はじめに


 このホームページは僕が1999年9月から2003年3月にかけて、主にオートバイを使用して世界を一周をした、旅の日記を中心としたものです。
 一時帰国の期間を除く、1118日分の行動を「これでもか」という文章量で克明に綴りました。これらは僕が旅行中、宿のベッドの上で、あるいはテントの中で、愛機バイオPCG-C1でコツコツと書きためていったものです。そしてインターネットカフェを見つけると、不定期にアップロードしていました。

 訪問国数64、走行距離バイク83700キロ、車17200キロ、バックパッカーとしての期間約半年、の旅の記録はハンパな量じゃありません。すべてお読みいただくとなると何日もかかるでしょう。そこで、初めてご覧いただく方のために簡単にまとめてみました。
 まずはこのページをお読みいただき、それから詳しい日記に進んで下さい。一応、一部の読者からは「読み出すとクセになる」、「スルメのようにどんどん味が出てくる」という評価を頂いております・・・。

(僕の旅の軌跡) :1999年9月〜2002年9月、バイクで走ったルート(約83,700km) 
:2000年6月〜11月、車(牛次郎号)で走ったルート(約17,200km) 
:1994年にバイクで走ったルート(約15,200km)
:その他、バス、列車、船などで通ったルート

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

 1999年9月4日、僕と妻の久美子はオートバイ二人乗りによる世界一周を目指して成田空港を後にしました。向かったのは旅のスタート地点、カナダのバンクーバー市。そこで日本から船で送っていた愛車スズキ・DR800Sを受け取り、同月11日、僕たちはいよいよ未知の冒険に向かって走り出したのです。
 ホームページのタイトル、RideTandemというのは、二人乗りによる走行、ということです。

 バンクーバーからジャスパー、バンフといったカナディアン・ロッキーの国立公園を巡り、アメリカに入国。アメリカでも国立公園を12ヵ所まわり、許された滞在期間の3ヵ月ギリギリまで北米の大自然を満喫しました。

 そしてメキシコへ。いよいよディープなラテン・アメリカの世界に突入です。順調に見えた僕たちの旅でしたが、ここでいきなり最大のトラブルに見舞われます。
 実は、僕と久美子の関係は出発前から亀裂が生じており、二人とも口には出さないものの、この旅が関係修復の糸口になるのでは、と期待していたのです。ところが旅に出てから僕たちは余計に傷つけあい、そして2000年2月、メキシコシティにて離婚を決意するに至りました。
 実際に別行動になったのは中米ベリースを経て、グアテマラに入ってから。古都アンティグアでスペイン語学校に短期間通ったのち、僕はそのまま中米を南下、久美子はメキシコに戻るために北上、と別々の道を歩む事になったのです。

 傷心のまま、僕はエルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマと走りました。そしてパナマからエクアドルの首都キトまでバイクを空輸。いよいよ南米大陸を南下するぞ!と思っていたところ、キトの安宿「スークレ」でウメ夫妻、そして猪飼君と運命的な出会いを果たします。
 ちょうどペルーでフジモリ大統領のスキャンダルにからんだ選挙があったときでした。「日本人はしばらく行かない方がいい」という噂が流れ、僕たちは酒を飲みながら、「だったらみんなで車を買ってコロンビアにでも行けばいい」と冗談半分で言っていたのです。

 ところが冗談はいつしか本格的な計画となり、4人は資金を出しあって1974年製の巨大なワンボックス車を購入。牛模様にペイントを施して「牛次郎(うしじろう)」と命名し、僕たちは2000年6月、コロンビアに向けて走り出したのです。(車で旅をする間、オートバイは安宿「スークレ」の従業員の自宅に預かってもらうことにしました)

 コロンビア、ベネズエラと車で寝泊りしながら進み、ブラジルに入国。みんががこれから「牛次郎」を船に載せ、アマゾン川を下るというところで僕はサンパウロを経て一時帰国。日本で久美子と再会し、正式に離婚の手続きをとりました。
 そして再び「牛次郎」のメンバーとサンパウロで合流。そこからパラグアイ、アルゼンチン、チリ、ボリビア、ペルーと経て同年11月、エクアドルに戻りました。約5ヶ月、22000キロを走った「牛次郎」は動くのが不思議なくらいボロボロになっていましたが、無事、売却することができました。
 そして僕は預けていたオートバイを受け取り、一人旅を再開したのです。(「牛次郎」での旅のダイジェストは、ここにもあります。ただし戻ってくるリンクがないので、ブラウザの「戻る」ボタンで帰って来てください)

 エクアドルからペルーに入国。チチカカ湖に浮かぶアマンタニ島で21世紀を迎え、ボリビア、チリ、アルゼンチンと追い風にのって南下。そして2001年1月30日、南米大陸の最南端の都市、「世界の果て」という枕詞のつくウシュアイアに到着。この時点で出発してから約36000キロを走っていました。

 そこからチリに戻り、サンチャゴから二度目の一時帰国。日本から戻ったのち、スペインへオートバイを空輸し、僕は旅の後半であるユーラシア横断編へとコマを進めたのです。時は2001年5月、スペインはひまわりが満開でした。

 スペインからジブラルタル海峡を渡ってモロッコへ。初めてのイスラム世界に戸惑いながらサハラの入口を覗き、ふたたびヨーロッパに北上。スペインからフランス、イタリア、スロベニア、イタリア、スイス、ドイツ・・・と迷走したのち、スカンジナビア半島へ。
 雨と寒さに耐えながら北極圏に突入。2001年8月15日、世界の南の果てに到着した7ヵ月後、今度は北の果て、ノルウェーのノルドカップ岬から北極海をのぞみました。

 そしてバルト3国、ポーランド、チェコと経てスイスに戻り、これからゴールのネパール目指してアジアを横断するぞ!というときに、あのニューヨークでのテロ事件が発生。僕の旅に影響が出るとは思っていなかったのですが、その後、アメリカはパキスタンからアフガニスタンを攻撃。アジア横断が果たして可能なのか?と迷っているうちに今度はトルコとイランの国境が雪で閉ざされました。

 こうして僕はアジア横断をあきらめ、ロシアルートで日本まで走ることにしました。しかし、そのルートも冬季の走行は不可能。僕は東欧をグルグルと迷走したのち、ギリシャに到着。そしてアテネの宿にオートバイを預け、クロアチアで出会った女子大生モバイラー、松井史織とともにエジプト経由でタイへ。南国の島でスキューバダイビングのライセンスを取ったりして冬を越しました。

 2002年3月、日本に帰る松井史織と別れて僕はエジプトに戻り、バックパッカーとしてヨルダン、シリア、トルコと中東を縦断してバイクの待つギリシャに到着しました。
 そこから再びトルコに足を踏み入れたのち、東欧を北上。バルト3国の一番北、エストニアで3ヵ月有効のビジネスビザを取得し、2002年7月7日、いよいよ超大国ロシアの横断にとりかかりました。
 この時点での走行距離は約73000キロ。一見、小さそうに見えるヨーロッパですが、効率を考えずに縦横無尽に走った結果、40000キロ近くも走っていたのです。

 ロシアを横断するだけなら残りの走行距離は10000キロほどですが、代わり映えのしない景色、単調な道路は精神力を奪い、僕はバイクで越境できるようになったばかりのモンゴルに逃げるように入国しました。
 モンゴルからバイクを空輸して日本に帰ろうかとも思いましたが、値段が高いのと、世界一周を目前であきらめるのも悔しいので、モンゴルで約一ヵ月過ごしたのちにロシアに再入国。

 今度は人にも恵まれ、シベリアの道の無い区間もうまい具合に貨物列車に乗せてもらって約2000キロを移動。ロシアに対する印象はガラリと変わり、そして日本海に面したウラジオストクに到着。
 そこからロシア船籍のフェリーに乗り、2002年9月18日、僕は富山県伏木港に降り立ったのです。実家のある横浜に着いたのは翌19日、こうして日本を出発してから1033日、83700キロの旅は終わったのです・・・。

 と思いきや、僕は2003年の新年早々、ふたたび日本を後にしました。仕事を探し、次の生活に移る準備をしていたのですが、僕の心に引っ掛かっていたもの、それはインドの大地でした。
 世界のあちこちで旅行者と旅談義に花を咲かせると、よくインドの話題が出ました。好き嫌いが分かれるにしても、強烈な個性を持つ国、インド。もともとバイクで訪れる予定だったのが、例のテロの影響でアジア横断をあきらめ、果たせないままになっていたのです。
 「やっぱり最後にインドに行こう」と、私はタイ経由でカルカッタに降り立ちました。ただしバイクは日本に置いたまま、バックパッカーとしてです。

  カルカッタからダライ・ラマの訪問で沸くブッダ・ガヤーへ。そしてヒンズー教徒の聖地バラナシでアウトロー・U氏と出会い、ジャイプルまで約2週間をともにしました。その後、ネパールに向かうべくバラナシに戻ったのですが、そこで国際会議にサクラとして出席することになり、宿のみんなとデリーへ。国賓なみの待遇を4日間受けたのち、インド中部まで一気に南下してアジャンター、エローラの遺跡を見学。そしてカルカッタまで戻り、飛行機でネパールの首都カトマンズへ飛んだのです。そのころから旅の終わりまで、国際会議が縁で知り合った大阪人・チカさんと行動を共にしていました。

 ネパールで4日間のミニ・トレッキングをしたのち、タイへ戻り、そこから帰国をするはずが学生シーズンのために日本便は満席続き。そこでソウルに飛び、韓国を一週間旅行したのち、釜山からフェリーで大阪に渡ったのです。
 大阪港に降り立ったのは3月31日。日本は春の陽気で、桜が咲き始めていました。それは僕の旅の終わりを告げるとともに、新しい生活のスタートを予感させるものでした・・・。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

 ザッと書いただけでも、こんなに長くなるのです。何せ日記の本文はこの何百倍もあるのですから。
 日記を初めからていねいに読んでいくのも疲れますし、最初のころの文体はホント恥ずかしいほど稚拙なので、まずは興味のあるところからナナメに読んで行ってください。
  ・・・そのうちクセになって全部読んでしまうかもしれません。

旅の日記に進む

とりあえず、写真でも見てみよう



(表紙に戻る)