今日はクラクフの西、オシフィエンチムを訪れた。ポーランド語のこの地名はあまり知られていないが、ドイツ名「アウシュビッツ」といえば、あまりにも有名。第2次大戦中、最大規模の強制収容所、あるいは「殺人工場」があった場所だ。
アウシュビッツに到着して駐車場に入ると、2台のオフロードバイクが停まっていた。2台とも千葉の国際ナンバー、日本人のバイクだ。走行距離を見ると、こちらも7万キロに手の届きそうな勢い・・・。
持ち主はこの中だ。いざ、アウシュビッツ強制収容所跡に入場。
入口にあったビジターセンターには、アウシュビッツで処刑されたある神父の逸話が版画のパネルで説明されていた。彼は他の囚人の身代わりとなって死んだのだ。
「彼はあらゆる食べ物を、ひとかけらのパンに至るまで、まわりの人に分けあたえました。彼は人を励まし、そして人のために祈りました。
彼はドイツ兵に目をつけられていました。苦しい強制労働、彼は他の人の2倍の荷を運ぶよう命じられました。私は見ていることができず、彼を手伝おうとしましたが、彼は拒否しました。『私を手伝えば、あなたも私もさらなる罰を受けるだろう・・・』
ある時、彼はドイツ兵にひどい暴行を受けました。彼の鼻は折れ、顔は血まみれになりました。
しかし、さらに大きな悲劇が待っていたのです。
ある日、わが房から脱走者が出たのです。そしてその償いと見せしめのために、10人の囚人が処刑されることになりました。私の名前も、その中に入っていたのです。
夜の点呼のときに、その10人は呼ばれました。そして私の名前が呼ばれた時、彼が、あの神父が、私の代わりに歩み出たのです。ドイツ兵は何も言いませんでした。彼はそのまま、飢餓室へと連行されました。
そして2週間の飢餓地獄を味わったのち、彼は心臓への薬物注射で処刑されたのです・・・」
戦後、ローマ法王によってこの神父には「聖者」の称号が与えられた。コルチャックだけではない、アウシュビッツにも英雄はいたのだ。
ビジターセンターを抜けると、いよいよ強制収容所の敷地に入る。
高圧電流の流れる鉄条網で囲まれた収容所には、大きな門があった。その上には「ARBEIT MACHT FREI」(働けば自由になる)とある。
毎朝、何千人もの囚人がここをくぐって強制労働に向かい、そして夜、死んだ仲間たちの死体をかついで戻ってきたのだ。「働けば自由になる」、彼らはこの文字をどんな気持ちで見たのだろうか。悪意に満ちた、大きな嘘だ。
よくみると、「B」の文字が天地逆になっている。この門も囚人たちが作ったもの、そしてこの逆さまの「B」は、せめてもの抵抗の証だという。
門を抜けて中に入ると、煉瓦でつくられた囚人棟がほぼ当時のままの姿で残っている。中に入れる棟もあり、囚人たちの生前の写真や遺品の展示が胸を打つ。
そしてアウシュビッツの敷地の中で、あの駐車場にあったバイクのオーナーたち、小梅さんと得政(とくせい)さんのカップルに出会った。彼らは2000年5月にカナダを出発し、私とほぼ同じルートをたどってここまで来たという。ノルドカップに到着したのも、ほんの数日違いだ。
彼らもこの後、ビルケナウ(第2アウシュビッツ)に行くというので、一緒に行くことにした。
出口近くに、コンクリートの無機質な建物があった。
中に入ると石碑があり、「この場所で多くの人が殺されました。彼らの魂を尊重し、ここでは沈黙を守ってください」とある。・・・ガス室である。
毎日、多くの囚人がこの部屋に押し込まれ、毒ガスの霧の中でもがきながら息絶えた。その数、150万人と言われている。
ガス室の隣には焼却炉があり、死体を乗せた鉄板まで残っている。実に効率よく、流れ作業で虐殺を行うための施設。人類がどれほど愚かになれるか・・・物言わぬ証言者だ。
駐車場にあった売店でハンバーガーを食べてから、今度は3キロほど離れたビルケナウ(第2アウシュビッツ)に向かった。ここにはアウシュビッツをはるかに凌ぐ大規模な収容所があったのだ。
「死の門」をくぐって敷地に入ると、移送列車が到着した引き込み線がまっすぐ伸びている。この地に降り立ったユダヤ人たちは、まず男性と女性/子供に分けられ、さらに強制労働に耐えうるかを判断され、「否」と判断された者は、そのままガス室送りとなった。その割合、実に75パーセント。4人に一人だけが、まずこの時点で助かることができたのだ。
しかし残り25パーセントの者たちを待っていたのは、ビルケナウの地獄のような日々だ。
鉄条網に囲まれた見渡す限りの敷地には300を越える木製のバラックが建ち並び、彼らは傾いた粗末な3段ベッドで寒さに抱き合いながら寝たのだ。もとは52頭の馬を収容するために建てられたバラックに、時として400人を越える囚人が詰めこまれた。
ある意味、アウシュビッツよりビルケナウの方が「収容所」という言葉がピッタリくる。戦争映画で見た捕虜収容所、そのままの姿だ。
木造バラックの多くは崩れてしまったが、煉瓦で造られた暖炉の煙突が残っており、ズラリと並んだその様子から、いかにビルケナウが大規模だったかがわかる。引込み線の行きつく先には慰霊碑があり、各国の言葉で「2度とこの場所が悲劇の舞台にならないように・・・」と刻まれていた。
広大な敷地、夏の陽射し、歩いているだけで汗が出る。これなら冬だけでなく、夏も苦しかったろう。しかし、囚人たちはシャワーを浴びる事もままならなかったのだ。
ビルケナウを見終わったあと、小梅さんと得政さんとメールアドレスの交換をして別れた。もう少し話をしたかったが、彼らの宿泊先はクラクフではなく、反対方面の街のキャンプ場。しかし彼らもこの後チェコに向かい、そして東欧を見た後、アフリカ方面に下るという。彼らとは、またどこかで会える気がする。
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