旅の日記(番外編)

タイ・バンコク編(2003年1月6〜12日)

インドは果たして、なんぼのものなのか?

 どいつもこいつも、インドインドとうるさい。
 バイクで旅した3年間、多くの旅行者に出会った。その多くがバックパッカーであり、またその多くがインドを経験していた。そして、彼らの国に対する評価はまっぷたつに割れていた。
 反インド派は「あんな国、二度と行くか、ペッペッ!」と吐き捨てるように激しく嫌い、親インド派は「嗚呼、いつかまた戻りたい・・・」とうっとりと目を細め、遥かガンジズの流れかゴアのビーチに思いを馳せる。
 反インド派にその理由を聞くと、「汚いから嫌!」とか「人がウザイ!」など具体的理由が帰ってくるが、親インド派の挙げる理由は「生と死の両方があるから」だとか「人生観が変わるから」とか「とにかくもう、すべてが好き」などと抽象的で、「とても一言であの国の素晴らしさは語れんのだよ、まあ、キミにはわからないだろうなあ」と影なる声で同情する。
 いずれにせよ、インドの話題が出るたびに両派がっぷり四つ・土俵際のせめぎあいが繰り広げられ、僕はそれほど印象が強烈な国なのだろう、と常々思っていた。 これはいつか、自分の目で確かめなくてはならない。

 しかし、僕は流行モノや定番モノが嫌いな天邪鬼でもある。
 会社を辞めて旅に出るとき、「猿岩石みたいだなあ」と先輩に言われてショックを受けた。貧乏旅行ブームに乗ったと思われたのが嫌だったのだ。僕はあのテレビ番組が始まる前から計画を練っていのに。そして南米で「牛次郎」号を買い、男女4人で旅をしているとき、日本の友達から「“あいのり”みたいだね」というメールをもらい、それが何なのか分からなかったが、やがてその番組の内容を知ると、僕は身を悶えて悔しがった。「また真似をしたと思われる!」
 だからまわりが「まずはインドだよねー」とか「アジアブームだしねー」とか「シャンティ・シャンティ〜♪」とか騒いでも、よっしゃインドだ!インドを目指そう!などと素直に考えることが出来なかったのだ。
 インドはタイと並ぶバックパッカーの登竜門だ。好き、嫌いに分かれるとしても、「一度は見るべき」という点では、両派意見の一致を見る。しかし、そんな「インドは基本」という声に従って行くのは自分が許せない。だから僕はバイク世界一周の最後、地球をグルっと回った「ついで」と称してインドに行こうと思っていた。「インド!インド!」と目の色を変える若いバックパッカーたちを尻目に、「インド?・・・ふふ、俺にとっちゃ通り道だぜ、ベイベー」とクールに決め、吸えない煙草の煙をフーッと吐くつもりだった。
 しかし、その野望はニューヨーク、WTCビルの崩壊とともに崩れ去った。僕はルート変更を余儀なくされ、ヨーロッパからロシアを横断して日本に帰ったのだ。

 帰国してからの2ヵ月は文字通り、あっという間に過ぎた。東京近郊の仲間と「ガハハ!帰ってきたぞ!」と飲み歩いては1ヵ月が経ち、「ワハハ!遊びに来たぞ!」と海外で出会った日本各地に住む友達を訪ね歩いて、さらに1ヵ月が経った。
 2002年11月ごろになって、ようやく次なる人生のステップを考えはじめたところ、気になる人材募集があった。書類審査は通った。しかし、一次面接で見事に落ちた。完全なる敗北、考えてみれば相手は「超」のつく有名・人気企業。素人がボブ・サップに挑戦状をたたきつけたようなものだった。「もしかしたら」と淡い期待を胸に抱いていたが、170キロの巨体にマウント・ポジションを取られ、現実という拳でボコボコにされた。

 同じころ、ニフティが主催する「ホームページグランプリ2002」で、当HPが最終ノミネート作品に残った。強豪揃いの他のノミネート作品を見ながらも、「グランプリは無理でも準グランプリ、あるいは特別賞でも恵んでもらえたら」とまたもや淡い期待を抱いてしまった。しかしボブ・サップここで僕の腕を取り、「うでひしぎ十字固め」に持って行ったのだ。
 賞金百万円を筆頭をする主要7賞にもれ、我が「Ride Tandem」は名前だけの「グランプリ次点」だった。まあ、4800を超える応募の中からベスト13に入ったのだから、上出来ではあるが・・・。
 前後して、付き合っていた彼女と別れた。久美子と離婚してからというもの、浮いた話の無さそうな僕だったが、実はやることはやっていた。しかし、それも終焉を迎えたのだ。ある程度予想はしていたので精神的準備はできていたが、ボブは腕の折れた僕を軽々と持ち上げ、パワー・ボムで3カウントを取ったと言っていい。

 失意のうちに2002年は暮れて行く。僕は実家の6畳間で旅の足跡をたどった地図を眺めた。大きな空白地帯、インドを中心としたアジア一帯とブラック・アフリカ。
 アフリカは、将来的に行って見たい。海外ライダーのはしくれとして、やはり暗黒大陸をバイクで走破したいのだ。ただし、それには金と時間が要る。やろうと思えば今出来ないこともないが、この楽しみは将来に残しておきたい。ジジイになってからアフリカに行くのって実はカッコいいかも、と思っているのだ。HPのタイトルは「ジジイ、アフリカを走る」なんてのにしてね。ま、正直に言うと今、それほどの気力がない訳なのだが。
 そこで、すでに年末/年始モードに入り、再就職も来年の春が勝負、という空気の中、僕はここでインドに行く事に決めた。僕は「機は熟した!今こそインドなのだ!果たしてなんぼのものか、この目確かめてやろうじゃないか!ガンジスのほとりでこれからの生き方を探るのだ!」と一人で勝手に盛り上がり、たまっていたノースウエスト航空のマイレージを使って、とりあえずタイ行きのチケットを予約した。バンコクまで行けば、インド行きの安いチケットが手に入る。一番早く取れた予約は2003年1月6日だった。

 インド行きを決めると、まわりの親インド派は僕を祝福してくれた。
 その一人にウメさんがいた。言わずと知れた「牛次郎」の旅の同志である。彼は横須賀の新築の家で「実は、インドは好きというわけでは無いんだけど」と前置きをしたが、彼はインド歴が長いし、インドの代表的な弦楽器シタールだって弾けるし、子供が出来たというのに相変わらずゴアに集まるというヒッピーそのものの格好をしているし、今ではインド雑貨の輸入を生業にしている。おまけにシヴァ神の像を窓辺に飾ったりしちゃうから、彼の住まいは外から見ると「新興住宅地に突如現れた某宗教団体の道場!」の様相を呈しているのだ。インド政府観光局から表彰されてもいいくらい、インド文化の推進に尽力していると言っていい。
 彼はインドに関する文庫本を僕に手渡しながら、目を爛々と輝かして興奮気味に言った。「ただしこれだけは言えるよ。世界には二つの国しかない。インドと、それ以外だ!」
 同時に彼の長男の渚君(まもなく1歳)はつぶらな瞳で僕を見つめ、「そうだそうだ!」と言わんばかりに顔をグイと突き出した。奥さんのKさんはニ人目を宿したお腹をさすりながら、「インドは・・・暑いですネェ」と弥勒菩薩のように微笑んだ。お土産に持って行ったチリ・ワイン、「ガト・ネグロ」でほろ酔いだった僕は、家族揃ってのインド・ビーム攻撃にたじろいだ。

 また、新宿紀伊国屋の地下にある居酒屋で、ゴリ君は自称「捨てられた子犬のような目」をパチクリさせ、「そうか、青山さんはインドに行くのか」と言った。彼はハーレーで世界を半周したライダーであると共に、インド好きなバックパッカーでもある。その日、彼の隣に座っていたのは紛れもなく彼がインドで出会い、婚約した彼女・あいちゃんであった。彼女も親インド派である。今度はカップルでインド・ビームなのだ。
 ゴリ君は「ナマステ・ライダーズ」というバイク・クラブのリーダーでもある。クラブと言っても正会員は彼一人だけであり、他に会員候補は僕と「不良主婦みっき」の2人がいるだけだ。ちなみにみっきはハーレーでアメリカ全州を1年かけて走破し、その旅の様子はハーレー専門誌「VIBES」の連載で紹介された。また、彼女は今年新たにハーレーでロシア〜ヨーロッパ横断、中南米縦断を目論んでいる。その旅もきっと「VIBES」に出るんだろうな、と思ったら、今度は同誌でゴリ君が紹介されるらしい。なので「VIBES」を読んでいればゴリ君とみっきのことは良く分かるのだ。

 話がそれた。つまり「ナマステ」とはインドの「こんにちわ」であり、すなわち「ナマステ・ライダーズ」の心の故郷はインドにあるという。「正会員になるにはガンジズ川で沐浴する、という掟を忘れちゃだめだよ!」と、ごり君はモツ煮込みが置かれたテーブルから身を乗り出して言った。その鼻からは鼻毛が2、3本覗いていた。
 「インドの地球の歩き方はあいちゃんのを貸してあげるからね。あ、そうそう、4月の結婚式の司会は青山さんってことになっているから、それまでに帰らなきゃダメだよ」と彼は続けた。「ネパールに言ったら、ナマステ・ライダーズのシンボル・マークを適当にデザインして、刺繍のワッペンを作ってもらってきてね。だけど、青山さんの言っていたピストンとチンポコを組み合わせたデザインはナシだよ!」とも言った。
 その後、僕たちは氷雨の降る中、おかまバックパッカーまりもちゃんの店があるニ丁目を目指した。イスタンブールで出会ったまるちゃんと、ヨーロッパで何度となく一緒になった小梅&得政ペアも一緒だった。しかし新宿の雑踏の中、僕の想いはすでに海を越えていた。

 そんなこんなで2003年がやってきた。大晦日の「アントニオ猪木祭・ボンバイエ2002」では、本物のボブ・サップは相手の日本人レスラーを秒殺していた。
 そして1月6日、僕は実に久しぶりに機上の人となった。あれだけ海外にいたのに、ロシアからの帰国も船だったので、飛行機は2001年5月ぶりだった。隣はでっぷりと肥った白人のオヤジだった。その割りに機内食には手をつけず、本も読まず映画も見ず、ただキョロキョロと不審な挙動をとっていた。こいつ、体内にクスリを隠して運んでいるんじゃないか、と僕は思ってしまった。着陸したときも、我先と急いで飛行機を降りていたし・・・。

 午前零時のバンコクは暖かかった。乾季のために南国特有の湿った熱気も控えめで、そんなに汗もかかない。
 僕はドン・ムアン空港からタクシーを捕まえ、多田君のアパートに向かった。多田君とはギリシャ、アテネの宿「アナベル」以来、9ヵ月ぶりだった。多田君はその後タイに渡り、現在までバンコクに居続けている。長居するなら宿よりアパートを借りた方が割安で、彼の部屋はバンコクの東の外れにあった。新築の快適なワンルームで、家賃は月に一万円もしない。
 僕たちはシンハー・ビールで再会の祝杯をあげた。僕は彼に頼まれて買って行った「ザ・フー」のバンドスコアを渡した。彼はとても喜んでくれたようだった。
 次の日から早速インド行きのチケットを探した。多田君が知っている旅行代理店を2軒あたり、カルカッタまで5505バーツ(約16500円)のエア・インディアの片道航空券を買った。一番早く取れた予約は1月13日。5日間という、中途半端な日数が空いてしまった。まとまった時間があれば南部のタオ島にでも行ってダイビングをしようと思っていたが、それには1週間は欲しい。パタヤは海が汚そうだし、カンチャナブリーも多田君に言わせれば「つまんない」という。アユタヤは前回行っているので、結局、そのままバンコクに残ることにした。

 多田君のアパートに3泊したが、いつまでも居るわけにも行かないので、僕はバックパッカーの一大交差点・カオサンロードに移った。日本の学生の休みにはまだ早いので、去年来た2、3月ごろよりは静かだろうとタカをくくっていたが、世界中から旅行者が集まり、年々その数が増加しているカオサン・ロードの喧騒は、一国の教育システムのスケジュールなど全くものともしていない様子だった。
 相変わらず頭上にせり出したネオンはギラギラと輝き、白人旅行者はビールをガンガン飲んでところ構わずバカ騒ぎし、それを掻き分けるようにタイ人のボンボンが「どうだ!俺の車!」とこれ見よがしにわざわざ混雑した通りを高級車で抜けて行く。めぼしい宿は軒並み満室、メールをしようとインターネットカフェに行けば、みんなホットメールの画面と睨めっこをしている。回線がパンクして満足に動かないのだ。

  早くも食傷気味になってしまった。しかし1200万人のインド人がひしめくというカルカッタの猥雑ぶりは、こんなものではないのだろう。僕は来たるべき大カルチャーショックに備え、日本食屋「レックさんラーメン」で栄養を取ることにした。控えめの暑さとはいえ、急な気候の変化で食欲も減退気味なのだ。
 しかし、運ばれてきた皿を見て僕はハッと我に帰った。 「俺は何で、インドを前にしてカレーライスを注文したんだ?」