ドライブインから首都ワルシャワ方面に向かったが、途中で南に折れ、田舎道に入った。私は今回、ワルシャワには行かない。そのかわり、どうしても行かねばならない場所があるのだ。
ワルシャワの北東約80キロ、寒村トレブリンカ。私のロードマップには名前すら載っていなく、途中のガソリンスタンドで詳しい地図を立ち読みして場所を確認した。当然、ガイドブックの類に載る事もない。
昼食の後に、本当に何にもない村に到着した。見つけられるか不安だったが、意外にもちゃんとした標識があって、それに従って森の中に入っていくと・・・あった。
トレブリンカ強制収容所跡。そう、かつてこの地にはナチス・ドイツによるユダヤ人強制収容所があった。入口の石碑によると、1942年から43年にかけてナチス占領下の各国から80万人ものユダヤ人がここに連行され、そして生きて出る事はなかった。彼らは実に効率よくガス室で処刑され、隣の大きな焼却炉で燃やされたのだ。
「収容所」とは名ばかりの殺人工場。ナチスは敗戦の色が濃くなると、証拠隠滅のためにここを破壊した。だから、今では巨大な石のモニュメントだけがこの地で起きた悲劇を物語っている。
ナチスの強制収容所跡といえば「アウシュビッツ」や、さらに大規模だった「ビルケナウ」、あるいは「マイダネク」が有名である。両者にはほぼ完全な形で残っている部分もあり、博物館もある。しかしなぜ、私はトレブリンカに足を運んだのか。それを説明するには「ヤヌシュ・コルチャック」という人物を説明しなければならない。
ヤヌシュ・コルチャック、ユダヤ名ヘンリック・ゴールドシュミットは、19世紀後半から20世紀前半にかけて実在したユダヤ人医師であり作家、そしてワルシャワにあったユダヤ人孤児院の院長だった。周知のとおりポーランドはナチスに占領され、陥落したワルシャワからは大量のユダヤ人が強制収容所に送られたが、コルチャックと孤児たちも例外では無かった。
彼らが孤児院から収容所行きの列車まで歩いた様子を、目撃した人たちがいる。彼らの証言によると、コルチャックと白い服を着た子どもたちは堂々と行進し、中にはダビデの星の旗を振っている子もいたという。その姿はまるで天使のようで、彼らが列車に乗り込む様子は周囲の涙を誘ったそうだ。
そして列車が動き出そうというとき、ナチス将校にコルチャック特赦の報が届いた。彼は高名であったため、支持者によって提出されていた嘆願書が受理されたのだ。これでコルチャックはワルシャワに残ることが、生きのびることができる。しかし特赦がおりたのは彼一人だけ、子どもたちは死の運命を免れる事ができない。
どうして自分一人だけ助かることができようか?・・・彼は列車を降りることはなかった。そして子どもたちとともに、戻る事のない旅路についたのだ。
そして彼らが移送されたとされる先が、トレブリンカなのだ。
「移送されたとされる」と不確かなのは、ワルシャワからトレブリンカまでわずかに80キロだが、家畜のごとく人を詰めこんだ列車は時としてそのまま数日間も放置されることがあり、その場合、体力のない子どもたちや高齢だったコルチャックは収容所に行き着く前に死んだ可能性があるのだ。しかも、史実によると彼らが移送されたのは真夏。
しかし、いずれにせよ彼らが最後に目撃されたのはトレブリンカ行きの列車。そしてトレブリンカが彼らの死んだ場所とされる。
コルチャックと子どもたちの物語は語り継がれ、ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督によって映画にもなったが、我が日本でも1995年と1997年の2回、加藤剛さんの主演で舞台劇になり、東京と大阪で上演されている。そして何を隠そう、私はその劇のスタッフとして、どっぷりとコルチャックに浸かった二夏を過ごしているのだ。
新聞を中心とした広報・宣伝活動や、劇場販売用のプログラムの編集が私の担当だったが、そのなかで何回「ワルシャワの北東約80キロ・・・」という表現を使っただろうか。以来、トレブリンカの名は私の頭を離れることはなく、ポーランドに来たら必ず行こうと決めていたのだ。
前置きが大変に長くなったが、こうして私は数年後、トレブリンカを訪れたというわけだ。
駐車場にバイクを置き、実際に収容所の建物があった場所に向かうと、石の柱が横になって並べられたモニュメントが目に入った。これは移送列車を導いた引込み線を意味している。その脇にはプラットホームがあり、反対側に等間隔に立てられた荒い石柱はドイツ兵だという。
・・・ユダヤ人たちは、どんな気持ちでここに降り立ったのだろう。
彼らが押し込められたバラックのあったあたりには、巨大な石の慰霊碑がある。そして、その前の石には各国の言葉で「Never
Again」と彫られていた。2度とあの悲劇を繰り返さないために。
しかし、人類は本当にあの戦争から学んだのだろうか。
解決の糸口すら見えない中東紛争、ポル・ポトによるカンボジアの大虐殺、アフリカ各地の内戦、旧ユーゴの民族紛争など・・・すべてあの戦争の後に起こったことである。
・・・まったく音の無かった収容所跡に、子どもたちの笑い声がこだました。家族連れがやってきたのだ。
トレブリンカの悲劇は確かに終わった。しかし、人類の悲劇はまだ続く。世界のどこかで、おそらく永遠に・・・。
慰霊碑のまわりには無数の石が並べられており、おそらく、その一つ一つが墓標なのだろう。そして、その中に「ヤヌシュ・コルチャックと子どもたち」と彫られた石をみつけた。これが彼らの墓だ。
しまった、何も持ってこなかった。ロウソクならザックの中に入っていたのだが・・・あ、ペットボトルに入れた残りもののウオッカ、コルチャック先生は飲んだだろうか?
石の前で、静かに手を合わせた。先生、日本からやってきましたよ・・・。
コルチャック先生と子どもたちの墓参りを果たした後は、次の目的地クラクフ目指してひたすら南下。
陽が落ちるころになって宿を探しはじめるが、西側諸国では腐るほどあるキャンプ場が見当たらない。ガソリンスタンド併設のモーテルも80〜90ズウォッティが相場と高いが・・・粘って探したら、50のモーテルを発見、しかも40に値切った。
夕食はガソリンスタンドの食堂でビールつきで約200円。外食費が安くなったのが嬉しいところだ。
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