旅の日記

ポーランド編その2(2001年8月27〜29日)

2001年8月27日(月) 人類の愚行(Auschwitz concentration camp)

 今日はクラクフの西、オシフィエンチムを訪れた。ポーランド語のこの地名はあまり知られていないが、ドイツ名「アウシュビッツ」といえば、あまりにも有名。第2次大戦中、最大規模の強制収容所、あるいは「殺人工場」があった場所だ。

 アウシュビッツに到着して駐車場に入ると、2台のオフロードバイクが停まっていた。2台とも千葉の国際ナンバー、日本人のバイクだ。走行距離を見ると、こちらも7万キロに手の届きそうな勢い・・・。
 持ち主はこの中だ。いざ、アウシュビッツ強制収容所跡に入場。

 入口にあったビジターセンターには、アウシュビッツで処刑されたある神父の逸話が版画のパネルで説明されていた。彼は他の囚人の身代わりとなって死んだのだ。

 「彼はあらゆる食べ物を、ひとかけらのパンに至るまで、まわりの人に分けあたえました。彼は人を励まし、そして人のために祈りました。
 彼はドイツ兵に目をつけられていました。苦しい強制労働、彼は他の人の2倍の荷を運ぶよう命じられました。私は見ていることができず、彼を手伝おうとしましたが、彼は拒否しました。『私を手伝えば、あなたも私もさらなる罰を受けるだろう・・・』
 ある時、彼はドイツ兵にひどい暴行を受けました。彼の鼻は折れ、顔は血まみれになりました。

 しかし、さらに大きな悲劇が待っていたのです。
 ある日、わが房から脱走者が出たのです。そしてその償いと見せしめのために、10人の囚人が処刑されることになりました。私の名前も、その中に入っていたのです。
 夜の点呼のときに、その10人は呼ばれました。そして私の名前が呼ばれた時、彼が、あの神父が、私の代わりに歩み出たのです。ドイツ兵は何も言いませんでした。彼はそのまま、飢餓室へと連行されました。
 そして2週間の飢餓地獄を味わったのち、彼は心臓への薬物注射で処刑されたのです・・・」

 戦後、ローマ法王によってこの神父には「聖者」の称号が与えられた。コルチャックだけではない、アウシュビッツにも英雄はいたのだ。

 ビジターセンターを抜けると、いよいよ強制収容所の敷地に入る。
 高圧電流の流れる鉄条網で囲まれた収容所には、大きな門があった。その上には「ARBEIT MACHT FREI」(働けば自由になる)とある。
 毎朝、何千人もの囚人がここをくぐって強制労働に向かい、そして夜、死んだ仲間たちの死体をかついで戻ってきたのだ。「働けば自由になる」、彼らはこの文字をどんな気持ちで見たのだろうか。悪意に満ちた、大きな嘘だ。
 よくみると、「B」の文字が天地逆になっている。この門も囚人たちが作ったもの、そしてこの逆さまの「B」は、せめてもの抵抗の証だという。

 門を抜けて中に入ると、煉瓦でつくられた囚人棟がほぼ当時のままの姿で残っている。中に入れる棟もあり、囚人たちの生前の写真や遺品の展示が胸を打つ。

 そしてアウシュビッツの敷地の中で、あの駐車場にあったバイクのオーナーたち、小梅さんと得政(とくせい)さんのカップルに出会った。彼らは2000年5月にカナダを出発し、私とほぼ同じルートをたどってここまで来たという。ノルドカップに到着したのも、ほんの数日違いだ。
 彼らもこの後、ビルケナウ(第2アウシュビッツ)に行くというので、一緒に行くことにした。

 出口近くに、コンクリートの無機質な建物があった。
 中に入ると石碑があり、「この場所で多くの人が殺されました。彼らの魂を尊重し、ここでは沈黙を守ってください」とある。・・・ガス室である。
 毎日、多くの囚人がこの部屋に押し込まれ、毒ガスの霧の中でもがきながら息絶えた。その数、150万人と言われている。
 ガス室の隣には焼却炉があり、死体を乗せた鉄板まで残っている。実に効率よく、流れ作業で虐殺を行うための施設。人類がどれほど愚かになれるか・・・物言わぬ証言者だ。

 駐車場にあった売店でハンバーガーを食べてから、今度は3キロほど離れたビルケナウ(第2アウシュビッツ)に向かった。ここにはアウシュビッツをはるかに凌ぐ大規模な収容所があったのだ。

 「死の門」をくぐって敷地に入ると、移送列車が到着した引き込み線がまっすぐ伸びている。この地に降り立ったユダヤ人たちは、まず男性と女性/子供に分けられ、さらに強制労働に耐えうるかを判断され、「否」と判断された者は、そのままガス室送りとなった。その割合、実に75パーセント。4人に一人だけが、まずこの時点で助かることができたのだ。

 しかし残り25パーセントの者たちを待っていたのは、ビルケナウの地獄のような日々だ。
 鉄条網に囲まれた見渡す限りの敷地には300を越える木製のバラックが建ち並び、彼らは傾いた粗末な3段ベッドで寒さに抱き合いながら寝たのだ。もとは52頭の馬を収容するために建てられたバラックに、時として400人を越える囚人が詰めこまれた。

 ある意味、アウシュビッツよりビルケナウの方が「収容所」という言葉がピッタリくる。戦争映画で見た捕虜収容所、そのままの姿だ。
 木造バラックの多くは崩れてしまったが、煉瓦で造られた暖炉の煙突が残っており、ズラリと並んだその様子から、いかにビルケナウが大規模だったかがわかる。引込み線の行きつく先には慰霊碑があり、各国の言葉で「2度とこの場所が悲劇の舞台にならないように・・・」と刻まれていた。
 広大な敷地、夏の陽射し、歩いているだけで汗が出る。これなら冬だけでなく、夏も苦しかったろう。しかし、囚人たちはシャワーを浴びる事もままならなかったのだ。

 ビルケナウを見終わったあと、小梅さんと得政さんとメールアドレスの交換をして別れた。もう少し話をしたかったが、彼らの宿泊先はクラクフではなく、反対方面の街のキャンプ場。しかし彼らもこの後チェコに向かい、そして東欧を見た後、アフリカ方面に下るという。彼らとは、またどこかで会える気がする。


本日の走行距離       144.8キロ(計61513.1キロ)

出費                    30zl  キャンプ場
     7.5zl アウシュビッツ駐車場
     5.5zl  昼食(ハンバーガー)
     1.2zl  飴
     10zl  夕食(またハンバーガー)
計     54.2zl(約1590円
宿泊         Camping Clepardia


2001年8月28日(火) クラクフでのんびり(A day off in Krakow)

 昨夜、激しい雷雨になった。
 キャンプ場は芝生だが、あまりの集中豪雨に水が土に染み込みきれず、あっというまに水浸し。テントもプカプカ浮いているような状態で、乾いているのは中央に敷いた銀マットの上くらい。
 あわてて全ての荷物を銀マットの上にあげ、余ったわずかなスペースに体育座りして嵐が過ぎ去るのを待った。一時はテントが押しつぶされるほどの風で、両腕で天井を支えなくてはならなかった。

 雨はすぐに去ったが、おかげで今朝は昨日より10度は涼しい。久しぶりに予定のない日なので、午前中にゆっくりと日記を打って、午後からクラクフの旧市街に出た。

 まずは先日のインターネットカフェに行って、フロッピーに落として持っていったHPのファイルをアップロードする。ドイツのステファンとスイスのトニーから9月の予定についてメールが来ていたので、返事を書いておいた。9月も中旬まで予定が入っているのだ。

 その後は旧市街を、かつての王城ヴァヴェル城まで歩いた。メインストリートには英語メニューのあるレストランや土産物屋、両替屋が並び、観光地そのものである。しかし、こういう雰囲気も嫌いではない。
 ヴァヴェル城の内部も見学できるのだが、城の中庭まで来たら、どうでも良くなってしまった。オープンカフェでビールを一杯飲んで、キャンプ場に戻った。

 次のお約束は、9月頭にベルリンでハーレー世界一周中の武田さん(ごり)と。それまでにチェコを抜ければ良いので、急ぐ必要は無いが、そろそろプラハに移動しようかなあ・・・。明日、晴れていれば動こう。


本日の走行距離        10.9キロ(計61524キロ)

出費                    30zl  キャンプ場
     19zl 食材の買物
     10zl  インターネット
     5zl  ビール
     10zl  夕食(中華)
計     74zl(約2160円
宿泊         Camping Clepardia
インターネット    Klub El Louisa


2001年8月29日(水) もぐらたたき!(Attack of a mole)

 朝、誰かに背中を押されて目が覚めた。
 といっても、私はテントの中で仰向けに寝ているのである。私の背中の下には銀マット、その下はテントのシート、そしてその下は地面だ。夢でも見ているのだろうか?
 いや、今一度、確かに背中を押される感触があった。けっこう強い力、まるで誰かがこぶしで突き上げているような・・・。
 飛び起きて銀マットをどかしてみる。すると、地面がモコモコと盛り上がってテントを押し上げている・・・これはモグラだ!!

 モグラの爪がどれほど鋭いか知らないが、このままテントを破られてはたまらない。かといって今さらテントを移動するのも面倒くさいので、ワインの瓶で盛りあがってきた地面をガンガン叩く。すると一時、モグラは静かになった。
 しかし、しばらくすると今度は別の場所でモコモコ・・・また瓶でたたく。また静かに・・・そしてまた他でモコモコ・・・ガンガン叩く。こりゃ、本物のモグラたたきだ!!

 何回かそれを繰り返すと、ようやくモグラ君は分かってくれたのか、別の浮上地点を探していなくなった。あー、びっくりしたけど面白かった。
 姿こそ見なかったが、本物のモグラと遭遇するなんて初めてだ。これがモグラじゃなくて人間の手だったりすると、オカルトの世界になってしまうのだが・・・。

 おかげで目が覚めたが、天気が悪い。空は鉛色、ときおり小雨も降ってくる。風邪気味でもあるし、今日の出発は延期。もう1日クラクフでのんびりしよう。

 午前中はテントの中でゆっくりメールを打ったり、リトアニアでダリョスからもらったバイクのゲームをして過ごした。このゲーム、1MBしか無いのに奥が深くてけっこう遊べるのだ。

 午後になって旧市街に向かったが、まだ雨が降っているのでバスで行く事にした。
  キャンプ場近くのバス停に行って見ると、なんと時刻表がある!しかも分単位で細かい! そしてバスはピッタリ時間に来た!・・・ポーランドを少し見直してしまった。

 さて、バスに乗ったのはいいが、システムが全然わからない。まわりの乗客は料金を払うわけでもなく、乗るとすぐに席に座ってしまった。降りるときに払うのだろうか?確認のために運転手のところに行くと・・・ 「☆○□?!★×Ω」・・・ 全然わからんて。
 仕方なく、停留所の度に乗客の動きを観察すると・・・みんなキップは初めから持っていて、それをバスの中にある改札機に入れている。車掌はいなく、きっと、抜き打ちで検札官が乗りこんできてチェックするのだろう。そしてその時に改札したキップを持っていないと、高額の罰金を支払わなくてはならないのだ。
 しまった!きっぷなんて持っていない!バスの中では売っていなく、きっとキオスクなんかで売っているのだろう。しかし今さら降りて買うのも面倒くさい。ええい、このまま行ってしまえ。検札官さん、来ないでね・・・と祈っている間に無事、旧市街に到着。何食わぬ顔で降りて、無賃乗車の完全犯罪、成立。

 まずはインターネットカフェでメールの送受信をした。他のサイトは問題無く開けるのに、今日はホットメールだけいやに遅い。数通のメールの送受信だけで2時間近くもかかってしまった。

 しかし今日は以前、ちょっとだけ仕事でご一緒した朝日新聞外報部のある記者の方からメールをいただいた。
  「こんなに筆が柔らかいんだったら、記者になれば良かったのに・・・」(注・私は朝日新聞で記者だった訳ではなく、主に文化事業・イベント等の営業職をしていた)
 嬉しかった。私のHPを見てくれているだけでなく、本職の文章書きからお褒めの言葉をいただくとは・・・。毎日、テントの中で背中を丸めて書いている甲斐があるというものだ。

 カフェを出ると青空が覗いていた。これなら明日、出発できるだろう。
 帰りはちゃんときっぷを買ってバスに乗り、スーパーに寄って安いステーキ肉を買った。ポーランドは他の東欧諸国に比べると物価は高い方らしいが、北欧なんかと比べると天国だ。明日入国するチェコはどんなもんだろう?


本日の走行距離           0キロ(計61524キロ)

出費                    30zl  キャンプ場
     8.5zl 食材の買物
     10zl  インターネット
     8zl  ワイン
     2.2zl  バス
     6zl  昼食(ケバブ)
計     64.7zl(約1890円
宿泊         Camping Clepardia
インターネット    Klub El Louisa