旅の日記

ブラジル・ジャングル縦断編(2000年7月5〜7日)

2000年7月5日(水) ブラジル突入(Entering Brazil)

 目が覚めると、すでに牛次郎はサンタエレナ・デ・ウアイレンの町のブラジル領事館の前にいた。もうウメさんの運転で移動していたのだ。
 ブラジルは南米で唯一、ビザを取得しなければならない国だ。通常、日本などで取得する場合は往復航空券の提示などが必要だというが、陸路で繋がっているこの町で取ると、非常に簡単に取れるというのだ。
  領事館は街外れにあり、外見はどうみても普通の民家だった。朝8時に開くはずだが、結局ドアが開いたのは9時前だった。しかし係官の対応は良く、申請書を1枚書き、手数料4000ボリバルを払うとビザの発行に取りかかってくれた。無事ビザの用紙が付いたパスポートが戻ってくるまでに3時間はかかったので、その間に領事館の目の前で昼食を作って食べ、近くのガソリンスタンドの公衆電話から音響カプラーを使ってメールを拾った。

 昼過ぎ、無事ビザが発給された。しかも、90日間なら何回でも出入りできるマルチ・エントリーだ。ブラジルから日本へ一時帰国しようとする私には嬉しい限り。本来ならブラジル領事館の裏にあるベネズエラの移民局でパスポートに出国のスタンプをもらわねばならないのだが、今日は祭日で閉まっているため、国境で取れと言われた。

 サンタエレナ・デ・ウアイレンを後にし、国境へ。言われたとおりにパスポートに出国のスタンプをもらう。税関も見当たらなく、出国のゲート・チェックも無かったので、牛次郎のペルミソのキャンセルはしないままブラジル側へ。両国間にちょっとした記念碑があったので、写真を撮る。
 ブラジル側での対応は非常に良かった。入国の手続きは私服警察官がしてくれたのだが、この人たちがとてもフレドリーで明るく、英語も達者だった。ささいなことだが入国、出国の際の対応一つでその国の印象は変わるものだ。次に税関に行って牛次郎のペルミソを得ようとしたが、この先230キロ走ったボア・ビスタまで有効のものしかここでは発行できないらしく、その先の分は、そこの税関に行かねばならないという。仕方ない。しかし、税関の職員の対応も良かった。

 無事国境での手続きを済ませ、今日の目的地ボア・ビスタの街を目指して走り出す。国境で両替屋が見当たらなかったのでブラジルの通貨・レアルは無いままだが、仕方が無い。
 国境でボア・ビスタまでの道は穴だらけで危険だと言われたが、そんなでも無く、快調に飛ばして約3時間ほどで到着。思ったよりも広い街で、中心街を探し当てるのに苦労したが、無事VISAカードでキャッシングできる銀行を見つけ、レアルをゲット。これで一安心。
 ホテルに入る前にガソリンスタンドに入るが、ここで牛次郎に乗っている全員、度肝を抜かれる。何とガソリンが1リッター、1.4レアル(約80円)!!ベネズエラの約7倍だ。国境を越える前に満タンにした方が良いと言われてそうしたが、こんなに格差があるのなら、ドラム缶でも用意して買っておくべきだった。日本よりはまだ安いが、南米の物価から考えるに、高すぎる。ここが僻地なので高く、南へ下ると安くなるそうだが、それでも先が思いやられる。今後は燃費を気にして、アクセル踏む足を少し緩めよう。

 ガソリンスタンドの裏にあったホテル、モンテ・リバノにチェックインし、最近の日記を打つ。明日からマナウス目指してアマゾン地帯に突入するので、しばらくパソコンも出来ないだろう。


出費                40000B  ブラジルビザ代
            6.25R  宿代
            2.65R  夕食(モツ煮)
計        40000B
         8.9R(1ドル=1.8レアル)
宿泊         Hotel Monte Libano
「久美子の言わせて!」
 なんかNYといったらすっごく古いワインを紙袋に入れて持って、人にわざとぶつかって 「高いワインなんだぞ!金払え」とぼったくり強盗がたくさんいるイメージがあったけど、そんな奴はもういないし、街もとってもきれいで、きれいなお洋服屋さんとかカフェレストランがたくさんある。
  夜のセントラルパークなんていったら「やぁー」って感じで怖いイメージだったけど、セントラルパークの向いに建ってたホテルは夜中に皆でタバコを吸いに出てたけど何もなかった(もちろん複数でしかも敷地外) 。中では何が行なわれているのやら・・・。メキシコ同様自分が持っているイメージなんてまず行って見なきゃだめなのだ。 なかなか行けないけどね。NYではほとんど観光らしい観光はしていないが、職業病というかミュージカルを観てやろう!と普段はチケットなんか買わないのに率先して観に行った。でもまさか自分がミュージカルを観てがんがん泣くとは思わなかった。ミュージカルは心が病んでいるときに みてはいけません。ぐっときてボロボロと涙がこぼれてしまった。なのでたまにはいいミュージカルをみるべし!


2000年7月6日(木) 救急牛次郎(Tragedy on the road)

 今日、今までで最大の、そしておそらくこれからの旅でもこれを上回る出来事は無いだろう、というハプニングが起きた。とても写真を撮れる状況ではなかったので映像は無いが、できるだけ詳しくその状況を説明しよう。

 いつも通りの朝だった。ホテルをチェックアウトし、まず我々はボア・ビスタの税関へ行った。国境で取ったペルミソがここまでしか有効でないので、ブラジル全土で使えるものを取得せねばならない。書類上で牛次郎のオーナーになっているウメさんが一人で税関に行き、約1時間で無事、発行された。
 ここから先、マナウスまで大きな街は無いから、スーパーで食料の買いだしをし、いざ南下を開始。ここから600キロほどジャングルの中を走るのだ。
 約2時間ほど南下すると、カラカライという町に着いた。ここで給油をすませてウメさんに運転を交代してもらい、さらに12キロほど行くと、大きな川を渡るところに出た。橋はまだ建設中なので、渡し舟に牛次郎を乗せて向こう岸へ渡る。渡し舟など珍しいので、みんなはしゃいで写真を撮っていた。この後あんなことになるとは、誰が予想できただろうか。

 川を渡り、さらに40キロほど走ったところだった。運転していたウメさんは、道路左脇に停まっていたダンプと、その運転手が「停まれ」と合図をしているのを見た。普段、我々はこういう場合には停まらない。故障車を装う強盗だっているかもしれないからだ。
 しかしこの時、ウメさんは普通の状況とは違う切迫感を読み取った。「何かある。停まってあげようか」。ウメさんの言葉で、後部で寝そべっていた私は起き上がって前を見た。スピードを落とし、ダンプに近づくと、あたりは白い煙で包まれていた。ふと右を見ると、道路脇で何と一台の車が炎上している!付近には2、3台、トラックやらダンプやらが停まっており、運転手たちが消火器で必死に火を消している。事故だ、誰もがそう思った瞬間、今度はウメさんが叫んだ。「人が死んでる!」
 炎上している車と反対側、ダンプのかげに、一人の人間が倒れている。まるで忘れ去られているかのように、ポツンと。牛次郎を停め、ウメさんと私はその人のそばに走った。髪の毛がほとんど無かったので、はじめは男性に見えたが、良く見ると中年の女性だった。目は開いているものの宙をみつめ、瞳孔は開いている。脈も息も無く、Tシャツがめくれて露になっている左わき腹には、鋭利な刃物でスパッと切ったような幅30センチほどの深い傷があり、内臓が見えるほどだった。しかし、傷口は綺麗で出血はすでに無く、それは心臓が停止して長いことを示していた。炎上している車からここまで運ばれてきたのだろう。
 私は旅に出る前、非常時に備えて赤十字の講習を受け、人工呼吸や心臓マッサージの方法を学んだ。何とかして蘇生できないだろうか、と一瞬思った。しかし、足がすくんで動けない。目の前にあるのは血まみれのグッタリとした、しかし目を開いた、映画で見た「死体」そのものなのだ。良く見ると左足も変な方向に曲がっていて、骨折している様子だ。しかし何よりも、あのわき腹の傷がひどい。もし心臓が動き出したとしても、大出血が始まるだろう。
 何も出来ないままでいると、今度は別の女性がトラックの運転手たちに抱えられて、牛次郎に運ばれていった。他にケガ人がいたのだ。大きなダンプやトラックでは、この細い道でUターンが出来ない。付近には電話も何も無く、救急車も呼べない。牛次郎で一番近くの町、さっき給油したカラカライまで運ばなければならないのだ。ハッと我に帰り、牛次郎に戻る。運ばれた女性は大きな外傷は無いものの、血が出ていることにはかわりない。そして、あの中年の女性も運ばねばならないだろう。牛次郎に残っていたKさんと猪飼さんは、すでにケガ人が乗れるように荷物を前に移し、血がついてもいいようにスポンジの上のビロードをはいでいた。
 後部のスポンジの上に、ケガした女性を寝かす。アゴの裂傷、腰の痛みを訴える以外には、命にかかわるような大きな外傷は無い。精神的に錯乱している感じではあるものの、助かりそうだ。次に、我々はあの、すでに息の無い女性を運んだ。グッタリとして、重い。トラックの運転手たちも一様に首を横に振っていた。すると、一人の中年男性が一緒に牛次郎に乗りこんできた。大きな傷はないものの、素足で、息の無い女性にすがって泣き叫んでいる。どうやら事故を起こした車の運転手のようで、女性の夫のようだ。
 被害者はこの3人だった。運転手の夫と、すでにこときれた妻、そしてもう一人の女性。事故の状況はわからないものの、炎上している車は1台。みんなこの車に乗っていたのだろう。トラックの運転手たちによると、やはり一番近い病院はカラカライだという。何度も切り返してようやくUターンし、被害者の3人と我々を乗せた牛次郎は来た道を戻り始めた。

 カラカライまでの約50キロは、とてつもなく長い道のりに感じられた。ウメさんは事故を起こさないギリギリのスピードで飛ばす。後部では男性が錯乱状態に陥り、ずっとポルトガル語で絶叫している。すでに死んでしまった妻を何回も起こそうとし、絶え間無く耳や鼻から流れ出る血を私の渡すティッシュでぬぐうのだ。猪飼さんはもう一人の女性をずっとはげまし、痛む足をさすり続けた。車内を満たすのは、異様な雰囲気と血の臭い。「修羅場」というのは、こういうものだろうか。
  1回、男性は私の腕をつかみ、「俺の妻は死んだのか?天国に行ってしまったのか?」 と聞いた。彼の妻を助けるのに何も出来なかった私は、ギクっとした。何も答えられないまま、ただ彼の目を見つめ返すしかなかった。

 カラカライの手前、12キロ地点の川まで戻ってきた。クラクションをけたたましく鳴らし、川渡しの列の一番前へ割りこむ。しかし、渡し舟はいない。まだ向こう岸で車を積んでいる所だ。係員に事情を説明し、対岸まで電話をしてもらおうとするが、残念ながら電話は無いという。仕方なく、見えるかどうか分からないが、牛次郎のライトを対岸に向けて点滅させる。その頃にはまわりに野次馬が集まり、事情が分かった他のトラック運転手たちも一緒にライトを点滅させたり、クラクションを鳴らしてくれた。
 舟がようやく取って返し、こっち岸に着くまで約20分もかかった。超特急で乗っている車を降ろしてもらい、牛次郎を舟に乗せる。一緒に舟を待っていたオートバイの男性が病院の場所を知っていると言うので、対岸へ渡ったあと、先導してもらう。
 事故現場から約1時間ほどかかって、ようやくカラカライの病院に到着した。その頃には、すでに真っ暗になっていた。病院といっても町の診療所と言った感じで、応急手当しかできないだろう。牛次郎の後部を病院の入り口につけ、ケガした女性をストレッチャーに移す。川の渡し場で事情を知った他の人が先回りし、病院に事情を伝えていたようだ。 次に、女性の遺体を降ろす。医者も、彼女を見た瞬間に首を横に振った。最後に男性が足を引きずりながら、病院に入っていった。

 我々は、しばし呆然としながら病院の前にいた。しばらくすると、被害者の家族が続々と病院にやってきた。あの3人はこの町の出身だったようだ。家族の男性が一人、我々の方にやってきて、「ムイト・オブリガード(ありがとう)」と言った。ちょっとジーンと来た。
 事故を起こした男性は、事故は単独のものであると警察に説明した。現場は見とおしの良い一直線だったが、穴にタイヤをとられ、路肩に落ちたと言う。しかし車は原型をとどめないほど変形し、炎上していた。きっと物凄いスピードを出していたのだろう。単独の事故であると証言をしてくれたおかげで、我々も御役御免となった。もしかしたら我々も事故の当事者と思われるかもしれない、と心配をしていたところだったのだ。

 我々は病院の駐車場で牛次郎の清掃にとりかかった。表面のビロードこそはがしたものの、スポンジには血のりが染みこみ、ひどい有様だ。スポンジの汚れた部分を切り取り、あまっていたスポンジをはめ込む。血はスポンジの下まで達していたので、床も水洗いする。
 この先も牛次郎で寝泊りしなければならないが、別段イヤな感じはしない。我々が事故を起こしたわけではないし、人助けをしたんだもの。少々残った血の跡も、名誉の汚れとしよう。そうみんなで言いながらテキパキと作業をしていると、英語を話せる人がやってきて「日本人はそういう風に現実主義だから、経済的に発展したんだろうなあ」と言った。誤解を招いてはいけないので、「我々が変なだけです。普通の日本人は、死体を運んだ車で寝泊りはできません」と、一応言っておいた。

 その夜は警察の好意で、カラカライの警察署の前で野宿できることになった。おまけに警察署のシャワーと台所も使っていいという。綺麗に掃除した牛次郎の車内は、まるで何事もなかったかのようで、眠れない、などということは無かった。むしろ長い一日の疲れで、さっきまで死体が乗っていた車内でみんなぐっすりと眠るのだった。


出費         なし
宿泊         警察署に停めた牛次郎


2000年7月7日(金) 一気にマナウス到着(Reaching Manaus)

 昨日は大変なハプニングに見まわれたが、今日は遅れを取り戻さねば。 しかし朝、エンジンをかけようとするが、なぜかかからなかった。警察官数名に手伝ってもらい、押しがけして出発する。

 カラカライの町を出て12キロ南の川を渡り、さらに40分ほど進むと、昨日の事故現場に着いた。すでに警察官が来て調査をしているところで、我々が着くと同じにレッカー車も到着し、事故車を路肩から道路へ引っ張り上げていた。車はほぼ燃え尽き、どこのメーカーの、どこのモデルかも識別できないほど変形している。この事故で、3人のうち2人が助かったのが奇跡と思えるほどだ。
 牛次郎から降り、事故現場を良く見る。事故車は我々とは反対、南からカラカライ目指して北上して来て、ここの、やたらに長い直線で事故を起こした。ブラジルは右側通行だが、ブレーキの跡は左側の路肩のすぐ外に残っており、反対側の車線を越えて路肩に落ちたことが分かる。路肩に落ちはじめたあたりから破片が散らばっており、草木は2、30メートルに渡ってなぎ倒されている。おそらく、何回か回転したのだろう。140キロか、160キロか、すごいスピードで走っていたに違いない。助かった、例の運転手は穴にハンドルを取られたと言っていたが、どこをみても穴はおろか、ちょっとした段差も無い。居眠りか、よそ見運転ではなかったのだろうか。いずれにしても、自分の運転で愛する妻を失ったのだ。やりきれないだろう。

 いつまでも事故の事を考えても仕方が無い。我々は現場を後にし、南下を再開した。
 昼過ぎ、再び赤道を越える。道の脇にちょっとしたモニュメントがあり、記念写真を撮る。しかし、エクアドルと同様、ここでも赤道は黄色い線で描かれていた。何でだろう?ちなみに、右の写真では牛次郎の左半分が北半球、右半分が南半球にあることになる。
 ウメさんと交代交代で運転してひたすら進むと、いかにもアマゾン地帯、というようなうっそうとしたジャングルになった。激しく振った雨が窪地にたまり、一時的な池や湖を作っている。景色がそれらに反射して、とても美しいのだ。1回、無理してマナウスまで行っても夜遅くなるだけなので、ジャングルで野営しようと、道路脇のジャングルへ牛次郎を入れてみた。しかし外に出た瞬間、ウメ夫妻は仲良く足を巨大なアリに噛まれて悲鳴をあげるわ、マラリアを媒介するハマダラ蚊は寄って来るわで、野営をあきらめる。やはりジャングルは甘くないのだ。

 結局、夜もそのまま走りつづけ、マナウスを目指す。今日は七夕なので途中で車を停め、夜空を見上げると、天の川こそ見えなかったが、すごい量の星が見えた。
 夜9時ごろ、マナウス到着。アマゾン河の大きな支流、ネグロ川に面した、ジャングルの中の大都市だ。安宿街を探すが、どこも連れこみ宿で雰囲気が悪い。そういえば、あたりは娼婦ばかりが目立つ。そのうち時間も遅くなってしまったので、宿は明日探すとして、今夜はまたガソリンスタンドで寝かせてもらうことにした。

 何だかんだ言って、マナウスまでの道はそんなにひどくなかったので、ベネズエラから3日で来てしまった。私はここでいったん牛次郎と別れ、日本へ一時帰国する。明日から、そのチケットを探さねば。

出費                    2R  ビール
            1R  ジュース
計        3R
宿泊         ガソリンスタンドに停めた牛次郎