旅の日記

パナマ編(2000年4月27〜30日)

2000年4月27日(木) パナマ突入(Entering Panama)

 1週間滞在した「プチ・ホテル」を午前9時に出発する。ジョン・ベルーシ似の兄ちゃんら若いスタッフはいつも午前中は寝ているので(その間はベルーシの両親がいる)、別れは言わずじまいになってしまった。
 サンホセを後にし、一路パナマとの国境を目指す。距離にして350キロ弱、久々にがんばって走らなければ国境越えが夕方になってしまう。標高1500メートルのサンホセからパンアメリカン・ハイウェイはさらに登る。サンホセは晴れていたのに、上がるにつれて濃い霧が視界を遮り、気温が下がった。Tシャツの上にジャケットを着ていたのだがそれでも寒く、途中でトレーナーを着たほどだ。一度道路工事のために通行禁止となり、解除になるのを待っている時に腕時計を見たら標高2950メートル、気温は18度(外気温はもっと低いはず)だった。
 サンホセから200キロほど走った、ブエノスアイレスという街への分岐にドライブインが数軒あったので昼食を食べる。ここら辺からは標高が下がり、一気に暑くなった。ときおり陽も差し、汗をかきながら走る。寒暖の激しい1日だ。
 午後2時半ごろ、パンアメリカン・ハイウェイ上の国境パソ・カノアスに着く。人が少なく、寄って来るギアや両替商などがいない。御行儀が良くて、大変よろしゅうございます。さてイミグレの建物を探し、どんどん突き進む。「イミグレーション」という建物があったので「出国」の窓口に行くと、「入国の方だろう」と係官はいう。「ばかな。今日コスタリカを出て、パナマに入るのだ」と言うと、「だから入国だろう。ここはパナマのイミグレだ」というではないか!何とカズヒロ君、国境があまりに御行儀が良いのに気を取られ、コスタリカ側のイミグレを素通りしてきてしまったのだ。しかし、ここの国境はゲートも何も無いな。ゲートがあれば止められて気付くのに。
 仕方ないのでバイクを置いたまま、コスタリカ側へ歩いて戻って出国の手続き&ペルミソのキャンセル。そしてパナマ側に戻るともう1台バイク(ヤマハのビラーゴ750)が止まっている。イミグレの列に並ぶと、前の二人組の兄ちゃんが話しかけてきた。止まっていたバイクはブラジル人である彼らのもので、しばらく住んでいたフロリダから二人乗りで母国に帰る途中らしい。彼らはバイクをパナマシティからエクアドルに船で送る方法を探すとのこと。コロンビアはどうしても通りたくないらしく、最近私の知り合いが数人通過したと言っても、「あんな内戦状態にあるような国、恐ろしくて行けない」という。「しかし、エクアドルだって最近治安が悪化しているぞ」と言うと、「そういう種類の治安の悪化ならどこだってそうだ。俺はサンホセで全財産盗られた」という。聞くと、サンホセで夜、ホテルにチェックインしようとした際に強盗に襲われ、パスポートから現金まで全部盗られたらしい。あのサンホセで、珍しいお方だこと。で、とにもかくにも金が無いので、早くブラジルに帰りたいが、私の教えてあげたパナマからキトまで450ドルで飛ばす、というのは高すぎて手が出ないという。やはり船を探すそうだ。「今夜はどこに泊まるのか?」と聞くと、彼らはいつも夜9時ごろまで走ってから泊まるところを探すという。おいおい、毎日ナイトランかい。そんな走り方してりゃサンホセでもやられるわな。 さて、手続きの方はいたってスムーズ。イミグレでは裏の窓口で5ドルで買ったツーリストカードを提出すればOK。その他によくわからない切手みたいのを1ドルで買わされた。バイクのペルミソは15分ほどで作成してくれ(手数料4ドル)、その他に最後の窓口で白い書類を1ドルで作らされた。出国、入国両方の所要時間は1時間半ほどだった。
 午後4時に国境を後にし、「パッナマ〜パッナマハ〜」とヴアン・ヘイレンのかつての名曲(古〜)を歌いながらいざ、パナマを走り出す。約50キロ行ったところのパナマ第3の都市、ダビッドを今夜の寝床に設定、地球の歩き方にも載っていた中心街の安宿にチェックインする。
 目の前に「チリキ(ダビッドを中心とするパナマ西部地方の名称)大学」というのがあり、そこでインターネットができるというので行って見るが、授業中で使えなかった。仕方なく街の入り口の方で見たインターネット屋まではるばる歩いて行ったが、何とCDロム・ドライブが無かったのでグローバルIMEが使えなかった(自分のPCも持って行かなかった)。結局来ていたメールはフロッピーに落として宿で見るとして、やはりブラジル人二人組のいうことが気になるので、余った時間で米国ヤフーでコロンビアの最近のニュースを検索する。すると・・・「政府と第2の左翼ゲリラの和平交渉決裂。ゲリラ側は富裕層へのさらなるテロと誘拐の“キャンペーン”を行うと発表」「第2の左翼ゲリラ、サッカー・コロンビア代表の選手を誘拐、まもなく開放」「第2の左翼ゲリラ、地方の国道で少なくても12人を誘拐したとの声明を発表」「第2の左翼ゲリラ、石油のパイプラインを爆破」「和平交渉にあたっていた政府の最高責任者、謎の辞任」。ちなみにこれ、全部4月の出来事です。第2の左翼ゲリラさんたち、そんなに頑張らないで!しかし、正直いってコロンビア突入の決心が揺らいできた・・・。とにかくもう少し様子を見よう。
 また、最近気になっているのはホンダ・ゴリラで世界一周中のマサから連絡が無い事。彼の最後のメールは3月末、「コロンビアにいます。ここは最高、見方が変わった・・・」というもの。うーん、久美子からもここしばらくメールが無いし、心配のタネは尽きない。悩んでも仕方ないので、早く寝よっと。

本日の走行距離    401.9キロ(計23440.9キロ)

出費                  2700c  ガソリン
                       690c  昼食(シチュー)
                       200c  コスタリカ出国費用
                        11$   パナマ入国費用
                         8$  宿
                       0.5$  インターネット
                         1$  ヘアーブラシ
                      3.25$  夕食(マクドナルド)
計          3590c
                   22.75$(パナマの通貨は米ドル)

宿泊          Hotel Saval
インターネット     Cybercafe
「久美子の言わせて!」
 明日の夜のバスでメキシコシティに行く。もっといたいよー。ジローが日本に帰らないんだったらもっといるのに。ほんとプエルトエスコンディート楽しかった。楽しい友達と出会えてよかった。ロンドンに住んでいるマットがロンドンに来るなら連絡して、遊びに連れていってあげる。と言ってくれた。楽しみ。夜みんなで盛りあがりホテルのプールに忍び込んで泳いだ。今度は自分のボードを持って絶対また来る!



2000年4月28日(金) ダビッドの1日(A day in David)

 ダビッドの人口は10万人。街には特に何も無いが、宿代が安いのでここでもう一泊し、次の「Paso」の原稿を書くことにした。午前中には何とか形になってきたので、午後は街をほっつき歩く。しかし、何といっても暑い。標高がほとんど無く、湿度も高いのでニカラグアにいた頃の暑さに戻ってしまった。夕方、昨日行ってダメだったチリキ大学のコンピュータールームに行って見ると、今日は大丈夫だという。窓口で1時間分、1ドルを払い、置いてあるコンピューターにグルーバルIMEをインストールする。心配していたゴリラのマサはコロンンビアで元気にやっているらしい。よかった。ただし、久美子からの連絡は依然としてなかった。本当にどうしたのだろう。これからパナマシティに行って南米へ飛ぶ準備をしなくてはならないが、久美子と連絡が取れなければとても先へは進めない。

本日の走行距離       0キロ(計23440.9キロ)

出費                  1.75$  朝食(肉)   
                         8$  宿
                      1.50$  インターネット
                      2.99$  昼食(チキン)
                      1.35$  水
                      5.50$  夕食、朝食の買物
計          21.09$

宿泊          Hotel Saval
インターネット     チリキ大学
「久美子の言わせて!」
 さようなら。「カボ ブランコ」での楽しかった日々。みんなにお別れをし、ロウフとはメキシコシティ「アミーゴ」で再会する約束をした。本当に来るかなぁ。そして再び長い長いバス移動。でも一等だからたいしたことないけど。12時間後にはDF到着だー。バスのトイレはむちゃくちゃゆれるので、するのがとても大変。とても危険だ。



2000年4月29日(土) パナマシティ(Panama City)

 ダビッドに居ても仕方がない。とりあえずはパナマシティまで行く事にした。
 ダビッドからは400キロ以上、中米最後のロング・ライドだ。午前9時に宿を後にして、ひたすら東を目指す。強い日差しが照りつけ、全身にあたる風はムッとしていて走っていてもちっとも涼しくない。早く着きたかったので、結局給油に一回、トイレに一回止まっただけで、ほとんど一気に走ってしまい、午後2時半ごろパナマ運河にかかるアメリカ橋を渡ってパナマシティに突入。
 着くやいなや、暗雲が空を多い、大粒の雨が降ってきた。すぐ止むだろうと思ってしばらくは走りつづけたが、シティの道路の水はけは悪く、たちまち所々が川のようになった。そこをまわりの車はスピードを落とすことなく走りぬけるので、水飛沫がひどい。結局雨が弱まるまで、陸橋の下で雨宿りした。
 雨足が弱まったので再び走りだし、新市街のホテルを探す。パナマシティは新市街と旧市街の二つに分けられ、そのコントラストが激しいことで有名。安宿は旧市街に集まっているが、パナマシティの旧市街は治安に問題があるらしい。バイクを停めるのも難しそうなので、少々値ははるだろうが新市街に泊まることにしたのだ。その名も「ホテル・カルフォルニア」というホテルを地球の歩き方でみつけ、道端で地図を見て行き方を思案していると、地元のライダーがやってきてそこまで連れて行ってくれた。
 さて、ホテル・カルファルニアは一泊20ドルというが、部屋を見せてもらうとご覧のように新市街が一望でき、エアコン、ケーブルテレビ付きのピカピカのシティホテルで、そして何と電話がついている。これでパナマ市内のアクセスポイントへ繋げられるぞ。駐車場は屋根こそ無いものの、24時間ショットガンで武装したガードマンが見張っている。バイクに悪さする輩がいたら、遠慮なく撃ってね。
 チェックインし、早速ニフティと提携しているGRICのパナマ市内のアクセスポイントへ繋いでみる。うまくいけば、メキシコの「アミーゴ」以来のダイヤルアップだ。すると一発で電話は繋がり、ネゴシエーションを開始した。しかし、やったと思ったのもつかの間、パスワードを要求してきた。あれ、入力しているはずなのに、と思って再度入力するが、繰り返し繰り返しパスワードを要求してくる。どうもパスワードを認識してくれないらしい。IDとパスワードをチェックするが、両方とも合っている。ここで粘っても電話代がかさばるだけなので、あきらめてフロントで教えてもらったカフェへ行ってみる。
 カフェはホテルから1キロ以上も歩いた、新市街でも最も賑わった通りにあった。とりあえずグローバルIMEをインストールさせてもらって、GRICのホームページを見る。すると、最新のアクセスポイント一覧に何とパナマが載っていない。どこぞに譲渡でもしたのだろうか、だとしたらいくらやっても繋がらないはずだ。これでホテルの電話は無意味になり、ここのカフェを利用する毎日になるだろう。次にホットメールをチェックするが、やはり久美子からメールがない。今日でまる1週間。2、3日もメールができないと騒ぎ、新しい街ではまず最初にカフェを探していた久美子である。久美子の友達にも問い合わせるが、やはりここしばらくメールが来ていないという。彼女が通っているはずのルートにカフェが無いはずは無いんだが・・・。本当に心配になってきた。おーい、久美子、生きてるか?

本日の走行距離    468.7キロ(計23909.6キロ)

出費                  9.25$  ガソリン   
                        20$  宿
                         2$  インターネット
                      3.75$  夕食(定食)
                      2.82$  パンなど買物
                       0.5$  有料道路
計          38.32$

宿泊          Hotel California
インターネット     Internet Services
「久美子の言わせて!」
 DF到着。バスターミナルからのメトロは止まっているし、やっと「アミーゴ」へ戻ってきた。つかれたー。朝9時に扉を開けてくれたのは唯土だった。えらい!あとの連中はまだ寝ていた。ジローのために帰ってきたのに。まったく。久しぶりのアミーゴ。なんかこんな感じだったっけって感じ。懐かしいような違和感がある。アンティグアで別れた吉冨さんも一足先に帰っていた。落ち着く暇もなく昼から兜の試合を見に行く。久しぶりのみんなとの酒盛り。アミーゴはやっぱりこれでしょう。



2000年4月30日(日) パナマ運河を見る(Panama Canal)

 久美子のことがとても心配だが、部屋で待っていても仕方がない。気をまぎらわすためにも市内観光にでかける。
 まずは昨日渡ってきたアメリカ橋を見る。このパナマ運河にかかる鉄橋はパナマシティの象徴の一つで、雑誌なんかでバイク乗りが「パナマに着いた」というとここの写真が一緒に載っていることが多い。
 次にフローレス閘門(こうもん)へ。パナマ運河は最高で85フィート(30メートル弱)海面より高いが、三つの閘門(水門)で水位を調整し、船を上昇/下降させるのだ。フローレス閘門はシティから6キロあまりと最も近く、大勢の観光客が訪れる。
 閘門までバイクで行く途中、なぜか旧市街のスラムの中に迷い込む。ボロボロの団地や家が傾きながら並んでいて、多くの人が行き交っていて活気があるが、やはり徒歩では入りこめない雰囲気だ。パナマというとここのスラムと、そして港町コロンの治安の悪さが有名。いずれも中米では横綱級。
 さて、閘門に着き、早速設けられたスタンドから運河を見るが、残念なことに一隻の船が通過したばかりだった。しばらく待ったが、「次の船は午後2時ごろです」というつれないアナウンスが。仕方ないのでいったん街へ戻り、飯でも食おうかと思って走り出すと、コスタリカ〜パナマ国境で会ったビラーゴ750のブラジル人二人組、マルセロとフランコにばったりあった。彼らはホテルで一緒になったBMW−GS1150に乗るフランス人のパスカルとともに閘門を訪れるところだった。午後2時まで船は来ないというが、それなら一緒に待とうというので、3台のバイクは閘門の駐車場へ。
 待っている間、売店のハンバーガーをかじりながらお互いの旅のことを話した。マルセロとフランコは、あんなに私に「コロンビアは危ない」とか言っておきながら、「あの日本人ができるというんなら大丈夫じゃないか」と思いなおし、明日にでもバイクをボゴタに飛ばすらしい。エクアドルのキトまで行く船を何がなんでも捜すと大口を叩いていたが、昨日中米でも最悪の治安だという港町コロンに行ったところ、「西部劇に出てくる悪漢のような顔つきの男が100人くらい寄ってきた」ので、逃げて帰ってきたそうだ。う〜ん、コロン、うわさに劣らず刺激的なところだ。あそこが大丈夫だったというリーさん、やっぱおかしい。
 BMWのフランス人パスカルも南米まで飛ぶが、彼は時計回りに南米を見たいのでベネズエラまで飛ばすつもりだという。一緒にコロンビアに行こうよ、と3人で言うが、「絶対イヤ」と本気で嫌がるのが楽しい。彼はエルサルバドルも絶対行きたくなかったので、パスしてホンジュラスをずっと走ってきたという。でも、彼はベネズエラへ飛んだ後、ブラジルのアマゾンを抜けて南下するらしい。それも結構危険じゃないか?治安と言うより道が。BMW重そうだし、泥に埋まりそう。しかも、フランスでは医者だという彼は見るからに金持ってそう。バイクもピッカピカだし、4人の中で最初に襲われるとしたら彼だな。
 そんなこんなで船が来る時間が近くなった。すると、また暗雲が空を覆い、風呂桶をひっくり返したような土砂降りになった。屋根のあるスタンドまで戻りしばし待つと、一隻の大型タンカーがやって来た!タンカーは幅33メートルの閘門に、歩くくらいの速度でゆっくりと入ってきた。タンカーの幅は32.3メートル、つまり両側で70センチほどの隙間しかない。この32.3メートルという幅は「パナマックス・サイズ」と言われ、パナマ運河が通行可能な最大の大きさだ。船の両側には電気機関車みたいなのが一緒に走り、ロープで船がまっすぐなるように導いている。タンカーが閘門に完全に入ると、水門が閉じられ中の水がどんどん出される。このタンカーは大西洋側から来て、85フィート海面より高い運河を抜け、ここで再び下げられて太平洋に抜ける。正確には1個手前の閘門ですでに下げられているので、ここでは約50フィート(約15メートル)下げられるのだ。

 水が抜けるにつれ、船はみるみるうちに下がっていく。やがて、さっきまで見えてきた船体はほとんど閘門の中に隠れてしまった。海面の高さまで下がると、今度は反対側の水門が開き、雷鳴の中タンカーはまた歩くような速度で出て行った。この閘門を抜けるのにかかった時間は2、30分だろうか。全長80キロほどのパナマ運河を抜けるのには約24時間かかるそうだ。通行料は船の重さによって算出されるが、1トンあたり2ドル前後、このタンカーの場合は約500万円。それでもぐるっと南米大陸を回るよりははるかに時間と費用の節約になるのだ。ちなみに今までで一番高かった通行料は豪華客船の2000万円ほどで、逆に一番安かったのは泳いでパナマ運河を通過した人だったそうだ(いくらかは聞き逃した。どっちにしても1928年のことだったらしい)
 タンカーの後も大型貨物船や小型ヨットなど、続々と船が来た。小型ヨットなんかは水位が下がると完全に見えなくなってしまった。この水の出し入れはポンプなどの動力を使わず、「引力」のみでやっているそうだ。水を抜くときは閘門の排水バルブを開け、海側へ水を自然に流し出す。逆に水位を上げるときは吸水バルブを開け、運河側から水を入れるのだ。運河側の水が常に海側へ流れる事になるが、運河には人造湖とダムが設けられ、運河が渇水しないように水位を調整しているらしい。よく考えたなあ。
 「世界最大の土木工事」と言われるパナマ運河の建設はスペイン人がこの地に足を踏み入れた当初から考えられていたが、最初に実行に移されたのは1880年、フランス人レセップスによってだった(フランス人のパスコはこの事を誇らしげに語った)。しかし20年続いた工事は数々の難問に阻まれ、労働者の間には黄熱病やマラリアが蔓延し、ついには頓挫してしまった。彼の計画を引き継いだのは世界でもハバをきかせはじめたアメリカであった。当時、パナマはコロンビアの一部だったため、アメリカは運河を建設するかわりに10年間この地方を租借するという条約を結ぼうとしたが、両者の交渉は決裂。するとアメリカはパナマ地方の独立推進派と手を組み、親米政権を作り上げてパナマを独立させてしまった。何と言う荒技だろうか。ともかく1903年、アメリカによって工事は再開され、1914年に予定より半年早く、しかも予算内で運河は完成した。その後85年に渡りパナマ運河はアメリカに莫大な利益をもたらしたが、1999年12月31日パナマに返還された。この国の歴史は運河の歴史そのものであり、返還後の今、この国がどう歩んで行くかが注目される。
 激しい雷雨が止むまで約2時間、閘門を通る船を見ていたが、ようやく止んできたので市内へ戻る。夕食をみんなで食べることを約束し、その前にパソコンを持って昨日のカフェへ行ってみることにした。
 LANの設定は一発でうまくいき、ホームページの閲覧、メールの送受信ともできるようになった。私の場合、ブラウザーの最初の立ち上がりを朝日新聞のホームページ「アサヒコム」にしてあるが、この日、トップニュースの一つに「グアテマラで邦人観光客が死亡」というのがあった。なんじゃそりゃ、と思って見ると、ひどい話だった。なんでも田舎の村で「子どもをさらいに来る団体があるらしい」という妙なウワサが流れ、その後偶然そこを訪れた日本人観光客の団体20数名が「誘拐団」と思われ、500人もの群衆に襲われたらしいのだ。そして男性一人が投石を頭に受けて死亡・・・。信じられない話だが、怒りや憎しみにコントロールされた群衆は本当に恐ろしい。おお、久美子、生きているのか本当に心配になってきた。
 次にメールをチェックする。最近はホットメールでメールのやりとりをしていたが、今日は久しぶりにメールソフトが使えるので嬉しい。すると受信するメールが90通近くあった。ホットメールで読む場合はメールがサーバに残るように設定してあるためで、実にアンティグア以来のメール全てになるから、そんなものか。すると、久美子から無事を知らせるメールが来ているではないか!メキシコで元気にやっているらしい。今まで体にのしかかっていた重りが一気に取れた感じだ。嬉しさのあまり頭の中でロッキーのテーマが流れ、泣くカズヒロであった。
 約束の時間になったので、待ち合わせ場所の彼らのホテルへ。そこからタクシーでカフェがあるあたりの賑やかな所まで出て、イタリア料理屋でピザを食べる。ブラジルの二人、マルセロとフランコはそれぞれ32歳と34歳、両方とも子どもがいるが、両方とも離婚暦がある。そしてフランス人医師パスカルは39歳、彼も「若い看護婦と一緒になるため」に前の奥さんと別れたそうだ。う〜ん、今回の旅で出会う人は離婚暦のあるのが多い・・・。ともかく2時間ほどビールを飲みながら色々と話し、盛りあがるのだった。ブラジルの二人は明日、ボコダへバイクを飛ばすらしい。そこで私も一緒に飛ばすことにした。少々あわただしいが、スペイン語の流暢な彼らと一緒の方が安心だ。明日バイクを送り、自分自身は明後日に飛ぼう。


本日の走行距離    メーター見るの忘れた!(計23909.6キロ)

出費                  3.60$  昼食(バーガー)   
                        20$  宿(カード)
                         2$  インターネット
                         8$  夕食(ピザ)
                         2$  タクシー
計           35.6$

宿泊          Hotel California
インターネット     Internet Services
「久美子の言わせて!」
 久しぶりにメールを開く。するとめちゃくちゃ届いている。グアテマラで日本人が襲われたというニュースが日本で報道されていて、みんな心配してくれたみたい。心配症といえばカズから怒り狂ったメールがたくさん届いていた。メール好きの私が1週間以上もやらなかったので何かあったのでは・・・。という内容だった。だってエスコンディートとっても楽しかったんだもん。メールも日本語使えないしアミーゴ行けばいくらでもできると思ったから。みなさんご迷惑をおかけしました。