旅の日記

ボリビア・ウユニ塩湖編その2(2000年10月21〜22日)

2000年10月21日(土) 悪路を進む(Bad roads of Bolivia)

 昨夜は辛かった。高山病の症状はベッドに入ってから現れ、頭の芯が脹らむように痛むのだ。背中をぞくぞくと冷やすマットレスの薄さとあいまって、よく眠れなかった。ウメさんたちや、イスラエル人のミハエル君も同じような高山病の症状が出て、辛かったそうだ。

 昨日と同じパンとコーヒーの朝食をとったあと、早速出発の時間となった。
 我々3人はチリに戻るので大きな荷物を持ってきてないが、他の3人はそのままボリビアを抜けるので荷物が多い。出発の前には荷物をランクルの荷台に載せなければならないが、その段になってフライ君が見当たらない。二人組の片割れ、ミハエル君は自分のザックは屋根の上のドライバーに渡したが、フライ君のザックは彼が来てから上げさせればよい、とほっておいた。
 そこでジェントルマン、ロジャー君が登場。アイルランド出身のロジャー君はイスラエル人二人組に比べると影が薄いが、スコットランドの大学で経済を学び、ロンドンのコンサルタント会社に4年勤めていたというインテリ君。育ちの良さが節々に現れ、ていねいな言葉を選び、穏やかでやさしく、難しいことが話題にあがるとその博識ぶりで話をまとめてくれる好青年だ。
 出発時間が迫り、やさしいロジャー君は部屋にほってあるフライ君のザックをわざわざ荷台に運んであげた。友達でも何にもないのに、まったくジェントルマンだ。ロジャー君はランクルに乗り込んでくると、我々にボソっと「あの二人、今日は問題を起こさなければよいが・・・」と漏らした。やはり彼も気になっているようだ。
 しかしそのわずか数分後、ロジャー君の願いは空しくも破れた。散歩から帰ってきたフライ君が自分の荷物が荷台に載っていることに腹を立て、ドライバーに降ろすよう命じた。もう出発だから、とドライバーはいうが、中からどうしても出したいものがある、と結局フライ君は無理やり降ろさせた。可哀想なロジャー君、せっかく協力してあげたのに御礼を言われるどころか、裏目に出てしまった。しかも無事出発したあとも、フライ君とミハエル君は「何で荷物を上げさせたんだ」「だってもう出発時間だったから」という口論をずっと続けていた。まったく朝から・・・。

  出発してしばらくは盆地のようなところを進んだ。道はダートだが状態は良く、ランクルは時速120キロで進んだ。それにしてもランクルは足回りが素晴らしく、まったく振動が来ない。まるで舗装路のようにダートを走るのだ。横を見ると別のランクルがやはり同じ速度で飛ばしており、砂煙を上げながら荒野を進むその姿は、まるで車のコマーシャルを見ているようだった。
 やがて、砂漠の中に奇岩が並んでいるところに到着した。そういえばツアー会社の壁にもここの写真が貼ってあったっけ。有名なところだそうで、私も写真を撮ってもらう。

 奇岩群を出ると、今度は砂漠の中に電車のプラットホームのように平たくて広い岩山が現れた。そこにはすでに別のランクルが止まっており、ツアー客がパンを何かにあげている。よく見ると、それは緑色のウサギだった。岩場のかげには小さなネズミもいた。それにしても、よくこんな過酷な環境に住みついたなあ。

  ウサギを見た後もランクルはガンガン走り続けた。今日は移動日の色合いが濃く、悪路を200キロほども走らねばならない。ランクルは快適だが、さすがに大人が7人も乗るとつらい。

 やがて「ラグナ・エディオンダ」という湖に出た。ラグナ・コロラドほど有名ではないが、こっちの方がフラミンゴが多くて美しかった。写真の水面に見えるピンクの点がそうである。普段は湖のふちにもいるのだが、人間の気配がするとそそくさと逃げて行ってしまう。ちゃんと写真を撮るには望遠のレンズが必要だ。

 ここら辺から雲が多くなってきた。遠くを見ると、雨が降っているように暗いところもある。もう雨季の始まりだろうか。
 道もどんどん悪くなり、幅は車一台分になった。岩がごろごろしたガレ場と深い砂の繰り返しで、勾配も急な登り下りの連続だ。
 しばらくして、ランクルは深さ50センチほどの川を渡った。ここまではDRでも問題無く来れたと思うが、この川はちょっとつらいかも。そこら中コケが生えてツルツルだし。

 川を渡ったところでサンドイッチの昼食を挟み、その後もランクルは走り続けた。みんなも疲れてきて、車内の会話もめっきり減った。今日の目的地はウユニ塩湖の手前のサン・ファンという村。
  建物らしきものが見えてきたので、やっと着いたかと思ったら、まだずっと手前の村だった。ここでしばらく休憩したが、ゴーストタウンのように静かなところだった。人気がない、とはじめは感じるが、振り向くと建物の影から子供達がこっちをニコニコと見ている。しかし声をかけるか、近づくと、彼らはキャーッと蜘蛛の子を散らように逃げて行ってしまう。まったく素朴でかわいい子達だ。

 その後も1時間ほど走り、へとへとになってサン・ファンに到着。標高は3600メートル、だいぶ温かくて空気も濃い。宿も昨日よりはましで、少なくても水道が使える。水のシャワーもあるが、寒いのでパス。荷物を置いて村を散歩したが、ここも閑散としたところだった。村には宿が数軒あり、ツーリストがよく来るのだろう、子供たちも我々を見ると「キャラメルをくれ」と、ちょっとスレていた。

 夕食は宿の人が作ってくれたチキンだったが、その食事の対応がちょっとひどかった。食堂には我々の他にオーストラリア人の6人のグループがいたが、彼らにはドライバーや宿の人がぴったりとつき、楽しく雑談しながら料理が運ばれていた。しかし我々のところにはドライバーは来なく、宿の人の料理の出し方も非常に雑。これは推測するに、ドライバーが宿の人にイスラエル人のグチをこぼしたのだろう。それで対応もそれなり、となってしまったのだ。
 イスラエル人の二人は、宿に来てからは大人しかった。彼らはわがままではあるが、根はしっかりした良い人たちである。寒いといえば、じゃあ服を貸そうかと言うし、写真を撮っていればシャッターを押そうか、と言って来る。はじめは彼らのわがままぶりが全ての原因かと思ったが、最初に彼らを色眼鏡で見たのはドライバーだったし、この宿の対応もひどいものがある。何だか、どっちもどっち、という気がしてきた。
 寝る前になって、ミハエル君が「何でドライバーに嫌われたのだろうか」と我々に聞いてきた。理由がわからないのは驚きだが、彼らもやはり宿の対応やドライバーの態度が気になっているらしい。
 明日は最終日、そしていよいよウユニ塩湖。果してこの人間模様はどう決着がつくか?


出費                   10B  タオル
       5B  ビール、ジュース
計        15B(約260円)
宿泊          サン・ファンの村の名も無き宿


2000年10月22日(日) 真っ白な世界(The White world)

 今日も朝からフライ君とミハエル君は団体行動を乱してしまった。フライ君は今日は荷物を積む時にはいたのだが、準備がすべて整った後に「水を買ってくるから待っててくれ」と20分ほどいなくなった。フライ君、普通そういう場合は荷物をミハエル君にまかせて、その間に買っておくものですよ。

 ようやくサン・ファンを出発すると、すぐにウユニ塩湖にさしかかった。塩湖といってもすぐに塩の世界が広がる訳ではなく 周辺部は土の上に少し雪が降ったように塩が浮いている感じで、路面は思ったより柔らかい。しかし、しばらく塩湖の中心に向かって走るとすぐに路面(湖面?)は真っ白で、カチンコチンに固くなった。ここまで来ると轍もほとんどなく、車はどこでも好きなところを走れる。とりあえずメインルートを外れ、何にもないところで止まってもらう。

 まずはランクルの前で記念写真。向かって左から小生、Kさん、ウメさん、ロジャー君、そしてフライ君とミハエル君だ。この後、それぞれは思い思いのポーズで写真を撮っていたが、イスラエル人の二人はスッポンポンになっていた。しばらくすると「カズ、シャッターを押してくれ」と呼ばれ、何で私があななたちのヌードを見なきゃならないの、と思いつつ写真を何枚か撮ってあげた。
 そして驚くべきことに、この二人がヌードになったこと対し、ドライバーが大笑いしたのである。今まで二人が何をしても、何を質問しても、笑みすら浮かべなかった彼がである。「あいつらはバカだ。ワハハ」と、本当に心から笑っていた。この事が、両者の関係改善の糸口となった。

 ランクルは再び走り出すと、「イスラ・デ・ペスカド」(魚の島)に向かった。イスラ・デ・ペスカドは魚の形をしているからそう呼ばれるが、小高い丘になっているその島にはサボテンが密生している。我々は島に着くと、早速丘の頂上に登り、360度の塩湖のパノラマを楽しんだ。
 それにしても、全く不思議な光景だ。まわりは命のかけらすら感じさせない月のような世界なのに、その中にポツンとあるこの島だけ草やサボテンが生えているのだ。塩湖というからにはかつては海だったと思われるが、きっとこの島はその時代からのものだろう。島にある一番大きいサボテンは高さ12メートル、1年で1センチしか成長しないから、樹(?)齢1200年だそうだ。その間ずっと、この真っ白な大地をみつめてきたのである。
 丘を降りた後は、イスラ・デ・ペスカドの入り口で昼食となった。変わり映えしないサンドイッチだが、景色がいいとうまく感じる。

 イスラ・デ・ペスカドの後は、「オホ・デ・ウユニ」(ウユニの目玉)というエリアに行った。ここは亀の甲羅の模様が一面に出ているところで、ガイドブックに載っているようなウユニの写真はここか、イスラ・デ・ペスカドで撮られることが多い。 五角形や六角形の模様はヒビではなく、むしろ塩の湖面が形成される時にぶつかりあって盛りあがったものだ。
 ドライバーは車を降りると、模様の上を歩きながら何かを探し始めた。そして、あった、あった、と我々を呼ぶ。行って見ると、そこには直径30センチくらいの小さな穴が湖面に開いていて、その下の水が見える。私はてっきり塩湖は下までずっと塩だと思っていたが、実は厚さ2、30センチほどの湖面の下には水が貯まっている箇所もあるのだ。水は冷たく、あたりまえだが塩分が濃い。濡れた手を乾かすと、塩で真っ白になるのだ。

 ドライバーは穴に手を突っ込むと、手で湖面の裏を探り始めた。そして、あった、あった、と塩の結晶を採って見せてくれた。まるで機械で切ったような立方体が集まった、美しい結晶だ。これはお土産に最高だ。
 よく見ると、穴はそこら中に開いていた。みんなは手を入れ、結晶を採りにかかった。フライ君とドライバーの二人は仲良くはしゃいで、競って採っていた。昨日の敵は今日の友。やはりヌード効果だろうか?でもフライ君にミハエル君、間違ってもイスラム教徒の前でヌードになっちゃ駄目よ。江頭2:50みたいになっちゃうから。
 結晶の角は鋭利で、フライ君、ロジャー君、そしてウメさんは手を切っていた。それでも結晶採りは楽しいらしく、私はあまりやらなかったが、イスラエルの二人とドライバーは満足いくまで20分ほどかけて結晶を採っていた。

 オホ・デ・ウユニを後にすると、ランクルは塩湖の東にあるウユニの町を目指して走り出した。途中、塩でできたホテルが2軒あり、最後の観光をした。このホテルは建物だけでなく、ベッドも机も、椅子も塩でできている。一泊20ドルだそうだが、機会があれば一度泊まりたいなあ。
 この塩のホテルでも、ドライバーとフライ君は仲良くはしゃいでいた。最終日に仲直り、終わり良ければ全て良し、ってな感じだが、3日間彼らの人間関係に振り回された我々は一体何なのだろうか・・・。

 そしてランクルは人口1万人のウユニの町に到着し、総走行距離500キロのツアーは終了。イスラエルの二人はこのままラパスへ行く直行バスに乗り、ロジャー君はポトシに行くらしい。お互いの旅の無事を祈り、握手をして別れる。色々あったが、今となれば彼らと一緒で楽しかったと思える。

 さて、他の3人と違って我々はチリに戻らねばならない。いつ帰るのか、どこで泊まるのかなどはチリのオフィスでも聞いたが、その時にならないと分からないと言われた。そしてウユニのオフィスで言われたことは、今夜7時に町を出発して、明日の朝にサンペドロに着く、ということだった。ようやくウユニに到着し、今夜いきなり夜行で帰る、というのはちょっと辛いが、早く帰れる分には越した事無い。7時になるまでウユニの町で民芸品の買物をしたり、レストランでリャマの肉を食べたりして過ごした。

 そして夜7時すぎ、今度はハイラックス・サーフに乗り込んでチリを目指す。ドライバーも別人で、客は我々3人だけ。どんな道を走って帰るのかと思ったら、ドライバーはいきなり暗闇の塩湖を走り始めた。360度真っ暗、景色もロクに見えないところを、コンパスもGPSも使わずに走っていく。頼れるのはカンと、わずかに見える轍。それも何本も走っているうちから正しい方角に向いているの選んで、その上を走るのだ。恐るべし、地元民。

  ハイラックス・サーフもダートを快適に走ったが、それでも眠れるほどでは無い。景色も見えず、眠れず、朝までどうしたものかと思っていたら、車は途中の村で止まった。何でも、ここの宿泊所で午前3時半まで仮眠するらしい。良かった、助かった。


出費                   10B  靴下
       15B  かばん
       15B  風呂敷
       15B  夕食(リャマの焼肉)
計        55B(約940円)
宿泊          途中の村の宿泊所