旅の日記(番外編)

日本編(2003年3月31日〜4月2日)

旅に出る者、終える者、そして次なる生活をはじめた者

 快適だった釜山〜大阪フェリーの船旅だが、翌朝、午前7時から5分置きにかかる船内放送に僕たちの安眠はすっかり妨害されてしまった。
 「まいどご乗船、ありがとうございます。ただいま船内のレストランでは朝食のご用意が整いました」「まいどご乗船、ありがとうございます。ただいまより免税品の発売を開始いたします」・・・本当に感謝しているんだったら、お願いだからゆっくり眠らせてくれ!

 ただし、僕たちが反応を示した放送がひとつだけあった。「ただいまより本船は、明石海峡大橋の下をくぐります・・・」
 カメラを片手にデッキにあがると、まさに頭上をを巨大な橋桁が通過するところだった。
 2003年3月31日午前9時、僕は本州と淡路島とを結ぶ巨大な白い橋と、そのたもとの兵庫県の土、そう、日本の土を確認した。

 2002年9月に世界ツーリングを終え、ロシアから帰国したときも船だったけど、今回の方が「世界は繋がっている」という実感は強い。
 2003年1月に始まった僕の旅の「番外編」、もともとの目的地はインドだった。そして多くの旅人が語るように、たしかにそこは別世界だった。おそらく行きも帰りも飛行機だったら、まるで「インドランド」という名のテーマパークにでも行って来たような現実感の無さで終わっていたかもしれない。

 しかしインドの後にヒンズー文化のアクが少し抜けたネパールを訪れ、そこでチベット仏教との接点を見た。そして仏教が伝わってきた本当のルートとは違うだろうけど、その後に仏教国であるタイに立ち寄った。行きなれている、ということもあるけど、僕の中でタイはインドの持つ非現実さ、非日常さと、日本の日常のちょうど中間あたりに位置しているような気がする。
 そして韓国。近代的な町並みや行き交う人々の顔・・・良くも悪くも全てが日本に近く、非現実感はほとんど感じられなかった。
 そんな韓国からフェリーで一晩、目が覚めれば明石海峡大橋。途中、飛行機も使ったけど、インドから少しずつ歩を重ねて帰ってきた、という手ごたえがある。
 ロシアからの帰国のときには、海の向こう側とこっち側であまりに文化も景色も違うから、非日常と日常を「ぴしゃり!」と分けてしまいがちな飛行機で帰ってくるのと大差ない感覚だったのである。

 午前10時に大阪港に到着。日本の土、いや埠頭のコンクリートを踏む。
 旅の最後の税関では、予想していたことだが、かなり怪しまれた。面倒だったのでチカさんと一緒に荷物検査を受けようとしたら、「夫婦ではないのだから、一人ずつ!」と、係官があわてて僕たちを引き剥がした。
 顔に幼さの残る若い係官は、韓国海苔や高麗人参茶など、おみやげの詰まった僕の手提げ袋を開け、一つ一つを丹念に調べたが、それらを元の袋に戻せなくなった。すると、彼は袋ごと僕の方にグイッと押し寄せて、「これ、もどんない」と言った。
 決して「戻らない」でも「すみません、戻りません」でもない。「これ、もどんない」という、ヒラガナな言い方だったのだ。おい坊や、君はいくつだ!?それで何か見つかったか?

 疑惑を晴らし、無事に日本入国。最寄り駅の「コスモスクエア駅」まで重い荷物を引きずって歩く。3月末の大阪は韓国よりだいぶ暖かい。ネパールで買った民芸調セーターの下で、僕は汗ばんだ。
 しかし、駅のきっぷ売り場で凍りつく。JR環状線に出るまでのわずか3駅で440円。それって4ドル、インドじゃ160ルピーじゃないか!肉入りのスペシャルターリーにタンドリーチキンとラッシーがついちゃうじゃない!と、旅を終えてすっかりサイフの薄くなった僕は目を三角にして興奮するのだった。

 そして大阪で看護婦をやっていたチカさんの元同僚、「梶っぺ」さんの家に寄って昼食にお寿司をいただいたあと、帰国第一日目の夜は大阪某所の「みっき」の家にお世話になることにした。

 あ、そういえば、みっきの事はこの日記ではあまり書いていないんだっけ。
 僕が初めて彼女に会ったのは2001年3月、南米から一時帰国する際に立ち寄った古巣・メキシコシティの「ペンション・アミーゴ」だった。当時、彼女はアメリカで買ったハーレーでアメリカとメキシコをツーリング中だった。喘息持ちの彼女、そのときはメキシコシティの空気の薄さと汚さにまいっていて、あまりゆっくりは話せなかったけど、同じライダー同士、そして「適当」と「ゆるゆる」をモットーとし、同じ「淋しがりや」「日本人宿での沈没肯定」派の旅人として気が合い、その後も連絡をとっていたのだ。
 (メキシコシティでの彼女は穴だらけのTシャツを着てゴホゴホと咳き込み、地下鉄の駅では物乞いの老婆に仲間と間違えられ、「ドブネズミ」との異名をとるほどボロボロだった。しかし何を隠そう、そんな彼女も主婦で、「ハニー」と呼ぶご主人を日本に残して旅をするのだ)

 彼女は僕と入れ違いに、2003年6月からやはりハーレーで世界一周に挑戦する。彼女の住む団地の前に、新車の真っ白なスポーツスター1200が止まっていた。今回は日本で買ったバイクをフェリーに載せ、ロシアから西回りに世界を回るのだ。
 語学マニアでもある彼女と、愛夫(愛妻の反意語として書いてみたけど、なんかイヤらしい言葉になったな)「ハニー」の家におじゃますると、ありとあらゆるモノにロシア語で書いた名前のメモが貼りつけてあって、旅を前に単語を覚える彼女の姿勢がうかがい知れた。
 その夜は僕とチカさん、みっきとハニーで帰国の宴。旅の話に花が咲いたのだった。

 ※この日記を書いている2004年1月現在、すでにみっきは世界を半周走り、スペインに到達しました。その様子は彼女のHP「旅蝶」でどうぞ。

 そして翌日、4月1日。帰国したんだからさっさと横浜の自宅に帰ればいいものを、往生際悪く、その日の目的地は京都。わるいださんの宿「J-HOPPERS」がどうなったか、見ておきたかったのだ。
 「わるいだ」さんこと飯田さんは、一年半に渡るユーラシア大陸横断のバイクツーリングの後、故郷の京都でバックパッカー向けの宿を開業した。2002年12月のオープン時に微力ながら手伝わせてもらったのだが、その後の4ヵ月ですでに宿は軌道に乗り、年末年始などは満室の状態だったという。

 噂の通り、オープンしたての時には単なるハコでしかなかった京都駅南口のビルが、今では旅行者の息吹に満ちた生きた空間になっていた。チェックインする際、フロントのカウンターでわるいださんとしばらく立ち話をしたが、その間もちょくちょくお客さんがやってきていた。半分以上が外国人の旅行者だから、その場にいると日本に帰ってきたことを少しだけ忘れさせてくれる。

 午後にわるいださんから自転車を借り、清水寺へ。桜には若干早かったが、春の行楽シーズンは始まっているようで、たいへんな賑わいだった。
 寺へと続く坂で、人力車を引いた若い車夫に声をかけられた。
 「人力車、京都の思い出にどうスか?お安くしておきますよ」
 「いや、僕たち、ホントお金ないんです」
 「みなさん、そういうんス。でも、びっくりするほど安いッスよ。このコースで3000円から・・・」
 「俺ら、いまインドに行った帰りで、びっくりするほどケチになっているのね」
 車夫はポカンとしていた。おそらく、ちゃんと意味が通じなかったのかもしれない。僕たちだって、まさかインドの帰りに京都観光がついてくるとは思わなかったし、ましてや日本に帰ってきてまでリキシャーマンに客引きされるとは思っていなかった。

 夜、アルバイトの女性に宿番をまかせ、仕事を抜けてきたわるいださんと近所の焼き鳥屋で乾杯。宿に戻ると、一足遅れて大阪から新車のハーレーで駆けつけたみっきが合流。そのままフロント奥の「オーナー部屋」で二次会。
 旅に出る者、終える者、そして次なる生活をはじめた者。三様の旅人が集い、丸いテーブルを囲んで語った。僕は自分の次なる生活がどうなるのか、期待と不安を感じていた。

 4月2日の朝、「J-HOPPERS」の前で記念写真を撮った。僕は約3年半の旅行で合計12,458枚のデジタル写真を撮った。そして、この写真が最後の一枚となった。
 わるいださんとみっきと「J-HOPPERS」の前で別れ、京都駅でチカさんと別れる。彼女は大阪出身だが、ご両親が引退して滋賀県に引っ越したため、京都からJR湖西線で帰るのだ。
 そして僕は大阪の金券屋で買った「青春18きっぷ」を使い、横浜を目指して東海道線に揺られた。

 車窓から見える景色は、春の陽気に満ちている。
 1994年、バイクで世界一周をしようと決心してから9年が経っていた。いや、思えば僕の旅の原点は1990年、まさに18歳の時に「青春18きっぷ」を使い、悪友と3人で行った北海道だったのかもしれない。先の予定を立てず、ただ寝袋だけを持って橋の下で寝泊りをくり返して進んだ。「まさか北海道までは」と思っていたが、僕たちは小樽で海鮮丼を食べ、雨の中でたどりついた「石原裕次郎記念館」の階段の下で眠った。その原体験が、やはり「まさか」と思っていたバイク世界一周を実現させたのだ。

 いずれにせよ、2003年4月2日、僕の人生における一つの季節が終焉を迎えた。次に迎えるのは春なのか、はたまた冬なのか、僕はいぶかりながら今まさに咲かんとする線路脇の木々をいつまでも眺めていた。

近々、僕の現在の生活までを綴ったあとがき、「それから」を掲載予定です