旅の日記

ルーマニア編その2(2001年10月16〜21日)

2001年10月16日(火) ブカレスト到着(Reaching Bucarest)

 ここまでくればブカレストはもう目と鼻の先だ。急ぐ必要もないので、ホテルをチェックアウトした後、シナイアの町からカルパチア山脈を登るロープウェイに乗ってみた。
 シーズンではないので、残念ながら頂上の2000メートル地点までは運行していなかったが、1400メートル地点からの眺めでも十分に素晴らしかった。レストハウスでチョルバ・デ・ブルタ(酸味の効いた牛の胃袋スープ)を食べながら、うっすらと色づいた山々を眺める。
 冬はスキー客で賑わうらしく、シナイアの町では新しいホテルがいくつも建設中だった。あと1、2ヵ月もすれば滑れるようになるのだろう。私も、いつまでも東欧でグズグズしている場合ではないのかもしれない。

 ブカレストなんて近い近い!と、余裕をかましてローカル列車に乗ったら、たっぷりと4時間もかかってしまった。列車の切符を買ってからブカレスト行きのマイクロバスがあることを発見、そっちの方がはるかに速かったろう。

 夜7時半、オレンジ色の電燈で照らされたブカレスト北駅に到着。とりあえずは宿の確保と、村上さんがメーラ村に来る前にお世話になっていた海外青年協力隊で看護婦として来ている大西さんのアパートに行ってみたが、連絡の行き違いで彼女は旅行中だった。
 よって今晩は隣の部屋に住む、やはり看護婦の桜井さんの部屋に泊まることになった。いきなりお邪魔した上にワインを2本半、各種おつまみや海苔つきのおにぎりまでご馳走になり、すっかり良い気分でブカレストの一晩目を過ごした。


本日の走行距離           0キロ(計66129.3キロ)

出費                45000L   ロープウェイ
     87000L チョルバ・デ・ブルタとビール
     6500L コーヒー
     51000L 列車
計     189500L
(約740円) 宿泊         桜井さんのアパート


2001年10月17日(水) 国民の館("People's house")

 村上さんのお友達、看護婦の大西さんがブカレストに帰ってくるのは明日なので、今夜は北駅近くのホテルに泊まることにした。
 朝一番で部屋を確保したあと、早速二人でブカレスト観光に出かけた。

 まずは中心街にある旧共産党本部を見に行った。ご存知の通り、四半世紀にもわたって党首として独裁を続けていたチャウシェスク大統領は1989年の民主革命で倒れたが、彼はこの本部ビルから支持者に向けて最後の演説を行い、ヘリコプターで逃亡したのだ。そのあと彼は捕らえられて銃殺される訳だけど。
 共産党本部近くの革命広場は民主革命時、銃撃戦の舞台となったところ。治安部隊の銃弾を浴びながら市民のデモ隊は自由を求めて進んだのだ。威圧的な本部ビルの前には、犠牲者のための慰霊碑があった。

 そして我々はブカレスト観光の目玉、「国民の館」に向かった。
 中心街から少し外れた、荒れ果てた緑地の真ん中にそびえるその建物は・・・とにかくデカイ!笑ってしまうほどデカイ!なんたって一辺が200メートルの正方形で地上11階、地下5階、部屋数3100を超える、世界でも屈指の大建造物なのだ。
 これは「国民の」とは名ばかりの、チェウシェスクの狂気と野望の集大成。ルーマニア全土から労働者と建築材料をかき集め、自らの権力を誇示するために作られた宮殿なのだ。そしてその膨大な建築予算のために、国民は飢餓を強いられていたという。
 しかし、 それでも今だに9割がたしか完成していなく、民主化後も国際会議場として機能するために建設は続けられている。

 英語のガイドつきツアーに参加して内部に入ってみると、ホントにゴーカケンラン、金銀財宝ザックザク。まるで現代のピラミッドかベルサイユか、といったところ。
 共産党の親玉・ソ連はなぜ、「おいおい、いいかげんやり過ぎだろう」と止めなかったのだろう。この「国民の館」は世界の市庁舎関係の建物の中でも、アメリカのペンタゴンに次ぐ世界2番目の規模。しかし国の経済状態は下から数えた方が早いくらいなのだから、こんなん作るの、無理があるに決まってんじゃん。これだけの予算があったら、どれだけルーマニア中のボロボロの町並みがきれいになり、飢えた人々が救われたことか・・・。

 全長150メートルの大理石の回廊、修道女に織らせたというホールごとにデザインの違う絨毯、高さ15メートルのカーテン・・・どれをとっても世界重量級にゼータクで、そしてバカげている。
 宮殿の東からは「統一通り」が伸びており、バルコニーからはその通りと両側にそびえる、かつてのエリート共産党員のための巨大なマンション群が見下ろせた。この「統一通り」はパリのシャンゼリゼ通りを真似たもので、負けず嫌いなチェウシェスクは本物より幅を1メートル広く作らせた。ここまで来ると、あきれるというより子供じみた彼が可愛く思えてくる。
 そしてこの「国民の館」と「統一通り」のあるブカレストの一画はかつて旧市街で、歴史的な建物が並んでいたのだが、チェウシェスクはその全てを取り壊してしまったのだ。

 彼はこの宮殿のバルコニーから大群衆を前に演説をぶつのが一つの野望だったらしいが、実現はしなかった。代わりに過去二人、このバルコニーから演説を行った人物がいるが、一人は前大統領で、もう一人はコンサートのためにやってきたマイケル・ジャクソンだそうだ。
 眼下に集まったファンを前に、すっかりご機嫌になったマイケルは「やあ、みんな!ボクはブダペストに来れてとても嬉しいよ!ホゥ!」と言ってしまったらしい。世界のスターにとっては、ブカレストもブダペストも大差はないのだ。

 そのあとはホテルに帰って休憩したが、この「地球の歩き方」にも載っているチェルナというホテルは大失敗だった。フロントの愛想は最悪だし、シャワーの湯は出ないし、なぜかテーブルのガラスの下にはスーパーのチラシが入っているし(カラフルなら何でも良いのか?)、そして何より、共同トイレの便座がことごとく汚れていたのだ。
 我々の階のトイレの便座の上(便器のふちじゃなくて、わざわざ便座を下げたその上)にウンコが載っていて、「何じゃこりゃ!」と別の階に行ったが、何とそこでも同じ、おぞましい光景を目にすることになった。どうやったら便座の上にウンコができるのよ!
 後日行ったマクドナルドのトイレでも同じことがあり、みんなで理由を推測したところ、ルーマニアはちょっと前までアラブ式(和式に近い、しゃがむ系)のトイレが主流だったので、きっとルーマニア人は便座の上に足をのせ、しゃがんでウンコをしているのではないか、という仮説がたった。現にマクドナルドのトイレでは便座の上に足跡がついていたのだ。そしてきっと照準がズレ、便座の上に産み落としてしまったということだろう。好き勝手言って申し訳ないが、ルーマニア国民のみなさん、ウンコぐらいマトモにしましょう。
 ちなみにいうと、ルーマニアのマクドナルドは世界でもトップランクに安い。何とビッグマックのセットが58000レイ、約220円だ。南米のエクアドルなど今までセットで2ドルちょっとというところはあったが、2ドルを切ったのはこの国が初めて。私は「マクドナルドの料金でその国の物価がわかる説」を否定しているが、確かにルーマニアでは何でも安い。

 夜は村上さんと二人で「美味いモン」を探して街をさまよったが、もはや東欧名物となったニセ警官グループに二組、立て続けに遭遇した。
 まず一組目。歩道脇に一台の白い車が停まり、助手席から偽ナイキのスポーツウェアを着たようなチンピラ風の若者がサイフみたいな物を見せ、我々の関心を引こうとしている。最初は「闇両替か?」と思って無視していたが、車の向きと逆方向にそのまま歩いていくと、彼らは車道をバックで逆走して追いかけてきた。そして助手席の男が我々に「ポリスだ!停まれ!」と叫ぶのだ。どうやらさっき見せたサイフのようなものはIDのつもりだったらしい。
 アホくさー。車はボロいし、男はバカっぽいし、バックで逆走するパトカーなど見たこともないので、笑いをこらえながらそのまま無視して立ち去った。

 そして二組目はアラブ系の男たちだった。一人の男が「××ホテルはどう行けばいいの?」と聞いてきたが、当然我々は完全無視。そしたら案の定、数メートル先で別の男たちが道に立ち塞がり「ポリスだ!」と言うではないか。きっと、さっきの男を相手にしていたら両替を持ちかけられ、そこに彼らが駆けつけて闇両替のかどでパスポートを巻き上げるつもりだったのだろう。
 ルーマニアでアラブ系私服警察官のグループなどいるわけもないので、彼らが肩を張って道をふさぐのを無理やり突破、そのまま歩き去った。体を張ってきた分、さっきのグループより威圧的だったが、どちらも「こんなんで引っかかる阿呆がいるのか?」と思えるほど分かりやすかった。
 2件とも目抜き通りでの出来事だった。ホントに大胆なヤツらよのう・・・。そして村上さんは「ようやく偽警官に会うことができた」と、ご満悦なのであった。

 適当に入ったピザ屋では、イタリア人兄弟が手で焼いた美味いピザが出てきた。イタリア料理にうるさい村上さんも、納得の味だったのだ。


本日の走行距離           0キロ(計66129.3キロ)

出費               225000L   ホテル
     37000L 地下鉄10回券
     85000L 「国民の館」入場料
     35000L 昼食(マズいバーガー)
     30000L コーヒー
     125000L 夕食(ピザ)
計     537000L
(約2100円) 宿泊         Hotel Cerna


2001年10月18〜19日(木、金) 大西さんのお世話になる(Meeting a nurse)

 朝一番で上藤さんと合流した。彼はメーラ村の近くで滞在期間の延長をしようとしたのだが、ブカレストでないとできないと断られたらしい。、
 そしてそのすぐ後、眼鏡をかけた川上麻衣子ふうの大西さんが小旅行から戻ってきた。滞在期間の延長手続きは結構複雑なので、大西さんに連れられてみんなで移民局に向かったが、書類提出の寸前で上藤さんは手続きを中止した。
 一度パスポートを預けると7日間は戻ってこない。その間は国境を越えることが不可能になるのだ。上藤さんはロマの他にも、ルーマニア及び周辺国におけるハンガリー系住民(彼らも差別の対象になっている)にも興味があり、ブカレストまでせっかく来たので、彼らが多く住むという隣国のモルドバ共和国へ足を伸ばしてみようと決めたのだ。そして、戻ってから延長の手続きをするつもりらしい。
 村上さんのパスポートは予定通り今日、滞在期間が延長されて受け取れた。

 昼食を鉄琴の生演奏が流れるレストランで食べながら4人で話をしたが、村上さんは上藤さんと一緒にモルドバ共和国に行くことに決めてしまった。
 「俺と一緒にユーゴに行くんじゃないの?」
 「いや、もともとそんなにユーゴに興味ないし。それより、青山さんも一緒に行きましょ」
 私ももともとユーゴに行く予定が無かったし、長いものには巻かれる主義なので、そのモルドバ共和国ってのに行ってみることにした。何があるんだろ?

 食後は軍事博物館に行ってみた。ルーマニアにおける戦争の歴史がさまざまな展示物で説明されているが、一番の見所は何といっても1989年の民主革命について。
 犠牲者の顔写真、銃弾の跡のついた服、配られたビラ・・・そして共産党本部前に何万、何十万という民衆が集まった、革命当時の写真が胸を打った。自由を求め、声をあげて旗を振り、治安部隊の銃弾に拳をもって立ち向かい、彼らは勝ったのだ。
 壁一面に引き伸ばされた写真を見て感動していたら、上藤さんが冷めた発言をした。
 「この中に帰りたいのに帰れなくなっちゃって、困った人がいっぱいいるでしょうね」
 上藤さんによればヤジ馬的にデモに参加し、そのまま革命に加わってしまった人がいっぱいいるのではないか、というのだ。
 「まあ、そうかもしれないけど、感動しているのに冷めたこと言わないでくださいよ」
 「いや、絶対そうだよ。こんなに人が集まっちゃうと身動きとれないでしょ。みんな晩飯食いいたいなあ、と思いながら帰れないんだよ」

 上藤さんは結構おとぼけキャラである。人の話を聞いていなかったり、同じ会話を延々と繰り返したり、人とは全く違う視点を持っていたり・・・。
 そして上藤さんはやってしまった。ルーマニアで買った携帯電話にロックをかけてしまい、その解除コードが分からないのだ。その後はまわりのみんながイライラするほど、延々と携帯電話をいじっていた。明日、大西さんが電話会社の営業所に連れていってくれるというのに、あきらめきれずに自分で解決したいらしい。

 夜は大西さん家で酒盛りになったが、そこでも携帯電話をいじりながら、上藤さんはすごい発言をした。
 「僕、やっぱりモルドバ共和国には行きません」
 みんな一瞬、動きが固まった。私と村上さんは予定を変更してついていく気になっていたし、今朝、せっかく移民局まで行ったのに延長手続きを中止したのは何だったのよ・・・。
 彼によると、ハンガリー系住民が多いのは「モルドバ共和国」ではなく、「ルーマニア国内のモルドバ地方」であり、その事がついさっき判明したというのだ。明日の朝、ふたたび移民局に行ってパスポートを預け、7日間の手続き待ちの間にモルドバ地方に行くという。
 私と村上さんは今さらユーゴに行く気にもなれないし、上藤さんと一緒にモルドバ地方に行ってみたいが、今度は私の滞在期間があと数日で切れてしまうのだ。かといって、ブカレストで7日かけて2ヵ月の滞在期間をもらうほどでもない。
 言いだしっぺがいなくなってしまったが、我ら二人は予定通りいったんモルドバ共和国に行き、ルーマニアに再入国して10日間の滞在期間をもらい直そう、ということになった。いやはや、話が二転三転、複雑怪奇。

 翌19日の夜行列車でモルドバ共和国に向かうことにしたが、その前に海外青年協力隊の日本語教師が来ている高校に行った。授業のゲストとして、大西さんを含む我々4人が呼ばれたのだ。
 「せんせい、こんにちわ」と、ルーマニアの女子高生にたどたどしい日本語で迎えられ、今までの旅の経緯などを簡単に説明した。彼女たちは選択授業で日本語を選んだ、少数派の生徒なのだ。
 授業の後半は質問コーナーになったが、「けっこんはしているのですか?」など、女子高生らしい質問が飛び交った。そして彼女たちは「りこん」という、新しい単語を学んだのだ。

 夜7時半、大西さんに見送られてモルドバ共和国の首都キシナウ行きの夜行列車に乗り込んだ。大西さんと上藤さんはさらに遅い夜行列車でモルドバ地方のヤシという都市に向かう。我々はモルドバ共和国で1、2日を過ごしたあとでルーマニアに再入国するつもりなので、モルドバ地方での再会を約束した。
 夜行列車のコンパートメントは4人乗りの寝台で、あとの二人はモルドバ共和国人のビジネスマン&ウーマンだった。昨日会った、大西さん家の近くに住むモルドバ共和国人もそうだったけど、彼らはみな、我々が観光で行くというと「何もない国だよ」という。見所を聞くと、みんな首をかしげるのだ。
 果たしてどんな国なのやら?期待を胸に、寝台に横になる我らであった。


2日間の走行距離          0キロ(計66129.3キロ)

出費               446000L   飲食費
     10000L 戦争博物館
     51000L インターネット
     430000L 列車
     88500L 国際電話
計     1025500L
(約4010円) 宿泊         大西さん家(18日)
           モルドバ共和国行きの寝台列車(19日)
インターネット    PC-Net


2001年10月20〜21日(土、日) 失意のハンガリー帰国(Can't enter Mordova)

 午前3時ごろ、我々を乗せた列車はルーマニア最後の駅、ヤシに到着した。ここで税関とイミグレの職員が乗り込み、ルーマニア出国の手続きを行うのだ。
 ・・・しかし、何と我々は「モルドバ共和国のビザがないから」と列車を降ろされてしまったのだ!!
 眠気と、あまりに急なことにボーゼンジシツとなった二人をホームに残し、キシナウ行きの列車は走り去った。複数のモルドバ人から「ビザは要らない」と言われていたのに・・・外国人の立場で出入国していないから、実は彼らもよく知らないのかもしれない。

 駅員は親切で、近くの町のモルドバ共和国領事館にタクシーで行き、朝まで待てばすぐにビザがもらえると教えてくれた。しかし今からビザを取得し、どこから出るかもわからないバスに乗ってまでモルドバ共和国に行きたいとは思わない。ほんのちょっと国を覗くだけのつもりだったのだ。
 駅員の英語があまり上手でなかったので推測も入るが、どうやら週末でなければモルドバ共和国側でビザが取得できたらしい。
 運が悪かったというか、縁がなかったというか・・・我々はモルドバ共和国行きをあきらめ、大人しくハンガリーに帰ることにした。

 朝になれば上藤さんと大西さんがヤシに到着するはずだ。我々の降り立った駅は国際列車専用なので、少し離れた普通列車の駅までタクシーで移動し、そこで彼らを待つことにした。
 サメのような歯を見せて「ガハハ」を笑う運転手のタクシーで駅に到着し、眠気にフラフラになりながら待合室に入ってしばらくすると、村上さんが「あれ?青山さん、寝袋がないですやん」と言った。
 あ・・・さっきのタクシーの中だ・・・。「ガハハ」というあの笑い声が、頭の中でこだました。タクシーのナンバーも運転手の名前もわからない。一仕事を終え、きっとあのオヤジは今ごろバーで一杯やっているだろう。2年間愛用した羽毛の寝袋なのに・・・。

 午前9時ごろに上藤さん、大西さんと合流。残された滞在期間がほとんどない私は眠ることもままならず、すぐにハンガリーに向かわなくてはならないが、村上さんは延長の手続きをしたばかりなので、彼ら二人とモルドバ地方を回ってから帰ることにした。

 私の乗る列車までまだ時間があったので、みんなでヤシの町の民俗博物館に行ってみた。古い城がそのまま博物館になっているのだ。
 大西さんに通訳してもらって、上藤さんが学芸員のお姉さんにモルドバ地方におけるハンガリー系住民について聞いてみた。しかし、教えてもらったことは上藤さんがハンガリーで調べてきたこととは違っていた。モルドバ地方にハンガリー系住民がいるということを、お姉さんは認めようとしないのだ。これはよくあることだそうで、ハンガリー系住民は自分たちのアイデンティティを主張しているのに、ルーマニア人は彼らを差別し、その存在を認めようとしないのだ。

 あっという間に列車の時間になったので、タクシーで駅に戻り、3人に別れを告げてクルジ・ナポカ行きの列車に乗った。
 準急行だが、それでも7時間の列車旅。そしてクルジ・ナポカからは夜行バスでハンガリーのブダペストまで帰るのだ。昨夜もほとんど眠っていないので、すでにフラフラ、意識モーロー。

 昼寝、読書、車窓からの秋の景色、を繰り返しながら午後9時前、一週間ぶりのクルジ・ナポカに到着。ピザの夕食を食べたあと、10時半発のブダペスト行き夜行バスに乗った。
 ハンガリーへの再入国ではイミグレでかなり怪しまれた。荷物チェックはおろか、パスポートと同じサインまで書かせられたが、午前4時になんとか国境を越えた。
 そして午前7時、ブカレストから数えて36時間の移動の末、私はブダペストに戻ってきた。ちょっとのお金とかなりの体力を消費し、5冊の文庫本を読破、愛用の寝袋を無くし、そしてかけがえのない出会いと思い出を手にして、私は10日間のルーマニア紀行を終えたのだ。

 テレザハウスのメンバーは全て入れ替わっていたが、疲れ過ぎて妙にハイになっていたこともあり、以前からメールでやりとりをしていたライダーの平野君を突破口に帰国初日からみんなと盛り上がってしまう酒飲み&弾丸トークの私であった・・・。


2日間の走行距離          0キロ(計66129.3キロ)

出費                50000L   タクシー
     140000L 列車
     250000L 夜行バス
     55000L 夕食(ピザ)
     690F 朝食(マクドナルド)
     1840F 買い物
計     495000L
(約1940円)      2530F(1ドル=280約フォリント、約1080円)
宿泊         テレザハウス