昨日はよく晴れていたのに、今日はプラハに近づくにつれて暗くなってきた。
プラハに着くと同時に降り始め、郊外のキャンプ場にテントを張るころには本降りになっていた。雨の朝、テントを撤収して出発というのも相当に憂鬱だが、雨の中でテントをたてるというのも憂鬱だ。
しかし嘆いても始まらない。一息入れたあと、トラム(路面電車)に乗ってプラハの中心地に出かけた。
チェコの首都プラハは大都会である。中央にヴルタヴァ川が流れ、街は東岸と西岸とに大きく分かれるが、見所はそんなに散らばってはいない。今日向かったのは東岸の旧市街、歴史的な建物の多い地区だ。
しとしとと雨の降る中、折りたたみ傘をさして歩く。さすがにみんなが「イイ」と言う古都プラハ、相当きれいな街並みである。晴れていればもっと良いんだろうなあ・・・。
旧市街の中心となる「旧市街広場」の手前にインターネットカフェがあったので、雨の中をあくせく観光しても・・・と思い、メールの送受信を先にした。
その後は広場に出て、旧市庁舎やヤン・フス像などを見た。旧市庁舎には有名な「天文時計」があり、毎正時にカラクリが見られるという。ちょうど5分前だったので待ってみると・・・ガイコツ人形がチーン、チーンを鐘を鳴らし、時計の上にある二つの窓に次々と12使徒が現れた。
15世紀にこれを作った努力は認めるが、どこか滑稽で情けない。まるで閑古鳥が鳴く、どこかの地方遊園地のようなノリ・・・。
次は地下鉄に乗って、新市街の中心ヴァーツラフ広場に行って見た。国立博物館の前から始まるこの長細い広場は、チェコの歴史における数々のドラマの舞台となったところだ。
プラハといえば、「プラハの春」という言葉が思いだされる。戦後、チェコスロバキア(当時はまだスロバキアとの連邦だった)は選挙によって共産党が第一党となり、ソ連寄りの道を歩むことになったが、60年代に入ると一党独裁の政治に批判が集まるようになった。そして1968年、改革派の第1書記が就任し、一気に国はリベラル路線を歩もうとした。これが「プラハの春」である。
しかし、ソ連や他の東欧諸国はこの動きを激しく非難。そして同年8月、ソ連軍の戦車がこの広場に乗り入れ、改革派を制圧(チェコ事件)。これによって「プラハの春」は終わってしまった。
このソ連の介入に抗議し、ヤン・パラフという学生が広場の騎士像の前で焼身自殺を遂げた。今ではその場所に彼の慰霊碑があり、白い十字架の前には献花が絶えない。
そんなこんなでソ連に押さえこまれてしまったチェコスロバキアだったが、その20年後、民主化を求める学生たちのデモはくすぶっていた市民を再び動かした。100万人もの人々が広場に集結し、共産党は政権を放棄。ここに「ビロード革命」という無血革命が終了したのだ。
実話に弱い私、こういう場所に来てそのシーンを思い浮かべると・・・ジーンと来るなあ。
旧市街まで歩いて帰り、夕食でも食べて帰ろうかと思ったら、マクドナルドがあった。またマックか、さえないなあ・・・と思いながらも、疲れていたので入ってしまう。しかし、これが正解だった。
窓際の席でハンバーガーをバク ついていると、私の頭をポンを叩く人がいる。顔を上げるまでの一瞬で、これは小梅さんと得政さんだな、と思った。彼らもプラハにいるはずなのだ。
しかし対面したのは・・・おお!はーれーごり君(武田圭介)! 彼はチリで初めて会い、一緒にスペインまでバイクを送ったハーレー乗り。9月の頭にベルリンで会う約束だったが、その前にプラハで会ってしまうとは。確かにプラハは今まで彼がいたハンガリーからベルリンに走る途上にあるが、それにしてもすごい偶然だ。
スペイン以来の再会を喜ぶが、彼はこれから芝居を見に行くという。せっかく会ってこのまま別れるのも悲しいので、私はその間、またインターネットをして時間をつぶした。
夜9時になって芝居が終わったので、ごり君とビールを飲みに行き、別れてからのことを色々と話し合った。彼は明日、ベルリンの友達の家に行くというが、私は今日着いたばかりなので、もう1日プラハにいることにした。そして明後日、ベルリンの彼の友達の家で会うことを約束・・・楽しみだ。
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