旅の日記

ペルー・マチュピチュ編(2000年12月7日)

2000年12月7日(木) マチュピチュ遺跡とご対面(Machu Pichu ruins)

 朝5時45分に起き、7時すぎに駅に行く。早朝も市場関係の人の往来があり、駅周辺は危ないとは感じなかった。それでも私は数日分の荷物を入れたタンクバッグを前にかけて緊張しながら歩いていたが、後から来た白人旅行者たちはフツーにリュックを背負い、フツーに歩いてきていた。

 列車はディーゼル機関車込みで4両編成。朝7時半、ガッタンゴットン激しく揺れながら駅を出発した。駅を出てすぐ、列車は盆地のクスコを囲む山々を登り始めた。クスコ市街がよく見えるなあと思っていると、突然列車は止まり、バックしだした。何で引き返すのかと驚いていたら、よく見るとさっきと景色が違う。急な斜面にカーブをつくるのは難しいので、線路は直線のままジグザグに斜面を登っているのだ。そこを列車は前にいったり後ろに行ったりしながら、少しずつ、歩くような速度で登って行く。
 朝が早かったので寝ながら行こうと思っていたが、列車の揺れは半端じゃなく、トイレに立とうと思っても転びそうになるほど。とても熟睡はできない。
 しかしウルバンバ川が創り出した「聖なる谷」に沿って走る車窓からは、大変美しい景色が見られた。天気がよく、目の前にそびえる緑まぶしいアンデスの向こうには、ときおり雪を被った高い頂も見られた。

  午前11時過ぎ、マチュピチュのふもと、アグアス・カリエンテス駅に到着。この時間からマチュピチュに登るのは少々中途半端な気もしたが、天気も良さそうだし、今日だけで満足できなければ明日も行けばいいや。早速駅から出ているマチュピチュ行きのバスに乗る。
 バスはマチュピチュを発見したアメリカ人歴史学者の名前がつけられた「ハイラム・ビンガム道路」と呼ばれるつつら折れの激しい登り道を20分ほどで登りきり、いよいよ遺跡の入り口へ。ここでも学生証が効力を発揮、入場料が半額になった。

 まずは遺跡を一望できる、「見張り小屋」に登る。段々畑の上に設けられた、マチュピチュ遺跡を見下ろす小屋の付近からは、絵葉書やポスターでおなじみの、遺跡の背後にワイナピチュ峰がそびえる景色が見られる。
 ・・・長かった。この景色に憧れつづけ、どれほどの時がたっただろう。当初の予定より1年は遅れてようやく見ることのできたマチュピチュは、決して期待を裏切るものではなかった。デジカメだから後で消せるのだが、何枚も何枚も、飽きずに写真を撮りまくる。三脚も出して、自分も一緒に写る。本格的な遺跡見学をはじめるまで、少なくても30分はここからマチュピチュの全景を眺めていた。

 マチュピチュとは、インカ帝国の公用語だったケチュア語で「老いた峰」という意味。マチュピチュは標高約2300メートルの山頂に造られたこの都市全体と、見張り小屋がある側の峰のことを指し、遺跡の背後にある頂は「ワイナピチュ(若い峰)」と呼ばれる。しかし、これらの名前はこの空中都市が忘れ去られて400年後、1911年にハイラム・ビンガムが発見した後につけられたそうで、本来の名前は分かっていないそうだ。
 マチュピチュはインカの遺跡とされるが、少なくてもインカ文明以前からこの険しい地に人は住みついていたらしい。16世紀、スペイン人によって首都クスコを占領されたインカ人たちの一部はアンデスに逃れ、ここマチュピチュで帝国復活を祈りながら秘密裏に生活を営んだというのが通説だが、実はスペイン人が来たときにはすでにマチュピチュは放棄されていたのでは、という説があるそうだ。

 昨夜安部さんから聞いた話なのだが、マチュピチュからは屋根瓦が1枚も発見されていないのだ。インカ文明には鉄や車輪、文字が無かったとされるが、瓦も無く、屋根はワラなどでふかれていた。スペイン人はクスコを占領した後、本国でやっているように建物の屋根を瓦でふきだした。当然ワラよりは瓦の方が優れているから、その技術は占領下にあったインカ人たちの間にも普及したという。そしてもし、当時マチュピチュに人がに残っていたとしたら、当然ここにも瓦の技術が伝わってきたはずだというのだ。
 確かな証拠は何も無い。マチュピチュにインカ人が長く住んでいたという痕跡はあるが、いつから住んでいたのか、いつまで住んでいたのか、誰にも分からないのだ。しかし、このような推理を考えるだけでロマンがあふれるではないか。

 「見張り小屋」の後は、いったん遺跡とは反対側に向かい、「インカの橋」を見に行った。
  インカ人は車輪を使わず、動物にも乗らなかったから、移動は全て人自身が歩いたり走ったりすることによってのみ行われていた。最盛期には今のエクアドルからチリ北部までに及んでいた大帝国には都市間を結ぶ「インカ道」という歩道が縦横に張り巡らされ、チャスキと呼ばれる飛脚が文字の代わりに伝達事項を結び目で記録した「キープ」と呼ばれる縄を持って、飛ぶような速さで駆け巡ったのである。その速さはクスコからリマまでの600キロが3日、エクアドルまででも7日しかかからなかったという。って、俺のバイクより速いじゃん!!何者だ、インカ人!
 話を戻すと、この「インカの橋」はマチュピチュから伸びているインカ道にかけられている丸太の橋で、敵が近づいてきたら丸太を落とし、進路を遮断する仕組みになっていたという。私が驚いたのはこの橋よりその先に伸びているインカ道で、高さ数百メートルの垂直な断崖に、人がようやく歩けるだけの幅の道が彫ってあるのだ(自然にできたとは思えない)。こんなところを、チャスキたちはおそらく走って行ったのだろう。人間、所変わればすごい能力を発揮する人たちがいるものだなあ。

 その後は、かつては高い塀で四方を囲まれていたと言う都市本体の方の観光を始める。

 「神聖な広場」や、インカの初代皇帝が生まれたという伝説のある「三つの窓の神殿」などを見て、都市の最高地点にある「インティワタナ」まで来た。高さ約1.5メートルほどのこのモニュメントは、高く突き出した立方体の四辺が正確に東西南北を指していることから日時計とされるが、証拠は無い。このようなインティワタナは他のインカ遺跡にも見られるが、スペイン人によってことごとく破壊されたため、完全な形で残っているのは侵略者の来なかったマチュピチュだけだった。しかしほんの1ヵ月前、地元ペルーのTV局が撮影に来た際、カメラ用に組んだ脚立かハシゴが倒れてこのインティワタナに直撃、頂上の立方体の一辺が欠けてしまったそうだ・・・。世界遺産に、何すんねん。

 ワイナピチュにも登りたかったが往復で2時間はかかるそうで、午後1時で門も閉められていたのであきらめる。
 ワイナピチュの上り口近くには「聖なる岩」というのがあり、かつてインカ人はこの岩からパワーを得ていたと言う。遺跡巡りは大変疲れるので、私もへばりついてパワーをもらう。

 休憩を挟みながら、今度は住居部分を見に行く。
 マチュピチュには都市を囲むように作物を植えた段々畑が広がっている。斜面を少しでも有効に利用しようとインカ人たちは石組みと同じぐらいこの段々畑づくりに才能を発揮したが、マチュピチュの段々畑の面積から計算すると約1万人分の食料は生産できたという。
 5千人〜1万人と推測されるマチュピチュの人口はここから来ているが、やはり安部さんから、実はもっと少なかったのではという説を教えてもらった。
 マチュピチュの住居跡からは、200ちょっとの部屋しか見つかっていない。インカ文明は核家族で、一家族につき数名しかいなかったという。単純に5人だとしても、それで1000人ほどにしかならない。また、段々畑も食料だけを作ったのではなく、儀式などに用いられるコカの葉なども植えられたはずだ。これらを考えると1000人、多くても2000人程度だったのではないか、というのだ。
 人口に関しても確かな証拠はないが、言われてみると、マチュピチュは「空中都市」と呼ばれるものの、規模的には「都市」よりは「町」といった感じだ。

 住居の近くにも神殿などの施設があるが、目を引くのはインカでも数少ない、曲線で石が組まれた「太陽の神殿」だ。規模は小さいが、その見事はカーブはとても美しい。「太陽の神殿」の隣には「王女の宮殿」と呼ばれる、これも珍しい2階建ての住居跡があり、王女かどうかはわからないが、高貴な人が住んでいたものとされる。

 ワイナピチュにも登っていないのに、一通り遺跡を見るだけで大変疲れた。しかし天気が今まで以上に晴れてきたので、青空に映える全景を見ようと、再び「見張り小屋」まで登る。
 雨季の今、この天候は恵まれ過ぎかもしれない。まわりを囲む高い山々には雲がかかっているのに、マチュピチュ周辺だけは青空が広がって、日光が遺跡を浮かびあがらせる。今度は夕暮れに染まるマチュピチュを見たくて、小屋ではるかインカ時代を偲びながら待つ事にする。

 なんでここまで勢力を伸ばした大帝国が、しかも中世ごろの比較的新しい文明なのに、鉄も車輪も、そして文字も無かったのだろう?知っていてもあえて使わなかったのだろうか?実際、この三つを使わずしてインカ帝国は数百年も栄えたのだ。
 マチュピチュの住人たちはどんな生活振りだったろう?一回りしただけでバテてしまう私には、とても務まらなかったろう。インカでは怠け者に最大級の罰が与えられたと言う。私なら即刻死刑だな・・・。
 そして地元インディヘナの噂を聞いて絶壁をよじ登り、下からでは決して見ることのできない「忘れ去られた都市」を発見したハイラム・ビンガムは、どれほど感動したのだろうか?

 ハイラム・ビンガムはマチュピチュを発見した時、これがインカ最後の砦、伝説の「ビルカバンバ」だと思ったという。しかし研究の結果、インカ人が建設していた秘密基地は別にあるはずだと分かった。険しいアンデス山脈にインカの足跡は点在しているが、調べられているのはまだ一部。まだまたマチュピチュをしのぐ発見があるかもしれないと思うと、何かワクワクしてくる。

 マチュピチュからアグアス・カリエンテスに下るバスは夕方5時半が最終だが、その間際まで待ってもマチュピチュは赤く染まらなかった。もっと待って歩いて帰る気力も無かったので、大人しく下ることにする。
 結局マチュピチュには5時間ほどいたが、思いのほか満足した。天気も良かったし、明日また来る必要もないかもしれない。

 20分ほどでアグアス・カリエンテスの町に下り、安部さんに教えてもらった宿にチェックインする。そしてちょっと高めの夕食を食べ、すぐに寝る。というのも、夕方まで見張り小屋で待っている際、冷たい風に吹かれて寒くなったのだ。歩きまわって汗をかいていたのも良くなかった。ここでまた風邪をひいたら面倒だぞ。


本日の走行距離          0キロ(計27734.9キロ)

出費                    32S   マチュピチュ往復バス代
   17S  マチュピチュ入場料
     15S  宿代
     8S  夕食(魚)
     4S  水
計       76S(約2390
宿泊         Hospedaje El Mirador