バイクをドブロウニクに置いて、バスでボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボまで行ってみることにした。バイクでも行けるのだけどサラエボの標高は500メートル以上で、それまでにさらに高い峠をいくつも越えなければならない。寒いのは嫌なのだ。
プライベートルームのおじさんは快くバイクと不要な荷物を預かってくれたばかりか、「空室あり」というプラカードを持って客引きに行くついでに車でバスターミナルまで送ってくれた。
タンクバッグと南米で買った小さな布のバッグ、そして寝袋だけを持って(今度は絶対に無くさないぞ)、朝8時発のバスに乗った。後で気づいたのだが、バスのチケットを往復で買うのを忘れてしまった。往復で買えば安くなるはずと、せっかくブランコが教えてくれたのに・・・。
バスは6時間かけて山を登り谷を越え、国境を抜けてボスニアに入国し、内戦の傷跡が深く残るモスタルの街に立ち寄ったのち、サラエボに到着した。私は2回あった休憩時間も外に出ず、村上春樹の「スプートニクの恋人」と「地球の歩き方・中欧」のボスニア編を読む以外は、ずっと寝ていた。しかし、たまに車窓から見た山々は紅葉がきれいだった。
バスターミナルにはドブロウニクのおじさんが紹介してくれた、やはりサラエボでプライベートルームを営む女性が迎えにきてくれた。彼らは国際的に同盟を結び(結託ともいう)、自分の所に泊まった客を紹介し合うのだ。自分の足で、少しでも条件のいいところを探したい人にはおせっかいかもしれないが、私のように一定金額以下ならそんなにこだわらない人には宿探しの手間が省けて嬉しい。
その女性は50代にしか見えなかったが、実は69歳だと後でわかった。それほど元気で、「やりすぎと違うか」と思うほど明るくて愛想がいい。英語はほとんど話せないのだが、ボスニア語でどんどん話しかけてきて、そして一人で笑う。どうやら、ボスニアにいる間は私があなたの「ママ」で、あなたは私の「ベイビー」ということらしい。「わかったわかった」というと、彼女は「アハハハ」と私の頭をくしゃくしゃにして撫でた。ううむ、リアクションに若干困る。
それというのもヒロ君から、サラエボにはプライベートルームを営む邦人男性狂いのおばちゃんがいて、異常に愛想とサービスが良いかわりに迫られるんだそうな・・・。それで、ちょっと警戒してしまったのだ。
しかし、そんなことは全くなかった。彼女は一人暮しの年金生活者で、月200マルク(約11000円)の年金ではとても生きていけないからプライベートルームをやっているという。もともと明るくてやさしいおばちゃんなのだ。ただ、旦那さんのことを話すときだけ顔が暗くなった。「夫はね・・・」と彼女はいい、首を吊るジェスチャーをした。内戦の時らしいが、それ以上はとても聞けなかった。
彼女の家は戦闘の激しかったグルバビッツア地区にあった。ここはサラエボを3年半にわたって包囲
したセルビア軍の前線があったところで、立ち並んだ高層マンションは廃墟と化し、人が住んでいる棟にも銃弾や砲撃の跡が残っている。復旧は行われているが、まだまだ時間はかかりそうだ。
おばちゃんにお茶を出してもらったりしていたら午後3時をまわり、はやくも暗くなり始めてきた。サラエボは思ったより寒くはないが、見所の集まる旧市街は遠く、観光は明日からにして近所をブラブラすることにした。
ここでサラエボ、ひいてはボスニア・ヘルツェゴビナで何が起きたのか、簡単に説明しなくてはならない。ここで大変な紛争が起きたというのは知っていても、それが何だったのかはみんな意外と知らない。それほど複雑であるし、日本ではあまり詳しく報道されなかったから。(南米で読んだ落合信彦の本に、ボスニアやユーゴで忌々しき事態が起こっていて、セルビア勢力なんてムスリム人女性に無理やり自分たちの子供を生ませるための「レイプ収容所」なんかを作ってナチスまがいの悪行が横行しているのに、日本のマスコミは矢がささった「矢ガモ」をトップで扱っていた、と嘆いているものがあった。そりゃ嘆くわな)
・・・むかしむかし、といっても1991年までだけど、ユーゴスラビアという国がありました。今では便宜上「旧ユーゴ」といわれるその国はけっこう広く、スロベニアやクロアチア、ボスニア、セルビア(今でいうユーゴスラビア)なんかも、みんなみんな含まれていて、それはそれは色んな民族、宗教(イスラム教徒の人もいたのです)が入り混じった大変な国だったんですが、チトー将軍という人がうまくまとめていました。
彼はもっとむかし、この地を支配したナチス・ドイツに対抗して共産ゲリラ・パルチザンを組織した人でした。ナチスはクロアチア人による傀儡政権を置き、彼らはユダヤ人とともにセルビア人を迫害、多くの人命が強制収容所で奪われたのです。
ナチスが戦争に敗れると当然、チトーは英雄として大統領になりました。しかし彼の何がすごいかって、彼は国に社会主義体制をしいたのですが、かといってソ連に迎合するわけでもなく、もちろんアメリカの言いなりになるわけもなく、東西冷戦の中でフランク・シナトラばりに「わが道〜My
Way」を歩んでいたのです。
だけど、そんなチトーさんも寄る年波には勝てず、1980年に87歳で帰らぬ人に。すると、強力すぎるリーダーがいなくなった時の歴史は繰り返されるもので、やはり国はまとまらなくなってきました。
追い討ちをかけるように東西ドイツが統一、ソ連が崩壊、東欧に民主化の大波がビッグ・ウェンズデー、あるいは稲村ジェーンのように押し寄せました。当時(といっても今もだけど)ユーゴスラビアは経済的にうまくいっていなく、国内で大きな経済格差があったのですが、一番のお金持ちのスロベニアがとうとう1991年、「これ以上つきあってられん。いち抜けた!」と独立を宣言してしまいました。
時同じくしてクロアチアも独立宣言をしたのですが、クロアチアの中にはユーゴに残りたいセルビア人たちもいて、当然ユーゴスラビアも彼らを支援。両者間の戦火は各地に広がりました。
しかし、一番ややこしくなってしまったのがボスニア・ヘルツェゴビナで、やはり1992年に独立宣言はしたものの、それまで仲良く一緒に住んでいたセルビア人とクロアチア人、そしてイスラム教徒のムスリム人が対立し始めました。クロアチア人とムスリム人が独立推進派、セルビア人が反対派だったのです。
最初はクロアチア+ムスリム対セルビアの真っ二つ、と思われましたが、いつのまにか三つ巴の泥試合に。それまではお隣さんに誰が来ようが仲良くなっていた人たちなのに、領土をはっきり示すため、自分たち以外の民族を追放したり殺したりする「民族浄化」を行うようになりました。チトー政権下では押さえられていた民族的感情、ナチス時代にクロアチア人がセルビア人を迫害した恨みつらみなんかが爆発してしまったのです。
中東もそうですけど、あの大戦がまだここでも尾を引いているのです。本当に、あの戦争から人類は何を学んだのか?という疑問がわきますね。
ボスニアの首都サラエボは20万人の市民を抱えたまま、対立の始まった当初からセルビア人に包囲されていたのですが、1992年4月にボスニアの独立宣言をECとアメリカが承認すると、キレたセルビア人たちは攻撃を開始。包囲網の外からライフルや迫撃砲で市民を狙い始めました。
実は、ここんとこが私もよくわからないのですが、この時、サラエボにはセルビア系住民もいたんです。もちろんクロアチア人とムスリム人と一緒に。包囲の中では民族を越えてサラエボ市民としての団結があり、民族対立はほとんど無かったそうなのですが、包囲していたセルビア勢力とサラエボにいたセルビア系住民の関係はどうなってたんでしょうかね?セルビア勢力は同胞を苦しめていたことになるでしょ?
まあとにかく、「おいおい、ちょっとまずいんでないかい」と国連軍が平和維持のためにサラエボにやってきますが、大して事態は解決されず、1995年にアメリカとNATOが本腰を入れて「おまえら、いいかげん仲直りせんか」とやるまでの3年半、包囲されつづけたサラエボ市民はガスや電気、水道の止まったまま、わずかな救援物資を公園の木を切り倒した燃料で調理し、狙撃手の弾に怯えながら川の水を汲んで暮らしたのです。
そんな彼らにセルビア人は執拗に攻撃を続け、12000人もの市民(老人、子供を多く含む)が犠牲になったのです。一説によると、セルビア人がサラエボ市民一人あたりに使用した弾薬の量は10キログラムになったといいます。
1995年12月、ようやく和平案が正式に調印され、セルビア人の「セルビア共和国」とクロアチアとムスリムの「ボスニア連邦」からなる新ボスニア・ヘルツェゴビナがスタートし、戦後の復興に向けて仲良くやっていきましょうや、ということになったのです、一応。この内戦によって奪われた尊い命の数は、20万を超えました。(はー、書いていて疲れた)
・・・内戦中、市民の貴重な水源となったミリャツカ川を渡り、北岸の「スナイパー通り」を歩いてみた。
サラエボを東西に貫くこの大通りは、セルビア勢力にとって射的台のようなものだった。サラエボ市民は生活のために通らねばならないが、川の対岸、高層マンションに潜んだセルビアの狙撃手(スナイパー)は、通りを歩く者、子供や老人に至るまで全てをライフルの標的にしたのだ。
今は片側3車線にひっきりなしに車が通り、市民を満載した路面電車が走る、何の変哲もない大通りだ。
東に向かってずっと歩いて行くと、世界中のジャーナリストの溜まり場になったホリデー・インが見えてきて(内戦中もずっと営業していたのだ!)、その反対側には破壊された旧共和国議会ビルがあった。窓ガラスはほとんど割れ、わき腹には大砲が開けた穴があった。だけど目の前の通りには、今更そんなものに見向きもしない市民が歩いている。
グルバビッツア地区のマンションもそうだったけど、今でも当たり前のように、市民の生活と戦争の傷跡が同居しているのだ。
それは奇妙な空間だった。「戦争」の対義語は「平和」になると思うが、その二つの強いコントラストが5年以上たった今でも、というより、今だからこそ見られるのだ。
世界のどこでも、戦争が終わったばかりの場所に行けば、殺戮の傷跡とともに生活を取り戻した市民の姿も見ることができるだろう。しかし、そこには人々の嘆きや悲壮感とか、逆に無理やりな明るさとかが見られると思うのだ。それは、まだ日常を取り戻していない状態だ。
しかし旅行者の目には見えにくい苦労や、緊張はまだあると思うのだが、サラエボの廃墟の前には高級ドイツ車が走り、若者はおしゃれな服を着てごくフツーに歩いている。まるで「廃墟?あ、そういえばまだあるわね」ぐらいの感じで。
街の復興は遅れているが、サラエボっ子はコスモポリタンとしての生活を(外見上)すでに取り戻しており、そのギャップが「戦争」と「平和」の強いコントラストを感じさせるのだ。平たくいえば「生々しく廃墟が残っている割には、けっこうみんな近代的な生活をしてんじゃん」ということ。これがもっと先進国だったりすると廃墟はすでに影も形も無いだろうし、発展途上国であれば復興はさらに遅れているだろう。今のサラエボは、そのちょうど中間あたりに位置している気がする。
ううむ・・・サラエボ、やっぱり来て良かった。不謹慎だが、この街は面白い。
ナン生地に肉を挟んだチェバプチチをスタンドで買って、食べながら宿に帰った。旧市街までは遠いが、近くには24時間営業のスーパーもあって、まずまず便利な所だ。
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