立宣言はしたものの、それまで仲良く一緒に住んでいたセルビア人とクロアチア人、そしてイスラム教徒のムスリム人が対立し始めました。クロアチア人とムスリム人が独立推進派、セルビア人が反対派だったのです。
 最初はクロアチア+ムスリム対セルビアの真っ二つ、と思われましたが、いつのまにか三つ巴の泥試合に。それまではお隣さんに誰が来ようが仲良くなっていた人たちなのに、領土をはっきり示すため、自分たち以外の民族を追放したり殺したりする「民族浄化」を行うようになりました。チトー政権下では押さえられていた民族的感情、ナチス時代にクロアチア人がセルビア人を迫害した恨みつらみなんかが爆発してしまったのです。
 中東もそうですけど、あの大戦がまだここでも尾を引いているのです。本当に、あの戦争から人類は何を学んだのか?という疑問がわきますね。

 ボスニアの首都サラエボは20万人の市民を抱えたまま、対立の始まった当初からセルビア人に包囲されていたのですが、1992年4月にボスニアの独立宣言をECとアメリカが承認すると、キレたセルビア人たちは攻撃を開始。包囲網の外からライフルや迫撃砲で市民を狙い始めました。
 実は、ここんとこが私もよくわからないのですが、この時、サラエボにはセルビア系住民もいたんです。もちろんクロアチア人とムスリム人と一緒に。包囲の中では民族を越えてサラエボ市民としての団結があり、民族対立はほとんど無かったそうなのですが、包囲していたセルビア勢力とサラエボにいたセルビア系住民の関係はどうなってたんでしょうかね?セルビア勢力は同胞を苦しめていたことになるでしょ?

 まあとにかく、「おいおい、ちょっとまずいんでないかい」と国連軍が平和維持のためにサラエボにやってきますが、大して事態は解決されず、1995年にアメリカとNATOが本腰を入れて「おまえら、いいかげん仲直りせんか」とやるまでの3年半、包囲されつづけたサラエボ市民はガスや電気、水道の止まったまま、わずかな救援物資を公園の木を切り倒した燃料で調理し、狙撃手の弾に怯えながら川の水を汲んで暮らしたのです。
 そんな彼らにセルビア人は執拗に攻撃を続け、12000人もの市民(老人、子供を多く含む)が犠牲になったのです。一説によると、セルビア人がサラエボ市民一人あたりに使用した弾薬の量は10キログラムになったといいます。

 1995年12月、ようやく和平案が正式に調印され、セルビア人の「セルビア共和国」とクロアチアとムスリムの「ボスニア連邦」からなる新ボスニア・ヘルツェゴビナがスタートし、戦後の復興に向けて仲良くやっていきましょうや、ということになったのです、一応。この内戦によって奪われた尊い命の数は、20万を超えました。(はー、書いていて疲れた)


 ・・・内戦中、市民の貴重な水源となったミリャツカ川を渡り、北岸の「スナイパー通り」を歩いてみた。
 サラエボを東西に貫くこの大通りは、セルビア勢力にとって射的台のようなものだった。サラエボ市民は生活のために通らねばならないが、川の対岸、高層マンションに潜んだセルビアの狙撃手(スナイパー)は、通りを歩く者、子供や老人に至るまで全てをライフルの標的にしたのだ。
 今は片側3車線にひっきりなしに車が通り、市民を満載した路面電車が走る、何の変哲もない大通りだ。

 東に向かってずっと歩いて行くと、世界中のジャーナリストの溜まり場になったホリデー・インが見えてきて(内戦中もずっと営業していたのだ!)、その反対側には破壊された旧共和国議会ビルがあった。窓ガラスはほとんど割れ、わき腹には大砲が開けた穴があった。だけど目の前の通りには、今更そんなものに見向きもしない市民が歩いている。
 グルバビッツア地区のマンションもそうだったけど、今でも当たり前のように、市民の生活と戦争の傷跡が同居しているのだ。

 それは奇妙な空間だった。「戦争」の対義語は「平和」になると思うが、その二つの強いコントラストが5年以上たった今でも、というより、今だからこそ見られるのだ。
 世界のどこでも、戦争が終わったばかりの場所に行けば、殺戮の傷跡とともに生活を取り戻した市民の姿も見ることができるだろう。しかし、そこには人々の嘆きや悲壮感とか、逆に無理やりな明るさとかが見られると思うのだ。それは、まだ日常を取り戻していない状態だ。

 しかし旅行者の目には見えにくい苦労や、緊張はまだあると思うのだが、サラエボの廃墟の前には高級ドイツ車が走り、若者はおしゃれな服を着てごくフツーに歩いている。まるで「廃墟?あ、そういえばまだあるわね」ぐらいの感じで。
 街の復興は遅れているが、サラエボっ子はコスモポリタンとしての生活を(外見上)すでに取り戻しており、そのギャップが「戦争」と「平和」の強いコントラストを感じさせるのだ。平たくいえば「生々しく廃墟が残っている割には、けっこうみんな近代的な生活をしてんじゃん」ということ。これがもっと先進国だったりすると廃墟はすでに影も形も無いだろうし、発展途上国であれば復興はさらに遅れているだろう。今のサラエボは、そのちょうど中間あたりに位置している気がする。
 ううむ・・・サラエボ、やっぱり来て良かった。不謹慎だが、この街は面白い。

 ナン生地に肉を挟んだチェバプチチをスタンドで買って、食べながら宿に帰った。旧市街までは遠いが、近くには24時間営業のスーパーもあって、まずまず便利な所だ。


本日の走行距離           0キロ(計67300.8キロ)

出費                  360Kn   ドブロウニクの宿代(4泊)
     160Kn バス代
     60Km サラエボの宿代(2泊、朝食つき)
     5Km タクシー
     2Km 夕食(チェバプチチ
     2.4Km トラムの切符
     7Km 食材の買物
計     520Kn
(約7700円)      76.4Km(1ドル=約2.2兌換マルク、約4170円) 宿泊         Taibaさんの家


2001年11月9日(金) サラエボを歩く(Walking the city)

 朝からさっそくサラエボの観光をはじめた。
 トラム(路面電車)に乗って旧市街へ行き、まずは「お約束」のラティンスキー橋を見に行った。何の変哲もない石橋だが、1914年、ここから第一次世界大戦がはじまったのだ。

 当時、ボスニアはオーストリア・ハンガリー二重帝国の支配下にあったが、その皇太子夫妻がサラエボを訪れたときに、この橋のたもとでボスニアの解放と南スラブ国家の統一を望む青年に暗殺されたのだ。彼がセルビア人秘密結社のメンバーだったことから、「こりゃ絶対、本国が裏で糸をひいてるだろ」とオーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告。「ちょっとまて。うちの若いもんが勝手なマネをしただけで・・・」という説明が通じるほど世間は甘くなく、そのまま戦火はヨーロッパ全土に広まったのだ。
 本当に、サラエボは色んな人や民族にとって因縁の場所なのだ。

 その後はバシチャルシャという旧市街の中心を歩いた。古い石畳の街で、立ち並ぶ赤い屋根の平屋建てには革製品、金物、貴金属などを扱う商店が入っている。サラエボでも最もツーリスティックなところだ。
 このあたりはムスリム(イスラム教徒)のエリアらしく、道を一本挟めば思いっきりヨーロッパ調の重厚な建物が並んでいるのに、ここではモスクの塔からアザーン(祈りの呼びかけ)が聞こえてくる。
 カフェも多いが、コーヒーは粉をドバドバ入れて煮詰め、その上澄みだけを飲むトルコ式。これもイスラムチックな雰囲気を出している。

 しかし肝心のムスリムは、中東のように一目見て「イスラム教徒!」という感じがしない。敬虔な女性信者はスカーフを巻いていたりするが、ほとんどの人はそこまでせず、ビールを飲んでしまう人もいるらしい。民族的にいうと彼らはオスマン・トルコの支配下で改宗したクロアチア人であり、なかなか見た目だけでは判別できない。なんとも不思議なイスラム街なのだ。

 その後は青空市場に行った。「青空」といっても今では立派な屋根が全体を覆っており、その黄色い鉄柱や売られている果物のおかげでとてもカラフルな印象を受けた。まぶしいくらいである。
 溢れる買物客、活気ある呼び込みの声、ふざけてピーナッツを投げ合う果物屋のオヤジ・・・とても内戦中、セルビアの迫撃砲弾が落ち、一瞬にして70人近い犠牲者が出た現場とは思えない。
 事件から7年。ここまで来るのに、市場の人々の並々ならぬ苦労と努力があったに違いない。

 旧市街の後はサラエボ・オリンピックの施設に寄ってみた。そう、サラエボは1984年、冬季五輪が開催されたほどの近代都市だったのだ。
 大きなスタジアムの横、かつて補助グラウンドだったところは見渡す限り墓標が並んでいた。包囲による犠牲者があまりに多く、そして遺体を郊外の墓地に運ぶこともままならず、人々はこのグラウンドを墓地にしたのだ。
 そういえばバスが立ち寄ったモスタルでも、墓地が内戦の悲惨さを物語っていた。従来の墓地だけではとても足りず、ちょっとした道路わきの空き地にも墓標が並んでいた。いつの時代も、戦争が増やすのは悲しみと憎悪、墓標の数と武器商人の財産だ。

 昼食はブーレックという、ひき肉を薄いパイ生地で包んで焼いたものを食べた。直径2、3センチの筒が何本も横に並んだ感じで、形はビーチで使うエア・マット、食感は餃子に似ていた。ラー油を垂らしたしょうゆとカラシで食べたかった・・・。

 夕食はおばちゃんがサービスでスープを作ってくれた。そして、彼女がムスリムであることが判明した。本当に見た目だけでは全くわからない。スカーフは巻かないし、一日に5度だというお祈りはしている様子も無いし・・・。(自分の部屋でひっそりとやっているのかもしれないが)
 夜になって激しい雨が降りだした。その音を聞きながら日記を打つ。サラエボは書くことが多すぎるので、パソコンをわざわざ持ってきて良かった。


本日の走行距離           0キロ(計67300.8キロ)

出費                  1.5Km   みかんとバナナ
     1Km コーヒー
     5Km 生ハム(買いすぎた!)
     2Km 昼食(ブーレック)
計     9.5Km
(約520円) 宿泊         Taibaさんの家


2001年11月10日(土) 気合の入った新聞社(Sarejevo's toughest newspaper)

 サラエボは意外と温かいと思っていたが、昨夜降った雨は街を一気に冷やし、今朝は凛とした寒さになった。やっぱりバイクで来なくて良かった。
 今日は宿から約4キロ離れた「オスロボジェーネ」新聞社を見に行くことにしたが、それでも歩いて行くのは苦にならないと思っていた。
 しかし、いざ歩き始めると予想以上に寒さがこたえる。腕時計を見ると気温は摂氏1.4度。吐く息はエクトプラズムのようで、人より大きく露出した耳の先はジンジンと痛む。東京でいえば真冬の寒さだ。

 スナイパー通りを旧市街とは反対に一時間ほど歩くと、ようやくその廃墟は見えてきた。中央のタワーが倒れていないのが不思議なほど、まわりの部分は原型がまったくわからないほどに破壊されている。これがサラエボの地元紙「オスロボジェーネ」の元社屋だ。
 この新聞社は内戦中(そしてきっと今も)、かなり気合の入った新聞社だった。社屋はこのとおり破壊されたが、それでも社員は地下室に避難し、そこで一日も休まずに新聞を発行し続けたのだ。サラエボ市民を励まし続けたその紙面は「水と同じぐらい」、人々の必需品だったという。

 おばちゃんの家に、この新聞社のカメラマンの写真集があった。命がけで撮り続けた包囲下のサラエボ・・・銃弾に追われ、スナイパー通りを走って逃げる市民。迫撃砲の犠牲になった人々の遺体。形見となった軍帽を被り、泣きながら父親の葬儀に参列する少年。雪に覆われた見渡す限りの墓地を、花を持って歩く男性の背中。彼の写真は「オスロボジェーネ」のみならず世界中のメディアで使用された。
 撮る人も書く人も、編集する人も印刷する人も、みんな「特攻」とか「喧嘩上等」とは背中に書いてなくても気合が入っていたのだ。新聞業にちょっとだけでも携わった身としては、敬意を表さずにはいられない。

 ちなみに私のいた新聞社も「有事の時の取り決め」みたいなのがあって、社から何キロ以内に住んでいると交通機関がどうなろうが出社しなければならない、というのがあったと思うが、たしか私はそれに該当していて「ゲッ、マジかよ」とか思った記憶がある。何かあったら会社が休みだと期待してしまうヘタレ新聞社員とは、「オスロボジェーネ」の人たちは違うのだ。
 ついでに書くと私は記者ではなく、新規事業の部署で演劇のプロモーションや衛星版新聞の発行に携わっていたのだ。だから職業的文章書きではなく(たまにちょこっとだけ書いたが)、「新聞記者のくせに文章が稚拙だ」と思われても、それは寿司屋の女将に「あんたの握った寿司はまずい」と言っているようなものである。あしからず。

 寒さに耐えながら廃墟を見上げ、異国の新聞人のガッツを感じたあとはトラムに乗って旧市街へ。
 観光も一通り終わったのでプラプラしようと思ったが、やっぱり寒い。チェバプチチを食べて体を温めるが、またしばらく歩くてカフェに入ってしまった。地元の人もこんな土曜日はカフェにいるぐらいしかすることがないみたいで、決して間違った午後の過ごし方ではないらしい。

 夜はまたおばちゃんがスープを作ってくれた。
 こっちの言葉で「OK」は「タコ」というそうで、それは彼女の口癖でもある。「タコタコ」をジャブのように短く繰り返すのもあれば、「タ〜コ!」とロングフックのように伸ばすのもあり、その響きだけを聞くとバカにされているような気分になる。もちろん彼女にそんなつもりは微塵たりとも無いが。
 彼女は本当に親切で、部屋もピカピカ、シーツも毎日替えてくれる。アパートの外観はボロいが、セントラルヒーティングは暑いくらいに効いている。夜の室内はドブロウニクより快適なのだ。


本日の走行距離           0キロ(計67300.8キロ)

出費                   30Km   宿一泊追加
     1.2Km トラム
     2Km コーヒー
     5Km 昼食(チェバプチチ)
     4.6Km ワインとブランデーの小瓶
計     42.8Km
(約2330円) 宿泊         Taibaさんの家