コラム


牛に注意!−牛次郎の旅ダイジェスト(2000年11月19日)

 「牛次郎」にはじめて会ったのは、エクアドルの自動車市だった。
 首都キトの郊外で毎週末開かれるというその市には、安宿「スクレ」の従業員カルロスが「600台は下らない」と言ったのが誇張に感じないほど、数多くの個人売買の車が並んでいた。しかし、その中で1974年式ジープ・バンの装甲車のようなガタイはすぐに我々の目に止まった。タフそうな車体、4人が寝泊りできる車内空間、1880ドルという金額。それまで中古車屋で何台となく見てきたが、今までで一番、探していた条件にあてはまった。しかし何よりも増して、そのバンがゴツさと併せ持つユーモラスな雰囲気が我々の「計画」にピッタリだと感じたのだ。

  「マジック・バス計画」−グリンゴ(白人)旅行者が好みそうな名前の計画は、ペルーの大統領選がきっかけだった。2000年5月、現職のフジモリは3選を果したが、アメリカに後押しされた対抗馬のトレド陣営は選挙に不正があったと主張し、ペルー国内では反対集会やデモが相次いだ。当時ペルーの北、エクアドルの安宿「スクレ」には私を含め、これからペルーに下ろうとする日本人旅行者が数人いた。毎日インターネットでペルー情勢を入手してきては「大丈夫だろうか」と話し合っていた。
 夜、いつものようにみんなで夕食を食べている時だった。ペルーが心配ならみんなで車を買い、コロンビアへ上がったらどうか。そこから時計回りに南米を回れば、ペルーに行きつくころには情勢が落ち付いているかもしれない、という冗談半分の意見が出た。みんなでガソリン代を割ればバスより安くあがるかもしれない、という肯定意見が続いた。私のようなお祭り好きの人間がその話を本気にするのに、時間はかからなかった。「マジック・バス計画」‐とりあえず計画にはありきたりな名前がつけられた。
 ペルー情勢はもはや口実だった。早速、翌日から車探しは始まった・・・。  

 それから6日が経っていた。夕食時の会話には多くの人が加わっていたが、結局メンバーは私、ウメさんとその妻Kさん、そして猪飼さんの4人に絞られていた。エクアドルでは車は大変な貴重品で、中古車の相場は予想外に高かった。足を棒にしてキト中の中古車屋を回ったが、希望にかなうものは見つからなかった。そこでカルロスが個人売買の車市の事を教えてくれたのだ。
 我々は市で見つけたそのバンの内外をなめるように調べた。エンジンの気筒が死んでいないか、圧縮比を調べてくれる業者にも見てもらった。オーナーには「考えて連絡する」と告げて別れたが、我々の考えは決まっていた。
 数日後、「日本人が車を登録するのは初めてだ」というキトの陸運局で、バンの名義は「アツシ・ウメハラ」に変更された。私が虎の子として取っておいた2000ドル分のトラベラーズチェックと引き換えに。  

 何ヵ月かかるかもわからない旅を快適にするために、我々は車内の椅子を取り払い、平たくなった床にスポンジとビロード地の布を敷いた。外見は「シマウマにしたい」というKさんの意見は押さえられ、牛模様に塗装することになった。スペイン語で牛のことをVACA(バカ)という。こんなバカみたいな計画にピッタリではないか。極真空手の創始者、大山倍達をモデルにした漫画の題名「空手バカ一代」をなぜかもじり、計画名は「南米VACA一台」と改められた。そして極め付けは前オーナーの名前。書類を見ると、名はセグンド(第2という意味。日本語でいうと次郎だろうか)、姓がVACA(牛)・・・。こんな偶然があるだろうか。かくしてバンの名前は「牛次郎」に決まった。
 長旅に備え、カルロスに紹介されたメカニックに数日かけて牛次郎を整備してもらっていたが、我々は6月14日、翌日から交通機関のストライキが行われるという情報を得た。南米のストライキは強烈だ。道路にガラス片がまかれたり、タイヤが置かれて燃やされたりする。バスやタクシーなどのぬけがけ営業(スト破り)を防ぐだけでなく、一般車両の交通までが阻止される。ひどい時にはそんな状況が数日から数週間も続くのだ。ここまで来て足止めを食らっては計画自体が白ける。少々あわただしかったが我々は整備を早めに切り上げてもらい、14日深夜、「スクレ」の宿泊客たちに見送られてキトを出発、徹夜でコロンビアとの国境を目指した。  
 こうして牛次郎の旅はスタートしたのである。

 
  最初の難関はコロンビアに入国して二日目、当時ゲリラ活動が最も活発とされたパスト〜ポパヤン間の山岳地帯だった。 ゲリラといえど普段は別の仕事をしている人が多く、従って活動は週末に多い。さしずめ「サンデーゲリラ」といったところだろうか。アドバイスのとおり平日の昼間を選んでこの200キロを走ったが、アップダウンの激しさ、舗装状態の悪さを我慢すれば山間の素晴らしい景色を楽しめるドライブだった。しかしゲリラ地帯を抜けてすぐ、我々は機関銃で武装した私服の男たちに包囲された。「出た!」‐誰もがそう思った。ところが、男たちが要求したのは金品でも我々の身柄でもなく、パスポートと運転免許証の提示だった。彼らは私服警官だったのだ。紛らわしい事この上ない・・・。  

 最初の目的地、コロンビア第3の都市カリに到着した時から故障との闘いは始まっていた。昨年オープンしたばかりだという日本人宿「達磨」の前に牛次郎を停めたら、すぐに車体の下にオイルの水溜まりができた。エンジンのヘッドカバーのガスケット不良だった。
 カリの予想以上の近代的な街並みに驚いた我々は、「達磨」で快適な数日間を過ごした。その間、近くの修理工場でオイル漏れを直してもらったが、カリを出ると、すぐに別の問題が発生した。牛次郎最大の弱点、旅の終わりまで断続的に続いたブレーキの問題である。カリブ海に面した、スペイン統治時代の面影を濃く残すカルタヘナの街ではブレーキが効かず、危うくバスに追突しそうになった。街の修理工場でブレーキパットやシリンダーなどを交換してもらったが、そこから100キロほどしか離れていないバランキージャでは、今度はブレーキが効きっぱなし(引きずり現象)になった。  
 また、そこではジェネレーター(発電機)も故障した。エンジンがどうにもかからないのだが、ジェネレーター内の断線が原因だとは自力で付き止められなかった。牛次郎は有料道路の入口で動けなくなり、その場で初めての野宿を経験した。


  翌日、ジェネレーターを修理してもらった我々はベネズエラとの国境を目指した。国境付近には極上の大麻の産地として知られるシエラ・ネバダ山脈があり、そこもゲリラの支配地域として知られている。 その山脈を通過中、牛次郎のエンジンが突然止まった。燃料計などというものは無いのだが、計算によるとそろそろガソリンが無くなっても不思議ではなかった。予備のポリタンクから給油するが、それでもエンジンはかからない。ゲリラが潜んでいそうな、うっそうとしたジャングルに空しくセルモーターの音が響いた。  
 「こんな所でどうしたものだろうか」‐我々はエンジンのカバーを開け、そしてキャブレターにガソリンが達していないのを発見した。牛次郎のキャブレターは一度ガス欠になると圧がかからず、ガソリンを補給しても吸い上げてくれなくなるという仕組みを理解した。燃料タンクからキャブレターに伸びているゴムホースを外し、口をつけて息の限り吸いこむ。やがて、口の中が焼ける感覚がした。ホースの先までガソリンが来たのだ。そしてホースを戻してエンジンをかけると、何事も無かったようにエンジンは目を覚まし、みんなは安堵の声をあげた。
 今にして思えば小さなトラブルだが、それでも当時は必死だった。牛次郎にトラブルが起きてそれを自力で解決し、その喜びを味わった最初の経験だった。  

 
 ベネズエラに入国してからはゲリラと遭遇する危険が無くなったので、夜も走れるようになった。しかし、代わりに我々を待っていたのはタチの悪い警察官と、首都カラカスの冷淡な人々だった。  
 国境を越えてはじめの都市マラカイボに行くまで、10回は検問があっただろうか。ほとんどその度にチップか、難癖をつけられ、「罰金」を個人的に払うよう警官に求められた。ベネズエラは一大産油国で、経済的に近隣諸国よりは余裕があるはずだ。役人は経済的に苦しい国ほど腐っていると思っていたが、そうでは無かった。いつでもどこでも、腐る環境があれば腐るというのが良く分かった。  
 私は7月中旬には日本に一時帰国したかったので、先を急いだ。夜通しで運転したこともあった。しかし、首都カラカスで思わぬ足止めを食らった。コロンビアで修理したジェネレーターが再び故障したのだ。今回の故障は前回の断線などどいうかわいいものではなく、ベアリングが破壊され、軸が回らなくなるという決定的なものだった。新品と交換するほか道は無いが、故障したのは深夜。部品屋も修理屋も閉まっていたので、我々は警備員の許可を得て24時間営業のガソリンスタンドの隅で寝た。しかし朝になって、我々は交代した警備員に叩き起こされた。お前らは客でも何でもないから出てけ、というのだ。出ていきたくても車が故障して動かないのだ、午前中には直して出て行くからそれまで待って欲しい、というが、警備員の口からは信じられない言葉が出た。「そんな事は関係ない。車が動かないなら、押して出て行け。さもなくば、警察を呼ぶ」・・・。
 こんな扱いを受けたのはカラカスが最初で最後だった。エクアドルでもコロンビアでも、後述する他の国々でも、程度の差こそあれ、難儀をしている旅人に対して理解があり、協力的だった。しかしカラカスの人たちだけは違ったのだ。
 この警備員では話にならないと、我々はスタンドの支配人らしき白人を捕まえて相談した。良い教育を受けたと思われる彼は、流暢な英語で車が直るまでスタンドに居ることを許可してくれた。そして彼は自分の車で部品屋を案内してくれた。しかし、それは早く厄介払いしたいという本心がなせる技だと我々は悟った。部品屋の対応も冷たかった。背後にジェネレーターがずらりと並んでいるにもかかわらず、我々が探しているものの型番も調べようともせずに店主は「無い」と断言する。我々が自力で店内から合うジェネレーターを探し出し、その支払い能力を立証するまで、店主は商売をしようとしなかった。  

 ガソリンスタンドや部品屋だけではなかった。泊まろうと数軒あたったホテルでも、航空券の値段を聞こうとして入った旅行代理店でも、「足元を見る」態度は同じだった。そういう人たちに限って経済的に裕福そうで、良い教育を受けていると思われ、そして忙しそうだった。
 しかしベネズエラでもカラカスを出ると、警察官を除いて人々の態度は違った。エンジェルフォール観光の基地となるシウダード・デル・エステのホテルの親切な白人オーナーは「カラカスはクレイジーだから」と言った。典型的な都会病だろうか、人々は他人に構う余裕と引き換えに経済的な余裕を得る。東京も、外国人旅行者にとっては同じなのかもしれない。


 旅行者に対する理解、優しさでは、次国のブラジルは群を抜いていた。ベネズエラでリッター12円だったガソリンが国境を越えていきなり80円になった時には言葉を失ったが、それだけ高いガソリン代を払ってもいいと思えるほど、旅人は良い処遇を受けた。  
 かけこんだ修理工場では代金を受け取ろうとせず、「良い旅を・・・」といって我々を見送った。牛次郎にとって明らかに場違いだと思われるピカピカのタイヤ屋では、我々のために普段は扱っていない中古のタイヤとホイールを方々に電話して取り寄せてくれた。パンタナル湿原の中で車が動かなくなったときには、すぐに後から来た車が止まって助けてくれた。(普通、中南米の国々では、人里離れたところで車が故障していたら、自分の身の安全のためになかなか止まろうとしない)  
 そしてガソリンスタンドでは夜、寝ても良いかと聞いて、断られたことは一度も無かった。そればかりかシャワーを貸してくれたり、料理を作っているとテーブルと椅子を貸してくれたりと、「そこまでやるか!?」と思うほど底抜けに優しかった。たとえそのスタンドでガソリンを入れなくてもである。  
 丁重に礼を言うと、彼らは決まって「気にするな」という感じで親指をグイと突き出す仕草をするのだ。とても気持ちの良い人々に囲まれて、我々の旅は快適だった。(度重なる故障と北部の道の悪さを除けば)  

 しかし、ブラジルでは車の使い方を間違えるとどんな結果になるかも、我々は知らしめられた。  
 ブラジルに入国してすぐ、ジャングルの中で、我々は大事故の現場に遭遇した。片側1車線の田舎道で白いフォルクスワーゲンは猛スピードで路肩に落ち、縦か横か、原型をとどめないほどに転がって炎上した。我々が到着したときには軽症の中年運転手は錯乱し、やや重いケガを負った若い女性は呆然として言葉を失い、そして3人目の乗客だった運転手の妻は日本刀で切ったような横腹の深く長い傷と目を開き、息絶えていた。
 他に通りかかる車も、救急車を呼ぶ手段も無い。我々は2人のケガ人と1人の犠牲者を牛次郎に乗せ、病院のある一番近い町まで走った。道中、中年の運転手は泣き叫び、妻を蘇生させようと必死になって呼びかけたり、顔を叩いたりした。その度に妻の遺体からは黒い血が流れ出て、車内はその匂いで満たされた。50キロの道のりは永遠に続くかのように思われたが、途中で知らせを聞いた地元のオートバイが先導してくれて、我々は無事に病院に着いた。
 外傷のほとんど見られない運転手は、精神的なことを除けば大丈夫だろう。若い女性は意識がはっきりしてくるとともに痛みを認識し、病院の奥で悲鳴をあげていた。思ったより重症かもしれない。そして運転手の妻の遺体は、医者でさえ手をつけようとしなかった。あの運転手はスピードと引き換えに、最愛の妻を失ったのである。
 牛次郎の愉快な旅にすっかり興じていた我々は、身を引き締められる思いだった。我々だっていつ何時、あのような遺体になるかもしれないのだ。どんな事にも表と裏があるのだ・・・。


  そう、どんな事にも表と裏はある。
 2000年7月、ブラジルから私は日本に一時帰国した。オートバイの通関書類を更新するための当初から予定されていた帰国だったが、一つ、日本で予定外の重要な手続きをやらなくてはならなかった。それは3年半連れ添った妻・久美子との離婚手続きだった。
 私の当初の目的はオートバイ二人乗りによる世界一周だったが、久美子との離婚話は2月に浮上し、4月、中米グアテマラから別行動となっていた。その時点から日本に帰国した際、正式に離婚するという事は分かりきったことだったが、実際にその段になってみると精神的な負担は予想以上に大きかった。  
 自分はその時になっても涙一つ見せないで事を済ませられる人間だと思っていた。無意識に相手の弱みを探り、理論武装して自分を正当化する生まれつき自分勝手な思考回路は、今回も私に味方すると思っていた。しかし自分は間違っていなかったんだと言い聞かせても、湧いて出るのは空しさだけだった。私は思ったよりも弱い人間だった。  
 旅の目標を見失った。バイクの旅が何だというのだ、ここでやめた方がはるかに楽だ。しかし、牛次郎と仲間が待っていると考えると、私はブラジル行きの飛行機に乗る事ができた。  

 9月、サンパウロで私は牛次郎とウメ夫妻に再会した。猪飼さんは先を急ぎ、単身ボリビアに向かった後だった。私とウメ夫妻の3人の旅が始まった。ルート的に言うとサンパウロはちょうど折り返し地点。これからが復路、キトへ戻る旅だ。  
 4人の時よりもウメ夫妻との関係は密になった。夫妻には夫婦でいることの意味が大いに見受けられた。一緒にいることがプラスなのかマイナスなのか、旅を通じて出た答えは、我々の場合とは表と裏だったのだ・・・。

 故障に悩まされながらブラジル西南部のパンタナル湿原を抜けると、我々はアルゼンチンとの国境に広がる「イグアスの滝」に到着した。あまりにも有名すぎる世界最大の滝に、天邪鬼な私はあまり期待を寄せていなかったのだが、実際に目の前にしてみると世界中から観光客が集まる理由が良く分かった。
 そこは世界の裂け目だった。大地が割れ、大河が落ち、「悪魔の喉笛」と呼ばれる一番激しい滝壷は名前の通り、悪魔のような雄叫びをあげて見るものを畏怖させる。悩みも不安も、すべて吹き飛ぶ迫力だった。日本から戻ってきて良かったと思った。そうだ、まだまだ見るべきものが世界にはあるのだ。南米へ下っただけで旅を終えてたまるか・・・。


  イグアスの滝観光の基地となるブラジル側の町フォス・ド・イグアスは、アルゼンチンのほか、パラグアイとも国境を接している。我々は国境を越え、パラグアイに入国した。
 実は、パラグアイに入るか否かは議論の余地があった。パラグアイに入ってもどうせアルゼンチンは通過することになるのだから、楽さで言えば、最初からアルゼンチンに向かったほうが国境越えが一つ減る分、楽だ。しかもパラグアイの警察は南米でもトップクラスのタチの悪さと聞いており、最近では知り合いのライダーがパスポート不所持のかどで数百ドルもの「罰金」を警察官に要求されたらしい。しかし噂だけでその国が判断できるのであれば、旅行する意味は無い。やはり自分の足で歩き、目で見なければその国のことは判断できないだろう。我々は旅人としてのプライドからパラグアイに入国することにしたのだ。  

 果して入国してみると、噂は本当だった。検問ではナンバープレートを照らすランプが無いと難癖をつけられて「罰金」を求められ、やっと切りぬけて首都アスンシオンに到着したと思ったら、今度はホテルの目の前のバスターミナルにビールを買いに行っただけなのに、パスポート不所持で連行された。何とか釈放されて翌朝、食事を取りにホテルから出たら、すぐに警察官が我々をピッタリと尾行しはじめ、人通りの無いところまで来てから職務質問を始めた・・・。
 全部が全部、「罰金」という名のチップが目的ではなく、バスターミナルでは本当に不審者だと思われたらしい。しかし、それにしてもパラグアイには日本や韓国からの移民も多く、アジア人が取りたてて珍しい訳でもない。我々の格好が飛びぬけて怪しかったとも思えない。
 わずか2日しかいなかったのでパラグアイの国をどうこう書く訳には行かないが、少なくても我々はもう来ないだろう。車やバイクで旅する者にとってタチが悪い、あるいは仕事熱心すぎる警察官がいる国は面倒なのだ。


  牛次郎に麻薬犬が乗りこむという、かなり厳しい税関のチェックを受けて入国した次国アルゼンチンは、今回は横断するだけだった。パラグアイの修理屋でディストリビューターの調子を見てもらったおかげで、牛次郎はアルゼンチン北部の大平原を快調に飛ばした。一日5、600キロは走るようになった。
 アルゼンチンは南米でも最も物価が高く、従って経済的にも豊かで生活レベルも高い。ベネズエラの例もあったが、さすがにここの警察は違うだろうと思った。しかし、残念ながらここにも腐った警官はいた。  
 夜、片田舎の検問所で止められた際、詰め所に連れ込まれ、はっきりと「金銭による協力を求める」と言われた。言葉が分からないフリをして切りぬけたが、帰り際、警官同士が「東洋人ってのはなんでああも、何にも理解できないだろう?」と笑っているのが聞こえた。馬鹿野郎、理解してないのはお前らの方だろ。お前らが小銭のためにする心無い行為一つで、国に対する印象がガラリと変わるんだぞ。  


 ずっと平地が続いたアルゼンチンだったが、3日目、ようやく坂らしい坂が現れた。それは隣国チリとの国境に沿って南北に走っているアンデス山脈に差し掛かったことを示していた。雪を被った山々を見ながら3000メートル超の峠を越え、我々はチリに入国した。
 南北の4300キロに対し東西の幅は平均175キロだという細長い国は、非常に居心地が良かった。街はモダンで生活のレベルは高く、それていて物価は高くない。そしてブラジルほどでないにしろ、ちょうど良い程度に人は優しく、警察官も紳士的で頼りになった。我々は首都サンチャゴの海側にあるリゾート地ビーニャ・デル・マルで帰国直前の猪飼さんと再会することができ、そこでゆっくりとした1週間を過ごした。


  牛次郎の旅も先が見えてきた。ビーニャ・デル・マルを出発した我々は最後の見所、ボリビアのウユニ塩湖を目指して北上を開始した。
 どこまでも白い塩の世界が続く世界最大の塩湖、ウユニへは牛次郎で自走して行きたかったが、ボリビアの道は険しく、我々はあきらめてチリ側からツアーに参加することになった。

 ギアナ3国の状況が分からないので比較はできないのだが、それ以外の南米諸国の中ではボリビアは間違い無く最貧国だ。人口の半分以上がインディヘナ(先住民族)であり、ある意味最も南米らしい国なのだが、貧しさゆえ、人々の金銭に対する執着が激しいように思われた。
 例えばチップを払う客とそうでない客の扱いの差が極端だったり、人々にカメラを向ければ心情的、あるいは宗教的に写真に撮られるのを避ける他国のインディヘナと違い、大人しく(あるいは頼みもしないのに)写真に写る代わりに代金を要求してくる。ツアーで使用した、ボリビアでは超高級車のランドクルーザーの運転手は、客が乗り込む際に神経質にいちいち靴を掃除させた。嫌いだというイスラエル人に対しては客を客とも思わぬ態度を取っていた。確かにツアー料金は安かったが、常識の範囲でいいからもっと丁重に客を扱えば、もう少し高い料金が取れるはずだ。余計に気を使い、働いた分だけ見返りがあるのだ。それが経済の発展に繋がると思うのだが、彼らは気付かないか、そうとは思えないらしい。  


 ウユニの白い世界を経験した我々は、残すところエクアドルに戻るのみとなった。 チリとエクアドルに挟まれたペルーに見所はいくらでもあるが、ウメさんたちはすでに多くを見ているし、私はバイクで下ってくるときに見ればいいのだ。
 ペルーでは、首都リマで古代ペルーの染物を再現しながら民芸品店を経営する邦人女性、香苗さんの御宅に数日お世話になったのを除き、あとはひたすら走っていた。ブレーキやクラッチの不具合や、朝、押さないとエンジンがかからないといった細かいトラブルは続いたが、走り出してしまえば牛次郎は順調で、一日に700キロを越える距離を走ったこともあった。


 そして11月4日、ほぼ5ヵ月ぶりに牛次郎はエクアドルに入国した。入国したときにはもうゴールに着いたかのような気分であったが、本当のゴールの手前には旅で一番険しい峠越えが待っていた。海に近い、ほとんど高度の無い国境から、アンデス山脈に抱かれた高度2800メートルの首都まで登らなければならないのだ。  
 高度が低くて空気の濃いペルー海岸沿いは調子の良かった牛次郎だったが、アンデスを上がるにつれてさすがにボロが出てきた。エンジンは咳き込み、アイドリングは安定せず、常にアクセルを吹かしていないと止まってしまう。2000、3000と私の時計についている高度計の数字は上がり、そしてリオバンバの手前、一番高い峠では3720メートルに達した。ここまで来ると牛次郎は平地の7割方しかパワーが出ない。
  しかし本当の試練は峠を越え、下りになってからだった。ブレーキの弱い牛次郎はエンジンブレーキを併用しないと、どこまでも加速していってしまう。大型トラックが歩くような速度で慎重に坂を下っているのをみることがあるが、その気分がよく分かった。車重に対してエンジンのパワーとブレーキが劣る牛次郎は、むしろ乗用車よりトラックに近い。アクセルを踏んでいればいい登りの方が精神的にはるかに楽だ。

 温泉地バーニョスを経て我々がキトに辿り着いたのは11月7日、交通機関のストを避けて深夜に出発したあの日から146日がたっていた。スペイン統治時代からほとんど変わらぬ佇まいを見せる世界遺産の街並みは5ヵ月間で変化するわけもなく、安宿「スクレ」もまた変わってなかった。しかし我々の知っていた宿泊者はすでに1人もいなく、新しい顔ぶれと雰囲気が時の流れを感じさせた。
 旅は終わった。我々は出発の時と同じように「スクレ」の前に牛次郎を止め、シャンパンを浴びせて旅の無事を祝った。
  3500リットルのガソリンを消費して8カ国、22000キロを走りきった牛次郎は疲れ果てていた。ピストンリングの磨耗で3気筒目は死に、ファンベルトは切れかかり、ブレーキはいよいよ効かず、車体はヒビ割れや錆びで汚れていた。これでよくぞキトに帰れたものだ。


  「今度こそダメかも」と思うような故障が何度もあった。そのときにみんなが思ったのは、「これで楽になるかもしれない」ということだった。牛次郎が完全にダメになれば、もう故障で悩む事もない。重い車体を力の限り押すこともなく、ブレーキが効かない事に怯えながら運転する事も無い。身軽になって、それぞれの旅に戻れるのだ・・・。
  しかし、その度に牛次郎は復活した。考えもつかない簡単なことで直ったこともあった。「バイクで世界一周だって?ボクのこんな簡単な故障が直せもせずに?笑わせるね」‐牛次郎にからかわれている気がした。故障、トラブルには必ず原因があり、ふさわしい対処をすればいくらでも車は直るということを牛次郎は改めて教えてくれた。車が故障すればすぐに部品ごと交換したり、あるいは車自体を買い換えたりするような日本では忘れかけていたことだった。
  我々は5ヵ月間、牛次郎で移動し、食べ、そして眠った。生活の全てが牛次郎とともにあった。しかし考えて見れば1974年式のジープ・バンは今年で26歳。密度こそ濃いが、彼が「牛次郎」だったのは26年のうちのわずか5ヵ月間なのだ。幸い、というか車が貴重なエクアドルでは常識だが、牛次郎はスクラップにはならず、整備されて調子を取り戻し、弁護士である新しい主のもとに渡った。彼は牛次郎に手を加えて転売するつもりらしい。いずれにせよ「牛次郎」ではない、新しい人生が待っているのだ。

 そして旅の仲間も新しい局面を迎えることとなった。ウメ夫妻は滞在予定を大幅に超えた南米大陸を離れ、スペインに飛ぶ。猪飼さんは2年以上にわたった世界一周の旅を終え、すでに日本に帰国している。
  私は愛車DR800Sを預けた「スクレ」の従業員カルロスの家に行き、そのエンジンをかけた。5ヵ月ぶりにもかかわらずエンジンは簡単に目を覚まし、調子の良い雄叫びをあげた。懐しい感じがした。「今度は俺の番だ」−そう言っているようにも聞こえた。


  最後にウメさん、Kさん、猪飼さん、バイクを預かったり車の購入の相談にのってくれたカルロス、そして牛次郎に、改めてお礼をいいたい。私は1人では決して不可能だった、すばらしい旅ができた。「牛次郎の旅」の一員だったことを、私は誇りに思う。