旅の日記

ルーマニア編(2001年10月12〜15日)

2001年10月12日(金) 「黒い沼」の市場(Market of gypsy people)

 カメラマンの上藤さんは35歳で、老人というにはあまりに若すぎるが、まるで老人のように朝からテンションが高い。
 上藤さんを団長に、以下グラフィックデザイナーの内田さん、そして私という3人の即席メーラ村訪問団は朝8時からルーマニア行きのマイクロバスに揺られることとなったが、「眠りながらいく」という内田さんと私の計画は見事に粉砕された。ウトウトしはじめると、上藤さんがどんどん次の話題をふってくるのだ。

 そんなわけで「大体、女ってものは」的オヤジ会話を繰り返しながら、昼過ぎに国境に到着。上藤さんによると過去、この国境で赤軍派の国際手配犯が捕まったことがあるそうで、なるほど、パスポートの写真と我々を見比べる目も険しい。
 しかし我々は社会不適応者かもしれないけど赤軍派でもタリバーンでもないので、無事にルーマニアに入国。ルーマニアは最近ビザが要らなくなったが、それでも国境では10日間の滞在期間しかくれない。上藤さんは村に残ってじっくりと撮影をするつもりなので、2ヶ月間の滞在期間がほしいと申し出たが、移民局に行って延長するしか方法はないらしい。

 ルーマニアに入ると、いかにも「共産主義!」といった感じの、崩れかけの巨大な工場群が見えてきた。何の工場だかわからないがまだ稼動しているらしく、大煙突からは遠慮なしに有毒ガスそのものといった黒煙がもうもうと上がっていた。そしてそんな工場と工場の谷間に、飾り気も何もない無機質な団地が並んでいた。きっと工場労働者の住居だろう。住宅地と工業用地の区分けもクソもない。これじゃ体に悪くないはずがないだろう。
 そんな光景を見ていたら、この国の首都が見たくなってきた。「怖いものみたさ」的な感覚だけど。

 マイクロバスはそのままメーラ村の近くの都市クルジ・ナポカまで行くが、我々はその手前のペケテ・トー(黒い沼)という場所で降ろしてもらった。ここでは今週、年に一回という規模のバザーが行われているのだ。上藤さんも行ったことはないが、ハンガリー人の知り合いに「ぜひ行った方がいい」と言われたそうだ。
 そこは小川のほとりの広場で、洋服や靴、帽子や古道具などを売る露店が並んでいた。しかしどこを見ても「黒い沼」はなく、バザーの規模も「これで年に一回か?」と疑うほど、たいしたことは無かった。

 ハンガリーから来ると、ロマたちの姿が目立った。この近くに大きな集落があるらしい。
 ここでもう一度ロマについて説明すると、彼らは通称「ジプシー」と呼ばれている人々だ。彼らのルーツがどこなのか、彼ら自身も多くを語らないので特定はできないが、インドあたりではないかという説が有力だそうだ。薄褐色の肌、黒くて濃い体毛、はっきりとした顔立ち、なるほどインド人によく似ている。
 ロマの人々はヨーロッパ全土にいるが、ルーマニアは特にその比率が高い。「手グセが悪い」など、彼らにまつわる噂はネガティブなものが多いが、彼らは長年差別を受けてきた貧しい人たちであり、それゆえか、極めて閉鎖的な社会を形成している。(最近では大金持ちのロマもいるらしいが)
 そしてこれはあまり知られていない話だが、ルーマニアは第2次世界大戦でドイツ側につき、多くのロマがナチスの強制収容所に送られ、ユダヤ人たちとともにヒトラーの狂気の犠牲となった。
 しかし「可愛そう」などどいう安っぽい同情で理解しあえるほど一筋縄でいく人たちではないので、彼らと接触するときは注意が必要だ。上藤さんはメーラ村のあるロマの家族を撮り続けているが、その許可を得るだけで3年間通い続けたそうだ。
 そして、我々はそのロマの洗礼をいきなり受けることとなる。

 バザーを回る前に、まずは腹ごしらえをしようということになった。屋台がいくつか出ていたので、3人でビールやソーセージ、骨つきの焼き肉などを食べていたら、さっそくロマの少年少女が「お金をおくれよ」とやってきた。我々は無視を決め込んでいたが、一人の靴下売りの少女がスキを見て内田さんのミネラルウォーターを奪い、ゴクゴクと飲み始めた。その動作はあまりにも速く、まるで正拳を突き出す大山倍達、ギターを弾くクラプトン、あるいはしゃべり続ける柳沢慎吾のようであった。
 しかし感心している場合ではない。内田さんがキッと睨んで立ち上がると、少女は「冗談だよ」という笑いをニタリと浮かべ、ボトルをテーブルに置いて去っていった。まだ12、3歳くらいの少女だが、半分眠ったようなトロンとした眼が、まるでこの世の汚いものを全て見てきたかのような、そして悪魔に魂を売ってしまったかのような、そんな邪悪な光を放っていた。あれが少女の眼か?あの歳であんなにいやらしい笑顔をつくれるものなのか?
 しかし、ここでも感心している場合ではなかった。「そろそろ行こうか」と席を立った瞬間、背後から5、6歳の少年がダーッと走ってきて、我々の食べ残し(といっても骨ぐらいだけど)をガーッとわしづかみにして行ったのだ。危うく私のミネラルウォーターまで奪われるところだったが、上藤さんが守ってくれた。本当に油断もすきもないのだ。

 バザーの露店を一通り冷やかしたあと、列車でメーラ村まで行くことにした。ローカルな鈍行列車なので数十キロを走るのに3時間くらいかかってしまったが、久しぶりの列車旅も悪くなかった。「世界の車窓から」のテーマを口ずさみながら、斜陽に照らされたルーマニアの丘陵風景を見ていた。
 列車の中にもロマの子供たちがいたが、10歳以下の小さい子たちが好奇心たっぷりに我々の顔をジーッと見つめているのに対し、それ以上の歳だと、もう我々の腕時計(私は腰につけて服で隠しているけど)や荷物の方に感心があるらしい。

 夜7時半、メーラ村に到着。駅から村の中心まで2キロほど歩かなくてはならなかったが、途中で村の学校の先生が車で拾ってくれたので助かった。
 そして、いつも上藤さんが村に来るとお世話になるというハンガリー系の家族、ツツェギさんの家に我々3人とも泊まることになった。小さいお孫さんがいる家族だが、あいかわらず私は子供にだけは良くモテる。


本日の走行距離           0キロ(計66129.3キロ)

出費                 3500Ft   マイクロバス
     200Ft 地下鉄
     500Ft パン、水
     32000L 昼食(ソーセージ、ビール)
     25000L 列車
     5500L ビール
計     4200Ft
(約1800円)      62500L (1ドル=約30700レイ、約240円) 宿泊         ツツェギさんの家


2001年10月13日(土) メーラ村の祭り("Mera" village festival)

 早朝、料理人・村上さんがブカレストから到着した。これで我らがメーラ村訪問団は4人になったわけだ。
 てっきり村上さんはこのまま私や内田さんと一緒にブダペストに戻ると思っていたが、ルーマニアの10日間の滞在期間が最近切れてしまい、延長のためにブカレストの移民局にパスポートを預けているという。それを取りに行かねばならないので、彼はブカレストに戻る必要があるのだ。
 こんな機会でもなければ行くこともないので、私は祭りのあと、村上さんと一緒にブカレストに行くことにした。「国民の館」など、チャウシェスク時代の面影が見たくなったのだ。そして来た道を戻ってブダペストに帰るのも能がないので、隣国ユーゴスラビアを通って帰るというのはどうですか?と提案したところ、村上さんは「ええですねえ」といった。こうして勢いあまった二人はブカレスト、ベオグラードと回ってブダペストに戻ることに決めたのだ。

 朝食を食べたあと、我々4人は上藤団長を先頭にメーラ村を散策した。上藤さんの通っているロマの家族や墓地を訪れたあと、村の反対側にあるロマの集落に行ってみることにした。そっちは上藤さんもあまり行ったことがなく、「絶対に人にカメラを向けないように」という注意を受け、やや緊張の面持ちの3人はついていった。
 集落は丘の斜面に這いつくばるようにしてあった。村の道も未舗装だが、彼らの集落に入ったとたん、歩くのがやっとのガタガタの道になった。あきらかに整備も何もされていない。
 一軒のあばら家の前を通ったとき、軒先で薪を割っていたオヤジが我々を呼び止めた。マジャル語(ハンガリー語)だったので何をいったのかわからなかったが、後で上藤さんから聞いた話によると、「おまえら、血が見たいか?」といったそうだ。上藤さんがとぼけて「何のこと?やってごらんよ」と答えたところ、オヤジは眼を見開き、手に持っていた斧を上藤さんに向かって振りかざした!
 「ひいい!」緊張が走った瞬間、オヤジはニヤリと笑い、斧を下ろして上藤さんに握手を求めた。「ギャハハ、冗談だよ・・・」
 上藤さんによると、こうしてロマの人たちはよそ者を試すことがあるという。ここで本気になったり、怒ったりしてはいけない。本当に、彼らと付き合うことは一筋縄ではいかないのだ。

 メーラ村の祭りは今夜だが、そのまえにしっかりと食べておく必要がある。ツツェギさん家は農家で、野菜や鶏肉など自給自足の生活に近いが、今日はさばいたばかりの羊があるというので、それを庭の釜で炭焼きにして食べた。さばきたての羊肉は臭くなく、にんにくと塩コショウだけの素朴な味付けがよく合う。
 柵に干してあった羊の皮からは血が垂れていて、動物愛護団体の人が見たら卒倒しそうだが、われら4人の中には殺された羊の成仏を願うような者もなく、みんなガツガツと骨にかじりついていた。4人とも偽善的ベジタリアンは嫌い、ということで意見の一致をみたのだ。

 夜、セバスチャン・マルタとハンガリアン・バンド(正式な名前は最後までわからなかった)のコンサートを皮きりに祭りが始まった。村の公民館には200人くらいしか入らないので、コンサートというよりはリサイタルやライヴといった方が正しいかもしれない。
 我々は早めに会場に入ったので、前から3列目のいいポジションを確保できた。入場料は20000レイ、約80円・・・こんなんでいいのか?というより、高ければ村人は見られない訳だけど。
 さて、そのセバスチャン・マルタだが・・・ゼンマイじかけのような動きや張りのある声が、女性タレントの千秋に似ていた。(後で上藤さんに言ったら、一緒にするなと怒られたけど)
 しかし、さすがに世界に誇る喉で、1時間半にわたってヴァイオリンとベースに合わせてハンガリー民謡を朗々と歌い上げていた。隣の席も内田さんは「すげー、本当にディープフォレストの声だよ!」と、終始興奮気味であった。

 コンサートの後は並んでいた椅子が片付けられ、同じ会場がそのままダンスパーティの舞台となった。白や黄色のスカーフを被り、ヒダヒダのシャツに赤いスカートを履いた民族衣装の女の子たちが腕を組んで輪になり、「ヨホホホ・・・・」と声を上げながら、こっちが心配になるくらい本当によくクルクル回るのだ。
 音楽はプロのバンドが去った後、村の青年たちが奏でていたが、それでもとても上手だった。ペルー、アマンタニ島での年越しパーティでも思ったけど、こういった田舎の村では若者がよく民族楽器を練習している。

 この祭りは一応収穫祭らしく、酒や食べ物が用意されて飲めや踊れやの大騒ぎになると勝手に期待していたが、残念ながらその後も健全に踊りと音楽が続くだけだった。しばらく2階からクルクル回る娘たちの様子を見ていたが、疲れてきたので村のバーに寄って帰ることにした。
 バーにはどちらかというと「今時」の若者が集っていた。26歳にしてすでにかなりの貫禄を見せる、あるお姉ちゃんが「グフフ・・・こちらの日本のオニーさん、やせているけどセクシーね・・・」と接近してきたが、上藤さんによるとこの人は村一番の尻軽だそうで、多くの青少年がこの人のお世話になっているとか。しかし、私は他の村人たちと「兄弟」になる趣味もないので、一緒にビールを飲んで「グフフ」と笑うに止めておいた。

 メーラ村の祭りは朝まで続くそうだが、我々はきりの良いところでツツェギさん家に引き上げた。こうして我らメーラ村訪問団は目的を一応に果たし、明朝の解散を待つこととなった。明日からは村上さんと二人旅だ。


本日の走行距離           0キロ(計66129.3キロ)

出費                 7000L   カプチーノ2杯
     35000L ワイン
     16000L ビール2杯
     20000L コンサート
計     78000L
(約305円) 宿泊         ツツェギさんの家


2001年10月14〜15日(日、月) ルーマニアの田舎めぐり(Countrysides of Romania)

 14日の朝、上藤さんと、彼が通っているロマの家族の娘に見送られて、私と村上さん、内田さんの3人はメーラ村を後にした。この娘は昨夜もバーで会ったけど、言われなければロマとわからないほど色が白く、そして村一番の美人だ。性格が明るく、いつもキャッキャと笑っている。

 まずは20分ほど列車で揺られ、メーラ村の近くの交通の要所、クルジ・ナポカの街に出た。内田さんはこのままブダペストに戻るので、今夜のバスを待つという。村上さんのパスポートの延長手続きが終わるのが18日なので、我ら二人は急いでブカレストに行っても仕方がなく、それまで田舎を巡りながら南下しようということになった。
 今日の目的地をシギショアラという古い町に決め、都合よくそこに向かう急行列車がすぐにあったので二人で車上の人となった。
 我々にしてみれば大した差じゃないけど、地元の人にしてみれば急行列車の運賃は高く、昨日の鈍行列車に比べると格段に空いていて車両もきれいだった。クルジ・ナポカで買ったパンと生ハムを食べながら、快適な列車旅を楽しんだ。

 村上さんとはブダペストでもさんざん話したけど、本当に面白い人だ。道頓堀が服を着て歩いているようなバリバリの大阪人で、性格や生き方が私と180度違う。学歴はないけど、話をしてみると社会情勢や雑学に詳しく、実際によく本を読んで勉強をし、頭の回転がターボチャージャー内臓のように速く、そして人を見る目が確かだ。
 彼はモーターボートの販売店に勤めているとき、地元の暴力団関係者にとても気に入られ、そっち方面で売上を飛躍的に伸ばしたが、それが逆に問題となって「クビになった」という。その他にも自転車のメッセンジャー(メール急便)などをやっていたが、最近では2年間、イタリア料理屋のコックをやっていた。
 人に使われるというよりは自分で色々とやりたい経営者タイプで、そういえば昨日、私が「なぜかスーパーの雇われ店長になっていて、オーナーが代わるのでビクビクしている夢を見た」といったら、彼は「あかんなあ。なんでオーナーになっている夢じゃないの」と言っていた。

 午後6時半ごろ、シギショアラ到着、村上さんが知っていたモーテル風の安くて快適なペンションにチェックインした。
 シギショアラは古い時計台が中心の趣きのある町だったが、残念ながらデジカメの電池が切れて写真は撮れなかった。4本で20円というわけのわからん電池しか買えなかったのだが、案の定、電圧が足りなくて役に立たなかった。
 この町はかのドラキュラ伯爵の出生地で、その生家がレストランになっているのだが、今夜はそこで食べることにした。食にこだわる料理人と一緒じゃなければ、こんなピシっとしたレストランには入らないだろう。といってもルーマニアはハンガリーと比べても物価が格段に安く、名物だというソーセージとレバーの炒め物にビールをつけても600円にも満たなかった。

 翌15日はブカレストから100キロほど北にある山間のリゾート地、シナイアまで南下することにした。朝、ようやくカメラ屋でアルカリ電池を見つけた後、シギショアラ駅の待合室で列車を待っていたが、身なりの汚いロマの青年たちがずっと我々の荷物を見ていたり、「日本から辞書を送っておくれよ」という誠にズーズーしいオヤジまで登場して、雰囲気が良くなかった。
 今日はローカル列車にしたので時間がかかったが、その途中、また凄いものを車窓から見てしまった。畑仕事をしているルーマニア人のお婆さんに向かって、ロマの少年たちがガンガン石を投げつけているのだ。
 ホント、一筋縄ではいかない人たちよのう。こんなに手ごわい人たち、南米でもいないよ。

 午後4時ごろ、シナイア着。丘を登ったところにある安いホテルにチェックインしたあと、さっそく観光にでかけた。
 まずは19世紀末、初の統一ルーマニア王国の王となったカロル一世の離宮、ペレシュ城を見に行った。残念ながら内部には入れなかったが、緑をバックに白く美しい壁面が映えていた。
 城の奥にはチャウシェスクの別荘があり、林を抜けて見にいったのだが、警備の兵隊に難癖をつけられそうになったので早々と立ち去った。別荘はさすがに大きかったが、ペレシュ城を使えばいいのに、なんでわざわざ作らせたんだろう。(一応、共産主義は王族や貴族っぽいものを排斥するのが建前だからだろうか?しかし、どうせ内部は豪華絢爛なくせに)

 そして町の名前の由来にもなっているシナイア僧院に行ってみた。
 ルーマニアの国教はルーマニア正教といい、いわばこの国オリジナルのキリスト教なのだが、この僧院を見てもわかるとおり、教会などのデザインに強くトルコ支配時代の影響、つまりイスラム文化の影響が残っている。入り口の門なんて思いっきりイスラムアーチしているし、内部はモスクを彷彿とさせる薄暗さ、そして何とお香(!)がたかれていた。この雰囲気でキリスト様の宗教画を見上げるのって、とってもヘンな気分。
 僧侶も人形劇の黒子のようなエキゾチックな衣装を着ているし、アジアに近づいてきたのがよくわかる。村上さんによると、南のブルガリアではイスラム文化の影響がさらに強いという。

 物価が安いのをいいことに、その後は4星ホテルの喫茶店でコーヒーとケーキを楽しみ、夕食は別のホテルの豪華レストランで食べた。しかし、おすすめだという料理を頼んだら、昨夜ドラキュラレストランで食べたのと同じ料理だった。
 調子にのっていろいろ頼んでいたら、わりといい金額になってしまった。国によってレストランの注文の仕方には違いがあるが、ここルーマニアでは添え物の野菜やパンは別料金になる。メインデッシュが安いと喜んでいると、あとでその倍くらいの金額になることが多いのだ。
 それでも、日本で言えばファミレスぐらいの金額なんだけど・・・。


2日間の走行距離          0キロ(計66129.3キロ)

出費               440000L   メーラ村の宿泊費(2泊)
     218000L 列車代
     536000L 飲食費
     8000L ノート
     225000L シギショアラの宿泊費
     250000L シナイアの宿泊費
計     1677000L
(約6560円) 宿泊         Pension Hera(14日)
           Hotel Intem(15日)