旅の日記

クロアチア編その2(2001年11月4〜7日)

2001年11月4日(日) アドリア海の真珠(The "Pearl" of Adriatic sea)

 スプリットを後にし、約200キロ南のドブロウニクを目指す。
 このアドリア海沿いのハイウェイは、世界でも有数の好ツーリング・ルートだ。左手には乾いた岩肌を剥き出しにした山々が迫り、右手には吸い込まれそうな、深い青い水をたたえた海が広がる。複雑な海岸線はカーブの連続で、走る者を飽きさせない。見晴らしの良いところには必ずパーキングがあり、バイクを停めて雲ひとつない青空のもと、どこまでも続く海岸線を眺めた。ライダー冥利に尽きる日曜日である。

 200キロの道のりを一歩一歩踏みしめるように走り、午後2時前、「アドリア海の真珠」といわれるドブロウニクに到着した。中世時代にはベネチアと並ぶ海上貿易都市として栄えた街で、当時の面影を強く残す旧市街は世界遺産にも登録されている。
 実は、私は前もって「あれを見よう」とか「ここへ行ってみよう」とか、計画を立てる方ではない。ガイドブックの類も、その場所が近づかないと開かないたちだ。(だから行く季節を間違えてしまったりするのだけど)
 そんな私が前もって「行きたい」と思った数少ない場所の一つに、このドブロウニクがあった。アドリア海に突き出た城砦都市の写真は、まるで宮崎駿のアニメの世界だった。

 ドブロウニクはクロアチアの南のどん詰まりに位置し、ここからギリシャやトルコに向けて下ろうとすると、ユーゴスラビア、アケドニア、あるいはアルバニアといった国々を通らなければならない。行けないことはなく、実際走ったライダーや、バスや列車で抜けたバックパッカーもいるのだが、私の感覚からするとやはり現実的ではない。するとドブロウニクからイタリア経由でギリシャまでフェリーで渡ることになり、時間もお金もかかるが、それでも訪れる価値があると思ったのだ。

 たいていの古都がそうであるように、ドブロウニクも新市街と旧市街に分かれている。まずは昨夜、スプリットのプライベートルームのお爺さんが紹介してくれた宿に向かった。
 指示されたとおりに新市街の郵便局から電話をすると、やはり初老の男性(プライベートルームを営んでいる人たちは、お年寄りが実に多い)が白いフォルクスワーゲンで迎えに来てくれた。彼についていくと、見晴らしの良い高台の上の新しい家についた。そこの一階を旅行者に開放しているらしい。
 宿には個室とドミトリーがあったが、ドミトリーといっても個室より狭い部屋にベッドを2、3詰め込んだだけで、ルームをシェアしている感覚だ。ドミトリーの先客は日本人の男の子だというが、4泊するという条件でダブルベッドに冷蔵庫つきの快適な個室の料金をまけてもらい、そっちに泊まることにした。

 部屋を確保したあと、さっそく街を見に行った。
 まずは旧市街を通り越し、街の反対側の高台に登った。街を見下ろす、絵葉書やガイドブックの写真によく使われるアングルだ。すでに日は大きく傾き、アドリア海は鏡のように西日を反射して逆光になっていたが、古い城壁に囲まれた旧市街は光り輝く海に負けない存在感を保っていた。
 期待が大きいと外れたときの失望感も大きいが、ドブロウニクはそんなことは無さそうだ。週に1便しかないフェリーの都合でしばらく滞在することになりそうだが、よい思い出になるだろう。

 街に降りて行き、城壁をくぐって旧市街を散歩してみた。すでに多くの店が閉まって閑散としていたが、変にツーリスティックじゃなくてかえって良かった。目抜き通りを一本入ると細くて急な坂道の両側に古い家々が迫り、モロッコのメディナのような雰囲気があった。観光地ではあるものの、生活の臭いも濃いのが嬉しい。

 静かな旧市街にいきなりアコーディオンの音が響いたので何かと思ったら、大聖堂の前で民族舞踊のパフォーマンスが行われていた。民族衣装を着た若い男女が一曲ごとに合唱と舞踊を繰り返し、まわりに集まった観光客を楽しませた。
 20分間ぐらいで終わったあと、取り巻きはいっせいに同じ方向に歩き出した。「お、次はなんだなんだ」とついていったら、彼らは港から次々と小型船に乗りこみ、沖合に停泊している巨大な豪華客船に吸い込まれていった。彼らは全員、その乗客だったのだ。
 船はこれでもか、というくらいあちこちにライトがついて光り輝いており、まるで繁華街のような賑やかさを洋上で誇っていた。私もいつか、あんな船で旅をしてみたいものだ・・・。

 宿に帰って間もなく、ドミトリーの日本人も帰ってきた。ヒロくんという小柄な博多っ子で、カナダやイギリスで働いたあと、これからインドまで行く予定だという。パキスタンの状況で依然、悩んでいたが、私が「旅行人ノート・アジア横断」というガイドブックを貸してあげると、興奮してやる気を出していた。陸路は難しいが、飛行機で飛んでもインドまでは行くという。
 快活な彼の博多弁は耳に心地よく、部屋で一緒にビールやワインを飲みながら遅くまで話をした。あと一人、ドブロウニクで会うべき人がいるのだが、彼女とはうまく会えるだろうか?


本日の走行距離       244.3キロ(計67273.3キロ)

出費                  105Kn   ガソリン
     12Kn コーヒー
     53Kn 食材の買物
計     170Kn
(約2520円) 宿泊         Begovic Boarding House


2001年11月5日(月) 「雲間の陽光」の人だ!(Meeting a Japanese girl)

 本日も快晴。昨日は逆光で写真が撮れなかったので、また高台の上へバイクで登った。うんうん、この風景よ、この光の具合よ。俺が見たかったのは。
 真っ青な海と白い城壁、紅い屋根のコンストラストが美しい。同じ配色でも、地中海で見飽きた安っぽいリゾートの雰囲気はない。ずん、とした歴史の重みを感じさせる街なのだ。

 街に下り、今日は旧市街を囲む城壁の上を歩いてみることにした。
 かつて侵略者を防いだ厚い壁の高さは10〜20メートルほどで、その上を歩く一周約2キロのコースは街の様子をつかむのに最適の散歩となる。
 うまい場所から登れば料金がかからないそうだが、坂道の多い旧市街を探し回るのも大変なので、正規の入口から壁に上がった。学生証を見せたら料金は若干安くなった。

 城壁の上は気持ちが良かった。旧市街には車が入れこめないから、聞こえるのはわずかな街のざわめきと風の音と、壁の外からの潮騒だ。太陽はポカポカと温かく、歩いていると汗ばむほど。ほんの1、2週間前まで、まだビーチは賑わっていたらしい。
 しかしシーズンオフのためか、城壁は意味も無いところで扉が閉まっていたりして大回りを余儀なくされた。降りようとした出口も南京錠がかかっていて、鉄柵をよじ登って外に出た。観光地としてはアカ抜けない代わりに、こういった所の配慮が少し足りない。

 安ハンバーガーの昼食をとったあと、インターネット屋に行ってHPのアップロードとメールのチェックを行った。
 恐ろしいメールが一通。ルーマニア方面から一足先にギリシャに下った平野君からだ。「アテネはもう寒いです。北部では大雪が降り、一日遅かったらヤバかったです」(!!)
 そして待っていたメールも来た。「私は月曜日、ホテル××の前のビーチにいます」・・・むむむ、来たぞ来たぞ!いざ、そのビーチへ行かん。待ってろ!まだ見ぬ可愛い子ちゃんよ。

 さて、指定された新市街のビーチに行ってみるが、競泳パンツがズリ下がって尻が半分出た地元のオヤジと、仲良く全員が太った白人の旅行者家族のほかは、ホテルのカフェでお茶を飲んでいるカップルが数組いるくらい。どこを見ても日本人女性の姿はない。
 途方に暮れていると、遠くから西日に照らされて眩しそうに歩いてくる日本人らしき女の子を発見。サンダルを履き、手にはタオルを持っている。さっきまでビーチにいて、いったん離れ、また戻ってきたのだ。彼女の名前は松井史織さん。うれしはずかし照れくさし、の初対面なのだ。

 松井さんは大学で文化人類学を専攻しているが、今は休学中。今夏、ウラジオストックからシベリア鉄道でロシアを横断し、ヨーロッパに渡ってから少しずつ南下してきた。彼女もパソコンを持ち、雲間の陽光というホームページを作りながら旅をしているモバイラーだ。(その雛型をつくるにあたり、私のRideTandemを参考にしてくれたというから嬉しいじゃないの)
 そして9月ごろに相互リンクを貼り、以後メールの交換をしていたが、私がブダペストを出るときに「現在はドブロウニクに沈没中なので、来ることがあればご一報下さい」というメールが来たのだ。そりゃ、ご一報どころか二報も三報もするでしょう。

 我々は西日を浴びながらオープンカフェで話をした。松井さんに会って最初に思ったのは、普通の女の子(というより、まずは常識的な話のできる人)で良かったということ。メールのやりとりだけでは電話と違って声の調子も聞くことができず、相手がどんな人か予測が難しい。
 史織という名前で男かもしれないし(私にはかつて「由美」というファーストネームを持つ上司がいたが、もじゃもじゃ頭にタワシのような口ヒゲをたくわえ、つばを飛ばしながら「ガハハ」と豪快に笑う、それはそれは男そのもののオヤジであった)、女性であっても身長220センチ、体重200キロくらいあって、会ったとたんにベア・ハッグをかけてきて、苦しむ私を下から見上げてヨダレを垂らし、「グフフ」と笑うような人かもしれないのだ。

 ところが実際の松井さんは利発で明るく、「日本語の会話に飢えていた」と言うとおり、私のしょーもない話に口を押さえてよく笑い、何でも見通せるような大きな目を持っていた。(実際に彼女は私の持つ二面性、酒を飲みながらテンション高く話す時の側面と、しらふで気を使っている時の側面、大きな事をいう場合と弱気な事をいう場合がある、ということについて、すぐに気がつくことになる)
 これがハリウッド映画やハーレクイン小説だったりすると、私と松井さんは恋に落ち、DRに二人乗りして地平線の彼方に走り去り、めでたしめでたし、となるのだが、現実にはそうもいかない事情があるのだ。
 松井さんはここドブロウニクで、ブランコという地元の男性と恋に落ちたのだ。その模様については彼女のHPに詳しく載っているので、見ていただきたい。それが、彼女がこの場所に沈没中の理由なのだ。

 海辺の会話をしばらく楽しんだあと、私は彼女と一緒に宿に戻り、ヒロ君と合流した。そして3人でパスタを作って食べたあと、松井さんが彼氏のブランコを連れてきた。
 31歳、水球選手の彼はキリリとしていた。トレーニングを終えたばかりのキリリとした体に、キリリと刈り上げた頭。黒ぶちの眼鏡もロッテンマイヤー先生を彷彿とさせるキリリぶりで、私の薦めたワインも「体のために酒は飲まないのです」とキリリながらも丁重に断った。もちろんタバコも吸わない。
 英語が得意で、クロアチアの独立戦争やチトー将軍などについて、色々と私は聞いてみた。ヒロ君もカナダとイギリスで働いていた経験があるから、英語の会話にはほとんど困らない。(一番困るのは松井さんだ。だけど、彼との会話はもちろん英語)

 そんな難しい話をしているとき、ブランコがおもむろにロッテンマイヤー眼鏡を外した。すると、なんともつぶらな瞳をしているではないか。はーれーごり君の自称「捨てられた子犬の目」を思わせる、小動物のような目だ。ぬぬぬブランコ君、オヌシの武器はこれか・・・。
 ちなみに松井さんの後ろで背後霊のように写っているのがヒロ君だ。これで松井さんの右肩の上に写っている彼の体を画像ソフトで消せば、完全に心霊写真なんだけど・・・。

 その後も私は調子に乗ってワインをガブ飲みし、松井さんはよく笑い、ブランコはつぶらな瞳をパチクリし、ヒロ君は「インドば行きとう」と遠くを見て言った。こうしてドブロウニクの夜は更けていくのであった。


本日の走行距離        14.2キロ(計67287.5キロ)

出費                   16Kn   昼食(ハンバーガー)
     20Kn インターネット
     17Kn ビール、コーヒー
     60Kn 食材の買物
計     113Kn
(約1670円) 宿泊         Begovic Boarding House
インターネット    Internet&Games Hugo


2001年11月6日(火) 悪夢再来(Nightmare of virus again)

 力石徹のダブル・クロスカウンターを受けた矢吹丈のように、朝からグロッキー。昨夜は私一人でワインを1リットルは飲んだだろう、二日酔いである。天気も良くないので、午前中は宿で大人しく日記を打っていた。
 午後にサラエボ行きのバスの時間や(近日中にバイクを置いてボスニア・ヘルツェゴビナに行く予定なのだ)、イタリア行きのフェリーの料金を調べに行った後、宿に帰ったら地元の若い91年式DR800Sライダーが訪ねてきた。身長190cmはありそうな大男だ。
 彼はおおむね自分のバイクに満足しているが、何しろドブロウニクではスズキのまともなメカニックがいなく(ホンダならスプリットにディーラーがあり、ヤマハはなぜかそこら中で走っている)、何か問題があったらその場しのぎ的に直すしかない。もしかしたら手放すかもしれない、と寂しそうに言っていた。

 その後はヒロ君と一緒に松井さんの借りている部屋に行ってみた。本当はブランコの所に転がり込めばいいのだが、彼は母親と住んでいるので、彼女は一ヵ月の契約で別のところに下宿をしているのだ。
 そこは、家財道具の無い旅行者は持て余してしまうほど広く、清潔な部屋だった。簡素だがキッチンや冷蔵庫、専用のトイレやシャワーもある。しかしホテルにあるような業務用っぽい備え付けのダブルベッド、壁についた中途半端にムーディな間接照明、そして生活臭の無さが何か別の場所を想像させ、そして私は「まるでラブホテルみたいだ」と正直に言ってしまった。するとヒロ君も「俺もそう思うとった」と言い、松井さんはまた笑っていた。
 私はお土産に自分のホームページ全体のデータと、ウィスルバスターの体験版をコンパクトフラッシュに入れて持って行った(本当はいけないことかもしれないけど)。彼女はかつての私のように、ウィルス対策は何もしていないというのだ。

 松井さんのバイオは私のC-1と違って、B-5サイズだった。ハードディスクは15ギガもあり(しかもCドライブとDドライブに分かれている)、CPUは500MHZで、そして16万円だったという。本当に、私が日本にいない間にどんどんとパソコンは進化し、かつ安くなっている。
 さっそくウィルスバスターをインストールし、「全ドライブ検索」をかける。そして彼女に「ほら、これでウィルスが検出されれば教えてくれるんだよ」と説明したとたん・・・

 「ウィルス TROJ_SIRCAMA.Aが検出されました。駆除、隔離に失敗しましたとの画面表示。

 今度は矢吹丈のフックをテンプルに受け、倒れるときに後頭部をボトムロープで打ったような激しい衝撃だった。松井さん、俺と同じウィルスに感染しているじゃん!
 いや待て、もしかしたら私のパソコンにまだ潜んでいて、それがコンパクトフラッシュに入れたデータにくっついて来たのかもしれない。そうなれば私の責任だ。
 確か、私のパソコンにダウンロードしたTROJ_SIRCAMA.Aの駆除ソフトがあったはず、と思って帰ってみたが、思い違いだった。あったのはニムダの駆除ソフトだった。
 念のために私のパソコンに検索をかけてみたが、ウィルスは検出されなかった。どうやら私からの感染ではないらしい。

 松井さんに怪しいメールについて心当たりを聞いたところ、彼女は思いっきり「ある」と答えた。まだデータに残っているというので見させてもらったところ、英語の文面で「元気?参考のために、このファイルを開けてね」とあり、拡張子が「.exe」の超ウルトラA級戦犯スパイ活動CIA、KGB、タリバンごちゃまぜ的に怪しい添付ファイルがくっついていた。しかも開くことには失敗したものの、彼女はそのファイルを開けようとしたらしい。
 実際に開けられなかったとしても、私だってブダペストでどういうわけか、このウィルスに自動的に感染してしまったのだ。このメールが考えられる唯一の原因。まずは削除し、今夜はもうインターネットカフェもやっていないだろうから、対策は明日に持ち越す。

 ウィルスの悪夢再来。しかも今回はインターネット事情の悪い(ブダペストに比べれば)、ドブロウニクだ。果たして私は、この憎き電脳インフルエンザの再挑戦に勝てるのだろうか。
 悩む私の横でパソコンの持ち主である松井史織嬢は、「青山さんに任せておけば大丈夫だろう」と、相変わらず明るく笑うのであった。そして二面性を持つ私の心はそれをプレッシャーに感じながらも、自分のパソコンが原因じゃないと証明されたから、ホッとしているのであった。(問題のメールも、私からではない)

 そうこうしているうちにヒロ君が出発する時間になった。彼もイタリア経由でギリシャに向かうのだが、週に一便のフェリーは火曜日の午後11時に出るのだ。
 夕方から降り始めた雨は何とか小雨になっていた。ヒロ君は我々と握手をした後、ニットの帽子を被り、ナイロンのレインウェアを着て松井さんの下宿を後にした。
 ヒロ君、メールをくれよ。そしてまた地球のどこかで会おう。君の気持ちいい博多弁が、また聞きたいのです。


本日の走行距離           0キロ(計67287.5キロ)

出費                46.20Kn   食材の買物
計     46.20Kn
(約680円) 宿泊         Begovic Boarding House


2001年11月7日(水) エイドリアーン!(Fixing a friend's PC)

 午前中に日記を少し打ち、午後から松井さんのバイオ、「雲間の陽光」号の修復にかかった。
 まずは一番近いインターネット屋まで歩いていき、トレンドマイクロ社のサイトから駆除ソフトをダウンロードしようとしたら、主人が「何をダウンロードするんだ?」と聞いてきた。かくかくしかじか説明すると、彼はニヤリと笑い、駆除ソフトなら俺が持っている、というか、TROJ_SIRCAMA.Aが出回ったときに俺は自分で作ったんだ、と言った。
 彼は我々が持って行ったフロッピーに無料でそのソフトをコピーしてくれた。ソフトといっても、ほんの小さなMS-DOSファイルだが。彼はプログラミングの経験があるらしく、インターネット屋をやる上でウィルス対策は不可欠だといった。

 半信半疑でそのソフトを試してみるが、ある部分のウィルス(活動型の悪質なやつ?)は確かに駆除してくれたようだが、検索をかけると、まだ4つほど潜んでいる感染ファイルがみつかる。
 また同じところに行くのも気まずいので、今度は私一人がバイクで旧市街に向かい、城門の近くにある大きなインターネット屋でトレンドマイクロ社のサイトから無料駆除ソフトをフロッピーに落とした。念のためにTROJ_SIRCAMA.Aに関する詳細情報もページごとコピーしたが、これが後で役に立つことになる。

 松井さんの下宿に戻り、駆除ソフトを起動させてみる。しかし、それでもまだ感染したファイルが残る。手動での削除も不可能。これはいったい・・・?矢吹丈との恋に悩む白鳥麗子のように、考えに考える。どうやったらパンチドランカー症状の出始めた丈にボクシングをやめさせることができるのか、じゃなかった、完全に感染ファイルを削除できるのか?

 コピーしてきた詳細情報のページをもう一回ていねいに読むと、「ウィンドウスME版で、RECYCLEフォルダに感染ファイルがある場合」というリンクがあるのに気がついた。おお、これこれ!松井さんのOSはMEで、確かにRECYCLEフォルダにそのファイルがあって消せないのよ!
 しかしそのページは見てもいないし、当然フロッピーにもコピーしていないから、内容はわからない。ようやく謎を解くカギのありかがわかったというのに!

 ふたたびバイクでさっきのインターネット屋に行き、そのページを見てみる。するとME版では自動的にシステムのバックアップを取っているらしく、通常の手順では削除が不可能なそれらのファイルにウィルスがくっついたのだ。対策は至って簡単で、いったんそれらのバックアップを完全に破棄すればいいだけなのだ。そしてその後、バックアップを再構築するよう設定しなおしてやる。
 それらの手順を示したページをフロッピーに落し、おまけに祝杯用のワインまで買って、私は松井さんの部屋に戻った。

 そのとおりにすると、ウソのように簡単に感染ファイルは無くなった。・・・私の闘い・ドブロウニク編の15ラウンドは終わり、頭の中にはロッキーのテーマが流れ、私はあたりを見まわし、見つかるはずのないエイドリアンの居場所を探した。
 そして買ってきたクロアチア産の赤ワインを少しだけ飲み、「残りカスなんてねえ、真っ白い灰」になった自分を感じながらも挑戦者コーナーで息を引き取ることはなく、明日のサラエボ行きのバスが朝8時発なので、早目に宿に戻って寝るのだった。

※昨日今日の日記で使われている表現がわからない方は、「あしたのジョー」の1および2を、ビデオレンタルで借りてきて見てください。私が「ルパン三世・ルパン対マモー」と同じくらいに好きなアニメです。あ、ちょっとだけ「ロッキー」が混じっています。あれは1だけ、いい映画ですね。(あれは実話がモデルだって知ってました?)


本日の走行距離        13.3キロ(計67300.8キロ)

出費                   20Kn   インターネット
     19Kn 赤ワイン
計     39Kn
(約580円) 宿泊         Begovic Boarding House
インターネット    Dobrovnic Internet Center