旅の日記

ポーランド編(2001年8月24〜26日)

2001年8月24日(金) ポーランド入国(Entering Poland)

 お世話になったエルゲミウスの整備工場は、午前11時ごろに出発した。私が起きた8時には早くも工場は動きはじめ、出発するころにはすでに一休憩を入れているところだった。ここの工場は、社長以外は本当によく働く。

 さて、ポーランドに下る前にパネヴェリスにあるダリョスのオフィスに寄ってインターネットをする必要があるが、街に入る手前、一人の自転車旅行者を追い越した。間違いない、日本人。ヨーロッパに渡って初めて会う日本人チャリダーだ。
 道路脇にバイクを停め、走ってきた彼に日本語で話しかける。すると、若い彼は別段驚いた風でもなく、「はあ・・・」という消極的な反応。走ってきたルートなど簡単な会話をしたのち、道路脇で話し続けるのもなんなので、私は「これから一緒に友人のところに行きましょうか」と提案した。彼は今夜、パネヴェリスに泊まるつもりなのだ。
 彼にクラブの事や、今までのいきさつを説明したが、それでも「はあ・・・」という反応。気を使うのが嫌らしい。まあ、それならそういうことで、お気をつけて・・・と別れた。

 おそらく彼は今夜、ホテルで気を使わない一夜を過ごすだろう。しかし私と一緒にダリョスのところに行けば、タダ飯とタダ宿とタダインターネットにありつけるばかりか、気持ちのいい連中と知り合うことができ、そしてなかなか見られないリトアニア人の素顔を見ることができたのだ。
 人の旅のスタイルを批判するものではないが・・・人との出会いがこんなに旅を変えるのか、と再認識したばかりの私は、正直いって残念だった。

 そしてダリョスのオフィスに到着。早速彼のシステムと私のパソコンをLAN接続させてもらうが、プロキシサーバーの設定が悪いのか、システムには認識されるのにインターネットに接続できない。仕方なく彼のパソコンからHPをアップロードさせてもらうが、今度はキャッシュの関係だろう、何回「更新」を行っても表紙の写真と地図が古いまま。確かにアップロードは終了しているのだが・・・。
 午後2時過ぎまで粘ったが、問題は解決しないまま。他のパソコンで見ればきっと更新はされているだろうと推測し、あきらめる。
 さてみなさん、どうだったでしょう?ちゃんと美形モデルに囲まれた私の写真が表紙になってました?

 ダリョスに別れを告げ、パネヴェリスを出発。思ったよりも時間がかかってしまったので、今日は約200キロ先のポーランドに入国することが目標だ。
 そして午後5時ごろ、国境に到着。道路にはトラックと車の長蛇の列ができていたが、バイクの私は失敬して一番先頭に割りこませてもらった。ラッキー!
 リトアニア側の出国手続きは何もなし、したがって1日オーバーした自動車保険も問題なし。ポーランド側で2週間有効の自動車保険を買い、国境を後にする。これで44カ国目、ポーランドに無事入国。

 北欧からだいぶ南下してきたし、8月ももう終りなので、最近陽が落ちるのが早い。国境から少し走ったところに24時間営業のドライブインがあり、そこの前庭がキャンプ場になっていたので、今夜はそこに泊まることにした。
 しかしさっきの国境といい、ここのドライブインといい、まったく英語が通じない。バルト3国で意外と英語が使えた分、ポーランドで久しぶりに言葉で苦労しそうだ。


本日の走行距離       257.4キロ(計60658.3キロ)

出費                    12lts  昼食(魚フライ)
     43.5lts  ガソリン
     17zl  ポーランド保険
     17zl  キャンプ場
     16.5zl  夕食(薄い肉を巻いた料理)
計     55.5lts(約1660円
      50.5zl (1ドル=約4.1ズウォッティ、約1480円 宿泊         Tir-Port
インターネット    ダリョスのオフィス


2001年8月25日(土) コルチャック先生の墓参り(The grave of Dr.Korczak)

 ドライブインから首都ワルシャワ方面に向かったが、途中で南に折れ、田舎道に入った。私は今回、ワルシャワには行かない。そのかわり、どうしても行かねばならない場所があるのだ。
 ワルシャワの北東約80キロ、寒村トレブリンカ。私のロードマップには名前すら載っていなく、途中のガソリンスタンドで詳しい地図を立ち読みして場所を確認した。当然、ガイドブックの類に載る事もない。

 昼食の後に、本当に何にもない村に到着した。見つけられるか不安だったが、意外にもちゃんとした標識があって、それに従って森の中に入っていくと・・・あった。
 トレブリンカ強制収容所跡。そう、かつてこの地にはナチス・ドイツによるユダヤ人強制収容所があった。入口の石碑によると、1942年から43年にかけてナチス占領下の各国から80万人ものユダヤ人がここに連行され、そして生きて出る事はなかった。彼らは実に効率よくガス室で処刑され、隣の大きな焼却炉で燃やされたのだ。
 「収容所」とは名ばかりの殺人工場。ナチスは敗戦の色が濃くなると、証拠隠滅のためにここを破壊した。だから、今では巨大な石のモニュメントだけがこの地で起きた悲劇を物語っている。

 ナチスの強制収容所跡といえば「アウシュビッツ」や、さらに大規模だった「ビルケナウ」、あるいは「マイダネク」が有名である。両者にはほぼ完全な形で残っている部分もあり、博物館もある。しかしなぜ、私はトレブリンカに足を運んだのか。それを説明するには「ヤヌシュ・コルチャック」という人物を説明しなければならない。

 ヤヌシュ・コルチャック、ユダヤ名ヘンリック・ゴールドシュミットは、19世紀後半から20世紀前半にかけて実在したユダヤ人医師であり作家、そしてワルシャワにあったユダヤ人孤児院の院長だった。周知のとおりポーランドはナチスに占領され、陥落したワルシャワからは大量のユダヤ人が強制収容所に送られたが、コルチャックと孤児たちも例外では無かった。

 彼らが孤児院から収容所行きの列車まで歩いた様子を、目撃した人たちがいる。彼らの証言によると、コルチャックと白い服を着た子どもたちは堂々と行進し、中にはダビデの星の旗を振っている子もいたという。その姿はまるで天使のようで、彼らが列車に乗り込む様子は周囲の涙を誘ったそうだ。
 そして列車が動き出そうというとき、ナチス将校にコルチャック特赦の報が届いた。彼は高名であったため、支持者によって提出されていた嘆願書が受理されたのだ。これでコルチャックはワルシャワに残ることが、生きのびることができる。しかし特赦がおりたのは彼一人だけ、子どもたちは死の運命を免れる事ができない。
 どうして自分一人だけ助かることができようか?・・・彼は列車を降りることはなかった。そして子どもたちとともに、戻る事のない旅路についたのだ。

 そして彼らが移送されたとされる先が、トレブリンカなのだ。
 「移送されたとされる」と不確かなのは、ワルシャワからトレブリンカまでわずかに80キロだが、家畜のごとく人を詰めこんだ列車は時としてそのまま数日間も放置されることがあり、その場合、体力のない子どもたちや高齢だったコルチャックは収容所に行き着く前に死んだ可能性があるのだ。しかも、史実によると彼らが移送されたのは真夏。
 しかし、いずれにせよ彼らが最後に目撃されたのはトレブリンカ行きの列車。そしてトレブリンカが彼らの死んだ場所とされる。

 コルチャックと子どもたちの物語は語り継がれ、ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督によって映画にもなったが、我が日本でも1995年と1997年の2回、加藤剛さんの主演で舞台劇になり、東京と大阪で上演されている。そして何を隠そう、私はその劇のスタッフとして、どっぷりとコルチャックに浸かった二夏を過ごしているのだ。
 新聞を中心とした広報・宣伝活動や、劇場販売用のプログラムの編集が私の担当だったが、そのなかで何回「ワルシャワの北東約80キロ・・・」という表現を使っただろうか。以来、トレブリンカの名は私の頭を離れることはなく、ポーランドに来たら必ず行こうと決めていたのだ。

 前置きが大変に長くなったが、こうして私は数年後、トレブリンカを訪れたというわけだ。

 駐車場にバイクを置き、実際に収容所の建物があった場所に向かうと、石の柱が横になって並べられたモニュメントが目に入った。これは移送列車を導いた引込み線を意味している。その脇にはプラットホームがあり、反対側に等間隔に立てられた荒い石柱はドイツ兵だという。
 ・・・ユダヤ人たちは、どんな気持ちでここに降り立ったのだろう。

 彼らが押し込められたバラックのあったあたりには、巨大な石の慰霊碑がある。そして、その前の石には各国の言葉で「Never Again」と彫られていた。2度とあの悲劇を繰り返さないために。

 しかし、人類は本当にあの戦争から学んだのだろうか。
 解決の糸口すら見えない中東紛争、ポル・ポトによるカンボジアの大虐殺、アフリカ各地の内戦、旧ユーゴの民族紛争など・・・すべてあの戦争の後に起こったことである。

 ・・・まったく音の無かった収容所跡に、子どもたちの笑い声がこだました。家族連れがやってきたのだ。
 トレブリンカの悲劇は確かに終わった。しかし、人類の悲劇はまだ続く。世界のどこかで、おそらく永遠に・・・。

 慰霊碑のまわりには無数の石が並べられており、おそらく、その一つ一つが墓標なのだろう。そして、その中に「ヤヌシュ・コルチャックと子どもたち」と彫られた石をみつけた。これが彼らの墓だ。
 しまった、何も持ってこなかった。ロウソクならザックの中に入っていたのだが・・・あ、ペットボトルに入れた残りもののウオッカ、コルチャック先生は飲んだだろうか?

 石の前で、静かに手を合わせた。先生、日本からやってきましたよ・・・。

 コルチャック先生と子どもたちの墓参りを果たした後は、次の目的地クラクフ目指してひたすら南下。
 陽が落ちるころになって宿を探しはじめるが、西側諸国では腐るほどあるキャンプ場が見当たらない。ガソリンスタンド併設のモーテルも80〜90ズウォッティが相場と高いが・・・粘って探したら、50のモーテルを発見、しかも40に値切った。
 夕食はガソリンスタンドの食堂でビールつきで約200円。外食費が安くなったのが嬉しいところだ。


本日の走行距離       482.3キロ(計61140.6キロ)

出費                    33zl  ガソリン
     10zl 朝食(ハムサンド)
     3.5zl  昼食(ピザ、激マズ)
     40zl  ホテル
     7.4zl  夕食(ハンバーグ?のようなもの)
計     93.9zl(約2750円
宿泊         Motel Noclegi


2001年8月26日(日) クラクフ到着(Old town of Krakow)

 約200キロほど走って、クラクフ到着。
 ポーランドでも最大の観光都市なのでキャンプ場も多く、早速街の入り口に看板を発見。住宅地に囲まれたキャンプ場だが、電気も使えてキッチンもあり、なかなか居心地は良さそうだ。
 テントを張り、近くのスーパーで買物をして昼食を食べてから、クラクフの中心地にでかけた。

 クラクフはポーランドでは珍しく、第2次世界大戦の戦禍を免れた都市。ポーランドはドイツ軍とソ連軍の主戦場であったため、ワルシャワをはじめとする主だった都市はことごとく破壊されたのだ。ワルシャワにも「旧市街」はあるが、戦後、人々の努力によって復元されたもの。
 その点、クラクフはポーランド王国最盛期の首都だった面影を色濃く残し、世界遺産にも登録されている。50キロ西には、やはり世界遺産のアウシュビッツ強制収容所もあり、ポーランド観光の一大拠点となっているのだ。

  しかし今日、私がまず向かったのは日本美術・技術センター「マンガ」。ここは日本美術マニアだった故フェリクス・マンガ・ヤシェンスキのコレクションを展示した、ちょっとした美術館だ。ちなみに「マンガ」とは、浮世絵画家の「北斎漫画」からとった彼のペンネームだという。
 私がここに来た理由は、9月に再会するドイツ、ニュルンベルグのステファン&エバにお土産を買うためだ。彼らは日本美術のファンであるため、きっとここの売店になら喜ばれる品があると思ったのだ。すると安藤広重の手頃な画集を発見、彼らのために一冊買った。
 日曜日は入場が無料だというので展示を見てみるが、小規模なものの北斎、広重、写楽、歌麿など、名だたる作家の浮世絵が揃っている。考えてみれば本物の浮世絵など見た記憶がなく、それを遠く異国の地で英語の説明を読みながら果たすとは、不思議な気分だ。

 その後はクラクフの旧市街を散策。かつての王城など観光スポットはあるのだが、もう夕方で閉まっている時間だ。
 目的もなしに歩いていると、インターネットカフェが数軒あった。グローバルIMEのCDを持ってきたので、そのうちの一軒に入ってインストール、日本語メールの送受信を行う。件数がけっこうあったので2時間半もかかったが、それでも15ズウォッティと安かった。
 考えてみれば、インターネットカフェを利用したのはイタリアのベネチア以来、実に40日ぶりだ。最近はずっと人の家でやっていたから・・・。

 夕食にケバブを食べてからキャンプ場に戻った。ここまで下ってくると、夜でもテントの中は汗ばむほど暑い。もうしばらく夏は続きそうだ。


本日の走行距離       227.7キロ(計61368.3キロ)

出費                     9zl  朝食(チキンバーガー)
     30zl ガソリン
     33.17zl  食材の買物
     30zl  キャンプ場
     15zl  インターネット
     20zl  テレホンカード
     6zl  夕食(ケバブ)
計     143.17zl(約4190円
宿泊         Camping Clepardia
インターネット    Klub El Louisa